2 容疑者浮上
中村正志の前に現れた沖縄県警の糸数和則に対して、正志は怪訝そうな表情を浮かべた。そんな正志は、一体沖縄県警の刑事が何の用があるのかと言わんばかりであった。
そんな正志に、糸数は、
「僕が中村さんに対して、何の用があると思いますかね?」
と、正志の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、正志は、
「分からないですね」
と言っては、頭を振った。
「そうですかね? 久米島というと、中村さんは思うことがあると思うのですがね」
そう言っては、糸数は再び正志の顔をまじまじと見やった。
すると、正志の表情は忽ち険しくなった。
そして、十秒程言葉を詰まらせたが、
「娘のことかい」
と言っては、眉を顰めた。
すると、糸数は小さく肯き、
「そうです。沙織さんは久米島でダイビング中に事故に遭い、下半身に後遺症が残ってしまいました。そのことを苦に自殺されたと聞いてるのですが、それは事実でしょうかね?」
「ああ。そうだ」
と、正志は素っ気無く言った。
すると、糸数は再び小さく肯き、そして、
「で、中村さんは、沙織さんの死の責任は、ダイビングショップの末吉さんの所為だと思っておられるのですよね?」
「ああ。そうだ。沙織は素人なんだ。それ故、インストラクターであった末吉が、きちんと沙織の面倒を見ていれば、沙織は自殺せずに済んだんだ」
と、吐き捨てるかのように言った。
「それで、中村さんは何度も久米島に行っては、末吉さんに罵声を浴びせたわけですか」
と言っては、糸数は眉を顰めた。
すると、正志はもうそこまで調べたのかと言わんばかりの表情を浮かべたが、そんな正志の口からは、言葉は発せられなかった。そんな正志は、糸数は一体何をしに来たのかと言わんばかりであった。
そんな正志に、糸数は、
「で、僕が何故中村さんの前に現れたのか、分かりますかね?」
と言っては、正志の顔をまじまじと見やった。
すると、正志は、
「分からないな」
と言っては、頭を振った。そんな正志の様には、不自然さは見られなかった。
「では、中村さんは、五月十二日の午後六時から八時に掛けて、何処で何をされてましたかね?」
と、糸数は早々と、末吉の死亡推定時刻のアリバイを確認してみた。
すると、正志の言葉は詰まった。そんな正志の表情は、まるで訊かれたくないことに言及されたと言わんばかりであった。
その糸数の問いに、正志がなかなか言葉を発そうとはしないので、糸数は再び同じ問いを繰り返した。
すると、正志は、
「何故刑事さんはそのようなことを訊くのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
すると、糸数は、この時点で末吉の死に対して言及した。
そんな糸数の話に、正志は特に言葉を挟まずに黙って耳を傾けていたが、糸数の話が一通り終わると、
「で、それが、何か僕に関係してるのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
「その前に、先程の僕の質問に答えてもらえないですかね?」
「どうして答えなければならないのですかね?」
と、正志はいかにも納得が出来ないように言った。
「では、中村さんは、末吉さんの死を知ってましたかね?」
と言っては、糸数は眉を顰めた。
「知ってたよ」
正志は糸数から眼を逸らせては、素っ気なく言った。
「どうして知ってたのですかね?」
「新聞に載ってたからさ」
正志は再び素っ気なく言った。
「新聞に載ってた、ですか。
では、先程の僕の質問に答えてもらえないですかね? つまり、五月十二日の午後六時から八時に掛けて、何処で何をしていたのかを」
と言っては、糸数は正志の顔をまじまじと見やった。
すると、正志は糸数から眼を逸らせ、言葉を詰まらせた。そんな正志は、その問いに対して、答えたくないようであった。
案の定、正志は、
「どうしてそのようなことを訊くのですかね?」
と、いかにも不貞腐れたような表情を浮かべては言った。
「つまり、中村さんは、末吉さんに対して強い恨みを持っていた。娘さんの死は、末吉さんの所為だと確信してるわけですからね。そして、何度も久米島に行っては末吉さんに文句を言ったが、それでも怒りは解消されず、裁判を起こしたが、末吉さんの罪を認めさすことは出来なかった。そんな中村さんが、末吉さんの死に関係してるのではないかと疑うのは、自然の成り行きではないですかね」
