第六章 旧友の変貌

     1

「行ってらっしゃい!」
 道子のそう言った声と共に、森口はいつも通りに家を後にした。
 家を後にし、二百メートル程歩くと、森口は立ち止り、
「さて、今日は何処に行こうか……」
 と、小さな声で、呟くように言った。そんな森口の表情は、いかにも冴えないものであった。
 毎日、喫茶店に行くものの、いい加減に飽き飽きして来た。喫茶店に二時間も居続けるのも、決して楽ではない。ウェイトレスが〈あのお客さん、いつまでいるつもりかな〉という冷ややかな視線を向けられてるんじゃないかと思ってしまうのだ。
 そうかといって、求人紹介センターも一通り回ってるし……。残された手段は、図書館位なものか。
 そう思いながら、森口は駅に向かって歩みを進めていたのだが、向こうの方にふと眼を向けてみると、森口の見覚えのあった顔が眼に留まった。しかし、向こうは森口のことに気付いていない。あれは、誰であっただろうか……。
 そう思ってみた森口は、深く考えるまでもなかった。
 あれは、会社の同僚であった森川卓司だったのだ。そんな森川が、何と若い女と腕を組んで歩いていたのだ。しかも、こんな時間に……。
 何しろ、今は朝の十時だ。しかも、月曜日と来てる。
 これは、一体どういうことなのか……。
 森口はとにかく、夜になれば、森川に電話してみようと思った。

 やがて、夜になった。
 それで、森口は早速森川に電話をしてみたのだが、「この電話は現在使われていません」というメッセージが流れて来た。
〈何処かに引っ越したな〉
 そう思ったものの、森口は森川の引っ越し先が分からなかった。
 しかし、森口は何としてでも、森川と話をしたかった。何しろ、今朝は正に森川の衝撃的な場面を見せられてしまったからだ。
 そう思った森口は、
〈よし! こうなったら……〉
 と、決意を新たにし、橘商事に電話をしてみることにした。そうすれば、森川の連絡先に関して、情報を得られるかもしれないからだ。
 それで、とにかく電話をした。もっとも、森口の名前を明かしはしなかったのだが。
 すると、森口の知らない女子社員の口から、
―森川卓司は退職しましたが。
「退職した?」
 森口は呆気に取られたような声で言った。それは、予想してなかった言葉であったからだ。
―ええ。少し前でしたがね。
〈一体、どうなってるんだ? 森川は森口と違って評価も高く、森口よりかなり職位高いポストについていた。そんな森川までもが、リストラに遭ったというのか?〉
 それ故、森口は一層、森川と話がしたいと思ったのだが……。

     2

〈しまった。忘れ物をしてしまった……〉
 森口は家を後にして、十分程した頃、忘れ物をしたことに気付いた。それは、雨傘であった。今日は午後になれば雨が降りそうな天気であったのだが、森口は傘を持って来るのを忘れたのである。
 それで、我が家に向かって歩みを進めたのだが、後少しという所で、森口は歩みを止めた。道子が玄関から出て来るのを眼に留めたからだ。そんな道子はおめかしをしていた。
〈道子の奴、こんな時間に何処に行くのだろうか……〉
 そう思った森口は、素早く物陰に身を隠した。
 道子はそんな森口のことをまるで気付いていないようだった。
 そして、てくてくと駅の方に向かって歩き出した。
〈よし! 道子の奴を尾けてみるか〉
 そう思った森口は、何だか今日は愉しくなりそうな予感がした。

