第一章 出会い
1
「恋人岬か。洒落た名前だな」
星野博一は、唇を少し歪めて笑った。
博一は、手摺をしっかりと?み、眼下を見やった。すると、荒波が断崖に砕け散り、白く泡立っていた。
博一は、ショルダーバッグから白い封筒を取り出した。
「こんなもの、要らないや」
博一は封筒の中から便箋を取り出し、ひきちぎった。そして、眼下の海に放った。それは、紙吹雪となり、眼下の海へと吸い込まれて行った。
それは、遺書だった。博一は、死を決意していたのだ。
海を見ていると、海の広大さに比べて、人間の命なんて、何とちっぽけなことか。博一の命なんて、この大自然に比べると、何ら値打ちのあるものではない。そう思うと、遺書など遺しても、意味がないと思ったのだ。
博一は、ホテルの一室で、薬を飲んで死ぬつもりだった。どうすれば楽に死ねるか、博一は研究していた。〈完全自殺マニュアル〉という本を読んで、研究していたのだ。そして、確実に死ねる薬を運よく手にすることが出来たのだ。
後は、ホテルに行き、その薬を飲むだけだ。明日の午前中には、博一の亡き骸をホテルの従業員が発見してくれるだろう。
恋人岬か……。そのような名前の岬があることを、博一は知っていた。
岬にあるラブコールベルを三回鳴らすと、愛が実るだって? 恋人宣言証明書を発行するだって? ふん! 冗談じゃないぜ! 俺は今、死のうとしてるんだ!
本当は、博一は河野美幸と二人で恋人岬を訪れる筈だった。美幸に、
「今度、二人で恋人岬に行ってみないか。きっと素敵な所だよ」
博一は勇気を奮ってこの言葉を言った。博一が、どれ程気概を込めてこの言葉を言ったかは、博一以外では分からないだろう。だが、美幸は無情にも、
「アハハ……」
と、大声で笑いこけたのだ。美幸が日頃見せるような少女のような笑いは微塵も見られなかった。その笑いは、正に博一を蔑み、嘲る笑いだった。
「あなた、本気で言ってるの?」
美幸は、冷ややかな眼差しと口調で言った。
そんな美幸に、博一は言葉を返すことは出来なかった。
「私、本気であなたと付き合っていたと思うの? あなたって、本当に単純な男ね。私、そんなあなたと興味本位で付き合っていただけなのよ。ただ、それだけなのに……。あなたって男は、そんな私の気持ちが分からなかったの? あなたって男は……。もう二度とあなたとは話したくないわ」
そう言っては、美幸はさっさと喫茶店から去って行った。
博一は一人、ポカンとした表情を浮かべては、その場を動くことが出来なかった。
博一と美幸が知り合ったのは、博一が商談に訪れた某大手会社の受付嬢として座っていた美幸に、博一が話し掛けたのがきっかけだった。
そして、何度も出向く内に、自然と親しくなり、デートする間柄となってしまったのだ。
このことは、正に奇跡としか言いようがなかった。美幸のような綺麗な受付嬢が博一のような冴えない男とデートするなんて。
正に博一は有頂天だった。三回目にデートした時に、博一は勇気を奮って、「恋人岬に行ってみないか」と言ったのだ。そして、それが博一の美幸への最後の言葉となってしまったのだ。
こうなってしまうことは、博一は全く予想してなかった。博一は甘かったのかもしれない。
しかし、博一の落ち込みは尋常ではなかった。そうでなければ、薬を飲んで死のうなんて、考えはしないだろう。そんな博一は、死を決意して、恋人岬にやって来たのだ。
季節は七月の初めだった。これからは、この地方は、観光客で賑わうだろう。
生温かい風が吹いて来て、博一の顔を撫でた。博一は、海から眼を逸らし、虚ろな表情で歩き掛けたのだが……。
2
秋月弓子。年齢は、二十五歳。まだまだ若い。
しかし、弓子の人生はもう終わったみたいなものだった。いや、まだ終わっていない。しかし、明日の今頃には、終わっていることだろう。
死刑か、それとも、終身刑か。何しろ、明日の今頃には、弓子は殺人犯となってるのだから。
殺してやりたい位、憎い男。それは、まるで、小説の中の文句みたい。しかし、弓子には、その言葉を使うのにぴったりの男がいた。
本来なら、弓子は今頃、町田弓子になっていた筈だ。町田俊行という男と結婚し、人妻になってた筈なのだから。
結婚式場も決まっていた。都内のPホテルだった。招待客も決まっていた。ハネムーンも決まっていた。後は、式を挙げるだけだった。弓子は、正に幸せの絶頂にあったのだ。
