第二章 同棲
1
博一を送り出した後、弓子は一息ついた。
これから、新しい人生が始まるのよ。
そう思った弓子の眼は、輝いていた。まるで、俊行のことを憎み続けていた日々が嘘のようであった。空を覆っていた黒雲が消え失せ、青空が広がったような清々しい気分だった。
そして、しばらく休憩した後、やがて、一旦弓子のマンションに戻ってみることにした。そして、必要最低限のものを持って来ようとしたのだ。
弓子の実家は都内にあったのだが、ワンルームマンションに一人暮らしをしていた。
そして、弓子のマンションに着くと、まず郵便受けを見てみた。すると、封筒が入っていた。
〈誰からかな〉
すると、差出人は町田俊行となっていた。
弓子は啞然とした表情を浮かべては、部屋に戻ると、早速封を開けた。
「前略
本当に済まなかった。君には、随分ひどいことをしたと思っている。しかし、どうしようもなかったんだ。そこで、君にはお詫びの気持ちとして、僅かなお金だが、受け取ってもらいたい。僕とのデートの為に、君の貴重な時間を割いてくれたお詫びの気持ちのお金だ。君の今後の幸運を願っている 」
と書かれていた。そして、五十万のお金が入っていた。
〈私への慰謝料が僅か五十万だって! 高給取りのくせに! 私が受けた痛手は五十万どころではないのよ! 馬鹿にしてるわ!〉
弓子はこんな男を殺さなくてよかったと思った。こんな男を殺したら、手を汚すだけだ!
しかし、五十万を破り捨てるわけにはいかなかったので、クロゼットの引出しに仕舞ったのであった。
それはともかく、弓子は化粧品とか衣類を少しボストンバッグに入れた。博一のアパートに持って行こうと思ったのだ。
すると、その時、ドアがノックされた。
〈誰かな〉
弓子は玄関扉まで行っては、スコープから覗いてみた。
すると、笹倉智子だった。智子は、S大の事務員の同僚だった女性だ。
弓子は迷わず、ドアを開けた。
「智子じゃないの! 中に入って」
「お邪魔します」
智子はつかつかと部屋の中に入って来た。
「弓子。久し振りね。元気にしてた?」
「ええ。とても元気よ。智子は?」
「私は元気よ」
「そう」
智子は弓子のよき理解者であった。というのも、智子も痛い恋愛経験があったからだ。
相手は、弓子の場合と同じく、S大出身の医師であった。だが、相手は、弓子の場合とは違って、智子より、二十歳も年上だったのだ。
智子は意を決して「結婚してください」と言った。その途端、彼は急に冷たくなり、智子から去って行ったのだ。
要するに、彼にとって、智子は単なる遊び相手に過ぎなかったのだ。
智子はその時以来、めっきりと落ち込んでしまっていた。弓子の失恋よりも、半年前のことである。
弓子は、S大の事務員を退職して以来、智子と顔を合わせるのは、初めてであった。そんな智子の容貌とか話し振りを見て、智子が元気そうなので一安心したのだ。もっとも、智子に言わせれば、弓子が元気なのを見て、一安心したと言うだろう。
それはともかく、智子はボストンバッグが部屋の中程に置かれていたのを眼にして、
「何処かに行くの?」
そう言われ、弓子は少し狼狽したような表情を浮かべたが、
「少し旅行にね」
「そう……。じゃ、今、時間はいいの?」
「少し位なら、構わないよ」
「実はね。たまたまこの近くに来たから、寄ってみたのよ」
「そう……。でも、智子なら、大歓迎よ」
智子が言ったことは、嘘であった。智子は、実は昨日も、弓子のこの部屋を訪れていたのだ。もっとも、仕事を終えてからだったが。
そして、今日会えたというわけだ。
「実は弓子に話したいことがあるのよ」
「話したいこと? それ、どんなこと?」
弓子は些か興味有りげに言った。
「怒らないかな」
「怒らないから、遠慮せずに話しなさいよ」
弓子は、軽く笑った。
「よし。じゃ、遠慮せずに言わさせてもらいますよ。実はね。弓子に紹介したい人がいるのよ」
「紹介したい人?」
「そう」
「誰よ。それ?」
「男だと思う? それとも、女だと思う?」
「そうね。男かな」
「当たり!」
そう言うと、智子はバッグから一枚の写真を取り出した。そして、弓子に見せた。
「誰? これ?」
その男は、弓子のまるで知らない男であった。
「畑野雄二というの。学校の先生をしてるのよ」
「何処の先生?」
「高校の先生よ。数学の教師よ」
「そう……」