 道子はやがて電車に乗り、D駅で降りた。
 そんな道子のことを尾行することは、決して楽ではなかったが、森口は甚だ真剣に尾行したので、まだ今の時点では、森口は道子に気付かれていないようであった。森口は正に物事は真剣に行なえば成果を得られるのだという教訓を改めて認識したかのようであった。
 それはともかく、森口は何故道子がこのような駅で降りたのか、解せなかった。何故なら、この駅は高級住宅街の中にある駅であったからだ。このような場所に道子は何の用があるのだろうか?
 道子は高級住宅街の中に設けられた道を、てくてくと歩いていた。そんな道子の後ろ姿を見てると、道子は何だかわくわくしてるかのように思えてしまった。まるで、舞踏会に出向くシンデレラのように!
 道子はやがて、とあるマンションの中に入って行った。そのマンションは億を超える値段がつきそうなマンションであった。
 そのマンションはオートロックのマンションであった為に、森口は中に入ることが出来なかった。
 だが、程なくマンションから出て来た人がいた為に扉が開き、それに乗じて森口は巧みに中に入ることが出来た。そして、郵便受けをチェックしてみた。森口の知った名前はないかと思ったからだ。
 すると、意外にあっさりと、森口の知ってる人物の名前が見付かった。
 それは、森川卓司であった。森川卓司といえば、森口の元会社の同僚であった人物と同姓同名なのだが……。
 その森川卓司のことだろうか……
 森口はその事実が信じられなかった。
 しかし、全く思い当らないわけでもなかった。というのは、先日、森川が若い美人の女性を連れて歩いていたからだ。金がなければ、あのような美人を連れて歩くことが出来ないだろう。だが、このような高級マンションに居を構えてるとなると、森川は急に羽振りが良くなったのかもしれない。
 それはともかく、道子がこのマンションやって来たととなると、その訪問先は森川卓司だろうか。
 そう考えるしかないのではないのか? 
 というのも、森口と道子は橘商事で知り合った。いわば、社内結婚だ。
 それ故、道子は森川と面識があるのだ。
 そう思うと、森口は何だか知ってはいけない事実を知ってしまったかのように、甚だ気まずい思いを抱いたのである。

     3

「道子、今日は何処かに行ったかい?」
 夕食を食べてる時に、森口は道子に何気なく訊いた。
「そりゃ、買い物に行ったよ」
「何時頃、買い物に出掛けたんだい?」
 すると、道子は森口に眼を向け、
「どうしてそんなことを訊くの?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「いや。ちょっと訊いてみただけなのさ」
 と、森口は笑顔を繕っては言った。
「だったら、そんなくだらないことを訊かないでよ」
 そう道子は怒ったような口調で言うと、その後、まるで森口との会話を避けるかのように、黙々とご飯を食べ続けたのであった。

