第一章 故郷

        1

 全く、仄々とした陽気だった。吹く風は生暖かく、直射日光に晒されても、暑さを感じることはない。十月の半ばは、戸外に出て散歩するには、持って来いの季節なのだ。
 金山貞治は釣糸を垂れながら、川面に浮かぶ浮きに眼を凝らしていた。
 浮きは時折、浮き沈みした。
 しかし、それは魚が喰らいついたからではない。川の流れが、浮きを浮き沈みさせただけのことなのだ。
 貞治がこの場所に釣糸を垂れて、もう三十分が過ぎようとしていた。しかし、未だに獲物に有り付けなかった。
 周囲の光景は、以前とは変わってはいなかった。川の遥か向こうは、峻険な山々を望むことが出来たし、山々の麓からは、緑眩い野原が拡がっていた。
 これらの光景は、貞治が生まれて以来、何ら変わってはいなかったのだ。
 だが、一つだけ変わったことがあった。
 それは、村の外れに、大手化学工業会社である鍋谷化学工業の工場が建設されたのである。この牧歌的風景の似会うこの村に、誠に異分子的光景が、見られるようになったのである。
 この村、即ち、大高村の主要産業は、農業、林業、それに、酪農であった。殊に、涼しげな気候を利用して、高原野菜が盛んに作られていた。
 金山貞治は、四十五歳で、農業と酪農を営んでいた。農地は五町程持っていたし、また、乳牛も五十頭程飼っていたので、大高村の中では裕福な方であった。
 大高村で農業を営んでいる者は、農閑期には都会へ出稼ぎに行く者もいたが、貞治にはその必要はなかった。
 そんな貞治の趣味は、釣りであった。
 大高村は、山で囲まれていた。それ故、海には面してないし、また、湖とか沼もなかった。
 しかし、川が流れていた。神通川という川が。
 大高村から望められる高峰に源流を発し、日本海に流れ出る大河の支流の一つが、神通川であった。
 神通川は、幅が三十メートル位の小さな川で、水が流れてる部分は、二十メートル程であった。
 神通川では、川魚がよく釣れたものであった。貞治は暇を見つけては、神通川でよく釣糸を垂れたものであった。そして、ウグイがよく釣れたものであった。
 ところが、最近は殆ど釣れなくなったのだ。以前は三十分で五匹は釣れたのに……。何故、こうなってしまったのか。
 貞治はその理由は、鍋谷化学工業の工場が建設された為だと推測した。
 鍋谷化学工業の工場が神通川に廃液を流す為に、神通川を魚が棲むのに相応しくない環境に変えてしまったのではないのか?
 神通川の流れは、まだまだ清流というに相応しいものであった。
 しかし、その流れの成分は、昔とは大きく変わってしまったのではないのか?
 この状況が続くと、神通川にはもう魚が棲めなくなってしまうのではないのか?
 貞治はそう思いながら、一匹の成果も上げることも出来ず、釣糸を仕舞ったのであった。

     2

 村役場の掲示板に、〈アルバイト募集〉の張り紙が貼られていた。アルバイトを募集してるのは、鍋谷化学工業だ。職種は、社員食堂の調理師とか調理補助であった。
 貞治は、その掲示板の前に立ち止まっては、鍋谷化学工業のアルバイト募集の張り紙を食い入るように見詰めては、必要事項を手帳にメモしたのであった。

「治子。アルバイトをやって見る気はないか」
「アルバイト?」
 治子は、素っ頓狂な声を上げた。
「ああ。鍋谷化学工業で今、社員食堂の調理師とか調理補助のアルバイトを募集してるんだ。それに、応募してみないかということだよ」
 と言っては、貞治は小さく肯いた。
「どうして、私がそんなことをやらなければならないの?」
 治子は些か納得が出来ないように言った。
「それはだな。鍋谷化学工業の工場の中をそれとなく探ってもらいたいんだよ」
「探る?」
 治子は怪訝そうに言った。
「ああ。あの工場で何が造られてるのか、探ってもらいたいんだよ」
「どうして、私がそのようなことをやらなければならないの?」
 治子は再び些か納得が出来ないように言った。
「というのは、最近になって、神通川で魚が釣れなくなったんだよ。何故釣れなくなったかというと、鍋谷化学工業が有害物質を含んだ廃液を神通川に流してるからだと思うんだよ。それで、僕はそのことを裏付けたいんだよ」
 と、貞治は些か険しい表情を浮かべては言った。
「そんなことを言われたって……。大体、調理補助として社員食堂で働いたからといって、工場でどういった製品を造ってるのかとか、神通川にどのような物質を流してるのかということを突き止めることなんて、出来ないわ」
「分かってるさ。しかし、社員たちと親しくなれば、それとなく探ることは出来るさ」 
 と、貞治は些か自信有りげに言った。
「分かったわ。あなたの頼みなら仕方ないわ。採用されるかどうかは分からないけど、応募してみるよ」
     
