3 四百メートルベンチ
長い! とにかく、長い!
それは、帯広緑ヶ丘公園にある四百メートルベンチだ。その長さはギネスブックにも登録された位なのだ。
正にその光景は一見の価値ありだ。そして、その長いベンチに誰も腰を下ろしてる人がいないというのも、また、見応えがあった。
それはともかく、尾崎正次(73)は、いつも通り、朝の六時に起床しては、緑ヶ丘公園の四百メートルベンチの端までジョギングするのを日課としていた。正次は七十の半ばという年齢といえども、健康状態は良好だった。その要因一つが、毎朝のジョギングだと正次は思っていた。それ故、毎朝のジョギングは、正次にとって欠かすことが出来なかった。
そして、今朝もいつも通り、緑ヶ丘公園にやって来ては、四百メートルベンチに沿って走り始めたのだが、そんな正次の表情は徐々に怪訝そうなものへと変貌して行った。何故なら、妙な光景を眼に留めたからだ。
妙な光景とは、四百メートルベンチの中頃に、男性がうつ伏せになって寝転がっていたからだ。そして、四百メートルベンチに沿ってジョギングをするようになって一年になる正次は、今までこのような光景は眼にしたことがなかった。それで、正次は怪訝そうな表情を浮かべたのだ。
そして、そんな正次がまず最初に思ったのは、〈浮浪者か〉であった。
即ち、浮浪者が四百メートルベンチの上で寝転がってるのではないかと思ったのだ。
だが、その男性に近付くにつれて、その思いは徐々に小さくなって行った。何故なら、その男性が身に付けている服装は、浮浪者のものとは思えなかったからだ。
浮浪者が身に付けてる服装というのは、襤褸着であり、その身に付けている服装で浮浪者なのかどうか、誰でも識別出来るものだ。だが、その男性が身に付けていた服装は、とても浮浪者の服装といえるものではなく、ごく普通の人の服装、即ち、紺色の長袖の上着と、灰色のスラックス姿だったからだ。その服装は、とても浮浪者のものには見えなかったのだ。
それで、その男性の傍らまでやって来た正次は、その男性にしげしげと眼をやった。
すると、正次の表情は、一層険しくなった。何故なら、その男性は何となく生きてるようには見えなかったからだ。
それで、更に入念に男性のことを見ようとした正次は、突如、
「わっ!」
と、小さな叫び声を上げた。何故なら、男性の首に鬱血痕が見られたからだ。それは、まるでロープのようなもので首を絞められたかのようであった。
しかし、まだ死んでると確認したわけではない。
それで、とにかく男性に触れてみた。
すると、正次は、再び、
「わっ!」
という小さな叫び声を上げ、男性から手を離し、後退りした。何故なら、男性の手はとても冷たく、とても生きてるようには思えなかったからだ。
それで、携帯電話で直ちに110番通報したのであった。
正次からの通報を受け、帯広署の永山巡査(24)が直ちに現場に駆け付けた。
そして、四百メートルベンチの上に横たわっていた男性の死を、程なく確認した。男性は正次が思ったように、やはり死んでいたのだ。
そして、首に鬱血痕があったことから、男性の死は殺しによってもたらされた可能性が考えられた。
それで、男性の死体は、直ちに帯広市内のM病院に運ばれては、司法解剖が行なわれた。
そして、その結果は、予想通りであった。男性は何者かに首を絞められた為に死に至ったということが、司法解剖の結果、明らかになったのだ。
即ち、殺人事件が発生したのである!