〈多分、いないだろうな。いくら昨日、道子が森川を午前十時頃訪ねたからといって、森川は今、働いてるだろうから、今の時間に訪ねても無駄だろうな〉
 森口はそう思ったものの、道子が森川宅を訪ねたと思われる日の翌日、森川のマンションを訪ねざるを得なかった。元々、森口は森川に会いたいと思っていたのに加え、昨日、道子の訪問先が森川であったと思われることから、森口は今日も特にやることがなかった暇な状態であった為に、森川のマンションを訪ねたのである。そして、昨日と同じように、マンションから出て来る人と共に、オートロックの扉を通り、エレベーターに乗った。そして、森川の部屋、つまり、608号室に行った。そして、インターホンを押した。
 すると、程なく、
「どなた?」
 という声が聞こえた。
 その声は、やはり、森川の声であった。久し振りに耳にした森川の声であった。
 それはともかく、森口が言葉を詰まらせていたので、
「どなた?」
 と、森川は再び言った。
 それで、森口は、
「森口です」 
と、努めて丁寧な口調で言った。
 すると、応答はなかった。
 だが、程なく「ガチャン」という音と共に扉が開かれ、森川が顔を出した。それは久し振りに見る森川の顔であった。
 そんな森川に森口は、
「凄い所に住んでるな」
 と、開口一番に言った。そして、
「億は下らないんだろ?」
 すると、森川は、
「まあ、そんなものかな」
 と言っては、
「立ち話も何だから、まあ、中に入れよ」
 と言ったので、森口は森川の後に続いた。そして、リビングに通されたのだが、家具調度類も、正に高級なものばかりであった。
 それで、森口は今しばらくの間、眼を丸くしながら辺りに眼をやっていたのだが、そんな森口に森川は、
「お前、どうして俺がここに住んでることが分かったのかな?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 そう言われ、森口は少しの間、迷ったが、この際、本当のことを言おうと思い、事実を話した。
 森川はそんな森口の話に黙って耳を傾けていたのだが、森口の話が一通り終わると、
「その話、本当なんだな?」
「本当さ」
「まさか、奥さんから聞いたんじゃないだろうな」
「ああ。道子から聞いたんじゃない」
 と、森口はいかにも真剣な表情と口調で言った。
 すると、森川は、
「ふむ」
 と言っては、渋面顔を浮かべては腕組みをし、少しの間、何やら頭を働かせていたようだが、やがて、
「実はな」 
 と、重苦しい表情を浮かべては、
「お前の奥さんと俺との間には、関係があったんだ」
 と、いかにも決まり悪そうに言った。
「関係?」
 その森川の言葉は、予め予想出来た言葉であったのだが、森口はとにかくそう言った。
「ああ。そうだ。お前だってそれ位のことに気付いただろう。
 しかし、奥さんと俺との関係は、昨日の一度きりではなかったんだよ。かなりの間、続いていたんだよ」
 と、森口から眼を逸らせては言った。
 その言葉は、森口にとって正に意外であった。昨日一度きりだというのなら、理解出来るが、それが続いていたなんて! それは、正に意外であり、信じられない言葉であった。
 それで、思わず、
「冗談を言ってるんじゃないのかい?」
 と、眼を白黒させては言った。
「冗談じゃないよ。そうでなければ、奥さんがこのマンションに来る筈がないじゃないか!」
 と、森川は甲高い声で言った。
 そう言われてみれば、確かにその通りだろう。
 そう思った森口は、
「いつ頃からなんだ?」
 と、半信半疑の表情で言った。
「もう二年位になるかな」
「二年にもなるのか……」
 そう思うと、森口は無性に腹が立った。
「確か二年前に、宴会の帰りにお前の家に泊めてもらったことがあったじゃないか。その時からさ」
「二年前の宴会? 俺が酔い潰れて、お前に送ってもらった部長の送別会のことかい?」
「そうさ。その時さ。お前は家に着くなり、寝込んでしまった。俺はお前を無事に家に送り届けてから、奥さんに『じゃ、これで帰ります』と言ったら、奥さんは『帰らないでください。是非、泊まっていってください』と、俺に哀願するように言ったんだ。
 俺は独身で一人暮らしであったから、どうせアパートに戻っても誰も俺を待っていないから、奥さんの言う通りにしたんだ。そして、その夜、俺は奥さんに誘惑され、男女の関係となったというわけさ。奥さんは元々、俺たちの会社で働いていたから、俺は奥さんと関係することに、さ程抵抗はなかったというわけさ。そして、その関係は今も続いているというわけさ」