 翌日、治子は履歴書を書いて、鍋谷化学工業の工場内の事務所で面接を受け、採用されることが決まった。
 勤務時間は、午前十一時から午後七時までであったが、午後二時から四時までは、休憩時間というものであった。
 治子の仕事は、調理補助であった。
 鍋谷化学工業の大高工場では、五百人程の従業員が働いているのだが、従業員の殆どは、社宅住まいであった。そんな社員たちの為に、昼食と夕食を作るのである。
 そして、その日に治子は、人事部の者から調理人のチーフである梶川芳子と言う五十位の婦人を紹介され、そして、その日から治子は仕事を行なうようになった。そして、治子はその日、眼が回るような忙しさを経験したのであった。

     3

 治子が鍋谷化学工業の大高工場の社員食堂で働くようになって一週間が過ぎた。すると、その頃には、治子は鍋谷化学工業の社員食堂で働くということに大分慣れて来た。
 そして、食堂で働いてる人たちのことも、徐々に分かって来た。
 治子と同じくアルバイトで働いてる婦人は五人で、その五人は、治子と同じ大高村の者ばかり。
 大高村のアルバイト以外の五人は、鍋谷化学工業とは全く関係のない人材派遣会社から調理師として派遣されて来た者であることが分かった。
 即ち、社員食堂で働いてる者は全て、鍋谷化学工業とは無関係の者ばかりだったのだ。これなら、鍋谷化学工業のことを気兼ねなく訊けると治子は思ったものであった。
 そして、その頃、治子たちはやっと、その日の昼食の後片付けが終わった。
 それで、工場内に設けられている娯楽室で治子たちは休憩することになった。
 娯楽室は、アルバイト専用のもので、広さは二十畳程の洋間で、ソファ一式と、TVが置かれ、また、マガジンラックには、婦人雑誌などが置かれていた。
 治子はソファに腰を下ろすと、婦人雑誌を手にしてる雪村由紀子の横に座った。由紀子は、治子より二歳年上の人材派遣会社から派遣されてる人間であった。
 とはいうものの、そのことを治子はまだ知らなかったので、由紀子に、
「雪村さんは、大高村の人間ですか?」
 と、由紀子に初めて私的な問いを発した。
 治子は由紀子とは仕事上では、何度も会話を交わしたことはあるのだが、私的な会話は交わしたことがなかったのである。
「いいえ。違いますよ」
「じゃ、この村まで通勤してるのですか?」
「いいえ。そうじゃないわ。私たちは派遣社員で、ここに調理師として派遣されてるのですよ。それで、鍋谷化学工業の社宅に住んでるのよ」
「へぇ! そういうわけだったのですか」
 と、治子は素っ頓狂な声を上げた。
 大高村は交通不便な場所に位置していた。
 大高村には、鉄道の駅はない。大高村から鉄道がある駅にまで行くには、バスで四十分も乗っていかなければならないのだ。
 そんな交通不便の村であったが、野菜作りとか酪農に適していたので、大高村から人がいなくなるということはなかったのだ。
 そんな辺鄙な所にある村に、大手会社の工場が建設されたものだから、村の人口は一気に増えたのである。
 しかし、治子はまさか社員食堂で働く派遣社員の人までが、鍋谷化学工業の社宅に入ってるとは思ってもみなかったのである。
 それはともかく、治子は、
「ここの工場では、どんなものを造ってるのかな?」
 と、些か興味有りげに言った。
「知らないの?」
 由紀子は眼を丸くしては言った。
「そりゃ、会社の名前の通り、化学製品でしょうが、でも、詳しくは知らないわ」
 と、治子は戯けたような表情で言った。
 すると、由紀子は、
「実は私も詳しくは知らないのよ。でも、IT関係の電気製品に使われる電子部品を造ってるという位は知ってるわ。それと、化学関係の製品も造ってるらしいわ」
「化学、ですか……」
「ええ。そうよ」
 と言っては、由紀子は小さく肯いた。
「でも、どうしてそのようなことを知ってるのですか?」
 治子は興味有りげに言った。
「村山さんがそう言ってたから」
 由紀子は淡々とした口調で言った。
「村山さん?」
「ええ。そうよ。私が住んでいる社宅の隣の部屋に住んでるのよ。村山さんの大学での専攻は、化学だそうなんですよ。村山さんは、この工場でも村山さんが大学で勉強した知識が役立ってるとか言ってたの。
 それ以外としても、この工場では新製品も造ってるとか言ってましたね」
「新製品ですか……」
「ええ。そうよ。工場内の一番北側に、白っぽい建物があるでしょ」
「窓が全然ない建物のことね」
「そうよ。そこで、化学関係の新製品を製造してるらしいの。村山さんは、技術主任で、新製品製造チームの鍋谷化学工業のリーダーらしいわ。村山さん自身がそう言ってたから」
「そうですか」
 治子はさりげなく訊いてみただけなのに、由紀子は治子が知りたいことの何もかもを話してくれたかのようであった。それ故、治子は思わず笑みを浮かべた位であった。そんな治子は、貞治にいい土産が出来たと思ったのであった。
     