町田俊行。年齢は三十歳。都内の裕福な家庭の一人息子だった。職業は医師だった。
「結婚してくれないか」
と、俊行に言われた時に、弓子の胸は躍った。
弓子と俊行が知り合ったのは、俊行の母校のS大だった。弓子はS大での事務員として働いていた。俊行は医学生として、S大で学んでいた。そして、ロマンスが生まれたのだ。
二年に及ぶ交際だった。そして、遂に、俊行は弓子にプロポーズしたのだ。
しかし、結婚式の一週間前に、俊行から電話が掛かって来た。その内容は、弓子にとって信じられないものだった。
―悪いけど、結婚の話はなかったことにしよう。
弓子は最初は冗談を言ってるのではないかと思った。しかし、俊行は何度も「すまない」を繰り返した。そして、電話はやがて、切れてしまった。
弓子は、「わんわん」と泣きじゃくった。これは、夢の中の出来事ではないかと思ってみた。
それで、結婚式場となっているPホテルに電話してみた。
すると、やはり、俊行は式場をキャンセルしていた。やはり、夢ではなかったのだ。
弓子は非情な現実に直面し、奈落の底に沈んで行ったのだった。
後で分かったのだが、俊行には弓子以外の女が出来てしまったのだ。秋山由香里というモデルの女が。凄く美人でスタイルのよい女。女の弓子ですら、見惚れてしまう位。
その秋山由香里と俊行は、恋仲となってしまったのだ。
しかし、弓子の受けた傷は甚大なものであった。招待客に事情を説明しなければならなかった。その時の悔しさや恥ずかしさは、とても口では説明出来るものではなかった。
弓子は、寝込んでしまった。自殺しようと思った。
しかし、よく考えてみると、弓子が死ななければならない理由なんて、何処にもなかった。悪いのは、弓子を振った俊行の方だ。俊行こそ、死ぬべきなのだ。俊行の代わりに弓子が死ぬことはない。
そこで、弓子は俊行を殺そうと思ったのだ。
恋人岬の近くには、俊行の別荘があった。弓子は一度だけ、俊行に連れて来てもらったことがあった。
弓子は俊行に肩を抱かれながら、恋人岬から涼む夕陽を眺めていたものだ。そして、その夜、俊行の別荘で、弓子は俊行に初めて抱かれたのだ。
それ故、恋人岬は弓子にとって、思い出の場所なのだ。
それなのに、今夜、俊行は秋山由香里を連れて、恋人岬の別荘に来ることになってるのだ。
きっと弓子に対して行なったように、肩を抱いたりして、「素敵だね、夕陽が沈むのは」と、言ったりするのではないのか?
しかし、俊行はそれが最後の気障な言葉となるだろう。何故なら、俊行は今夜、弓子の手によって、殺されるのだから。
弓子は偶然、俊行が今夜、恋人岬近くの別荘にやって来る情報を耳にした。それで、迷わず、恋人岬に向かったのだ。久し振りだ。恋人岬に来るのも。
俊行の別荘の鍵を弓子は持っていた。「君の好きな時に使っていいよ」と、俊行は弓子に鍵を渡したのだ。
恋人岬はあの時と少しも変わっていなかった。俊行が弓子の肩を抱いたあの時と!
弓子はあの時以来、恋人岬には来たことはなかった。何しろ、俊行との思い出の大切な場所なのだから。
それが、こんな目的の為にやって来るとは、思ってもみなかった。全く、運命とは皮肉なものだ。
弓子は恋人岬の前に拡がる大海原を眺めては、そろそろ戻ろうと思った。
だが、横を見ると、弓子と同じように、じっと海を見入り続けてる男がいた。年齢は三十の半ば位であろうか。
何か恋人岬に思い出でもあるのだろうか? 何だか、弓子よりも前にいたような気がするのだが……。
弓子が海を眺めていた時間が三十分位だった。するとこの男はそれ以上、海を見入り続けていたことになる。一体、何者なのだろうか? この男は……。
弓子はふとこの男に興味を感じたのだ。
3
博一は覚束ない足取りで歩いていた。
しかし、それは、死が怖いのではない。立ったまま、ずっと海を見入り続けていたからだ。それで、足の筋肉がピンと張ってしまい、歩きにくくなってしまったのだ。
ベンチはあった。
しかし、子供連れの夫婦が、荷物置き場に使っていたので、座れなかった。
ここは、恋人岬だぜ! 子供連れの夫婦が来る場所ではないんだ! まあ、夫婦といっても、元は恋人であっただろうが。まあ、そんなことは、どうでもいいや!
それはともかく、四十分も立ったまま、海を見入り続けていれば、腹も空くというものだろう。
それで、博一は近くのレストランに入った。それは、二時少し前であった。さて、何を食べようか?
