第三章 離れて行く二人

     1

 翌朝、弓子は博一を送り出すと、〈さて、今日は何をしようかな〉と思った。
 今日も博一の為に味噌汁を作ってやった。そして、卵焼きもだ。博一はそんな弓子が作った弓子の手料理を美味そうに食べた後、アパートを後にした。
 そんな弓子は、博一を送り出した後、何をしようかと考えていたのだ。
 そして、しばらくそれに関して、考えを巡らせていたのだが、一旦、弓子のマンションに戻ろうと思った。というのも、この古びたアパートは、正に蒸し暑く、居心地が悪かったからだ。
 弓子は弓子のマンションに戻ると、窓際に置かれてるアームチェアにどっかりと座り込んだ。
 弓子にとって、ここ数日間は正に激変といってよかった。
 弓子の筋書きによれば、俊行を殺しては、新しい生活を始める筈であった。憎き相手を殺し、新しい生活を始める筈であった。
それが、憎き相手を殺さずに新しい生活が始まったのだった。
 それが実現したのは、恋人岬で星野博一と出会った為であった。それ故、星野博一は弓子にとって恩人だった。それ故、博一に身体を与え、同棲生活が始まったのだが、早くもそんな博一に嫌気がさして来たのだ。
 そんな弓子は、笹倉智子から渡された写真を取り出しては見入った。畑野雄二という高校の数学教師だという男の写真を! 正にじっと見入ったのだが、決して悪い男ではなさそうだ。弓子の直感は、そう告げていた。
 弓子は卓上電話のボタンをプッシュした。五回程呼出音が鳴った後、電話は繋がった。
―笹倉ですが。
「秋月ですが」
―弓子ね。
「あら。どうしたの? 仕事じゃなかったの?」
 弓子は今、智子は仕事中ではないかと気付いたのだ。
 ところが、智子は、
―先日、退職したのよ。もっと人生を愉しもうと思ってね。
「そうなの。で、先日、智子から見せてもらった写真のことなんだけど」
―雄二さんのことね。それで?
「私、一度、会ってみたいのよ」
 と、弓子は些か顔を赤らめて言った。
―そう来なくっちゃ! それでこそ、弓子ね!
 そう言った智子の声は弾んでいた。
「で、いつがいいの? 畑野雄二さんは」
―ちょっと待ってね。今から確認してみるから。確認が終えたら、すぐに電話するよ。
 ということになり、弓子は一旦送受器を置いた。
 そして、五分後に電話が掛かって来た。
―今日は休暇だそうよ。弓子が会いたいと言ったら、雄二さん、今日にでも会いたいと言ってたわ。
 それを聞いて、弓子は笑ってしまった。何と、せっかちな男だろうと。
「じゃ、私、今からでもいいよ」
―だったら、今から弓子のマンションに行ってもいいかしら。
「いいですよ。でも、どの位時間が掛かるの?」
―一時間もあれば、行けると思うな。
「分かったわ。じゃ、待ってるから」
 ということになった。
 
