第五章 悩み

     1

〈戸田という刑事は、もう既に俺が会社を辞めてることを突き止めてるのではないのか? それに、俺が田中一郎という男の宝石店でどうのこうのということを信じないのではないのか? となると、やはり、俺に疑いの眼を向けるのではないのか。
 つまり、俺がリストラに遭ったことを知る。そうなると、当然、俺は会社、いや、溝口社長に恨みを持つ。その結果が、件の事件というわけだ。〉
 そう思うと、森口は正に厳しい表情を浮かべてしまった。森口が思ってる程、世間は甘くないのかもしれない。つまり、森口は溝口社長の事件で逮捕されてしまうかもしれないというわけだ。そうなれば、誤認逮捕となるのだが、いくら、森口がそう言っても、警察は信じないかもしれない。
 それ故、森口はいかに困ったような表情を浮かべていたのだが、そんな森口に道子が、
「あなた、郵便が来てるよ」
 そう道子が言っては、森口に郵便を差し出したので、森口はそれを受け取った。それは、普通の封筒であったが、差出人の名前を見てみた。すると、見覚えのない会社の名前が記されていた。
 とはいうものの、とにかく封を開けてみることにした。 すると、求人紹介会社であることが分かった。その封筒の中に入っていた資料には、そのような旨が記されていたからだ。
 そして、その資料と共に、森口に対する手紙も入っていた。そのA4判の紙には、「貴殿に相応しい仕事がありますから、是非お来しください」と、記されていたからだ。
 そう記されていたので、森口はとにかく、話だけで聞いてみようと思った。一体どのようにして、森口のことを知ったのか分からないが、まだ今の時点では再就職の当てはてんでないので、とにかく、一度だけでもいいから、訪問してみようと森口は思ったのだ。