窓際のテーブルに座ると、店員が注文を訊きに来たので、ハンバーガーライスを注文した。
窓越しに外に眼をやると、若いカップルが恋人岬に向かって歩いて行くところだった。
〈幸せな奴等だ〉
博一は溜息をついた。
今頃、俺だって……。
しかし、深く考えないことにした。何しろ、腹は既に決まってるのだから。
弓子は男の後を尾け、レストランに入ると、男の横のテーブルに座った。それは、計画的なものであった。
弓子のテーブルの横には、弓子の関心を引いた素性の知らない男がいた。正に、弓子にとって、得体の知らない男だ。
弓子はその男の顔をじっくりと観察していた。男は、そんな弓子の視線に気付くこともなく、頬杖をつきながら、外に視線を向けていた。
弓子はアイスコーヒーを注文した。
やがて、博一にハンバーガーライスが運ばれて来た。それで、博一はがつがつと食べ始めた。
〈この男、何とお行儀の悪い食べ方をするのだろう〉
弓子は、そう思った。というのも、男はまるで犬のように、がつがつとライスを口の中に掻き込むからだ。弓子の知っている俊行とは、大違いだ。俊行は、上品に食事をしたものだった。しかし、そのことが、却って弓子に新鮮さをもたらした。
博一はといえば、空腹だったから、やたらにハンバーガーとライスを食べまくっていた。そして、ふと、顔を上げたのだが……。
博一は、横のテーブルのその女の視線に気付いた。実のところ、もう少し前に女の視線には気付いていたのだが、何しろ、腹が減っていたものだから、その視線は気にはしてなかったのだが、空腹が満たされたので、その視線を気にする余裕が出てしまったのだ。
〈何だ、あの女は!〉
さっきから、博一のことをじっと見入り続けてるのだ。
〈俺の顔に何か付いてるとでもいうのか? それとも、面白い顔をしてるとでもいうのか! 冗談じゃないぜ! 俺は他人の注目を集めるような存在じゃないんだ!
それとも、あんたは俺が死のうとしてることを知ってるとでもいうのか。
しかし、そんなことは有る筈が無い! 俺はそれを誰にも話したことはないのだから!
だったら、何故博一のことをじっと見るんだ?〉
それで、今度は博一が女のことをじっと見詰めてやった。
すると、どうだ。先程の腹立たしい思いもすぐに消え失せてしまった。それは、その女が比較的美人に見えたからだ。それに年齢も若い。まんざら、悪い女でもなかったのだ。
弓子はといえば、博一と視線が合ってしまった。
それで、慌てて博一から視線を逸らせたのだが、すぐに気を取り直し、そして、すぐに行動に移った。
どうして、このような行動を取ったのだろうか? 弓子は後でこの時のことを思い出しても、信じられない位だった。
何と、弓子はさっと席を立ち、博一が座ってるテーブルへと席を移動させたのだ。
「ここの席、空いてますか?」
弓子は言った。
「空いてますが」
博一は言った。眼をぱちくりさせながら。
「お一人で来られたのですか?」
「そうですが」
「そうですか。私もそうなんですよ」
「車でですか?」
「そうですわ」
「僕はタクシーで来ました」
「結構掛かったのではないですか?」
「一万円程掛かりましたかね」
博一は恋人岬近くのホテルで死ぬつもりであった。だから、タクシーでやって来たのだ。
それに対して、弓子は俊行を殺してから、素早く逃亡しなければならなかった。その為には足が必要だった。それ故、マイカーで来たのだ。
「いい所ですね。恋人岬って」
「そうですね」
博一は適当に相槌を打った。
「それに、名前がとってもロマンチックですね」
弓子は感慨深そうに言った。
「きっと、恋人同士でやってくれば、お似合いの場所ですよ」
博一も感慨深そうに言った。
「でも、あなたは一人で来たのですよね」
弓子は口を尖らせては言った。
「それはそうですが……。しかし、あなたこそ、どうして一人でやって来たのですか?」
博一は言い返した。
「どうしてって、それは……」
弓子は黙ってしまった。どうして一人でやって来たかって? その理由を言えるわけがない。
しかし、それは博一とて、同じことだ。
博一はこの時、いい加減に馬鹿馬鹿しくなった。一体何故この見知らぬ女の相手をしなければならないんだ?