確かに写真の男は黒縁の眼鏡を掛け、何となく教師という感じだった。この男が高校の教師だというのも、肯けるというものであった。
「で、この男を私に紹介したいの? また、どうして?」
弓子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「どうしてだと思う? 当ててみてよ」
「どうせ、智子のことだから、この男とお見合いでもしろと言うんじゃないの?」
「当たり! と言いたいところだけど、でも外れ。お見合いしろだなんて、そこまでは言わないよ。この人、実は私の従姉妹なの。それで、たまたま私の家に来た時に、弓子の写真を見てしまい、気に入ったみたいなの。それで、弓子に紹介してくれと言うのよ。
私は、弓子がまだ婚約解消した傷が癒えないと思うから、断ったのよ。でも、しつこく言って来るから遂に根負けしてしまって……。弓子には申し訳ないけど、言うだけは言っておこうと。弓子、余計なことをするなって、怒らないでね」
と、智子は軽く笑いながら言った。
すると、弓子は、
「怒らないよ」
と言っては、苦笑した。
「そう。よかった。で、雄二さん、弓子の好み?」
と、智子は弓子の顔を覗き込むかのようにしては言った。
「そんなこと、急に言われても……。そうね……。顔は好みでないとは言わないわ。でも、性格なんかも分からないし……。これだけでは、何とも言えないわ」
と言っては、眉を顰めた。
「それもそうね。まあ、今日は写真だけ渡しておくわ。で、今から旅行だというから、あまり長居してもいられないし……。まあ、今日はこれで帰ることにするわ」
智子が帰って行った後、弓子は改めて畑野雄二という男の写真を見てみたが、特に何とも思わなかった。
智子には悪いが、今や弓子には星野博一とかいう男がいた。それ故、畑野雄二とかいう男と会ってみる気すらしなかったのだ。
それ故、畑野雄二という男の写真を破って捨ててやろうかと思った位だったが、折角貰ったのだから、引出しに仕舞った。
やがて、弓子はボストンバッグを車に載せ、博一のアパートに向かったのだった。
そして、その途中、夕食の買い物をしたのだが……。
2
その頃、博一は会社で仕事をしていたかというと、そうではなかった。博一は会社には行かなかったのだ。博一は、弓子が博一の生活の中に入り込んで来た為に、会社に行く気が萎えてしまったのだ。
会社には連絡は入れた。すると、上司に怒鳴られてしまった。しかし、行く気がなくなってしまったのだから、仕方ない。何とか理由をつけて承諾を得たのだった。
博一は特に当てもなく、アーケードの商店街を歩いていた。しかし、ここは何度も来たことのある商店街であった。
すると、その時、
「星野さん」
という声が聞こえた。
「星野さん? 僕のことかな?」
そう思ったものの、博一は構わず歩き続けた。
すると、
「ひょっとして星野博一さんとは違いますかね?」
その男は、博一を追い越しては、博一の前に立ち止まり、博一の顔を見やった。
すると、博一は立ち止り、
「僕は確かに星野ですが」
そう言ったものの、博一は眼前の男に見覚えはなかった。
〈誰だろ……〉
「やっぱり、そうですか。やはり、面影がありますからね」
そう言われ、博一はこの男を何処かで見たような気がした。
「松山ですよ。松山三四郎ですよ」
〈あ! 思い出した!〉
松山三四郎とは、博一の小学校の時の同級生だった男だ。小学校といっても、五年と六年の時だけだったが、結構仲が良かったし、名前がユニークだったので、すぐに思い出したのであった。
松山という姓が、夏目漱石の縁の地である松山と一致することから、三四郎という名前になったと、三四郎から聞かされたことがあることを博一は覚えていた。
「松山さんですか。懐かしいな」
博一と三四郎は、手を握り合った。
「で、どうしてこんな所に?」
博一は首を傾げた。しかし、それもそうだろう。博一と三四郎の出身は、仙台だ。しかし、ここは東京なのだ。
「星野さんこそ、どうしてここにいるのですか?」
三四郎は怪訝そうな表情を浮かべては訊いた。
「僕は、東京の会社で働いてるんだ。だからさ」
博一は言った。
「そうですか。僕はこの近くで店をやってるんだ。小さなスナックだけだね。店の名前は〈サンシロウ〉っていうんだ」
「君の名前と同じなんだね」
