1   事件発生

 石垣島の鍾乳洞といえば、竜宮城鍾乳洞が有名だろう。
 竜宮城鍾乳洞は、石垣島の繁華街に近い為に、観光客が訪れるのに便利で、石垣島の主だった見所の一つに挙げられている。そして、全長3・2キロのうちの一部が公開され、石筍の数は日本一とも言われている、見応えがある鍾乳洞だ。
 それに対して、伊原間サビチ洞も石垣島の鍾乳洞なのだが、この名前を知っている観光客の数は多くないと思われる。玉取崎から平久保崎に向かって車を走らせていると、途中、伊原間サビチ洞の案内板がある為に、そこで初めてその鍾乳洞の存在を知るという観光客も多いのではないだろうか。 
 伊原間サビチ洞は、海に抜け出る珍しい鍾乳洞で、石垣島が出来た3億7000年程前に海の底から浮上したものと思われ、320メートル程洞内を進むと、エメラルドグリーンに煌く伊原間湾を眼にすることが出来る。
 そして、今夏の事件は、その伊原間サビチ洞の洞内で発生したのだ。
 長田文雄は、東京からの旅行者で、石垣島に来るのは初めてであった。
 そんな長田は一人で石垣島にやって来た。たまたま、一週間程、休暇を取れたので、今まで一度も訪れたことのない石垣島を訪れてみたのだ。
 そんな長田は、白保に新しく出来た新石垣空港でレンタカーのマーチを借り、平久保崎目指して車を走らせた。その途中、玉取崎で休憩し、そして、平久保崎に向かって車を走らせていたのだが、その途中、伊原間サビチ洞という看板を眼にした。
 長田は、竜宮城鍾乳洞という名前は知っていたが、伊原間サビチ洞という鍾乳洞の名前は知らなかった。
 しかし、海に抜け出るという鍾乳洞らしいので、早速、伊原間サビチ洞とやらを訪れてみることにした。伊原間サビチ洞へは、伊原間サビチ洞に向かう道から少し未舗装の道を進むと、やがて、着いた。
 しかし、まさか、さして観光化されてないと思われる伊原間サビチ洞を見物するのに、入場料を取られるとは思ってなかった。また、その入場料も少し高いという印象を拭えなかったが、折角来たからには、やはり、入場することにした。因みに、今、伊原間サビチ洞の駐車場には、長田の車を除いて、二台停められていた。
 洞内に入ると、特に観光化されてはいないようで、素朴な感じであった。
 また、鍾乳洞といえば、もっと地下に進んで行くものと思っていたのだが、伊原間サビチ洞に関しては、そうでもないみたいだった。
 そのように思いながら、辺りには誰もいない伊原間サビチ洞の中を長田はただ黙々と歩いていた。
 そんな長田は、何となく心細さを感じないといえば、それは嘘だろう。というのは、物静かな洞内で、長田以外に誰もいないわけだから、万一賊がいて、襲い掛かって来ては、長田は危険な目に遭うのではないか。 
 長田はそのような思いを少し抱いてしまったのだ。
 もっとも、現実には、そのような出来事など、発生するわけもないだろうが、ただ、そのような思いを抱かせる鍾乳洞だと、長田は思ったのだ。
 そして、海にまで後少しだと思われる時に、突如、長田は、眉を顰めた。
 何故なら、妙な光景を眼に留めてしまったからだ。
 それは、長田の眼前十メートル程のところに、何と人間と思われるものが、地面にうつ伏せになって横たわっているのを眼に留めたのだ。
 しかし、まだ、人間と断定出来たわけではない。
 何しろ、辺りは暗いので、勘違いしたのかもしれない。
 そう思いながら、一歩一歩、それに長田は近付いて行ったのだが、近付くにつれて、長田の表情は、一層険しいものに変貌して行った。何故なら、それはやはり、人間である可能性が高いと、察知したからだ。
 そして、遂にそのものの眼前にやって来た。そして、それは人間であったと確信した。もし、人間でなければ、精巧に作られた人形だろう。 
 しかし、このような場所に人形が置かれている筈はない! ここは、お化け屋敷ではないのだから!
 という思いが、長田の脳裏を過ぎったが、辺りは暗いといえども、それはやはり、人間であると察知した。
 しかし、このような場所で、このような恰好で倒れているとは、尋常ではないだろう。 
 そう思ったが、しかし、そうだからといって、無関心にこの場を通り過ぎることは出来なかった。 
 それで、長田はとにかく屈み込んでは、この男性の状態を見てみることにした。
 それで、長田は屈み込んでは、男性に、
「もしもし」
 と、声を掛けようとしたのだが、その声は喉から発せられなかった。その代わり、
「わっ!」
 という小さな悲鳴が発せられた。何故なら、男性は頭部から血を流していたからだ!
 正にとんでもない場面に遭遇してしまった。そう思うと、長田は海にまで出るどころではなくなってしまい、この事態を係員に知らせる為に、長田は直ちに出入り口の切符売り場にまで向かったのだ。
 
 長田からの通報を受け、係員の渡辺芳子(55)は、長田と共に、直ちに現場に向かった。そして、程なくその男性の許に着いた。小説では、変死体を発見し、それを係員に知らせる為に、係員と共に再び現場に戻って来てみると、その変死体がいずこかに消え失せていたという場面が描かれているのもあるが、そのようなことはまるでなかった。その男性は、少し前と同じく、その場に横たわっていたからだ。 
 そんな男性を見て、長田は〈やはり、死んでいる〉と、思った。男性には、生気はまるで感じられなかったからだ。
 しかし、芳子はとにかく、その男性が、伊原間サビチ洞の客であったことは間違いないので、
「お客さん」
 と、肩を揺り動かしてみた。
 だが、男性は微動だにしなかった。
 芳子の手には、ライトが握られ、そのライトで男性の様子を眼にしたが、やがて、長田に、
「やはり、駄目ですね」 
 と、いかにも深刻そうに頭を振った。
 そして、事の次第を警察に知らせる為に、直ちに110番通報がなされた。
 それと共に、伊原間サビチ洞の入り口には、臨時休業の看板が置かれたのであった。


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