と言っては、糸数は唇を歪めた。そんな糸数は、そう推理するのは、極めて当然だと言わんばかりであった。
すると、正志は、
「馬鹿馬鹿しい!」
と、吐き棄てるかのように言った。
「何が馬鹿馬鹿しいのですかね?」
糸数は眉を顰めた。
「あんな奴を僕が殺しはしないということですよ。あんな奴を殺して、手を汚したくないというわけですよ。それが、馬鹿馬鹿しいというわけですよ」
と、正志はいかにも不満そうに言った。そんな正志は、そのようなことをすれば、手が腐ると言わんばかりであった。
「そうですか。分かりましたよ。でも、先程の僕の質問、つまり、五月十二日の午後六時から八時にかけて、何処で何をしていたのか、答えてもらえないですかね?」
と言っては、再び正志の顔をまじまじと見やった。
「ですから、どうしてそのようなことに答えなければならないのかということですよ」
と、正志はいかにも不満そうに言った。
「ですから、我々は今、末吉さんの事件を捜査してるのですよ。そして、末吉さんに強い恨みを持ってそうな人物を調べ出したのですよ。何故なら、その人物が、末吉さんのことを殺した可能性がありますからね」
と言っては、糸数は力強く肯いた。そんな糸数は、正に正志が末吉を殺した可能性は、十分にあると言わんばかりであった。
すると、正志は糸数から眼を逸らせ、言葉を発そうとはしなかった。そんな正志は、糸数に対して言いたくないことがあるかのようであった。
そんな正志を見て、糸数は薄らと笑みを浮かべた。正志に後ろ暗いものがあると思ったからだ。そうでなければ、言葉を詰まらせる必要がないからだ。
それと共に、この事件は、案外早く解決出来るのではないかとも思った。
そんな糸数は、
「どうしたのですかね? 僕の質問に早く答えてくださいよ」
そう言った糸数の表情は、険しいものであった。
すると、正志は、糸数を見やっては、
「僕は末吉を殺してませんよ」
と、不貞腐れたよう表情を浮かべては言った。
「それだけでは、納得が出来ませんよ。それなら、きちんとしたアリバイを話してもらわないと」
と言っては、糸数は唇を歪めた。
すると、正志は、
「言わなければ、どうなるのですかね?」
と、些か険しい表情を浮かべた。
「そりゃ、署に来てもらうことになりますよ」
と、糸数は正志を睨み付けた。
すると、正志は糸数から眼を逸らせ、二十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、糸数を見やっては、
「実は、僕はその頃、久米島にいたのですよ」
と、力無い声で、そして、いかにも言いにくそうに言った。
すると、糸数は思わず笑みを浮かべた。何故なら、こうあっさりと捜査が前進するとは思っていなかったからだ。即ち、正志が末吉の死亡推定時刻に久米島にいたとなれば、一層正志が末吉殺しの犯人であった可能性が高まったというわけだ!
そんな糸数の胸の内を察してか、正志は、
「でも、誤解しないでくださいよ。僕は末吉を殺していませんからね」
と、眼を大きく見開き、糸数に訴えかのように言った。そんな正志は、犯人と疑われては堪らないと言わんばかりであった。
すると、糸数は些か笑みを浮かべ、
「それは、無理だというものですよ。末吉さん殺しの有力な容疑者である中村さんが、末吉さんの死亡推定時刻に久米島にいたとなれば、我々でなくても、中村さんが末吉さんを殺したと疑いますよ」
そう言い終えた糸数の表情には、笑みは見られなかった。そんな糸数は、下手な言い訳は止めるんだと、正志を諌めてるかのようであった。
そんな糸数に、正志は、
「本当ですよ。僕は末吉を殺してはいませんよ!」
と、まるで訴えるように言った。
すると、糸数は真顔を見せては、
「でも、どうして、末吉さんの死亡推定時刻に、中村さんは久米島にいたのですかね?」
そう言っては、唇を歪めた。
すると、正志は眼を大きく見開き、
「ですから、呼び出されたのですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
「呼び出された? それ、どういうことですかね?」
糸数は、いかにも納得が出来ないように言った。
「刑事さんも承知のように、僕は久米島の末吉博敏に恨みを持っていました。娘の死は、末吉の所為だと思ってましたからね。
それで、度々久米島にまで行っては、末吉に罵声を浴びせたのですが、丁度一週間前のことでした。僕の家に電話が掛かって来たのですよ」
と、正志は淡々とした口調で言った。
