第一章 肩叩き
    
     1

 今や不況の真っ只中。新聞や週刊誌、また、インターネット等には、中高年の肩叩き、人員削減、配置転換、企業倒産とかいったサラリーマン諸氏にはありがたくない言葉が飛び交っている。そのようなことは他人事と高をくくっていた某有名企業のAさんも、まさか自分が肩叩きに合うなんてことは思ってもみなかったという悲話が、何処からともなく耳に入って来る。
 森口達哉も、まさか自分が肩叩きに遭い、人員削減の対象になるなんてことは思ってもみなかった。森口が働いていた橘商事は、従業員二千人程のその業界では中堅クラスに位置し、今までの不況の際にも、人員削減なるものは行なって来なかった。
 それ故、橘商事に入社して以来二十五年になる森口は、今回の不況も人員削減は行なわないと思っていたが、どうやらその読みは間違いであったと思い始めたのは、決算が近付いた二月の初め頃のことであった。
 いつも昼食で利用している中華料理店で、同僚の森川卓司(48)が、
「大変なことになったらしいぞ」
 と、かなり深刻げな表情を浮かべては言った。
 森口はといえば、森川からそう言われる前に、社内の風の噂で、会社が財テクに失敗し、巨額の損失を被ったという情報を耳にしていた。それ故、今、森川が切り出した話の中身はそれに関することだと察した。
 それで、森口は、
「株で失敗したんだろ」
 と、森川と同じように深刻げな表情を浮かべては言った。
「ああ。そうだ。正確な数字は分かってはいないんだが、今期の赤字は七、八十億位になるそうだぜ」
 そう言われ、森口はびっくり仰天してしまった。橘商事は売上五、六百億、営業利益はせいぜい、二、三十億程度の会社だ。それが、七、八十億の損失となれば、いかにその数字が深刻なものかは、容易に察せられるからだ。
 そんな森口に、森川は、
「本業での損失はせいぜい二、三十億位らしいが、半分以上は株取引きで失敗した金額だそうだ」
 そう森川に言われ、森口は自ずから財務担当の加藤という親父の顔を思い出した。あの人相風体の悪い加藤が恐らく財テクの指揮者だろう。その加藤がへまを仕出かしたのだ。
 そう思うと、加藤に罵りの言葉を浴びせてやりたい位であったが、その思いは特に強いものではなかった。というのは、森口にとって、会社の巨額の損失は所詮、他人事のように思えたからだ。