博一は席を立ち、レジでお金を払うと、レストランの外に出た。すると、弓子はすかさず博一の後を追った。そして、
「あなた、これからどうなさるつもり?」
「どうなさるつもりって、そりゃ、ホテルに戻るだけですよ」
「そう。で、何というホテルなの?」
「エレガンスホテルですよ」
エレガンスホテルとは、恋人岬から少し離れた高級ホテルだ。博一は、要するに恰好をつけたのだ。全く、死を決意していたというのに、つまらないところで、恰好をつけたのだ。
実のところ、博一が予約していたのは、一泊六千円の小さなホテルだった。正に、博一が死ぬのには、お似合いのホテルだったのだ。
博一は、学生の時も、社会人になってからも、目立たない存在だった。だから、死ぬ時も、静かで簡素なホテルで死のうと思ったのだ。これは、博一が考え出した美談だったのだ。
大きなホテルで死んだとなれば、従業員とか宿泊客の数からいって、大きな騒ぎとなるだろう。しかし、小さなホテルなら、そうはならないと博一は思ったのだ。ただ、それだけのことなのだ。
それはともかく、博一は今、心が揺れるのを感じていた。何処に住んでいる何という名前なのか知らないが、何となくフィーリングが合いそうな女だったからだ。しかも、容姿も博一好み。〈悪くないぜ! この女〉と、博一は思ってしまったのだ。
「エレガンスホテル? 遠いじゃないの。どうやって行くつもりなの?」
と、弓子は眉を顰めた。
〈あっ! そうだった! どうしよう……〉
博一は些か狼狽してしまった。しかし、すぐに冷静になり、
「タクシーで行きますよ」
「タクシー? まさか……。ここは、マイカーで来る観光地よ。客待ちタクシーなんて、あっさりと見付からないわよ」
そう弓子に言われ、博一は、
「そりゃ困ったな」
と、いかにも困ったと言わんばかりの表情を浮かべた。確かに、博一は弓子の指摘を受けて、返答に困ってしまったのだ。
そんな博一を見て、弓子は薄らと笑みを浮かべては、
「じゃ、私がエレガンスホテルまで送ってあげるわ」
「いいのかい?」
「遠慮しないで」
弓子の車は、1300CCのコンパクトカーで、色はレッドであった。
それはともかく、博一を弓子の車の助手席に乗せては、車は恋人岬を出発した。
そして、車は海沿いの道を軽快に走っていた。
弓子は今、俊行を殺そうとしていたことを忘れていた。博一は毒薬を飲もうとしていたことを忘れていた。博一の心も弓子の心も甘美なものに包まれていたのだ。
しかし、車は程なくエレガンスホテルに着いてしまった。エレガンスホテルは恋人岬からさほど離れてなかったからだ。
車をホテルの駐車場に停めると、弓子はさっさとホテルのフロントに向かい始めた。
そんな弓子を見て、博一は焦った。しかし、それは、当然だろう。博一はエレガンスホテルを予約してなかったからだ。
ホテルの駐車場に着いた時に、博一は、
「ありがとう。ここまででいいから」
と、弓子に言った。ところが、弓子は、
「私もこのホテルに泊まろうかしら」
と言ったのだ。
しかし、それは、まずいというものだ。そんなことをされてしまえば、博一の嘘がばれてしまうからだ。
しかし、弓子が早足でホテルのフロントに向かってるので、博一はそんな弓子の後を追わないわけにはいかなかった。
そして、やがてフロントにまで来てしまった。
それで、博一は、堪らず、
「あの……。トイレに行って来るよ」
と、苦し紛れに言った。
そして、博一は用を足し、フロントに戻って来ると、弓子はフロントマンと会話をしてるところだったが、すぐにその会話も終え、博一の許に戻って来ると、
「私、部屋を確保したわ。三階の304号室よ。で、あなたの部屋は何号室?」
それで、博一は、
「まだ、チェックインしてないんだよ」
と、些か顔を赤らめては言った。
「そう。だったら、分かれば、私に言ってね」
「そりゃ、いいけど……。でも、何故?」
「いいじゃない。教えてくれたって」
と、弓子は軽く笑った。
そう言われてしまうと、博一は、
「分かった」
と言うしかなかった。
そう博一に言われると、弓子は、
「私、用を足してくるわ」
と言っては、博一の前から姿を消した。
博一はそれがチャンスとばかりに、フロントに行っては、
「部屋は空いてますか?」
と、訊いた。
すると、フロントマンは申し訳なさそうな表情を浮かべては、
「先程、全部予約が入ってしまいまして」
そう言われて、博一は狼狽したような表情を浮かべたが、しかし、
「そうですか」
と言うしかなかった。
さて、困った。博一は弓子に何と言えばいいのやら……。
やがて、弓子が戻って来た。そして、
「何号室でした?」
と、何故か真顔で訊いた。
「それが、何か手違いがあって、キャンセルされてしまったみたいなんだよ」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「キャンセル?」
弓子は眉を顰めた。
「ああ。困ったもんだ」
と、博一はいかにも困ったと言わんばかりに言った。
「そう。それは、可哀相ね。じゃ、私の部屋に泊まりなさいよ。私は構わないから」
「でも、いいのかい?」
「いいわよ。どうせ、部屋はツインなんだから。でも、断っておくけど、変なこと、しないでね」
「そりゃ、勿論ですよ」