 一時間経った頃、ドアがノックされた。
 智子だ! 畑野雄二という男を連れて。
 弓子は、玄関扉のスコープから外をそっと覗いてみた。
 確かに、智子がいた。そして、その隣は、畑野雄二という男もいた……。
「待ってたのよ」
 弓子はそう言うと、弓子の眼は、雄二を捕えていた。そして意外な気がした。写真で見た程、堅苦しい印象は受けなかったからだ。
「お邪魔します」
 と言っては、二人は弓子の部屋の中に入って来た。
 部屋といっても、八畳位の洋間のワンルームマンションだから、三人もの大人が入ってしまえば、かなり手狭になってしまう。
 それはともかく、雄二は、
「初めまして。僕は畑野雄二と申します」
 と弓子を見やっては、軽く頭を下げた。
 そんな雄二を見て、弓子は意外に思った。雄二の声が、何となく子供っぽく思えたからだ。
 もっとも、写真を見て、声まで分かるわけではないが、写真の印象からすると、もっと、堅苦しい印象を受けたのだ。
 それはともかく、弓子は、
「私は秋月弓子と申します」
 と言っては、軽く頭を下げた。
「秋月さんのことは、それはもう、智子さんからかねがね、噂に伺ってます」
 と、雄二は、いかにも機嫌良さそうに言った。
「あら、どんな噂ですの?」
 弓子は眉を顰めた。というのは、婚約解消になった苦い経緯まで知られたくないと思ったのだ。
「そりゃ、美人で愛きょうがあり、頭脳明晰で優しくて」
「ホホホホ……」
 弓子はそう言われ、口に手を当てては笑った。お世辞とはいえども、ここまで褒められれば、決して悪い気はしなかったというわけだ。
「智子ったら、私のことをそんな風に言ってたの?」
「あら、私、いくら何でもそこまでは言わないわ」
「僕はそう聞いたよ」
「いいえ。私は言いません」
 と、智子と雄二はやり合った。
 そんな二人を見て、
「そんなことで、言い争いしないで」
 と弓子は笑いながら言った。
 すると、雄二は、
「ただ、はっきりしてることは、智子さんが言ったか言わなかったにしろ、そのことは事実だということさ。つまり、先程僕が言ったこと、つまり、弓子さんは美人で愛きょうがあり、頭脳明晰であるということですよ」
「美人で愛きょうがあるということは、分かるわ」
 と、弓子は笑ってみせた。
 すると、智子は、
「まあ! 弓子ったら!」
 と、智子も笑った。
「しかし、どうして私が頭脳明晰だということが分かるの? まだ、会ったばかりなのに」
 弓子は怪訝そうな表情を浮かべた。
「そりゃ、人相というものですよ。その人を見て、知性、性格まで言い当てる。これ位のことが出来なければ、教師なんて、勤まりませんよ」
 と言っては、雄二は笑った。
 そう言った雄二を見て、弓子は、
〈畑野雄二という人は、何とひょうきんで面白い人だ!〉と思った。その一方、
〈この人、本当に数学の教師なのかな〉とも思った。
 それはともかく、
「アイスコーヒーでも飲みますか?」
 弓子は言った。
「そりゃ、ありがたい! 実はとても喉が渇いてましてね。そりゃ、この部屋にはエアコンがきいてますが、しかし、そうだからといって、喉の渇きが収まるわけではありませんからね。その僕の胸の内を察してくれた弓子さんは、何と気配りの出来る女性なことか!」
 と、雄二はズボンのポケットからハンカチを取り出しては、眼頭に当てた。そんな雄二は、まるで感激のあまり、涙を流してるかのようであった。
 そんな雄二を見て、弓子は思わず視線を智子に向けた。そんな弓子の眼はこう物語っていた。〈この人、一体何なの?〉
 それで、智子は、
「どうしたの?」
 と、雄二に言った。何しろ、大の男が眼頭にハンカチを当てて、泣いてるかのようなのだ。智子としては、弓子に言われなくとも、気になるというものだ。
 すると、雄二は、
「泣いてるんじゃないよ。汗が眼に入ってしょっぱいんだ」
 それを聞いて、弓子は一安心した。アイスコーヒーを出した位で感激し、泣かれてしまったりすれば、それこそ、〈この人、一体何の?〉となってしまうからだ。
 それはともかく、今までの雄二を見て、本当に高校の数学の教師かと思ってしまった。高校の数学教師ともなれば、もっと威厳があって、堅苦しい感じではないかと思ったのだ。それ故、その辺を確認してみようと思い、
「畑野さんは高校の教師をなされてるんですよね。何処の高校の教師なんですかね?」