 と、森川は渋面顔で言った。
 すると、森口も渋面顔を浮かべては、
「そんなことがあったのか。俺はそんなことがあったなんて、まるで気付かなかったよ」
 と言っては、唇を歪めた。そして、
「でも、何故道子はお前を誘惑したんだ?」
 と、森口は納得が出来ないように言った。
「森口よ。お前は道子さんの気持ちが分からないのかい?」
 と、森川は森口の顔をまじまじと見やっては言った。そんな森川の表情は、かなり真剣なものであった。
 だが、森口は、
「分からないな」
 と言っては、眉を顰めた。
 すると、森川は開き直ったような表情を浮かべては、
「だから、奥さんに浮気されてしまうんだよ。つまり、奥さんはお前に愛想が尽きてしまったんだよ」
 と、吐き捨てるかのように言った。
「愛想が尽きた?」
「ああ。そうだ。森口は道子さんのことを考えたことがあるかい?」
「あるに決まってるじゃないか!」
「嘘をつけ! 家に帰ればゴロッと寝転がってはTVを見たり新聞を読んで、後は風呂に入って寝るだけじゃないか!」
「そんなの、当り前じゃないか! 会社で必死で仕事をして疲れ切って帰って来るんだ。食わして貰ってる分際で、何をほざきやがる」
 と、森口は捲くし立てた。
「それにしては、昇進が遅かったじゃないか。
 その歳で主任だろ。俺たちの同期の中で、お前が最も昇進が遅いんだ。
 それで、奥さんは会社の知り合いに、お前の仕事振りを訊いてみたんだよ。
 すると、お前はただ椅子に座ってボーッとしてる時が多いことを知ったんだよ。お前は営業が無理だから事務系に回されたんだが、事務系でも窓際族的存在であった。だから、お前の昇進が遅いということを、道子さんは知ったというわけさ」
 と、森川は言っては、小さく肯いた。
「それは、誤解さ。俺はちゃんと与えられた仕事をこなしていたんだ」
 と、森口は森川に反発するかのように言った。
「与えられた仕事をこなしてるだけでは駄目なんだ。率先して、新たな仕事を見付け出さなければならないんだ。それが、会社というものさ。
 それを森口はよく理解してないのさ。だから、森口は評価が悪かったんだよ。だから、人員削減の対象にされてしまったんだよ」
「森川、お前までが、俺のことを嘲るのか?」
 森口は顔を紅潮させては言った。そんな森口の様からして、森口はかなり興奮して来てるようだ。
「まあ、落ちつけよ。道子さんは会社で森口がどのようであれ、家庭は大切にしてもらいたかった。道子さんはお前が家庭を大切にする男と看做し、お前と結婚したんだ。しかし、それは、見事に裏切られてしまったんだよ。道子さんはそう述懐していたよ」
「何をふざけやがる、道子の奴は! 俺が食わしてやってることを忘れたのか!」
 と、森口はこの場にいない道子のことを、まるで今、この場に道子がいるかのように怒鳴り付けた。
「まあ、落ちつけよ。で、道子さんの友人は、皆、主人のことを自慢したがるんだ。医者だとか、部長になったとか。
 しかし、道子さんは社会的体裁など、重要ではなかった。ただ、暖かい家庭に道子さんは憧れていたんだ。しかし、あんたは家庭を大切にしなかったんだ!」
「それは誤解だ!」
「しかし、道子さんはそう思っていたんだ。この五年位の間、あんたは一家で一度も旅行をしてないじゃないか」
「だから、それは仕事が大変だったからさ」
「そうかい? あんたはあんたの課の中では最も残業が少なかったんだぜ。また、仕事も最も楽なものだったんだ。だから、旅行に行く機会なんて、取ろうと思えば、いくらでも取れたんだよ。しかし、あんたは取ろうとしなかった。奥さんが何度も哀願したのに。
 要するに、あんたは旅行に行くという気がなかっただけなんだ。ただ、気乗りしないものには、関わりを持ちたくなかっただけなんだ」
「……」
「道子さんは、そんなあんたに愛想が尽きてしまったんだよ。
 そんなあんたと、離婚しようとも思っていたらしい。しかし、亜沙子ちゃんのことがあるから、なかなか決断出来ない。 
それで、その悩みを俺に打ち明けたというわけさ」
「……」
「そして、俺は道子さんの悩みを聞いてやったんだが、その内に道子さんの方から俺を誘惑して来たんだ。それで、俺も何となく道子さんに同情してしまったということもあり、関係してしまったというわけさ。
で、やがて、奥さんは俺に計画を持ち出して来たんだよ」
「計画?」
「ああ。そうだ。計画さ」
「どんな計画なんだ?」
 森口は好奇心を露にしては言った。
「森口。あんたを陥れる計画をさ」
「俺を陥れる計画?」