「そう。それで、安心した」
博一と弓子は、エレベーターで三階まで行き、304号室に向かった。
部屋に入ると、
「まあ! 素敵な部屋!」
と、弓子は歓声を上げた。窓からは海を見渡せ、確かにいい眺めだ。
博一もそうは思ったのだが……。
しかし、それと共に、弓子のことを訝しくも思った。見知らぬ男をこうあっさりと部屋に入れていいものだろうか。
もっとも、その点に関して弓子に言わせれば、弓子は人を殺そうとしてたのだ。それに比べれば、見知らぬ男を部屋に入れる位、何でもないさと言うことであろう。そして、弓子はこの男と出会ったことによって、俊行への殺意が徐々に消えて行くのを感じたのであった。
一方、博一の方も、自らの手で命を落とそうと考えていたことが、何と愚かなことかと気付き始めていた。この見知らぬ女との出会いが、そのように博一を変容させてしまったのだ。
「ねぇ。大切なことを聞いてなかったのよ」
と、弓子は神妙な表情を浮かべては言った。
「何だい? 大切なことって?」
と、博一は真顔で言った。
「あなたの名前よ」
「俺の名前? 俺は、星野博一っていうんだ。で、君は?」
「私は、秋月弓子よ」
「秋月弓子か。何だか、芸能人の名前みたいだな」
すると、弓子は薄らと笑みを浮かべては、
「時々そう言われるわ。でも、星野博一っていう名前もそんな感じだよ」
「そうかな」
そう言うと、博一も薄らと笑みを浮かべた。そして、二人は眼を見詰め合っては、クスクスと笑った。それは、まるで恋人同士の笑いであるかのようであった。
そして、この時、博一は自らの手によって死ぬことを断念しようと思った。また、弓子は俊行を殺すことを断念しようと思った。
弓子はテーブルの上に置いてあったエレガンスホテルのパンフレットを眼にしては、
「このホテルには、プールがあるのよ」
「そうかい」
「そうよ。だから、一泳ぎしない?」
「泳ぐって、水着、持ってないんだ」
と、博一は決まり悪そうに言った。
「水着位、レンタルがあるわよ。さあ、行きましょう」
「でも、プールって、屋外かい? それとも、屋内かい?」
「屋内よ。これを見てよ!」
と、弓子はエレガンスホテルのパンフレットのプールが載ってるところを指で示した。
それを見て、博一もエレガンスホテルにプールがあることが分かった。
そして、この時点で、二人は早速、地下一階にあるというプールに向かったのだった。
そして、更衣室で水着に着替えると、プールサイドに向かった。
すると、誰も人がいなかった。しかし、それは、当然かもしれない。何しろ、今日はウイークディなのだから、昼間から、高級ホテルのプールで泳いでいる結構な身分な人は、そういるわけではないというわけだ。博一とて、本来なら、会社で仕事に励んでる時間なのだから。
実のところ、博一は今日は無断欠勤しているのだ。それ故、会社から博一のアパートに電話が掛かって来てるかもしれない。しかし、誰も出ることはないだろう。何しろ、博一は一人暮しなのだから。
しかし、人生とは、全く妙なものだ。本来なら、博一は今頃、某ホテルの一室で、自らの生涯を振り返ってるのではないだろうか? 死を前にした人間は、自らの幼少時からのことを思い出すという。博一もきっと、そうだったのではないだろうか?
しかし、そうではなく、今、何と高級ホテルのプールにいるのだ。少し前に知り合ったばかりの女と。つまり、人生とは、何と不思議なものかということだ。
そう思ってると、やがて、弓子が姿を見せた。そんな弓子は、赤のセパレートの水着だった。
「ごめんね。待たせてしまって。水着が小さかったから、替えてもらったのよ」
「そうだったのか。で、君は泳げるのかい?」
「泳げるよ。子供の頃から、水泳は得意だったんだ」
「なるほど。僕も得意だよ」
「そう。じゃ、25メートル、どちらが早く泳ぐか、競争しましょうか」
「よし。そうしよう」
ということになり、二人は、誰もいない25メートルプールでどちらが早く泳げるかの競争となった。
博一の合図と共に二人はクロールで泳ぎ出した。
そして、博一は無我夢中で泳ぎ始めたのだが、弓子はそんな博一に構わず、どんどんと博一を引き離して行く。どうやら、二人の力量はかなり弓子の方が勝っていたらしい。
博一は弓子に五メートル以上、差をつけられて、やっと、25メートルを泳ぎ終えた。
そんな博一を見て、弓子はにやにやしてる。
博一はそんな弓子に参ったと言わんばかりの様を浮かべては、
「随分と早いんだな」
と言っては、眼を大きく見開いた。
「中学の時に、水泳部に入ってたのよ」
「なるほど。それで、そんなに早いのか」
と、博一は些か納得したように言った。
そして、息を少し切らしながら、プールサイドにあるデッキチェアに向かった。博一は、少し休憩したかったのだ。
デッキチェアに崩れるように寝転がった博一を見て、弓子は、
「もうお休みなの?」
「仕方ないよ。久し振りに泳いだんだから」
「そう。じゃ、私、もう一泳ぎして来るね」
「お好きなように」
弓子は再びプールに向かった。
そんな弓子の心は、弾んでいた。今朝、弓子のマンションを後にした時の殺気立った気分は、まるで嘘のようであった。