 と、弓子は興味ありげに言った。
 その弓子の問いに、雄二はびくっとしたような表情を見せた。今までのひょうきんな雄二は消え失せ、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべたのだ。
 弓子の眼は、智子に向かった。しかし、それもそうだろう。弓子に雄二のことを紹介したのは智子であり、雄二が高校の教師をしてると言ったのも、智子だったからだ。
 すると、智子は少し狼狽したような表情を見せたが、すぐに平静さを取り戻したような表情を見せては、
「あら、雄二さんが、高校の教師をしてると言ったかしら」
 と、おどけたように言った。
「確かにそう聞いたけど」
 弓子は言った。
 しかし、智子にそう言われてしまえば、再び記憶を蘇らしてみた。
 だが、結果は同じだった。智子が雄二のことを高校の教師だと言ったのは、間違いないことであった。
 すると、智子は、
「だったら、それは間違いよ」
 と、あっさり言った。
「えっ!」
 と、素っ頓狂な声を上げたのは、弓子だった。
〈高校の教師だと言ったから、畑野雄二と会う気になったのよ! それなのに、騙すなんて卑怯だわ!〉と、弓子は叫びたかったが、しかし、その言葉は、弓子の口からは、発せられなかった。その代わりに出たのが、「えっ!」という小さな叫びであった。
 そんな弓子を見て、智子は弓子の心の中を十分に察した、弓子が疑問に思うのも、もっともなことだ。畑野雄二を見てその誰もが高校の教師とは思わないであろう。
 弓子は、
「では、今、何をされてるの?」
 そう弓子に言われ、智子が、
「それがね。実は今は就職浪人の身の上なのよ。雄二さんは、高校の教師を目指してるのだけれど、まだ、試験に合格してないのよ。そうでしょ、雄二さん!」
 と言っては、雄二を見やった。
 すると、雄二は、
「あっ、ああ……」
 と、智子の言葉にびくっとしたように言った。
「今年あたりは、合格するんじゃないかな」
 智子は言った。
「そっ、そうさ! その通りさ! 今年こそ、合格してみせるさ!」
 と、雄二はいやに張り切ったような声で言った。智子の言葉に元気付けられたのか、雄二は再び元の快活さを取り戻したかのようであった。
「そうでしたか。で、失礼ですが、今まで何度不合格になられたのですか?」
 弓子は訊いた。
「それが、二度です」
 と、雄二は頭に右手を当てては、苦笑いした。
「そうですか。今度こそ、合格してくださいね」
 弓子は言った。しかし、それは、あくまで口先だけのことだった。どう見ても、雄二は合格しそうもなかった。弓子の勘はそう告げていた。
 すると、雄二は、
「あっ、ああ! 任せてくださいよ。弓子さんに元気づけられれば、怖い者なしですよ! もう合格したみたいなものですよ!」
 と、胸を張ってみせた。
 弓子はそんな雄二を眼にして、もうすっかりと呆れてしまった。<とんでもない男を紹介してくれたわね!〉
 弓子の眼はそう告げていた。
 そんな弓子の思いを智子は察したのか、智子は弓子から眼を逸らせてしまったが、弓子は心の中では、大むくれであった。
 弓子は何とかこの畑野雄二を追い返せないかと思案した。
 すると、雄二が、
「弓子さんは、今、何をなされてるのですか?」
 そう言った雄二の眼は輝いていた。そんな雄二の眼は、好奇心で一杯かのようだった。
 そんな雄二に、
「私、今は何もしてません。フリ―です」
 そう弓子に言われると、雄二は、
「やった!」
 と、歓声を上げた。そんな雄二は、満面に笑みを浮かべている。
 そんな雄二を見て、弓子は思わず笑ってしまった。雄二があまりにも子供地味てるからだ。
 弓子はこの時、畑野雄二という男は悪い男ではないと思った。先程までは、どちらかといえば、雄二のことを嘲笑していたのだが、今はその純真無垢とも思えるような雄二を見て、弓子の思いも変容せざるを得なくなったというわけだ。
「じゃ、これからも、時々会えますね」
 雄二は言った。
 雄二のその気迫に押されてしまったのか、弓子は思わず、
「ええ」
 と、肯いてしまったのだ。
 それを見て、雄二は再び、
「やった!」
 と、飛び上がらんばかりに喜んだのであった。
 そんな雄二を見て、弓子と智子は、眼を見交わした。智子は弓子に「雄二さんって、悪い人ではないでしょ」と、言いたげであった。