     2

「森口君。ちょっと来てくれないか」
 森口は出社して三十分程経った頃、上司の桜木貞行(54)から声を掛けられた。
〈何の用かな?〉
 森口は桜木から声を掛けられるような当ては今はなかった為に、首を傾げてしまった。また、そう言った桜木の表情がいやに真剣なものであったことから、一層そのように森口に思わせた。
 それはともかく、森口は桜木と一緒に応接室に来るように言われたので、森口は桜木の後に続いた。
 そして、三十平方メートル程の応接室に入ると、森口はテーブルを挟んで、桜木と向い合った。
 そんな桜木は、いやに真剣な表情をしてるので、森口の表情もそのようにならざるを
得なかった。
 そんな森口に桜木は、
「君のとこは、今、いくつだ?」
 そう桜木に言われ、森口の言葉は詰まってしまった。森口は桜木の言葉の意味がよく分からなかったからだ。
 それで、森口は怪訝そうな表情を浮かべては、思わず言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな森口に、桜木は、
「娘さんだよ。確か、君のところは、娘さんがいたよな?」
〈何だ、亜沙子のことか……〉
 そう思うと、森口は思わず表情を和らげてしまった。何で今、亜沙子の話題が出たのか、それが、妙に面白く思ったからだ。
「ええ。今、十七歳ですね。高校二年生ですよ」
 と、森口は表情を和らげたまま言った。
「十七か。となると、後一年もすれば、一人前だな」
「そうですね」
 と、森口は桜木に相槌を打つかのように言った。
 そんな森口に、桜木は、
「今は高校生でも、アルバイトをして、小遣いを稼ぐんだろ?」
「そうらしいですね。でも、うちの娘はやってないですがね」
 と、森口は眉を顰めては言った。
「ふむ。で、奥さんはどうしてるのかな?」
「道子ですか……。道子は専業主婦ですがね」
「専業主婦か……。で、パートをしてみる気はないのかな?」
 と、桜木は眉を顰めては言った。
「パート、ですか……。そのようなことは言ってなかったですがね」
 と、森口は決まり悪そうな表情を浮かべて言った。
 そんな森口に、桜木は、
「いいパートがあれば、やった方がいいよ。そう君からも言っておいた方がいいよ」
「はぁ……」
 と言っては、森口は小さく頭を下げた。というのも、今日の桜木は、正に今まで森口に対して言ったこのないような妙なことを立て続けに言ったりするのだ。これは、確かに妙と言わざるをえなかったのだ。
 そう森口が思ってると、
「森口君は、来期の組織編成がどのようになるか、知ってるかな」
 そう桜木に言われると、森口は、
「はあ……」 
 と、呟くように言うに留まった。というのは、それに関して、森口は特に情報を持ち合わせてはいなかったからだ。
 そんな森口に、桜木は神妙な表情を浮かべては、
「実はな。森口君のいる経営戦略第二部は、経営戦略第一部に統合されることになったんだよ。つまり、一部に吸収されるという形になるというわけなんだよ」
「……」
「つまり、不要な部署を減らし、経費を削減する必要が生じたというわけなんだよ」
 と、桜木は神妙な表情を浮かべては、森口に言い聞かせるかのように言った。
 そう桜木に言われ、森口の表情は、思わず青褪めた。今の桜木の話や、その前に亜沙子や道子のことに言及して来たことから察して、どうやら今の桜木の話は森口にとって、いい内容ではないということに、森口は薄々感づいて来たのだ。
 そんな森口に、桜木は畏まった様を浮かべては、
「そこでだな。実は森口君の希望を聞きたいんだよ」
「希望、ですか……」
 森口は眼を大きく見開き、訊き返した。
「ああ。そうだ。希望だよ。つまり、将来、どうするかという希望だよ」
 そう言われ、森口は内心、むっとした。というのも、今の言葉は、まるで高校生に将来の進路のことを問い合わせてるかのような言葉であったからだ。何しろ、森口は今、四十七歳なのだ。
「将来の希望と言われてもねぇ……」
 と、森口は言葉を濁した。そのようなことを言われても、何と答えてよいのか、分からなかったからだ。
 そんな森口に、桜木は、
「つまりだな。このまま会社に残るか、それとも、会社から去っては、別の道を歩むのかということなんだよ」
「そりゃ、このまま会社に残って、定年まで勤めるつもりなんですがね」
 森口は躊躇わずに言った。
 そんなことは、当り前だった。森口は正に橘商事に骨を埋めようと思っていたのだ。橘商事以外でのサラリーマン生活など、森口は考えたことはなかったのだ。
「成程。で、君は今、四十七歳だ。定年までは後、十三年もある。十三年だと、一億は君に支払わなければならない。しかし、君は一億以上の利益を稼ぐ自信があるかね?」
 そう言われ、森口は思わず眉を顰めた。何故なら、森口が勤務する部署は間接部門であり、営業活動を行なってるわけではないのだ。  
 それで、森口の言葉は思わず詰まってしまったのだが、そんな森口に桜木は、
「どうだね? 自信はあるのかね?」
 と、些か険しい表情を浮かべては、唇を歪めた。
「そんなことを言われても……」
 と、森口は言葉を濁すしかなかった。それ以外に、森口が言うべき言葉はなかったのだ。
 すると、桜木は、
「営業をやってみる気はないのかね?」
「営業、ですか……」
「ああ。さっきも言ったように、経費削減の為に、君の部署は、経営戦略第一部に統合されるんだよ。
 しかし、全ての経営戦略第二部の者が第一部に配属されるわけではない。せいぜい半分なんだよ。
 それ故、そうでない者は、退職か営業に回ってもらうしかないんだよ」
「……」
「まあ、奥さんとじっくりと考えてくれよな」

     3

「会社の調子はどうなの?」
 道子は言った。
「あまり、よくないみたいだな」
「そう……。今、不況だからね」
 と、道子。
「おかわり」
 と、娘の亜沙子が言った。
 今、森口一家は夕食の最中で、ダイニングキッチンで食卓を囲んでいるのだ。
「お父さん。首、切られないでね。私、大学に行って就職するまで、お父さんに面倒見てもらうんだから」
「分かってるさ」
 そう森口は言っては、味噌汁をすすった。
「河原さん、今年は次長位になるかしら」
「いや。それはないだろう。あいつは俺より一つ上のポストだからな」
 森口と道子は社内結婚であった。それ故、道子は橘商事の社員に詳しかったのである。
「社長の秋山さん、元気かしら」
「秋山は去年、辞めたよ。今は溝口というのが、社長なんだよ」
「溝口さん? 知らないわ」
 と言っては、道子は眉を顰めた。
「財務担当の加藤太郎のことを知ってるよな」
「ええ。あの頭の髪の毛が薄い人でしょ」
 道子は加藤が経理主任をしていた時に、道子も経理部にいた関係で、加藤のことはよく知ってるのだ。
「その加藤が財テクで多大な損失を会社に与えたらしいぜ」
 と、森口はいかにも険しい表情を見せては言った。そんな森口は、森口の今、被ってる災難は、全て加藤の所為だと言わんばかりであった。
 そんな森口に、道子は、
「あなた、給料は貰えるんでしょうね?」
 すると、森口は些か笑みを見せては、
「そりゃ、大丈夫さ。俺は、主任だからな」
 すると、亜沙子が、
「それを聞いて安心した。私、二階で勉強して来るからね」
 亜沙子はそう言うと、二階に上がって行った。
 そんな亜沙子の後姿を森口はちらっと見やっては、唇を歪めた。見栄を張るのは楽ではないと実感したからだ。何しろ、来期からは、営業かもしれないからだ。
 そりゃ、若い頃は営業をやってはいたが、営業は無理だと評価され、今の間接部署に異動したのだ。そして、二十年が経過したのだ。
 というのも、今までに度々見舞われた不況にも、橘商事は赤字を出すこともなく安定成長を続けて来たのだ。その為に、橘商事では今まで人員削減が行なわれたことはなかったのだ。
 しかし、今、それが行なわれてるのだ! 森口の同僚で営業をやるのを嫌い、会社を去った者もいるのだ。今や、会社に残るのも去るのも、正に試練の時代に直面しているのだ!
 そう思うと、森口はいかにも険しい表情を浮かべてしまったのだが、そんな森口を見て、道子は、
「どうかしたの?」
「いや。何でもないんだ」