「ああ。そうだ。あんたは覚えているだろ。溝口社長がダイヤモンドのネックレスと宝冠が盗まれたという事件を」
「ああ」
「その盗難現場に、あんたは書いた妙な言葉が書かれた紙が遺されていた。
 あんたは橘商事を解雇された身の上だから、当然、溝口社長に恨みを持つ。だから、溝口社長の事件は、あんたに疑いが向くように、俺が仕向けたというわけさ」
 と、森川は厳しい視線を森口に向けた。
「ということは、あの田中一郎、田中二郎という男は、あんたが俺に差し向けたということか」
「その通り。あの田中一郎、田中二郎は俺の友人なんだ。もっとも、偽名だがな。だが、作戦は俺が立てた。つまり、あんたを溝口社長の事件が発生した時間帯に、事務所やマンションに監禁し、あんたのアリバイがないように仕向けたというわけさ」
「しかし、その程度のことでは、警察は俺のことを犯人と断定出来ないぜ。警察は確かに俺に事情聴取したが、それまでさ。つまり、俺を逮捕することは出来ないというわけさ」
「そんなことは分かってるさ。だが、俺の狙いは別のところにあったといわけさ」
「何だい? その別のところとは?」
 森口は好奇心を露にしては言った。
「お前が俺が何故こんな高級マンションに住んでるのかと訊いたな」 と言っては、森川は森口の顔をまじまじと見やった。
「ああ。何故なんだ?」
 と、森口はいかにも納得が出来ないような表情で言った。森口は森川の給料がどれ位なのか、凡そ分かっていた。そして、その給料では、このようなマンションを購入は出来ないことは、充分に察せられたのだ。
「実はな。溝口社長宅で盗まれたダイヤモンドのネックレスと宝冠は、溝口の奥さんが持ち出したのさ。森口社長は、仕事人間で家庭をおろそかにしていた。そこに落とし穴があったのさ」
 と言っては、森川は小さく肯いた。
「どういうことだい? 詳しく説明してくれないか」
 森口は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「溝口社長の奥さんさ。奥さんを見てると、女というものは、浅墓なものだと思ったもんだ。
 つまり、奥さんは仕事人間で家庭をおろそかにしていた溝口社長のことが甚だ不満だった。
 俺はそんな奥さんとふとしたことから親密になった。
 俺は社長も同席していた忘年会の時に、ひょんなことから、社長を社長宅に送り届ける役目を承ってしまったんだ。詳しくは話さないが、正に偶然の結果といってもよいだろう。
 社長宅に社長を無事に送り届けると、社長はその時は既に鼾を掻いて寝込んでいた。それで、俺は奥さんと何だかんだ話し込んでいたのだが、その時に、奥さんは胸に痞えいていた社長に対する不満を延々と話し始めたのだ。そして、その不満は一時間程続いたんじゃないかな。 
 そして、奥さんは奥さんの不満の捌け口として俺が適切と看做したのか、その後、時々、俺は奥さんと外で会うことになってしまったんだよ。社長には勿論、内緒でな。
 そして、外で会うようになって三回目に、奥さんは俺をホテルに誘ったんだよ。奥さんはもう五十を過ぎていたんだが、社長の奥さんとなれば、断るわけにもいかないしな」
 と森川は言っては、にやっとした。
「で、そんな奥さんを唆し、社長宅からダイヤモンドのネックレスと宝冠を奥さんに持ち出させ、その犯人をお前に仕立てるのは、決してむずかしいことではなかったというわけさ」
 と言っては、森川はにやっとした。
 そんな森川を見て、森口は、
「お前という奴は……」
 と言っては、怒りの眼を森川に向けた。そんな森口の両手は、握り拳を握り締めていた。
 そんな森口に、森川は、
「まあ、落ち着けよ。最後まで話を聞いてくれよ。
 俺はお前のことを好きだぜ。お前を刑務所に入れたくはないぜ。
 だから、よく考えてみろよ。犯行現場にお前が書いた紙があったということと、お前のアリバイがないということだけで、警察はお前のことを犯人に出来やしないさ。
 だが、俺は約束を果たさなければならなかった。
 第一の約束とは、お前の奥さんと約束。お前の奥さんとの約束とは、あんたを懲らしめるというものだった。
第二は、溝口社長の奥さんとの約束。溝口社長の奥さんとの約束は、離婚の口実を作るというものだった。
 その二人の奥さんとの約束をうまく果せるのが、あの手口だったのさ。
 あんたが溝口社長の事件の有力な容疑者だということが世間に広まれば、世間体などから、あんたの立場が悪くなることは請け合いだ。そうなれば、奥さんはざまみろというわけだ。
