1  帰郷

 古仁屋港を後にした時はそれ程でもなかったが、生間港に近付くに連れ、雨は激しさを増して来た。
 又吉新平は、生間港を眼にするのは、三年振りであった。三年間、一度も故郷の加計呂麻島に、戻らなかったのだ。
 この三年間、懸命にバンド仲間とプロのミュージシャンを目指したのだが、それは夢と終わったのだった。
 自費で一度だけCDを出したものの、てんで業界関係者の目に留まることなく、また、路上ライブをやったりしたが、これといった評判を勝ち取ることも出来ず、結局、三年間続いた又吉たちのバンドは解散し、四人の仲間が、別の人生を歩むことになったのだ。
 そんな又吉の表情は、かなり深刻なものであった。又吉の青写真としては、故郷に錦を飾り、凱旋帰国する筈であったのだが、その夢は正に夢に終わってしまった。故郷の加計呂麻島を後にした時の希望に満ちた表情は消え失せ、今は大層深刻な表情であった。
 そんな又吉を乗せたフェリーは、やがて、生間港に着いた。 
 そんな又吉を待っている人は、誰もいなかった。 
 又吉は徒歩で自宅に戻った。又吉の家は、生間港の近くにあった。
 そんな又吉には、両親以外にも、妹が一人いたが、既に沖縄の会社員の許に嫁いでいた。
 父親は、奄美大島で料理店を経営していたが、今は遠縁の者が後を継いでいた。そして、今、又吉家は加計呂麻島で漁をしたりして、生活していた。
 又吉は加計呂麻島に戻ってからのことは、まだ何も考えていなかった。今まで、ミュージシャンになること以外、考えていなかったからだ。
 しかし、大学を出てるわけでもなく、また、これといった資格もなかった又吉は、サラリーマンといった勤め人になれる自信もなかった。
 そんな又吉が、奄美で漁師にでもなろうかという思いが芽生えるのは、極めて自然の流れであった。
そんな又吉が先程、思いも寄らぬ男からの電話を受けた。
「増山だが」 
その男の特有の沈んだような声がした。
 その声を聞いて、又吉の言葉は思わず詰まった。 
 すると、男は再び、
―増山だが。
 そう言われ、又吉は、
「秀行か……」
 と、呟くように言った。
―ああ。そうだ。
 増山は再び重苦しい声で言った。
 そう増山に言われ、又吉の脳裏には、
〈一体何故……〉
 という思いが過ぎった。
 増山秀行とは、又吉たちが結成していたロックバンド『一悶着』のベーシストだった。その増山が何故か又吉に電話をして来たのだ。もう二度と話はしないだろうと思っていた増山から電話が掛かって来たのだ。更に、又吉を驚かせたのは、何と増山は今、古仁屋にいるというのだ。
 それで、又吉は言葉を詰まらせていると、そんな又吉に、増山は、
―お前と会って話をしたいんだ。
 そう言われ、又吉は再び言葉を詰まらせた。増山と一体何の話をするのか、想像出来なかったからだ。
 しかし、そんな増山をあっさりと断ることは出来ずに、翌朝、増山を生間港で待つことになった。
 やがて、フェリーかけろまが、生間港に着き、程なく増山が姿を見せた。
 そんな増山を眼にしたといえども、又吉の表情には、笑みは見られなかった。また、増山の表情も同様だった。
 増山は、又吉を見ると、
「やあ」 
 と、何ら表情を変えずに言った。
又吉の表情には、笑みは見られなかった。そんな又吉は、一体何故、増山が加計呂麻島にやって来たのかと言わんばかりであった。
 そんな又吉に、増山は、
「何処か静かな場所で話をしたいんだ」
 と、淡々とした口調で言った。
 そう言われ、又吉は何処がいいのか、思いを巡らせたが、すぐに行き場所を決めた。それは、安脚場戦跡公園だった。そこは、静かな場所であったからだ。
 やがて、二人は又吉の古びたアルトに乗車し、やがて、アルトは生間港を後にした。
 助手席に腰を下ろした増山は、左前方のコバルトブルーの海を眼にしながら、
「素朴な島だな」
 と言っては、にやにやした。
しかし、又吉はその増山の言葉に何も言おうとはしなかった。