 雄二と智子が去って行ってから、三十分が経過した。しかし、部屋の中は依然として、雄二たちの余韻が残ってた。
 何という荒唐無稽な男あろう。弓子は、今まで様々な男を見て来たが、畑野雄二のような男を眼にしたのは、初めての経験だった。正に世の中には色々な男がいるものだと、改めて知ったのであった。
 弓子は博一と雄二を天秤にかけてみた。そして、どちらが弓子にとって相応しいか、一人でにやにやしたのであった。

     2

「無断欠勤した挙句自己都合で有給を取りやがって!」
 博一は会社に行くと早速上司に怒鳴られてしまった。博一はただ、「すいません」と、謝るばかりであった。
 博一の上司は、柴山五郎といって、年齢は四十歳を少し過ぎている。日頃から口うるさく、部下を怒鳴り散らすことを生き甲斐としてるみたいな男だ。
 博一は心の中で思っていた。僕が死ななくてよかっただろうと。僕が死んでしまえば、怒鳴り散らす人間が一人減ってしまうだろうと。そうなれば、ストレスが溜まるだろう。それ故、博一は心の中で「あかんべ」と、舌を出してやったのだった。
     
 やっと昼休みになった。博一の会社の人間は、殆ど近くの弁当屋から弁当を配達してもらっていた。そして、博一もそうであった。
 博一は弁当屋から配達してもらう〈餃子ランチ〉を再び食べれるとは、思ってもみなかった。
 博一は恋人岬に行く前日にも、今日と同じく〈餃子ランチ〉を食べた。その時、もう二度とこの〈餃子ランチ〉を食べることはないだろうと思っていた。そう思うと、眼頭が熱くなって来た。
 すると、博一の隣にいた同僚が、
「おい、どうしたんだ?」
 と、博一に訊いた。
 すると、博一は、
「少しむせてしまったんだ」
 すると、同僚は、
「そうか」
 と言った。
 まあ、そんなことは、どうでもよい。博一はとても哀しかったのだ。博一といえども、死ぬことは、とても哀しいことなのだ。いや、それ以上、美幸に振られた方が、よほど哀しかったのだ。その哀しさから逃れたい為に、死のうとしたのではないのか。
 たかだが、失恋の為に、死のうとするなんてと他人は笑うかもしれない。博一も以前はそう思っていたのだから。
 しかし、いざ失恋してみると、そのことが決して嘘ではないことが分かった。全く、美幸がいない世の中なんて、博一には有り得なかったのだから。
 それ故、博一は死を決意して恋人岬に向かった。だが、秋月弓子に出会ってしまった。そして、弓子との出会いが博一の死を踏み止まらせてしまったのだ。
 全く、運命とは、どう動くか分からない。と、博一は〈餃子ランチ〉を食べながらそう思った。

 博一は午後になると、上司の柴山に呼ばれた。
「星野。今から暁商事に行ってくれないか」
 柴山は、横柄な口調で言った。
「暁商事ですか」
 と、博一は眉を顰めた。暁商事の受付には、美幸が座ってる筈だ。
 博一は、もう二度と美幸には会いたくないと思った。会うと、過去のことを思い出し、感傷的になってしまうからだ。それ故、暁商事には行きたくないと思っていたのだ。
 博一が躊躇ってると、
「どうした? 何か不満なのか?」
 と、柴山は博一に言った。
「いや。そうではありません」 
 と、博一は慌てて笑顔を繕った。まさか、柴山に美幸のことを言うわけにはいかない。
「そうか。じゃ、このパンフレットを暁商事の勝野さんに届けてくれ」
 勝野とは、博一が何度となく商談した相手だった。
「パンフレットを届けるだけでいいのですか?」
「ああ。そうだ。君に任せていた件は、駄目になったんだ。しかし、向こうが当社の別製品に興味を示してな。だから、パンフレットだけでも届けてもらいたいんだ」
 そして、
「いいか! パンフレットを届けるだけでいいんだぞ! 余計なことを言うんじゃないぞ!」
 要するに、博一では受注出来ないから、余計なことを言うなというわけだろう。それ故、博一はいずれ、閑職に追いやられるだろうという予感がした。
     
 四十分程で暁商事に着いた。
 そして、エントランスに入ると、さっと受付に眼をやった。
 すると、博一は忽ち胸を撫で降ろした。受付には、美幸は座っていなかったからだ。博一の知らない受付嬢が座ってたのだ。
 博一は受付で来意を告げると七階に行くように言われた。
 それで、エレベーターで七階に行き、そして、勝野に会うと、すぐ勝野の許を去ったのだ。
 帰り際に受付に眼をやったが、やはり、美幸はいなかった。
 その事実を目の当たりにして、美幸は何処に行ったのだろうかという思いが過ぎった。美幸のことを忘れたかったのだが、その一方、気にもなったのであった。