「電話? 誰から、掛かって来たんだい?」
「久米島の与那嶺という人物です」
と、正志は決まり悪そうに言った。
「久米島の与那嶺? それ、どういった人なんだ?」
糸数は、興味有りげに言った。
「久米島在住のダイビングのインストラクターで、何でも僕の娘の死の真相を知っていると言うのですよ」
「死の真相を知っている? それ、どういうことなんだ?」
糸数は再び興味有りげに言った。
「娘が死んだのは、末吉の過失によるものと僕は看做しているのですが、しかし、どういった過失なのかは、具体的には分からないのですよ。僕が現場にいたわけではないですからね。
で、その点が裁判で末吉の罪を確定出来なかった要因なんですが、その与那嶺という人物は、何と沙織がどういった経緯で事故に遭ったのか、知っていると言うのですよ。
それで、僕はその詳細を訊いたのですが、与那嶺さんは話がややこしいので、電話では答えられないと言ったのですよ。それで、僕は久米島にまで行ったというわけですよ」
と、正志は力強い口調で言った。そんな正志は、そのことは事実で、何ら嘘偽りはないと言わんばかりだった。
それで、糸数は、
「で、久米島に行って、与那嶺さんから話を聞いたのかい?」
と言っては、眉を顰めた。
すると、正志は大きく頭を振った。その正志の様は、糸数にとって意外なものだったので、
「それは、どういうことなんだ?」
と、興味有りげに言った。
「久米島空港で午後四時に待ち合わせをしてあったんだが、午後四時半になっても、与那嶺は待ち合わせ場所に現れなかった。それで、与那嶺から言われていた携帯電話に電話をしたんだが、電源が切ってあったんだよ」
と、正志はいかにも決まり悪そうに言った。
「で、その与那嶺という人物に会えたのかい?」
と、糸数は興味有りげに言った。
「それが、結局、会えなかったんだよ」
と、正志は再びいかにも決まり悪そうに言った。
「ふむ。ということは、最初からその話は出鱈目だったということなんじゃないのかな」
と言っては、糸数は唇を歪めた。
「正にそうなんですよ」
と、事の真相に理解を示してくれた糸数に、正志は相槌を打つかのように言った。
「で、その日は、久米島に泊まったということかい?」
「そういうわけですよ。日帰りで福岡まで帰れないですからね」
と、正志は決まり悪そうに言った。そして、
「刑事さん。何故僕が末吉の死亡推定時刻に何をしていたのか聞かれて、答えなかったのか、その理由を理解していただけますよね」
と、正志はまるで糸数に訴えるかのように言った。
「分かりましたよ。もっとも、今の話が事実ならばですがね」
と、正志に釘をさした。
「勿論、事実ですよ。嘘なんか、つきますか!」
と、正志は甲高い声で言った。
「では、なんというホテルに泊まったのかな?」
「曙荘です」
「で、与那嶺の電話番号は何番かな」
「090―2134―××××です」
「分かった。その電話番号の持主を調べてみるよ」
ということになり、早速その電話番号の持主のことを調べてみた。
すると、その電話番号は、久米島在住の高野里子という七十五歳の女性の電話番号で、その婦人は現在那覇の病院に入院中だという。
その事実を入手すると、糸数は眼をキラリと光らせた。
それはともかく、曙荘に三月十二日に中村正志が宿泊したという裏は取れた。また、正志の久米島での移動手段はレンタカーであったことも明らかになった。
しかし、曙荘の主人によると、末吉の死亡推定時刻、即ち、三月十二日の午後六時から八時にかけて、正志が曙荘にいたかどうかは、分からないとのことだ。
それ故、正志のアリバイは曖昧とはいえるだろう。与那嶺がどうのこうのという話は、正志の作り話であり、末吉を殺したのは、中村正志であったということだ。
それ故、あっさりと、正志の話を信じるのも危険だろう。
しかし、もし正志が犯人とすれば、何故正志は、那覇で入院中であるという高野里子の携帯電話の電話番号を知っていたのだろうか? この点は明らかにしなければならないだろう。
それで、まず、里子と正志に接点がないかの捜査が行なわれた。
しかし、二人の間に接点はありそうもなかった。
正志は福岡で生まれ育ったのに対して、里子は那覇で生まれ育ったが、久米島の男性の許に嫁に来ては、その後、四十年久米島暮らしというわけだ。
となると、やはり、正志の話、即ち、与那嶺という人物に久米島に呼び出されたという話が正しいのだろうか?
その線で捜査をしてみる必要はあるだろう。