 そんな又吉に、増山は、
「何か仕事してるのか」
 そう言った増山の表情には、笑みは見られなかった。些か、真剣なものであった。
 だが、又吉は何も言おうとはしなかった。ただ、黙々と車を運転してるだけだった。
 そんな又吉に、増山は、
「何か言えよ」 
 と、些か苛立ったような表情と口調で言った。 
 すると、又吉は、
「何をしに来た?」
 と、素っ気無い表情と口調で言った。
 すると、増山は不敵な笑みを浮かべては、
「まあ、そう焦りなさんな。じっくりと話をするからさ」
 そう言われたので、又吉は安脚場戦跡公園の駐車場に着くまで、殆ど口を開かなかった。
 安脚場戦跡公園の駐車場に着いた時には、雨は激しさを増していた。また、駐車場には、車は一台も停められていなかった。
 それ故、車の中で話をしてもよさそうだが、増山はそれを拒み、公園の中で話をしたいと言った。
 それで、又吉は増山と共に車外に出ては、傘をさしては坂を上り、金子手崎防備衛所跡まで行くことにした。
 金子手崎防備衛所跡とは、戦時中、大島海峡への潜水艦進入を防ぐ為の防衛等に用いられた施設だが、駐車場に車が一台も停められてなかったことから、今は誰もいないに違いなかった。
 又吉と増山は、強い雨の中、傘を手に黙々と坂を上り、やっとのことで金子手崎防備衛所跡に着いた。金子手崎防備衛所跡は古びた倉庫のような建物であり、予想通り今は誰もいなかった。
 それを確認すると、増山は満足そうな表情を浮かべた。これによって、又吉とじっくりと話が出来ると思ったのであろう。
 そんな増山に、又吉は、
「話って何なんだ?」
 と、口を尖らせて言った。
 そんな又吉の様を見ると、又吉は増山に対して、あまりいい印象を持っていないようであった。
 すると、増山は、
「まあ、落ち着けよ」
 と、又吉を宥めるように言っては、
「実はな。金を貸してもらいたんだ」
〈やはり、そうだったか!〉
 と、又吉は改めて思った。増山が敢えて又吉の故郷の加計呂麻島にまでやって来た理由ともなれば、金のこと位しか思い浮かばなかったのだが、やはりそうであったというわけだ。
 又吉はそう思ったものの、又吉の口から言葉は発せられなかった。
 そんな又吉に構わず、増山は話を続けた。
「五百万だ。五百万、貸してくれないか」
 そう言った増山の表情には、笑みが浮かんでいた。
 そう増山に言われると、又吉は、
「五百万なんて金は、ないよ」
 と、増山を突き放すように言った。
 すると、増山はにやにやしながら、
「お前が千万程の金を持ってることは、知ってるんだ。お前は、おじさんの金を相続したとか言ったじゃないか」
 そう増山に言われると、又吉は増山から眼を逸らせ、
「ああ、その金か。その金はもうないよ」
 と、増山を突き放すかのように言った。
「そう言わずに、貸してくれよ」
 と、増山は又吉を煽てるように言った。そんな増山の表情は、正にこれ以上愛想のよい表情は浮かべることが出来ないと言わんばかりであった。
 だが、又吉は増山から眼を逸らせ、
「ないものはないんだ」 
と、再び増山を突き放すかのように言った。
 すると、増山の表情から笑みは消え、そして、
「嘘をつくな!」
 と、又吉に罵声を浴びせた。そんな増山の表情と声は、先程の穏やかなものからは一変し、いかにも厳しさを増していた。
「嘘じゃないよ。お前に貸す金はないと言ってるんだ」 
 そう又吉が言うと、増山は、
「嘘をつくな!」
 と、正に罵声を浴びせた。そして、
「お前は金を貸したくないんだ。だから、嘘をついてるだけさ」
 すると、又吉は、
「用件はそれだけか?」
 と、いかにも素っ気無い口調で言った。
「それだけとはなんだ。五百万貸してくれという用件は、とても大切じゃないか」
 と、増山はいかにも納得が出来ないように言った。
 すると、又吉は増山から眼を逸らせては、二十秒程、言葉を詰まらせたが、やがて、
「じゃ、帰ろうか」
 と言って、増山の許を去ろうとした。