俊行を殺す。それは、もう弓子の心の中で、決まっていたことであった。それが、こんなに簡単に崩れてしまうとは、予想してなかったことだった。しかし、それは、弓子にとって、快感をもたらしたのであった。
そして、弓子は今までどうかしてたんだということに気付き始めた。そう思う程、余裕が出て来たのだ。
そりゃ、俊行から破談を告げられた時のショックは、甚大なものであった。それは、俊行を殺そうと決意したことからも、充分に察せられるだろう。
だが、そのショックが癒えて来た今、俊行を殺さなくてよかったと思った。そんな弓子は、博一と出会えたことを感謝したのであった。
プールから部屋に戻ると、五時を過ぎていた。
博一はといえば、かなりぐったりしていた。何しろ、プールで泳いだのは、十年振り位だったからだ。
それで、二人ともベッドに腰を降ろしては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、弓子が、
「夕食は、洋食がいい? それとも、和食がいい?」
「洋食がいいよ」
その博一の言葉で、洋食と決まった。
そして、少ししてから、二階にある洋食レストラン「ピエロ」に向かった。
夕食を食べ終え、空腹が満たされて来ると、二人の脳裏には、それぞれ、思いが込み上げて来た。
まず、博一。
〈死ななくてよかった。生きていれば、愉しいことなんて、いくらでもあるんだ。何故、死のうとしたのだろうか? 全くどうかしてたよ〉
次いで、弓子。
〈俊行を殺さなくてよかった。あんな男の所為で一生を台無しにするなんて、全く馬鹿げたことだった。
完全犯罪を成し遂げる自信はあった。しかし、良心の呵責が襲って来るかもしれない。そんなのと、闘わなければならないなんて、全くごめんだわ〉
二人は、やがて、部屋に戻った。
食欲が満たされると、今度は睡魔が襲って来た。博一は〈もう我慢出来ない〉と思うと、ベッドに服を着たまま寝転がってしまい、眠りに落ちてしまったのだ。
弓子はといえば、空腹が満たされたといえども、眠くはなかった。
それで、バスルームでシャワーを浴び、身体を綺麗にした。そして、バスローブに身を包むと、博一が眠ってるベッドの傍らにまで来た。
博一は鼾を掻いては、眠りの最中にあった。
そんな博一を見て、弓子は微笑み、そして、何と博一のベッドに横たわり、博一の傍らに寄り添ったのであった。
そう! 弓子は、この星野博一という男に、人生の再起を掛けたのだ! 今日、初めて出会った星野博一という男に!
そう思ったのだが、弓子はいつの間にやら眠くなってしまい、博一と同様、眠りに落ちてしまったのだ。
4
一方、博一はといえば、やがて、眼が覚めてしまった。今、何時だろうと思ったことには思っただが、それよりも、一体ここは何処なのかという思いに対して、思考を巡らすのが先であった。何故なら、いつものと布団の感触が違っていたからだ。それに、博一の古びたアパートでもないようだ。一体、ここは何処なのか?
博一は思考を巡らせたのだが、程なく思い出した。自殺を決意して恋人岬に行ったものの、秋月弓子とかいう女性と知り合いになってしまい、その秋月弓子と共に、エレガンスホテルにやって来たのだ。そのことを思い出したのだ。
そう理解した博一は、起き上がろうとしたのだが、その時、手を伸ばした。すると、〈はっ!〉と、悲鳴を上げそうになった。何故なら、隣に誰かかがいるようだったからだ。
それで、枕元にあった室内等のスイッチを押し、室内を少し明るくした。
すると、思わず!「あっ!」という悲鳴を上げそうになった。何故なら、博一のベッドに何と弓子が寝ていたからだ。ベッドは二つあるにもかかわらずである。
その事態を目の当たりにして、博一は心臓が激しく高鳴るのを感じた。
しかし、弓子が眠ってるのをチャンスとばかりに、乳房が剥き出しになってる弓子の乳房に博一は軽く触れてみた。それはマシュマロのように弾力があった。それは、弓子の若さが伝わって来るかのようであった。
博一は弓子の乳房にそっと自らの唇をもって行った。すると、弓子は微かに喘ぎ声を発したような気がした。しかし、それは、空耳であろう。何しろ、弓子は今、眠ってる筈なのだから。
博一はもう、弓子の唇を吸うのに夢中であった。そして、この時間が永遠に続けばいいのにと思った位だった。博一は今や、甘美なさざ波に包まれていたのだ。
人間というものは敏感なもので、博一が目覚め、上体を起こした時に、弓子も目覚めたのだ。しかし、弓子は眠った振りを装ったのだ。
すると、博一は弓子の乳房に触れた後、弓子の乳房を弄び、そして、唇を押しつけて来た。その結果、弓子に快感が走った。そして、思わず喘ぎ声を漏らしてしまったのだ。
しかし、眠ってる振りを貫こうと思った。それで、声を上げるのを堪えたのだ。
弓子は久し振りに男に身体を触れられた。恋人岬の俊行の別荘で、俊行に抱かれて以来だった。
弓子は博一に身体を揉まれながら、俊行のことを早く忘れてしまおうと思った。博一から受ける愛憮の激しさは、まるで弓子から俊行のことを忘れさせようとしてるかのように、激しさを増したのであった。
4
「お目覚め」
「ああ」
そう言うと、博一はベッドから上半身を起こした。
窓からは、朝の陽光が降り注いでいた。
「久振りに気持ち良く眠ったよ」
そんな博一に、