     3

 弓子は智子と雄二を送り出して一時間程経った頃、マンションを出た。ある所に向かったからだ。
 ある所とは、秋山由香里の住んでいるマンションであった。それは、まるで水が高い所から低い所に流れるように、必然的なものであった。
 秋山由香里とは、言うまでもなく、弓子の婚約者であった町田俊行の恋人であった。弓子から俊行を奪った女であった。
 弓子はそれは致し方ないと認めるわけにはいかないが、由香里は弓子が見ても、溜息の出るような美貌の女であった。
 そりゃ、モデルをしてるから当然であろうが、それにしても、OLをやっていた弓子から見れば、溜息が出るような女。それが、秋山由香里だったのだ。
 しかし、弓子はそんな由香里のことを憎く思ったわけではなかった。憎く思ったのは、俊行の方であったのだ。
 それ故、俊行の殺害を企てたのだが、それは、博一との出会いによって回避された。そして、新たな人生に踏み出したのだが、弓子に俊行への殺意をもたらした秋山由香里という女が、どういった所に住んでいるのか、知りたくなったのだ。まあ、好奇心というものであろう。
 由香里のことを知ったのは、俊行との結婚式が後少しという頃であった。
 俊行の友人だという男が、弓子に、
「町田俊行と結婚するんだって?」
 と訊いて来たので、弓子が肯くと、
「それは信じられないな。というのは、町田君は今、秋山由香里というモデルと付き合ってるからな」
 と言ったのだ。
 弓子は、それは冗談だと思った。何しろ、弓子は後一ヶ月後に俊行と結婚式を挙げる予定になっていたからだ。
 それで、弓子はその男に、
「変なことを言わないでよ。式まで後一ヶ月なんだから」
 すると、男は弓子に同情するかのような視線を向けては、
「僕は町田君のことをよく知っていてね。町田君は移り気な男なんだ。だから、町田君のことを信じ切ってる君のことが心配だな」
 と言っては、神妙な表情を浮かべた。
 弓子は俊行と付き合うようになって二年になるのだが、俊行が移り気だということを感じたことはなかった。しかし、それは、俊行の本当の性格を隠していたのかもしれない。
 その可能性はある。
 それで、弓子は、
「秋山由香里さんって、どんな人なんですか? 何処に住んでるのですか?」
 と訊いてみた。
 すると、その男は鞄からL版の写真を取り出し、弓子に見せた。それは、俊行が由香里と肩を組んで写ってる写真だった。その写真の俊行の表情は、正に弓子が見たことのないような笑顔であった。
 その写真を見て、弓子は青褪めた。由香里があまりにも綺麗だったからだ。
 そして、弓子はその男から由香里が住んでいるマンションに関する情報を入手したのだ。というのも、俊行がそれをその男に話していたからだ。
 弓子は俊行との結婚式を間近に控えていた為に、由香里のことが気になって仕方なかった。また、由香里と肩を組んでいた時の俊行の笑顔のことも!
 そして、それから少し経った頃、弓子は俊行から破談を告げられたのだ。

 由香里のマンションは閑静な住宅街の中にあった。
 弓子はそのマンションを容易に見付けることが出来た。というのも、その辺に土地勘があったからだ。
 それは、赤煉瓦造りの六階建てで、オートロック式のマンションであった。
 オートロック式だったので、弓子は中に入ることは諦めた。
 もっとも、中に入って何かをするということではなかった。ただ、由香里の室の前まで行ってみようと思っただけなのだ。弓子の恋人を奪った女の室の前まで行ってみたかっただけなのだ。
 しかし、マンションの前まで行ったということで、その目的は凡そ達せられたということだ。
 それで、帰ろうと思ったのだが、すると、その時、向こうの方から何処かで見たような顔が眼に留まった。
〈秋山由香里だ!〉
 弓子はそう察知した。
 由香里のマンションに近付いて来たのだから、由香里がやって来ても、それは当り前というものであろう。
 それで、弓子は咄嗟に細い路に曲がった。由香里と顔を合わせたくなかったからだ。
 もっとも、弓子は由香里の写真を見ただけで、由香里と面識があったわけではない。だが、由香里は、弓子が由香里のことを知っていたように、弓子のことを知ってるかもしれない。
 そうだとなれば、由香里は弓子のことを訝しがるかもしれない。何故こんな所にいるのかと言わんばかりに。
 そんな由香里は、一人ではなかった。連れがいたのだ。由香里の連れが!
 だが、その男は、弓子の知ってる男ではなかった。
 それ故、弓子は物陰に隠れるようにして、二人の様子を注視した。
 やがて、由香里と連れの男は、弓子の見えない場所に遠ざかって行った。
 女は由香里に間違いなかったが、男の方が、やはり、弓子の知らない男であった。頭を角刈りにしたごつい男で、何だか人相の悪い男であった。
 由香里は弓子から俊行を奪った女であった。その女が俊行ではなく、別の男と歩いていた。これはどういうことなのか? その理由を弓子は分からなかった。
 しかし、そのことは、弓子にとってどうでもいいことであった。俊行とはもう何の関係もなくなったのだから。況してや由香里のことはそれ以上、どうでもいいことだ。
 とはいうものの、弓子は由香里と連れの男を眼にして、何か嫌な感じがしたのであった……。
     
 その夜の博一と弓子の会話は当たり障りのないものに始終していた。そして、それには、理由があった。
 というのは、博一は河野美幸のことを思い出していたのだが、暁商事に行った時に、美幸は受付にはいなかった。何故? 博一はそう思っていて、そのことがいやに気になっていたのだ。

 一方、弓子は正に妙な場面を眼にしてしまった。
 それは、秋山由香里が由香里のマンションに人相の悪い男を連れ込もうとしていたのを眼にしてしまったからだ。何しろ、由香里は弓子から俊行を奪った女であった。それ故、その後の俊行と由香里の関係が気になっていたのだった。

 それはともかく、明日は土曜日だ。それ故、博一は〈サンシロにでも行ってみようと思った。
 そして、今夜は二人とも、その肌に触れようとはしなかったのだった。

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