 すると、増山はそんな又吉の前に立ちはだかり、
「お前、俺のことを無視出来るのか?」
 と言っては、唇を歪めた。
 そう増山に言われると、又吉の動きは止まった。そして、
「それ、どういう意味かな」
 と、些か納得が出来ないように言った。
「だから、あのことさ。お前、まさかあのことを忘れたわけじゃないだろうな」
 そう増山に言われると、又吉の表情は、一気に青褪めた。増山からあのことと言われ、又吉には思い当たることがあったのだ。
 それはともかく、そう増山に言われ、又吉の言葉は詰まった。そして、又吉の表情は、蒼白であった。
 そんな又吉を眼にして、増山は薄らと笑みを浮かべた。そんな増山は、今の増山の言葉が、又吉に大きなダメージを与えたことを十分に認識したかのようであった。
 それで、増山は改めて、
「五百万、貸してくれるんだろうな」
 だが、又吉は、
「駄目だ」
 と言っては、険しい顔をした。
 すると、増山の表情は、忽ち険しくなった。また、増山にとって、今の又吉の言葉は意外であったかのようであった。
 そんな増山の口からは、
「そんなこと言っていのかな」
 という言葉が自ずから発せられた。
 そう増山に言われると、又吉の動きが止まった。そんな又吉は、正に今の増山の言葉に大いに動揺したようだった。
 だが、又吉は、
「もう帰ろう」
 と、素っ気無い口調で言った。 
 すると、増山は、
「俺が何の為に、加計呂麻島までやって来たのか、分かってるのか!」
 と、怒声を浴びせるかのような口調で言った。
「そんなこと、知らないさ」
 と、又吉は再び素っ気なく言った。
「何だと! お前、そんな口をきけるのか!」 
 と、増山は又吉に罵声を浴びせた。 
 そんな増山を無視し、又吉は増山に、
「俺は帰るぞ」
 と言っては、増山に背を向け、歩き出した。
 すると、そんな又吉の前に、増山は素早く立ちはだかり、
「お前、俺を嘗めるのか!」
 そう言ったが、又吉は増山のことを無視し、増山の許から立ち去ろうとした。
 すると、増山は、
「この馬鹿野郎めが!」 
 と言ったかと思うと、何と又吉の頬に平手打ちをかました。
 すると、又吉は増山にぶたれた左頬を手で押さえ、
「何をする!」
 だが、そんな又吉に増山は躊躇わず、足蹴りを食らわした。
「何しやがる!」
 又吉は抗いの声を上げた。
 そんな又吉に、増山は、
「俺に逆らえば、困るのはお前だということを分からせてやる!」
 と言っては、再び足蹴りを食らわそうとした。
 だが、今度は先程とは勝手が違った。又吉は増山の足を?むと、何と、増山のもう一つの足を又吉の右足で払ったのだ。
 すると、その結果、増山はバランスを崩し、よろけてしまった。
 すると、その弾みで、金子手崎防備衛所跡の壁に頭をぶちつけてしまったのだ。
 すると、増山は呆気なく大の字になり、身体を小刻みに震わせたのだ。 
そんな増山を見て、又吉は一気に青褪めた。増山に一大事が起こったのではないかと思ったからだ。
 すると、その時、人の話し声がした。
 そして、その声からすると、誰かが金子手崎防備衛所跡にやって来るのは、間違いなかった。 
 そう察知すると、又吉は金子手崎防備衛所跡内に増山を遺し、一気に金子手崎防備衛所跡を後にしたのだ。
 そんな又吉は、安脚場戦跡公園の駐車場に戻ると、車のエンジンを掛け、安脚場戦跡公園の駐車場を後にしたのだった。
 そして、又吉宅に戻ったのだが、又吉はまずいことをしたと思った。というのは、ここは加計呂麻島であり、本土ではないのだ。それ故、増山は又吉の家をいずれ見付け出すだろう。そして、先程の仕返しをしに来るだろう。 
 正に、まずいことになった。
 そう思っても後の祭りだった。
 しかし、今からでも遅くない。
 そう思うと、又吉は再び金子手崎防備衛所跡に向かった。
 雨は更に激しさを増していた。この雨の中を増山はどうやって金子手崎防備衛所跡を後にするのだろうか?