「見て! 海が宝石のようよ!」
そう弓子に言われ、博一は、窓越しに大海原を見やった。それは、確かに宝石のように、キラキラと輝いていた。
博一はそんな大海原を見て、ふと現実を思い出してしまった。
「今日は何曜日だったかな」
「水曜日よ」
「水曜か……」
博一は今頃、満員電車に揺られ、会社に向かってる頃だと思った。
〈さて、これからどうしよう〉
その思いが、程なく博一の脳裏に込み上げて来た。
何しろ、博一は今頃、死んでいた筈であった。それ故、今日という日は、存在してない筈であったのだ。ところが、今日という日を迎えてしまったのだ。それ故、空気が抜けた風船のように、行き場を失ってしまったかのような状況になってしまったのだ。それ故、〈これからどうしよう〉という思いが込み上げて来ても、それは不思議ではなかった。
弓子はといえば、大きく溜息をつき、朝のすがすがしさを味わった。本来なら、今日は殺人者として朝を迎える筈であった。殺人者として、迎える朝は、どんなものであろうか? 決していい気分はしない筈だ。いくら憎らしい男であったとしても、自責の念は抱いたに違いない。
弓子は改めて、俊行を殺さなくてよかったと思った。だからこんなにすがすがしい朝を迎えられるのだ。そう思うと、〈さて、これからどうしよう〉という思いが込み上げて来た。
それで、
「星野さんは今日予定はあるの?」
という言葉が自ずから発せられた。
「予定? 特にないな」
博一は決まり悪そうに言った。何しろ、観光旅行を弓子に装っていたのだから、もっと予定があっていい筈なのに、実際にはなかったから、そう言うしかなかった。また、咄嗟に思いつく言葉もなかったのだ。
「星野さんは、休暇はいつまでなの?」
「休暇?」
「そう。会社勤めなんでしょ。だから、いつまで休暇なのかなと思ったのよ」
そう弓子に言われ、博一は、
「そういうことか」
と言っては、些か顔を赤らめた。
そして、表情を改めては、
「実は、今日までなんだよ」
「そう。じゃ、あまりのんびりしてられないのね。で、何処に住んでるの?」
「東京さ」
「東京? 私も東京に住んでるのよ。じゃ、一緒に帰りましょうよ」
「いいのかい?」
「構わないよ」
ということになり、朝食を一階のレストランで済ませると、その後、少し休憩をし、やがてチェックアウトし、弓子の車に乗り込んだ。
車はエレガンスホテルを後にすると、博一は、
「東京まで、どれ位掛かるんだい?」
「そうね。高速を使えば、二時間位あれば行けると思うけど」
「後、二時間か……」
博一は弓子と共に時間を過ごせるのが、後二時間だと思うと、何となくむなしく思った。昨日知り合ったばかりだというのに、何となく親近感を抱いてしまったのだ。
一方、弓子も東京に一緒に帰りましょうと言ったのは、何となく博一に親近感を感じてしまったからだ。チェックアウトした後、お別れでは、何となく寂しいと思ったのだ。
俊行殺害を阻止してくれたこの星野博一という男は、弓子にとって命の恩人みたいなものではないのか? そう思うと、大切にしなければならないと思ったのだ。
道はさ程渋滞せずに、スムーズに走ることが出来た。
東京に入ると、弓子が博一宅への道順を訊いたので、それを説明するしかなかった。
それで、やむを得なく、博一のアパ―トの前に来てしまった。
すると、博一は、
「ここなんだよ」
と、些か決まり悪そうに言った。というのも、それは、古びた軽量プレハブの二階建てのアパートだったからだ。
「ここに住んでるの?」
と、弓子は淡々とした口調で言った。
「そうなんだよ」
と、博一は再び決まり悪そうに言った。実のところ、もっと高価そうなマンションにでも住んでると言ってやりたかったのだが、弓子が部屋の中に入って来るかもしれないと思ったので、嘘はつけなかったのだ。
弓子はといえば、博一が住んでいるという「宝田荘」を見入っては、随分とみすぼらしいアパートだと思った。そして、博一の生活振りが伺えると思った。
しかし、それでも構わないと思った。そして、その博一のアパートがしばらく弓子の住まいになるのではないかという予感がした。
「じゃ、僕はこれで」
「宝田荘」を前にして、博一は言った。
実のところ、博一はこの言葉を発したくなかった。何故なら、本当は弓子と別れたくなかったのだ。このアパートで一緒に暮らしてもらえないかと思った位だったのだ。
しかし、それは、無理な注文というものであろう。若い女が、このようなアパートに住んでいる男と共に暮らしてはくれないだろう。それに、本来なら、博一は今頃、あの世に逝っていた筈なのだから。だから、それはあまりにも都合がよい注文というものであろう。
ところが、人間というものは、欲を持つものだ。たとえ、無理だと分かっていても、自らの欲望に身を委ねたいと思うものだ。それ故、博一は勇気を奮って言った。
「よかったら、僕の部屋に上がりませんか?」
弓子は迷っていた。どうやって話を切り出せばよいかを。
いくら弓子が大胆な行動を取る女といえども、博一に一緒に住んでくれませんかとは言えないだろう。
しかし、ここで博一と別れてしまえば、永久に会えないのではないかという思いがした。それで、今がチャンスだと思っていたのだ。
しかし、何と言えばよいだろうか?
