第三章 仕事開始
1
森口はその翌日から、新たな勤務先となる宝石店へと向かった。
男の話だと、期間は一ヶ月位で、大体、六、七十万位の収入にはなるだろうとのことだ。
常識的に見て、喫茶店で声を掛けて来た見知らぬ男の話を疑うのは、当然のことであろう。
勿論、森口とて、全面的に信じてるわけではなかった。
どうせ、裏に何かあるのではないかと、勘繰っていないといえば、嘘になるであろう。
しかし、森口はこれから一日、どうやって時間を潰せばよいのかと、頭を悩ませていたところだったのだ。
それ故、あの男の話は、正に餌を前にした魚という感じで、ついあっさりと飛びついてしまったのだ。
それに、如何わしいものがあれば、すぐに辞めてしまえば、それで済むことなのだから!
それ故、まあ、半信半疑の状態で、とにかく、その宝石店へと、森口は向かったのだ。
また、あの男は、自らのことを田中一郎と名乗った。あの男から名刺を受け取り、そこには〈田中宝石店店主、田中一郎〉と記されていたのだ。
2
田中から受け取ったメモ書きからすると、確かにこの辺だったのだが……。
辺りは、小さな路地に面して、スナックとかバーなんかが、軒を連ねていた。
〈どうして、このような場所に、宝石店があるのだろうか……〉
と、森口は首を傾げた。
また、辺りには、人は殆ど見られなかった。しかし、それは当然だろう。このような場所には、夜しか人は集まって来ないのだから。しかし、今は、まだ午前九時にもなってないのだから。
それ故、森口は来る場所を間違えたのかと思ってみたが、何度もメモを眼にしてみると、やはり、そうではないようだった。
そして、やがて、お目当ての店が見付かった。〈田中宝石店〉という看板を掲げた店が見付かったからだ。だが、まだ朝早い時間だということもあってか、シャッターが下りていた。しかし、それは、田中一郎から事前に説明を受けていた。
それはともかく、森口は田中から指示された通り裏口に回り、扉をノックした。
すると、程なく、
「お待ちしていましたよ。ドアは鍵が掛かっていませんから」
それで、森口は扉を開け、中に入った。
すると、そこは六畳程のがらりとした部屋で、事務机と肘掛椅子が置かれていて、田中はその肘掛椅子に座っていた。
また、部屋の中には、折り畳み椅子が一脚置かれていて、田中は森口にその椅子に座るように言った。
それで、森口はとにかく、その椅子に腰を下ろしたのだが、そんな森口に田中は、
「どうです、感想は?」
と、にやにやしながら言った。
そう言われても、森口は言葉を返しようがなかった。森口は何と言ってよいのか、分からなかったからだ。
それで、少しの間、言葉を詰まらせたのだが、そんな森口に田中は、
「この宝石店は、今、僕とあなた、二人しかいないのですよ」
そう言われても、森口は言葉の返しようがなかった。何と言えばよいのか、分からなかったからだ。
そんな森口に田中はにやにやしながら、
「では、早速、仕事をしてもらいましょうかね」
と言っては、机の引出しからA四判のコピー用紙のような紙を取り出すと、それを森口に渡した。
森口は早速、それを見てみたのだが、すると、森口は忽ち眉を顰めた。何故なら、何も書いていなかったからだ。つまり、白紙だったからだ。
それで、森口は思わず困惑したような表情を浮かべたのだが、そんな森口に田中は、
「どうかしましたか?」
と、にやにやしながら言った。
「この紙には、何も書いてないのですが……」
と、森口は困惑したような表情のまま言った。
「そうですよ」
森口の言葉を耳にした田中は、にやにやしては言った。
そう田中に言われ、森口は一層困惑したような表情を浮かべたが、そんな森口に、田中はにやにやしながら、
「では、今から僕が仕事内容を説明しますね」
と言ったかと思うと、田中は机の引出しからボールペンと下敷きを取り出しては森口に渡し、
「では、これからその紙に僕が言ったことを書いてもらいますね」
と言っては、田中は少し「ゴホン」と、咳をしては、
「『ダイヤモンドのネックレスを確かにいただきます。田中一郎』と」
そう田中に言われ、森口は思わず表情を和らげてしまった。それは、正に思ってもみない言葉ではあったが、何となくユーモアで、それは、森口の笑いを誘うようなものであったからだ。
それはともかく、そう言われたからには、とにかく、その言葉を森口は紙に書いた。
書き終わると、森口は、
「書きましたよ」
すると、田中は、それを見せてくださいと言ったので、森口は紙を田中に渡した。
田中はその紙にさっと眼を通すと、田中が持っていた黒いビジネス鞄に仕舞った。
そんな田中を見て、森口は、
「その紙をどうするのですかね?」
と、余計なことかもしれないが、そう訊いてしまった。
すると、田中は、
「その内に分かりますよ」
と言っては、にやにやした。
そんな田中を見て、森口は何となく嫌な予感がした。
そんな森口に、田中は、
「で、仕事内容なんですがね。実は午後五時まで、この場所で座って電話番をしていてもらいたいのですよ」
と言っては、机の上に置かれている電話を田中は見やっては言った。
森口がその電話の存在を確認したのを田中は確認すると、
「で、午後五時までは絶対にこの部屋から出ないでもらいたいのですよ。もっとも、トイレは別ですがね。トイレはこの部屋の奥にありますから」
と言っては、田中は部屋の奥に位置しているトイレを顎でしゃくった。
森口がトイレの位置を確認したのを田中は確認すると、鞄からコンビニで買ったような弁当を森口に渡しては、
「これが昼食です。で、繰り返し言いますが、この部屋から絶対に出ないでくださいね。電話番をやってもらえばいいのですから。
で、給料は日払いですから、僕が午後五時に戻って来た時に、五万払います。これで、いいですね」
と、田中は森口に同意を求めた。
すると、森口は、
「ええ」
と、思わず肯いてしまった。
3
後少しで、午後五時だ。田中一郎という男は、間もなく戻って来るだろう。
森口は折り畳み椅子から立ち上がっては、大きく息をついた。
全く、この仕事は変わってると言わざるを得ないだろう。たったこれだけのことで五万をくれると言うのだから。
しかし、これは何かあると勘繰るのが、常識というものではないのか? 何か面倒な電話が掛かって来て、その対応が大変なので、高いアルバイト料を払うのではないかと森口は想像していたのだが、それは正に思い違いで、電話はまだ一度も掛かって来ないのだ。これは、正に拍子抜けさせられてしまったというものだ。
そして、通りに面した入口は、依然としてシャッターが下りたままだ。
また、ここが宝石店でないことは歴然としていた。通りに面した表口には、確かに「田中宝石店」という小さな看板は出てはいたが、店内には宝石の陳列ケースなど、何も見当たらないのだ。それ故、宝石店でないのは、確実なのだ。
もっとも、宝石店の倉庫ということも考えられる。しかし、そうだとしても、一体何を保管してるというのだろうか? また、保管してるような物は見当たらないのだが……。
それに、森口が書いたあの言葉。何だか、人をおちょくってるような文句といえないだろうか? どうしてあのような言葉を森口が書かなければならなかったのか? 田中自身が書けばよかったのではないのか?