 それに、今夜、何処かのホテルに泊まるつもりなのか。そうでなければ……。 
しかし、又吉宅に増山を泊めてやる気なんて、起こりはしなかった。 
 しかし、生間港位までは送ってやってやろうと思い、安脚場戦跡公園に向かったのだが……。
 安脚場戦跡公園の駐車場に着くと、早速金子手崎防備衛所跡に向かって歩み始めたのだが、雨は相変わらず激しく降っていた。この雨の中を、いくら傘を持っていたとはいえども、歩いて生間港まで歩くとなれば、大変であろう。
 それはともかく、金子手崎防備衛所跡に向かってる又吉の表情は、甚だ険しいものであった。
 しかし、それも当然であろう。増山を一人残しては金子手崎防備衛所跡を後にしたのだから。
 しかし、金子手崎防備衛所跡に行かないわけには、行かないであろう。
 そう思いながら、やがて、金子手崎防備衛所跡に着いた。そして、そっと中を除き込んだのだが、その時の又吉の表情には、特に異変は見られなかった。というのは、金子手崎防備衛所跡の中には、誰もいなかったからだ。
 しかし、それも当然といえば、当然なのかもしれない。何しろ、又吉が先程金子手崎防備衛所跡を後にしてから、三時間も経過したのだから。それ故、増山がいつまでも、金子手崎防備衛所跡の中に留まってると考えることの方が無理があるだろう。
 しかし、又吉は金子手崎防備衛所跡に来るまでに、増山の姿を眼にしなかったし、増山は又吉の携帯電話にまだ電話して来ていない。増山は又吉の携帯電話の番号を知ってるのだから、増山の意識が戻れば、又吉の携帯電話に電話して来るのは当然なのだが、それがまだ電話は掛かって来てないのだ。又吉の携帯電話の電源はつけたままになっていたのに……。
 そう思うと、又吉は眉を顰めた。何となく腑に落ちなかったからだ。
 又吉が増山の許を逃げるようにして後にしたというのは、元はといえば、増山は金子手崎防備衛所跡の壁に頭を打ちつけ、動かなくなり、その様は、増山に一大事が発生したのではないかと察知したからだ。そして、その時、誰かの声が聞こえたからだ。それ故、面倒なことに巻き込まれたくなかった為に、逃げるように金子手崎防備衛所跡を後にしたのだ。
 それ故、今尚、増山が金子手崎防備衛所跡の中で動かず、まるで死人のように横たわってるのではないかと、又吉は思っていたのだが、その又吉の思いは、正しくなかったのだ。 
 では、増山はどうなったのだろうか?
 それは、又吉には想像が出来なかった。
 しかし、いずれ、又吉の携帯電話に電話して来るだろうとは思った。それで、一旦自宅に戻ることにした。

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