その時、博一がそう言ったのだ。
それで、弓子は迷わず、
「いいですよ」
博一の部屋は、驚く程、整頓されていた。それ故、弓子は意外に思った。男の部屋というのは、もっと散らかっているのではないかと思っていたからだ。
しかし、それは、博一に言わせれば、博一は二度とこの部屋に戻って来ない筈であったから、整頓しておいて、当然なのだ。きっと、不動産屋がこの部屋を片付けに来たことであろう。乱雑な部屋を片付けるよりも、整頓されていた部屋を片付ける方が気分的にいいだろう。つまり、博一は不動産屋に気配りをしたというわけだ。
博一の部屋は六畳の和室に四畳半位のキッチン、それに、小さな風呂とトイレがついていた。
それはともかく、博一は、
「お茶でも飲むかい?」
「ありがとう。いただくわ」
そう弓子に言われたので、博一はお湯を沸かし、お茶を弓子に淹れてやった。
博一はお茶の葉を捨てないでよかったと思った。というのも、お茶の葉は腐らないからだ。全くつまらない考えだったが、その考えが今になって役に立つとは。
弓子は博一が淹れたお茶を味わった。
安物の番茶のようであったが、それが、弓子には高価に感じられた。
お茶を飲んで一息つくと、弓子は大分汗を掻いてしまった。しかし、それもそうであろう。季節は七月の初めであり、それに、このアパートは風通しが悪い。汗が出て来るというのは、当然のことであろう。
しかし、
「エアコンは無いの?」
と、弓子は周囲を見回しては言った。
「ごめんな。そんなものないんだよ。扇風機しかないんだよ」
博一は決まり悪そうに言った。
博一は贅沢は出来なかった。都内では軽量プレハブアパートといえども、家賃は決して安くはない。エアコン付きのマンションには入居するだけのお金がなかったのだ。
そう博一に言われると、弓子は疲れたような表情を浮かべては、扇風機のスイッチを点けた。しかし、エアコンのようには、快適な気分にはなれなかった。
それで、弓子は、
「シャワーを浴びたいのだけど」
「シャワー? そんな便利なものはないよ。お風呂に入るしかないんだ」
と、博一は再び決まり悪そうに言った。
「それでもいいよ」
そう弓子に言われたので、博一は湯船に水を入れ、ガス湯沸かし器を点火させた。
すると、やがて、丁度いい湯加減になった。
それで、弓子はお風呂に入ることになった。そして、弓子はお風呂場の前で服を脱ぐことになった。何しろ、狭いアパートだ。脱衣場などないのだ。
博一は昨夜、弓子の素肌に触れた。だから、弓子の裸を見るのは初めてではない。
しかし、女の裸は、何度見てもいいだろう。それ故、弓子の裸を見てやろうとしたのだが、博一はそうはしなかった。博一は、紳士を装ったのだ。
弓子はといえば、博一が弓子の裸を見るだろうと思いはしたが、何も言わななかった。何故だろうか?
弓子は昨夜、博一に肌を触れられたことは知っていた。博一は、弓子が眠っていたと思っていたのだろうが、弓子は眠ってはいなかったのだ。それ故、博一は弓子の素肌のことを知ってる筈だ。そういうこともあり、弓子は何も言わなかったのだ。
それはともかく、やがて、入浴を終えると、弓子はお風呂から顔を出しては、
「バスタオル貸してよ」
と言ったので、博一はそれをお風呂場の前にもって行った。
弓子はお風呂場から手を出しては、
「ありがとう」
と言った。
やがて、弓子は下着を付け、更にその上からバスタオルで覆うと、博一の前に来ては、
「博一さんも入ったら」
そう言われたので、博一は、
「ああ」
と言っては、今度は博一がお風呂に入ることになった。
そして、その日は、二人は近くのコンビニで買って来た弁当で夕食を済ませることにした。
そして、結局、弓子はその日は、博一のアパートに泊まることになったのだ。といっても、その夜は、博一は弓子の肌に触れることはなかったのだ。
翌朝、七時を過ぎると、弓子は博一に、
「会社に行かなくていいの?」
そう言われ、博一は一気に現実に戻ってしまったような気がした。つまり、博一は今、生きているというわけだ。
博一の計算によると、博一の死体はホテルで発見され、それと同時に博一は退職扱いになる筈であった。
ところが、博一は死ななかった。ということは、まだ退職していない。それ故、会社に行かなければならない。いつもなら、七時四十分には、このアパ―トを後にしてたのだから。
それで、博一は慌てて、昨夜コンビニで買った菓子パンを口の中に放り込み、そして、背広に着替えると、外出しようとしたが、
「ねぇ。君はこれからどうするの?」
と、弓子に訊いた。
すると、弓子は穏やかな表情を浮かべては、
「まだしばらく、ここにいるつもりよ」
「そうか。でも、外出もしたいだろ。だったら、鍵がないと不便だろ」
そう博一は言うと、スペアキーを弓子に渡した。
そして、この時点で博一は会社に向かうことになった。
そして、博一と弓子との同棲は、この時点で決まったみたいなものだった。このことは、二人は敢えて口にはしなかったのだが、もう決まったみたいなものだった。