 要するに、奥さんはお前に愛想が尽きたんだが、そうかといって、離婚は出来ない。それ故、お前を苦しませ、出来そこないのお前に屈辱的な思いを味わわせ、密かに愉しんでは憂さ晴らしをしてやろうとしたのさ。それ以外としても、お前に奮い立ってもらい、お前にもっと稼いでもらおうということも狙ったようだな
 で、溝口社長の奥さんの場合は、盗まれたダイヤモンドのネックレスと宝冠は、奥さんがとても大切にしていた代物さ。
 それが盗まれたとなれば、その責任は社長にあると奥さんは社長を詰り、険悪な関係となる。そして、その結果、離婚というシナリオを奥さんは描いてるのさ。無論、慰謝料をたっぷりと貰ってな。
 で、お前はこの程度の証拠じゃ、逮捕されない。それ故、俺はお前を窮地に追い詰めたわけでもない。つまり、俺は、お前にも対して迷惑をかけずに、二人の奥さんとの約束を見事に果したというわけさ。アッハッハッ!」
 と、森川は豪快に笑った。
 そんな森川に森口は、
「じゃ、道子もお前の計画を知っていたのか?」
「勿論さ。それに、お前が会社をリストラされたことも知ってるぜ」
 そう森川に言われ、森口は道子に対する怒りが改めて込み上げて来た。家では、まるで森口が会社を辞めたことをいかにも知らないかのように振る舞っていたが、それは芝居だったとは!
 そう思うと、森口の顔はみるみる内に赤くなって来た。
 そんな森口に森川は、
「まあ、そう怒るなよ。人生九十年、まだまだ先は長いぜ。
 で、まだお前に話すことがあったな。
 この高価なマンションがどうして俺のものになったかって?
 実は、そうじゃないんだ。これは賃借りしてるのさ。しかし、家賃は月、三十万だ。そんな金、俺が出せるわけがないだろ。 
 つまり、溝口社長の奥さんのお陰さ。奥さんは俺にすっかりと惚れ込んでしまい、毎週一度会ってるんだ。その手当として、このマンションに住まわせてもらってるというわけさ」
 そう森川がいかにも誇らしげに言ったので、森口は開いた口が塞がらなかった。森川は元々したたかな奴だとは思っていたが、しかし、まさかこれ程までだとは、夢にも思っていなかったからだ。
 そんな森口に、
「しかし、網の中に入った魚というのは、あんたのことを指すみたいなものかな」
 そう言った森川の表情には笑みはなかった。そんな森川の表情は、相当厳しいものであった。
 そんな森川を見て、森口も厳しい表情を浮かべては、
「それ、どういうことかな」
「つまり、俺は何もかも、本当のことを話してしまったんだ。それ故、お前をこのままにしておくことが出来ないんだ。お前が俺がやったことを警察に話されてしまえば、俺はやばいことになってしまうかもしれないからな。また、溝口社長の奥さんにも迷惑が掛かるからな。
 で、網の中に入った魚と言わざるを得ないのも、今、丁度、田中一郎君と二郎君が、ここにいるんだよ。これは正に偶然の結果なので、まあ、網の中に入った魚と表現するのが、相応しいというわけさ」
 そう言ったかと思うと、何と田中一郎と二郎が姿を見せたではないか。久し振りに眼にした田中一郎と二郎であった。
 森口は田中一郎と二郎を眼にして、呆気に取られたような表情を浮かべた。森口はまさかこのような場所で、田中一郎と二郎に再会するとは思ってもみなかったのである。
「森口さん。まあ、悪く思わないでくれよな。俺がやってしまったことを警察に話されてしまえば、俺は甚だ迷惑するからな。
 俺は思ったんだよ。あのまま橘商事でサラリーマン生活を送っても、高が知れたものだとな。
 そう思っていた折に、溝口社長の奥さんと出来てしまったんだよ。若い男を渇望していた奥さんは俺にとって絶好のかもとなったというわけさ。そして、これからも奥さんから金を貢がせるつもりさ。ウッフッフッ……。
 まあ、森口には悪いが死んでもらうよ。実はここにいる田中一郎君と二郎君は他人を殺すことを屁とも思っていないのさ。何しろ、東南アジアで人殺しの経験があるそうだからな」
 そう森川が言うと、田中一郎と二郎がじわじわと森口に近付いて来た。そんな田中一郎と二郎は、以前、森口に接した時とは別人のようであった。
 だが、この時、
「森川、そして、田中一郎、二郎を殺人未遂の疑いで逮捕する!」
 という戸田の声が聞こえたかと思うと、戸田をはじめとする総勢七人の私服姿の刑事たちが、その場に姿を現したかと思うと、さっと森川と田中一郎、二郎に手錠を掛けたのであった。

  

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