     4

「どうだった? 昨夜、奥さんと相談してくれたかな」
 桜木は今日、再び森口を応接室に呼び出すと、開口一番にそう言った。
「ええ。まあ……」 
 と、森口は言葉を濁した。
「そうか」
 そう言っては、桜木は小さく肯くと、
「それでだな。もし、森口君が営業に移動するとしたら、森口君の上に来るのが、猪谷かもしれないんだ。猪谷守君のこと知ってるだろ」
 そう言われ、森口は猪谷守という男が誰なのか、考えてみたが、その人物のことしか、思い浮かばなかった。その人物とは、以前、森口と同じ部署で働いていて、営業に異動した男だ。そして、営業で成功していると聞いている。確か、森口より、十歳程年下だった筈だ。
 それで、森口はそれに言及すると、
「そうだ。その猪谷だ。その猪谷君が、君の上司となることになるんだよ」
 そう桜木に言われると、森口は思わず言葉を詰まらせてしまった。とういうのも、以前、森口の部下として働いていた猪谷守が、まさか森口の上司になるなんてことは、正に想像すらしてなかったことだからだ。また、それが事実なら、こんな理不尽なことが有り得るだろうか?
 そう思うと、森口は?然とした表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたのだが、やがて、
「僕と同じ位の年齢の人とか、年上の人が上司とはならないのですかね?」
 と、些か不満そうに言った。
「それは無理だ。そのような人材はいないんだよ。森口君は今は主任待遇だが、営業部に配属となると、平社員からの出発となる。営業だと、成績次第だから、年下の者が上司になるというのも、別に珍しくも何ともないというわけさ」
 と言っては、桜木は小さく肯いた。そんな桜木は、正にそれが不満なら、とっとと会社を辞めてしまえと、言わんばかりであった。
 そんな桜木に、森口は、
「何とかならないですかね?」
 と、正に哀願するかのように言った。
 すると、桜木は眼を大きく見開き、
「何とか、とは?」
「ですから、経営戦略第一部に留めてはもらえないかということですよ」
 と、正に哀願するかのように言った。
 すると、桜木はそんな森口から眼を逸らせ、
「この人事は、僕が決めたわけではないんだよ。人事部が決めたんだよ。だから、僕にはどうにもならないんだよ」

     5


 その二日後、森口はまたしても、桜木から応接室に呼ばれた。
 そんな桜木は、開口一番に、
「決心はついたかね?」
「考えてみたのですがね。でも、やはり、営業は僕では無理ではないかと思いまして……」
 と、森口は正に深刻な表情と口調で言った。そんな森口は、正に桜木に助けてくれと言わんばかりであった。
「そうか。となると、倉庫係しかないな」
「倉庫係、ですか……」
 森口は正に耳を疑った。
「ああ。地下に倉庫があるじゃないか。それを管理してもらう仕事だよ」
「次長……」
 森口は、正に桜木に抗議の眼を向けた。
 だが、桜木はそんな森口の視線を避けた。
 だが、程なく森口に視線を向け、
「だから、営業が嫌なら、倉庫係しかないのさ。三日後に返事を聞くからな。じゃ」 
 そう言っては、桜木は立ち上がり、すたすたと応接室から出て行った。そんな桜木の後姿を見送った森口は、果して、今の出来事は現実のものかと思った。夢を見てるのではないかと、思ってみた。夢なら早く覚めてくれよと言いたいような出来事が、森口を襲ったのである!

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