「そうなんだよ。この近くなんだ。時間がよければ、寄ってくれないかな」
「構わないさ」
「よし! それで決まりだ!」
〈サンシロウ〉は、すぐ近くだった。眼前にある雑貨屋から細い路地に折れ、すぐだった。
〈サンシロウ〉という看板が眼についた。夜になると、ネオンで煌めくことであろう。
博一と三四郎は、店の中に入った。
店の中は、カウンターとテーブルが五つあった。カラオケの設備もあった。
「小さな店なんだけど、夜の八時を過ぎれば、結構賑わうんだ」
「松山君が、この店のオーナーなんですかね?」
「そうだよ。もっとも、まだ借金は残ってるんだ。でも、何とかやってけるんだ。もっとも、僕の毎月の手取りは二十万位なんだけどね。でも、好きでやってるし、銀行からの借金がなくなれば、僕の給料はもっと増える筈なんだ」
そう三四郎に言われ、博一は、
「そうか……」
と、呟くように言った。博一は、三四郎は夢があっていいなと思った。また、羨ましくも思った。
「しかし、正に奇妙なものだな。こんな所で偶然に再会するなんて」
三四郎は軽く笑った。
「確かにそうだな。しかし、僕は度々この辺りを歩いてるんだよ」
「そうか。じゃ、会ってもおかしくないんだな」
「で、松山君は店を始めてどれ位になるのかな?」
「三年位になるかな」
「三年か……」
その三年が長いのか短いのか、博一は何とも言えなかった。
「ここに来るまでは、都内の居酒屋で働いていたんだ。まあ、その居酒屋で、修業したといえるかな。そして、この店で独立したというわけさ」
「でも、こんないい場所でよくぞ店を持てたものですね」
「そうでもないよ。何しろ、土地は僕のものじゃない。つまり、土地は借りてるというわけさ。土地の購入費まではとても手が出せなかったというわけさ」
と、三四郎は苦笑した。
「そういうわけか……」
それで、博一は納得した。
といっても、三四郎の話を聞いて、博一は少なからずショックを受けた。
というのは、自らの遊び仲間だった三四郎と博一とを比較して、随分と差が出たと思ったからだ。
というのは、博一は失恋の為に死を決意した小心者。それに対して、三四郎は自らの夢に向かって邁進し充実した日々を送っている。このことは、少なからずのショックを博一にもたらしたのだ。
「この店を始めてから、色々なことがあったよ。お客さんに殴られたこともあったよ」
と、三四郎は眉を顰めた。
「そんなこともあったの?」
「そりゃ、たまにあったよ。注文してない品を持って来たとか、まずいとか言っては、難癖をつけて来るんだ。こういったお客さんは、かなり酔っぱらっているんだけどね。
こうなれば、なるべくお客さんの機嫌を損なわないようにしなければならないんだ。しかし、その僕の説明が気に入られないと、殴ったりするお客さんもたまにいるというわけさ」
と、三四郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては言った。
「そんなこともあったのか……」
と、博一はとても、このような商売は出来ないと思った。
「そうそう。この店には、星野君の知ってる人もやって来るんだ」
「僕の知ってる人?」
「そう。小学校の時の同級生ですよ。村山君と高野君と山際さん。彼等もやって来るんですよ。今週の土曜日にもやって来ることになってます。星野さんもよければ来てくれないかな」
そう言われ、博一は言葉を詰まらせた。昔の同級生たちがどうなったか、多少は興味があったからだ。
それで、
「じゃ、来ますよ」
3
博一はここ数日間で、世の中が変わってしまったような印象を受けた。死を決意して恋人岬に行ったのだが、秋月弓子という女性に出会ってしまった。その結果、死を回避することになり、弓子と同棲をすることになり、また、永らく会ったことのない小学校時代の同級生と話し込んでしまった。これらのことは、正に博一に新鮮さをもたらしたのだ。博一は、まるで錆びついていた金属が磨かれ綺麗になったかのように、生気を取り戻したのであった。
アパートに戻ると、弓子はTVを見ていた。
弓子は博一を眼にすると、
「お帰りなさい」
と、愛想良い声で言った。
「ただいま」
そう言うと、博一は上着をハンガ―に掛けた。
「早かったのね」
弓子はそう言った。まだ、午後六時になってなかったのだ。
「今日は残業をしなかったんだ」