それで、まず、男性の身元確認捜査が行なわれることになった。男性は、身元を確認出来るものを何ら所持してなかったからだ。
しかし、男性の身元は近い内に明らかになると、男性の事件を担当することになった北海道警の鬼頭博敏警部(48)は予想していた。というのは、男性の服装からして、男性は観光客ではなく、辺りに居住してる住人のような印象を抱いたからだ。それなら、男性に関する情報は、間もなく入るのではないかと思ったのだ。
そして、その鬼頭の予感は当たった。
その男性は、夫の孝太郎ではないかという問い合わせが警察に入り、その婦人、高垣早苗(35)がその男性の死体が安置されている帯広の病院にやって来てはその男性の遺体に対面し、その結果、男性の身元が明らかになったという次第だ。
男性の姓名は、高垣孝太郎(40)で、帯広市内の運送会社に勤務していた。その高垣孝太郎の遺体が、緑ヶ丘公園の四百メートルベンチの上で発見されたのだ。
それで、鬼頭はまず妻の早苗に、高垣の遺体が緑ヶ丘公園で発見された経緯を改めて説明し、いかにも深刻な表情を浮かべては、
「ご主人は何者かに殺されたのですよ」
その事実は既に報道されていたので、早苗は無論、それを知っていたのだが、改めて警察からその事実を説明されると、早苗はいかにも深刻な表情を浮かべた。早苗は、何故夫の孝太郎が何者かに殺されたのか、その事実がてんで分からなかったからだ。
それで、早苗はその思いを話した。
すると、鬼頭はいかにも神妙な表情を浮かべては、
「まるで心当たりありませんかね?」
と、早苗の顔をまじまじと見やっては言った。
「そうなんですよ」
と、早苗は再びいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「ご主人は今、どういったお仕事をされていたのですかね?」
鬼頭は興味有りげに言った。
「今は運送会社で仕事をしています。もっとも、正社員ではないのですが」
と、早苗は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「そうですか」
と、鬼頭は渋面顔で言った。
運送会社でアルバイトとなら、仕事上で殺されなければならないような動機というものは発生しそうもないという予感がしたからだ。私生活でも、仕事上でも、殺されなければならないような動機が存在してない。となると、事件は解決しないではないか!
そう鬼頭は思ったものの、まだ捜査は出発点を後にしたばかりだ。それ故、今後の捜査で色々と闇に埋もれていた事実が明るみになるかもしれない。そう思った鬼頭は、
「で、ご主人の死亡推定時刻は、昨夜の午後九時から十時の間なんですが、その頃、ご主人は何処で何をしていたのでしょうかね?」
と、興味有りげに言った。
「主人は昨夜は午後八時頃に家を後にしました。外出するよとは言いましたけどね」
と、早苗はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「何処に行くと言ったのですかね? また、誰かに会うと言ってなかったですかね?」
鬼頭は眼を大きく見開いては言った。
「それが、そのようなことは、てんで話さなかったのですよ。私はまさかこのような事態が発生するなんてことは、てんで思ってませんでしたから、その点に関して主人に何も訊きませんでした」
と言っては、早苗は項垂れた。
「そうですか……」
と、鬼頭は些か落胆したように言った。それに関する情報があれば、高垣の事件の捜査は一歩前進する筈なのに、そうにはならなかったからだ。
「ということは、奥さんはご主人の死に関してまるで心当たりないというわけですね?」
「正にそうなんですよ」
と、早苗はいかにも深刻な表情を浮かべては言った。
それで、鬼頭は、今度は高垣がアルバイトとして働いていたという運送会社で聞き込みを行なってみることにした。
すると、興味ある情報を入手した。その情報を鬼頭にもたらしたのは、高垣と共に運送会社でアルバイトをやっていた岡本治(33)という男性であった。
「僕は高垣さんを誰が殺したのかに関しては心当りはないのですが、全く何も思わないわけではないのですよ」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
「それは、どんなものですかね?」
鬼頭は興味有りげな表情を浮かべては言った。
