第二章 職探し

     1

 記入データを書き終えると、森口は係員にデータ記入表を渡した。
 それに係員はさっと眼を通すと、
「収入は七百万を望んでおられるのですか」
 と、眉を顰めては言った。
「ええ……」 
森口は恐る恐る言った。
「森口さんのキャリアからして、七百万はきついですね。何しろ、今、とても不況ですからね。森口さんのように事務畑を歩んでこられた方の求職は、とても厳しい状況なんですよ。その辺は理解していただかないと……」
と、佐藤は渋面顔で言った。
「……」
「ですから、四百万程度に下げてもらわないと……。でも、その条件で見付かれば、幸運というものですよ」
 と、佐藤は森口に言い聞かせるかのように言った。
 そう佐藤に言われると、森口は一層沈痛な表情を浮かべた。予想はしていたものの、今や再就職というものが、いかに厳しいものであるかということを改めて実感したからだ。
 そして、佐藤から紹介された会社のファイルに森口は眼を通してみたが、とても働く気になれないようなものばかりであった。
 それで、森口は取り敢えず、この辺で求人紹介センターを後にすることにした。
 求人紹介センターが入居しているビルを後にすると、森口は、
「まさか、このような場所に足を運ぶことになるなんて、思ってもみなかった……」
 と、沈痛な表情を浮かべては、呟くように言った。
 正に、森口はこの歳になって、まさか求人紹介センターなる場所に足を運ばなければならなくなるなんて、思ってもみなかったのだ。森口は定年まで橘商事で働くことしか思ってなかったのだ。
 しかし、現実は森口の思った通りにはならなかったのだ。
 営業をやれだって? 猪谷の下で働いてみないかって?
 冗談じゃない! 猪谷なんて、森口より十歳も歳下じゃないか! そんな奴の下でやれるかっていうんだ! 
 それが嫌なら、倉庫係だって! 若い女の子たちが、倉庫の番をしてる森口の許にやって来ては、「あら、倉庫係に森口主任ですか。いや、主任ではなく、平社員でしたね」とか言って、森口のことを笑いものにするのではないだろうか。そんな思いをする位なら、辞めてやる!
 そう決意はしたものの、果して再就職の道程は、正に茨の道なのだ。

  2

 そして、三日経った。
「どうだ? 決心はついたかね」
 と、今日も応接室に呼び出された森口は、応接室にやって来ると、桜木から開口一番に訊かれた。
 すると、森口は、
「はあ……」
 と言っては、言葉を濁した。森口は、桜木の出方を窺ったのだ。
 そんな森口に、桜木は、
「実はな。君は三月一日付けで、倉庫係に配属されることが決まったんだよ。これは、決定なんだ。
 だから、来週からは、今の部から移動することになる。勿論、主任職は解かれるということだ。営業では無理だということになってね」
 と、森口に冷ややかな眼差しを向けた。
 そう言われ、森口は正に眼の前が真っ暗になった。
 正に、最悪だ! 最悪のパターンが、現実となったのだ!
 だが、森口は、
「そうですか……」
 と、勤めて平静を装っては言った。
 そんな森口に桜木は、冷徹な眼を向けては、
「何か、言いたいことはないか」
 と、冷ややかな口振りで言った。
 すると、森口は十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、
「実は、会社を辞めることにしました」
 と、いかにもしっかりとした口調で言った。あれ程悩んだことなのに、この一言がこんなにスムーズに口から発せられるなんて、森口びっくりした位であった。
 すると、桜木は些か表情を和らげたようであった。そんな桜木は、正に森口がそう言うのを待ってましたと言わんばかりであった。
 だが、桜木はすぐに表情を引き締めては、
「そうか。それは残念なことだな」
 と言っては、眉を顰めた。
 だが、桜木はやはり森口を辞めさせることが出来て、大いに喜んでいるかのようであった。やはり、桜木はやはり嬉しそうな表情を隠すことが出来なかったからだ。
 そんな桜木を見て、森口は悔しさを隠すのに苦労したものであった。一体、この二十五年間、会社の為に頑張って来たのに、会社はそんな森口のことを評価してくれなかったのだ。
 それどころか、会社はそんな森口のことを冷たく突き放したのだ。