と、博一は嘘をついた。
「そう。で、お腹空いてる? 夕ご飯、作ろうか」
「そうしてくれるかい」
実は、夕食はほぼ作り終えていた。後は、ステーキを焼き上げるだけであった。
博一は、弓子がステーキを焼いてる間、新聞に眼を通すことにした。博一は新聞を講読してないのだが、今日は駅の売店で買って来たのだ。
やがて、ステーキが焼き上がり、弓子の手造りの野菜サラダ、味噌汁と共に、テーブルの上に並べられることになった。
「わあ! 美味そうだ!」
博一の口からその言葉が発せられた。博一は久し振りに家庭的な料理を味わえることになったのだ。
博一はステーキを口にもって行くと、
「確かに美味い」
と言っては肯いた。
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
と、弓子は嬉しそうに言った。
だが、博一は程なく、
「この食器、どうしたの?」
博一が手にしてる茶碗、ステーキの皿などが、博一のものとは違っていたからだ。
「今日、買って来たのよ。私が勝手にここに来たのだから、それ位はさせてもらわなくちゃね」
と、弓子はウィンクしてみせた。
博一は、弓子が作ってくれた夕食を食べ終えた。そして、これによって、空腹が満たされた。
博一は空腹が満たされると、大の字になり、寝転がった。そして、天井を見上げた。
ここは、間違いなく、博一のアパートの「宝田荘」であった。古びた天井に古びた壁。相変わらず、古びたアパートであった。
しかし、そのアパートの中は、変貌した。まるで、花が咲いたように、輝くようになったのだ。
やがて、博一はお風呂に入ることになった。といっても、博一だけだ。
博一の後に、弓子が続いた。
そして、やがて、弓子も入浴を済ませた。
弓子がバスタオルで身体を拭き終わった頃、トランクス一枚だけの博一が弓子に寄り添っては、弓子の身体を抱き寄せようとした。
すると、弓子はそんな博一を拒否した。
その抵抗がかなり強いものだったので、博一は、
「悪かったな」
と、率直に詫びた。そして、
「どうかしてたんだ」
だが、弓子は何も言わなかった。
弓子はいくら一度ではあるが、身体を任せた相手だといえども、気乗りしないのに、身体を求められるのは嫌だった。
そして、今の博一の様を見て、今まで弓子が抱いていた博一の印象を僅かではあるが悪化させてしまったのだった。
そして、その後、二人は弓子が買って来たビールを少し飲んでいたのだが、酔いが回って来たのか、博一は、今まで気にしていたことが博一の口から発せられた。
「君がここにいることを、君の家族は知ってるのかい?」
「知らないと思うよ」
と、弓子はあっさりと言った。
「私はマンションで一人暮らしなの。だから、私が何処にいるか、そんなことをいちいち知らないわよ」
「じゃ、君は地方から東京に出て来たのか?」
「地方じゃないわ。私の出身は、浦和市なの。でも、都内で一人暮らしをしてるというわけ」
「兄弟姉妹はいないの?」
「私は一人っ子よ」
「お父さんはいくつ?」
「五十五歳かな」
博一は弓子に次から次へと質問を浴びせた。だが、それは弓子にとって、「どうしてそんなことを訊くのよ」と言いたい位、どうでもよいことと思われた。弓子は、過去を一切忘れ新しい世界に飛び込もうとしたのだ。だが、今の博一の言葉はその思いに水を差すものであった。
そして、それは、博一に対するイメージを悪化させてしまった。
博一がこのような些細なことを訊いて来る男だとは思ってなかったからだ。
家族構成がどうのこうの、親が幾つなんてことは、どうでもいいことではないか。興信所のように、何だかんだ調べられては、堪ったものではない。正に、恋人岬で眼にした博一観が徐々に崩れて行くようであった。
時間は刻一刻と過ぎ、そろそろ寝ようということになり、昨夜のように博一は布団を二つ敷いた。そして、博一は、
「そろそろ寝ないか」
「私はもう少し起きてるわ」
そう言われたので、博一は一人で寝ることにした。
そして、程なく博一は鼾を掻き始めた。つまり、博一は眠りに落ちたのだ。
弓子は実のところ、博一が眠りに落ちるのを待っていた。というのも、眠りに落ちなければ、弓子の身体を求めて来る可能性があったからだ。弓子は今日の博一を見て、博一に失望した。そんな博一に身体を与えるのが嫌になったのだった。