     2

 そして、その翌週の月曜日に、早速、その手紙に記されていたその事務所に向かったのだが……。
〈全く、こんな所に、求人紹介センターがあるのだろうか……〉
 と、森口は首を傾げた。何しろ、この場所は住宅街で、求人紹介センターなど、ありそうもない場所であったからだ。
 とはいうものの、やはりこの辺りに間違いなかった。その事務所の近くにあるというコンビニがあったからだ。
 そして、やがて、その事務所が入ってるというマンションが見付かった。しかし、それは三階建ての古びたマンションで、間取りは2DK位と思われた。果して、このような所に、求人紹介センターの事務所があるのだろうか? そう森口が疑問に思っても、それは至極当然のこと思われた。
 それはともかく、その求人紹介センターには事前に連絡してあったので、森口はとにかく胸を張っては、その求人紹介センターの前に来ては、その名前が〈アポロ企画〉という名前であることを確認すると、森口はとにかく、インターホンを押した。
 すると、程なく、
「どうぞ」
 という返答があったので、森口は扉を開けては中に入った。
 すると、中は十畳位の部屋で、窓際に事務机があり、男はその事務机の椅子に座っていた。しかし、その部屋にあるのは、その事務机だけで、キャビネットとかクロゼットとかは何もない殺風景な室であった。このような場所で果して営業活動が出来るのだろうか?
 そう思うと、森口は何となく不安になってしまったが、しかし、折角足を運んだからには、とにかく話だけでも聞いてみることにした。
「僕に相応しい仕事があるとか」
 と、森口はいかにも表情を引き締めては言った。
「ありますよ。森口さんに持って来いの仕事がありますよ」
 その四十位の何となく営業マン風の男は言った。
「それはどんな仕事ですかね?」
 森口はいかにも興味有りげに言った。
「ちょっと待ってくださいね」
 そう男は言うと、机の中からA4判のコピー用紙のような紙を取り出しては、森口に渡した。そして、
「まず、手始めとして、今から僕が言う言葉を、その紙に書いて貰いたいのですよ」
 そう男に言われ、森口の表情は、一気に緊張したものへと変貌した。というのは、正にあの時と同じだったからだ。あの時とは、無論、説明するまでもないだろう。田中一郎とかいう曲者の時と同じ事態が発生したというわけだ。
 とはいうものの、まだそうだと断言は出来ないというものだ。
 それ故、森口はとにかく、男の出方を見ることにした。
「で、何と書けばよろしいのですかね?」
 と、森口は男の顔をまじまじと見やっては言った。そんな森口の表情は、とても真剣なものであった。
 すると、男は、
「『ダイヤモンドの宝冠を確かにいただきます。田中二郎』と、書いてもらいたいのですよ」
 と、平然とした表情で言った。
 そう男に言われ、森口は啞然とした表情を浮かべては、言葉を失った。やはり、あの時の再現となってしまったからだ。正に、あの時と同じだったのだ。違う点といえば、ダイヤモンドのネックレスが宝冠になったことと、田中一郎が二郎になった位なのだ!
 それで、森口は正に啞然とした表情を浮かべては、言葉を失ってしまった。そして、忽ち、眼前の男に対して怒りが込み上げて来た。森口のことをおちょくってるのではないかという具合に! つまり、この男は田中一郎とぐるで、森口を馬鹿にしては、喜んでるのだ! 
そうに違いない!
それで、森口は思わずこの時、男の胸倉を摑んでは、男の本音を問い正してやろうと思ったのだが、すると、森口はすぐにその考えを思い直した。というのも、もう少し、男の出方を見てやろうと思ったのだ。
そう思うと、森口の言葉は詰まったのだが、そんな森口に男は、
「どうかしましたか?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、森口は表情を改めては、
「いいえ」
 と言い、そして、
「おっしゃる通りに書けばいいのですね?」
 と言っては、男から渡されたボールペンで、男が言った通りに書いた。
 書き終えると、森口はその紙を男に渡した。
 すると、男はそれを丁寧に封筒に仕舞った。そんな男を見て、森口は、
「では、次にどうすればいのですかね?」
「後は、今日の午後五時まで、この部屋にいてもらえますかね。昼食は弁当を買ってありますから」
 と、男は言っては、コンビニで買ったと思われる弁当を森口に差し出した。そして、
「森口さんには申し訳ないですが、夕方の五時になるまでは、絶対にこの部屋から出ないでくださいね。これは、約束ですよ。で、報酬は五万です。報酬は、僕が午後五時に戻ってく来た時に払います。これで、よろしいですね」
 そう男に言われ、森口は心の中では、〈この野郎! 嘗めた真似をしやがって!〉と、男に罵りの言葉を浴びせたが、ここはその思いを顔と言葉に出すことを思い留まり、努めて平静を装った。そして、
「分かりましした。おっしゃる通りにいたします。では、一応、名刺をいただきましょうかね」
 そう森口に言われると、男はにこっとし、森口に名刺を渡した。その名刺には、このように記されていた。
〈アポロ企画社 田中二郎 〉
 そして、名刺を渡すと、男は、部屋から出て行った。
 男が部屋から出て行くと、森口の表情は一気に強張った。正に、田中一郎の場合と同じであったからだ。ダイヤモンドの何とかが盗まれたという文句を森口が書き、そして、実際にも何処かでダイヤモンドが盗難したという事件が発生し、その現場に森口が書いた紙がある。そして、森口のアリバイはない。それで、森口が刑事から疑われる。ふざけるな!
 森口は田中二郎という男に今、改めて怒りの言葉を投げたが、しかし、田中二郎は既に室を後にしてしまった。
 それ故、こんな馬鹿馬鹿しい手に引っ掛かるのも馬鹿馬鹿しいと森口は思ったものの、しかし、こんな馬鹿みたいなことをやって五万貰えるというのも、捨てがたいものがあった。何しろ、森口は今や失業の身の上で、金が入る当てはまるでない。それ故、こんな馬鹿馬鹿しいことをやって五万貰えれば、それでよいのではないのか? あの戸田という刑事だって、森口をまさか無実の罪で逮捕することは不可能というものであろう。
 それ故、とにかく、五時まで田中二郎を待って五万を受け取ろう。その後、田中二郎を問い詰めてやればよい。
 よし。その手段で行こう!
 森口はそう決意したものの、時間が経つのはなかなか遅いというものだ。何しろ、今、この場には、ラジオさえないのだ。こんな状況なら、文庫本でも持ってくればよかった。
 午後三時になると、森口は玄関扉を開けようとした。この前は扉がつっかえ棒のようなもので扉を開けることが出来なかったが、今回はどうだろうか? 森口はそう思いながら、扉を開けようとしたのだが、すると、扉はすんなりと開いた。 
 しかし、森口は外出する理由は特に見当らなかったので、扉をあっさりと閉めたのだ。
 そして、時間は刻々と過ぎ、やがて、五時を過ぎた。だが、田中二郎はまだ戻って来なかった。だが、五時十分頃、扉がノックされた。
 それで、森口はすかさず扉に近付き、扉を開けた。
 すると、森口の見知らぬ中年の女性が立っていた。
「森口達哉さんですか?」
 女は言った。
 それで、森口は、
「ああ」
 すると、女性はハンドバッグから白い封筒を取り出し、
「私、これを預かって来たので」
と言っては、森口に渡した。そして、
「じゃ、これで」
 と言っては、森口の許から去ろうとしたので、森口は、
「ちょっと待って!」
 と言ったものの、その森口の声が女性に聞こえたのかどうかは分からないが、女性は森口の方を振り返ることなく、さっさと森口の許から去って行った。
 それで、森口はとにかく、封筒の中身を確認してみることにした。
 すると、封筒の中に入っていた手紙には、このように記されていた。
〈 今日、一日、ご苦労様でした。早速、森口さんの適職はないかと審査しましたが、適職はないという結果となりました。あしからず、了承ください。なお、約束通り、アルバイト料は支払います。 田中二郎〉
 と、記されていた。
 確かに封筒の中には、その手紙と共に、五万入っていた。 それ関しては、森口は案の定、満足したのだが、その反面、田中二郎なる男には、改めて怒りが込み上げて来たのだった。