     3

「行ってらっしゃい。帰りは?」
 道子はいつも通り、家を後にしようとしてる背広姿の森口の後ろから声を掛けた。
「いつもと同じ位だよ」
 森口は淡々とした口調で言った。
「そう……。もうすぐ給料日ね。今年はどれ位上がるかな」
「去年並みじゃないかな」
 そう言うと、森口はいつも通りの時間に家を後にした。
 森口はまだ道子に会社を辞めたことを言ってなかった。辞めてから一週間も経ったというのに。
 この一週間、森口は会社勤めをしていた頃と同じ位の時間に家を出ては、同じ位の時間に帰宅していた。そうしていれば、道子たちは、森口が会社を辞めたことに気付かないと森口は思ったからだ。
 森口は早く再就職先を見付け、それが見付かれば、会社を辞めたことを言う腹積もりであったのだ。
 そういう具合であったから、森口は家を出てからは、向かった場所は、求人紹介センターであったのだ。
 そして、一社だけコンタクトを取ってみたのだが、あっさりと断られてしまった。
 そんな具合だから、すぐ再就職先が見付からないのは、100パーセント確実であった。それ故、何処の求人紹介センターを当ってみても、森口にとって好ましい言葉を受けることはなかった。
 そんな具合であったから、求人紹介センターを後にすると、森口は今日一日、どうやって過ごそうかと、頭を悩まさなければならなかった。
 求人紹介センターで時を過ごすといっても、丸一日いるわけではない。せいぜい、一時間が限度だ。となると、後の時間をどうやって過ごすかということになるのだ。
 やがて橘商事からの最後の給料が振り込まれるが、そうだからといって、無駄遣いは決して出来ないというものだ。退職金も出ることは出るが、せいぜい数百万だ。それ故、一日でも早く再就職先を見付けたいものだ。
 従って、金が掛からなくて時間を潰せる所としては、喫茶店位しか、森口には思い浮かばなかった。
 それ故、求人紹介センターを後にすると、お決まりのように、喫茶店に向かった。
 そして、コーヒーを注文し、雑誌に眼を通していた。そして、いつの間にやら、四十分程の時間が経過した。
 森口は四人掛けのテーブルに一人で座っていたのだが、やがて、一人の男が、
「こちらに座ってもよろしいですか」
 と、森口に声を掛けて来た。
 それで、森口は、
「どうぞ」
 と言った。
 それで、男は森口の前の席に座った。
 朝まだ早い時間だということもあってか、店内はかなり空いていた。森口のように長時間座っている客は、森口が見たところ、誰もいなかった。
 それはともかく、森口は森口の前に座った男を気にすることもなく、雑誌に眼を通していたのだが、やがて、森口の前に腰掛けていた男が、
「あの……」
 と、森口に声を掛けて来た。
 だが、森口はその男の言葉が森口に向けられた言葉とは気付かなかった。
 だが、男が三度森口に向かって声を掛けて来たので、森口は男が森口に向かって声を掛けて来たのだと理解した。
 それで、森口は雑誌から眼を離しては、男の方に顔を向けた。
 すると、男は、
「あの……、今、お時間はよろしいでしょうか」
 と、いかにも穏やかな表情と口調で言った。
〈時間? そんなの、あるに決まってるじゃないか! これから夜まで、どうやって時間を潰そうかと、苦心していたところなんだ! しかし、そのことを言うわけにもいかない〉
 それで、森口はいかにも改まった表情を浮かべては、
「少し位なら……」
「そうですか。では、私の話を聞いていただけますかね」
 そう男がいかにも穏やかな表情と口調で言ったので、森口は、
「ええ……」
 と、取り敢えずそう言っては、とにかく、この男の話を聞くことにした。
「実は、私は人を探しているのですよ」
 と、今度は男は些か真剣な表情を浮かべては言った。
「人?」
 森口は男が言ったことの意味がよく分からなかったので、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「そうです。でも、勘違いしないでくださいね。家出人を探しているのではないのです。私が探してるのは、私の仕事を手伝ってもらえる人を探しているのですよ」
「揺するに、求人というわけですかね?」
「そうです」
 と言っては、男は小さく肯いた。
「そうですか。で、どういった仕事内容ですかね?」
 森口は何となく男の話し振りが森口の興味をそそったので、思わずそう言った。
「年齢は四十の半ば位。性別は男でサラリーマン風の方が条件ですね」
「じゃ、僕みたいな感じですかね」
 森口は眼を大きく見開いては言った。
「そうですね。あなたなら、ぴったりと思いますね」
「ほう……」
「仕事内容とは、僕の宝石店の事務をやってもらいたいのですよ」
「事務、ですか……」
「そうです。簡単な事務ですよ。在庫のチェックとか仕入れのチェックとかいったものなんですよ」
「そういった仕事ですか。それなら、求人雑誌なんかに、案内を出せばいいのではないですかね?」
 と、森口は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「時間がないのですよ。求人案内を出したりすると、時間が掛かってしまうのですよ。何しろ、急いでいましてね」
 そう言われ、森口は迷ってしまった。果して、この見知らぬ男の話に飛び付いていいのか悪いのか、という具合に。
「そりゃ、あなたが仕事をされてるのでしたら、この話は申し出ることは出来ません。しかし、万一、あなたが今、仕事をされてなくて、時間がおありなら、是非、私の仕事を手伝っていただきたいのですがね」
 と、男はいかにも穏やかな表情と口調で言った。
「で、給料はどんなものなんですかね?」
 と、森口は真顔で言った。
「そうですねぇ。期間は長くないのですが、日払いで一日五万位ですね」
「一日に五万、ですか」
 と、森口はいかにもその話に乗り気になったと言わんばかりの様で言った。
「そうです。割のいい仕事でしょ」
「そうですね。」
「で、誰かいませんかね? 手頃な人が」
 と、男はにこにこしながら言った。
 そんな男に、森口は、
「僕なんて、どうでしょうかね?」
 と、森口は思わず身を乗り出して言った。何しろ、森口は再就職の当てはまるでなかった。それ故、少しでも割のいいものなら、アルバイトでもやってみたいと思っていたのだ。また、この男なら信用してよさそうと思ったのだ。
「そりゃ、あなたなら、問題ないですね」
 と、男はいかにも機嫌良さそうに言ったのだ。

   

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