何だか、考えれば考える程、理解に苦しむようなことばかりだ。
しかし、あれだけのことで、五万を貰えるとなれば、その程度の疑問は深く考えないようにすべきなのではないのか?
そう思いながら、森口は森口が入って来たドアに近付いては、特に理由があったというわけではないのだが、ノブに手を掛けて、開けようとしたのだが、それが何と開かないのだ。どうやら、つっかえ棒のようなもので、開かないようになってるのだ。これは、どういうことなのか?
この事実を目の当りにして、森口の表情は、みるみる内に青褪めた。何か、あるのではないのか? 森口はそう思わざるを得なかった。
しかし、田中は元々、この部屋から出ないようにと言ってたのだ。となると、森口のことを信じてなかったのか?
そう思うと、森口は渋面顔を浮かべざるを得なかった。
やがて、何かが外された音が聞こえたかと思うとドアが開き、田中が姿を見せた。それは、午後五時を少し過ぎた頃のことであった。
田中は相変わらずにやにやしていた。そして、
「お待たせしました」
と、田中は軽快な口調で言った。そして、
「何か変わったことはありませんでしたか?」
そう言った田中の表情には、笑みは見られなかった。
「なかったですよ。電話も掛かって来なかったですよ」
すると、田中は小さく肯き、
「じゃ、今日の報酬です。五万ですから、受け取ってください」
と言っては、封筒を森口に差し出した。
それで、森口は受け取り、中を見てみた。
すると、確かに五万入っていた。
森口がそれを確認したのを田中は眼にすると、
「これで、帰っていいですよ」
と言っては、小さく肯いた。
「では、これで失礼します。で、明日は?」
と、森口は訊いた。こんなことで五万受け取ったものだから、森口は味を占め、明日もこの仕事をやりたいと思ったのだ。
「明日も今日と同じ時間にここに来てもらえますか?」
「分かりました。で、明日も五万いただけるのですかね?」
と、森口はつい訊いてしまった。
「勿論ですよ」
と、田中はにこにこしながら言った。
それで、この時点で森口は田中宝石店なる場所を後にすることになった。
森口は家に向かう道すがら、何だかとても愉しい気分に満たされていた。何しろ、あんなことで、五万も貰えたのだ。裏に何かあるのではないのかと思わないこともないのだが、森口としてはたとえそのようなことがあったとしても、大したものではないという気がして仕方なかったのだ。
それ故、この仕事はまだしばらく続けてみたいという思いを抱かなかったと言えば、それは嘘になるだろう。
4
翌日、昨日の場所にやって来ると、昨日とは様子が違うことに早々と気付いた。田中宝石店と書かれていた看板が消えていたからだ。場所を間違えたのかと、辺りを改めて確認してみたのだが、やはり、間違いなかった。
それで、昨日、森口が入った裏口のドアの方に回って昨日入ったドアを開けてみようとしたのだが、鍵が掛かっていた。それで、扉をノックしてみたのだが、応答はてんでなかった。
さて、どうしたものか? 田中一郎は今日も来てくれと言ったではないか。
それ故、森口はドアの前でもう少し待ってみることにした。
だが徒に時間は経つばかりで、一時間も経ってしまえば、何か間違いがあったのではないかと、認めざるを得ないだろう。
それで、どうすればいいかと森口は考えてみたのだが、すると、森口は田中一郎から名刺を貰っていたことを思い出した。そこには、確か、田中の連絡先が記してあった筈だ。
それ故、森口はその電話番号に電話を掛けてみた。だが、「この電電話は現在使われていません」というメッセージが流れるばかりであった。
それで、もう少し待ってみることにしたのだが、流石に待ち始めて一時間半も過ぎれば、この場所を後にするしかなかった。
しかし、森口はやはり、諦め切れなかった。昨日、あれだけのことをしただけで、五万も受け取ったということに、味を占めてしまったのだ。それ故、手頃な場所でしばらく時間を潰し、正午前にもう一度、田中宝石店にやって来た。
しかし、状況に変化は見られなかった。
それで、森口は諦めるしかなく、この場所から少し離れた所にある図書館で時間を潰すことにした。