     3

「あなた、どうしたの?」
 不機嫌そうな表情を浮かべている森口を見て、道子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、森口は慌てて笑顔を繕い、
「別にどうということないさ」
「そう……。さっきから顰面ばかりして……。食事はもっと愉しそうにするものなのよ」
 道子はそう言うと、森口にお茶を注いだ。
 そんな道子を見て、森口は、
〈道子は気楽なもんだ。人の苦労も知らないで……。俺は今日も一日、あの田中二郎という得体の知れない男に馬鹿にされて来たんだ。一体、あの男は何者だ? それに、受け取った五万の代償は何だろうか?〉
 そう思うと、森口は愉しい表情を浮かべることが出来ないのは当然であった。しかし、それを率直に道子に話せないというのも、辛いというものだ。
 そんな森口に、道子は、
「あなた、今月分のお金、そろそろ、いただきたいのよ」
 と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「あっ! そうだったな!」
 そう森口は甲高い声で言った。何しろ、森口は毎月、道子に生活費として、十五万程渡していたのだ。
 森口は依然として、新たな就職口を見付け出せないでいた。この不況下に、これといった技術を持ち合わせていない森口に、容易く新たな就職口が見付かる筈はなかった。また、四十七という年齢もネックとなっているというものだ。
 そう思うと、自ずから森口の表情は、冴えないものへと変貌して行った。そんな森口に、道子は、
「あなた、夕刊、読んだ?」
「いや。まだだよ」
「また、妙な盗難事件があったのよ」
 と、道子は神妙な表情を浮かべては言った。
「まさか以前のように、妙なメモ書きが現場に遺されていたというんじゃないだろうな」
 と、森口は渋面顔で言った。森口は以前のように森口が書いた妙なメモ書きが今回の事件の現場に遺されていないかと、多少は気にしたのだ。
 すると、道子は眼を大きく見開き、
「何だ、知ってるの。でも、今回はダイヤモンドのネックレスではなかったの。ダイヤモンドの宝冠だったのよ。ダイヤモンドの宝冠を確かにいただきましたというメモ書きが遺されていたのよ。
 以前はそう書いたのは、田中一郎という男だったよね。でも、今回は田中二郎という名前が記されていたのよ。全く、妙な事件ね」
 そう道子に言われ、森口の表情は忽ち真っ青になった。案の定、森口が恐れていたことが現実と化してしまったからだ。やはり、初めからあの田中二郎という男の妙な誘いに応じなければよかったのだ。