「高垣さんは海や山でキャンプをするという趣味があったそうで。で、この前もかなやま湖でキャンプをしたそうですが、その時に不可解な事故が発生したそうなんですよ」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
鬼頭はといえば、不可解な事故という言葉を耳にして、眼を大きく見開き、輝かせた。その不可解な事故は、高垣の事件に関係あると察知したからだ。
それで、鬼頭は眼を大きく見開いたまま、
「詳しく話してもらえますかね」
そう鬼頭は言ったものの、岡本は神妙な表情を浮かべたまま、
「しかし、妙なんですよ」
「妙? それ、どういうことなんですかね?」
と、鬼頭は再びいかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
「確か七月三日だったと記憶してるのですが、その日に高垣さんは僕にかなやま湖にキャンプに行かないかと僕を誘っていたのですよ。で、僕も最初は行く予定だったのですが、急に都合が悪くなりましてね。それで、行けなかったのですよ。それで、高垣さんは一人で行った筈なんですよ」
と、いかにも神妙な表情で言った。
しかし、それだけでは妙とは思えなかったので、鬼頭は、
「でも、どうしてそれが妙なんですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「それは、鬼頭さんが七月五日に会社にやって来た時に、僕はかなやま湖のことを『どうだった?』という具合に訊いたのですよ。すると、高垣さんは、
『実は行かなかったんだ』と言ったのですよ。
でも、それは嘘だとぴんと来ましたね。何故なら、四日の午後七時頃に僕が高垣さんに用があったので、高垣さん宅に電話したのですが、すると奥さんはまだ外出先から帰って来てませんと言いましたからね」
と、岡本はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。そんな岡本は、確かにそう言った高垣の返答は妙だと言わんばかりであった。
そう思ったのは、岡本だけではなかった。鬼頭もそう思ったので、
「僕もそう思いますね」
と、岡本に相槌を打つかのように言った。
すると、岡本は小さく肯き、
「そうですよね。しかし、僕はその時はそれ以上、特にそれに関して思うことはなかったのですが、今、思うと、そのことが高垣さんの事件に関係してるのではないかと、ぴんと来たというわけですよ」
といっては、岡本は小さく肯いた。
そう岡本に言われなくても、鬼頭もそう思った。
そして、岡本が言ったかなやま湖の不可解な事故というものが、どのようなものだったのかを思い出してみた。しかし、それを思い出すことが出来なかった。
それで、それを岡本に確認してみた。
すると、岡本は、
「高垣さんがキャンプしていた日に、帯広に住んでいた中学の教員が水死したというものですよ。事件性は無いと新聞には出ていましたがね。しかし、中学の教員がかなやま湖キャンプ場で水死しますかね」
と、些か納得が出来ないように言った。
「そりゃ、酒に酔って前後不覚なんかになっていたら、そのようなことも有り得るかもしれませんね」
と、鬼頭は眉を顰めては言った。
「そりゃ、そうです。でも、その後の高垣さんの返答が妙だと言うのですよ。
つまり、先程も言ったように、僕は七月四日の午後七時頃に高垣さん宅に電話をしたのですよ。すると、その時に、奥さんはまだ外出先から帰っていないと言ったのですよ。もっとも、かなやま湖からまだ帰っていないとまでは言いませんでしたし、また、僕も訊きませんでした。しかし、かなやま湖以外に何処に行ったと言うのでしょうか? 高垣さんは元々その日はかなやま湖に行くと僕に言っていたのですからね。
で、七月五日に高垣さんが会社にやって来た時に、高垣さんは三日から四日にかけて、かなやま湖にキャンプには行かなかったと言ったのですよ。僕はその言葉は意外だったのですが、別段に重要なことではなかったので、それ以上のことは訊かなかったのですが、高垣さんが何者かに殺された今、その件が関係してるのではないかとピンと来たのですよ」
と、岡本は眼を大きく見開き、いかにも力強い口調で言った。そんな岡本は、正に今の岡本の推理は、真相を述べていると言わんばかりであった。
そして、鬼頭もその岡本の推理は、十分に現実味のある推理だと思った。
それで、七月三日にかなやま湖キャンプ場で発生した事故がどのようなものなのかということを調べてみることにした。