     4

「本当に困りましたね」
 戸田は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては言った。
「そう言われても、本当に僕はやっていないのですよ」
 森口は声を荒げては言った。
「だったら、アリバイを証明してくださいな」
「ですから、そのマンションの一室に午後五時までいたと説明したではないです!」
 森口は苛立ったような声で言った。
「それを証明出来る人はいますかね?」
「ですから、そのマンションの室から出るなと言われてたんですよ。それが、アルバイトの条件だったのですよ!」
「そうですかね? 信じられないですね。
 何しろ、森口さんは会社をリストラによって辞めさせられた。それで、会社に恨みを持つ。それ故、溝口社長のダイヤモンドのネックレスと宝冠を盗む。動機は充分ですよ」
「そりゃ、会社には恨みを持ちましたよ。二十五年も働いた者をあっさりとリストラするのですからね。それに、退職金も僅か数百万程度でしたからね。これじゃ、会社や溝口社長のことを恨まない筈はありませんよ。
 でも、そうだからといって、社長の宝石を盗みはしませんよ。それに、どうやって盗んだというのですかね? 僕はそれが社長宅の何処にあるのか、知らないのに。それに、そんな高価なものを簡単に盗まれるような場所に保管してあるのですかね? 溝口社長はそれ程世間知らずではないと思いますがね」
「いや。そうでもないさ。溝口社長が宝石愛好家であることは、社内では知れ渡っていたというじゃないか。それに、盗まれたそれらのものは、社長宅のリビングに飾ってあったというじゃないか。それ故、溝口社長に言わせれば、誰でも盗めるそうだよ」
 そう戸田に言われると、森口は渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせた。確かに、今、戸田が言ったことは事実だったからだ。
 そんな森口に戸田は、
「それに、〈ダイヤモンドのネックレスを確かにいただきました。 田中二郎〉というメモ書きは、今度もあんたが書いたものなんだろ? 前回に残っていたメモ書きと同じ筆跡だったからな」
「そりゃ、僕が書いたのでしょうよ。しかし、さっきも言ったように、そのマンションの一室で田中二郎と名乗った男が僕にそのように書かせたのですよ。仕事だと言って」
「そんなこと、信じられるものですか」
 と、戸田は森口の説明をてんで相手にしなかった。
「本当なんですよ。信じてくださいよ」
 と、森口は懸命に弁解した。
 すると、その時、道子が、
「ただいま」
 と言っては、買い物から帰って来た。
 そして、戸田に軽く会釈をすると、奥の部屋に入って行くと、森口は戸田に、
「刑事さん。家内は僕が会社を辞めたことを知らないから、そのことは黙っていてくださいね」
 と、いかにも真剣な表情で言ったので、戸田は、
「ふむ」
 と言っては、眉を顰めた。
 すると、程なく道子が二人の許にやって来ては、
「刑事さん、今日はどういった用件ですの? やはり、あのメモのことですの?」
 と、いかにも納得出来ないように言った。
「お察しの通りですよ。そのメモの筆跡が、またしてもご主人のものと一致しましてね」
 と、戸田はいかにも決まり悪そうに言った。
「今度も、主人に疑いの眼が向けられてるのですの?」
 と、道子は些か戸田を非難するかのような様で言った。
「いや。まだ、そこまでは断定はしてませんが」
「今度も、主人のアリバイがないと言うのですかね?」
「まあ、そういう具合ですよ」
「刑事さん。アリバイがないからといって、主人を疑うのは、止めてくださいな」
「しかし、現場には、ご主人が書いたメモが残されていたわけですから、やはり、ご主人が何らかの関わりがあると看做さざるを得ないのですよ」
 と、戸田は渋面顔を浮かべては言った。
「だから、アリバイに関しては、さっきも説明した通りですよ!」
 と、森口は向きになって言った。
「田中一郎とか、田中二郎とかいう名前の人物に依頼されて、あの文章を書かされたというんだろ?」
 と、戸田はいかにも納得が出来ないように言った。
「あなた、田中一郎、田中二郎とかいう人、どういった人なの?」
 道子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「いや。何でもないさ。気にしなくていいよ」
 と、森口は慌てて笑顔を繕って言った。そのことを道子に詳しく話すとなると、森口が会社を辞めたことも話さなければならなくなってしまうことになりかねない。それは、森口としては、避けたいことであったのだ。
 そして、まだしばらくの間、戸田は森口に何だかんだと話を聴いたが、まだ森口から自供を得られないと判断したのか、戸田は、
「とにかく、話す気になれば、連絡してくださいよ。今日のところは、とにかくこれで帰るから」
 と言っては、森口の許から去って行った。

 戸田が去って行くと、道子は、
「あなたは、犯人ではないのね?」
「当り前さ。俺が泥棒なんてする筈がないじゃないか!」
「そうよね。でも、何故あなたが書いたメモが現場に遺されていたの?」
 道子は些か納得が出来ないように言った。
「それが、分からないんだよ」
と、森口はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。

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