 夕食を食べながら、治子は貞治に由紀子から耳にした話を聞かせた。
 そんな治子の話に貞治は些か険しい表情を浮かべては、耳を傾けていたのだが、治子の話しが一通り終わると、
「やっぱりそうか」
 と眉を顰めては言った。
「やっぱりそうか、とは?」
 治子はそんな貞治を見て興味有りげに言った。
「だから、やはり鍋谷化学工業は、神通川に有害物質を流してるのさ。その化学製品を製造する過程において、有害物質が発生してしまうか、あるいは、有害物質が必要となるんだよ。それを鍋谷化学工業は神通川に垂れ流してるのさ」

     4

 十二月に入った。大高村もそろそろ、雪景色に包まれ始めていた。 
 農閑期の貞治の仕事は、乳牛の世話だ。
 貞治は自らが所有する牧場で、従業員を雇い乳牛の世話を任せていたのだが、農閑期には貞治も乳牛の世話に加わるというわけだ。
 従業員は二人いて、二人とも、六十に近い年齢であった。その二人は仲谷昇(58)、秋野正(59)といった。

 やがて、年が明け、一月に入った。
 牧場の風景は、いつもと変わりはなかったのだが、いつもなら見られない一人の若者の姿を眼にすることが出来た。そして、その若者は、栗田明といった。
 明は、貞治の甥で、都会の大学に通っている二十一歳であった。そんな明は、冬休みに入ったので、貞治の牧場にアルバイトにやって来たのである。
 牧場での明の仕事は、乳搾り、牛舎の掃除、乳牛への餌やりといったものであった。
 乳搾りは、朝と夕の二回に渡って行なっていた。
 牛への餌やりは、赤ちゃん牛と大きくなった牛とでは違っていた。
 赤ちゃん牛へは、乳を飲ませた。飲ませ方は、バケツの底の方にゴム製の乳首をつけ、これで赤ちゃん牛に乳を飲ませるのだ。
 大きくなった牛の餌は、サイロに蓄えられていた。
 餌は、夏から秋にかけて刈り取った牧草やほし草や藁だった。大きくなった牛へは、サイロから餌を出して与えるのだ。
 明は牧場にやって来て、想像もしてなかった面白い場面を眼にすることが出来た。
 それは、お産の場面であった。
 牛の赤ちゃんは、足が母牛のお腹から出てきたら、チェーンを付けて、ひっぱり出すのだ。
 明はその場面を見ていて、もし、人間の手によって赤ちゃん牛を引っ張り出さなければ、果して赤ちゃん牛は無事に産まれて来るのだろうかと思った。しかし、その疑問は、口に出すことはなかった。
 無事に生まれた赤ちゃん牛は、体重が人間の大人位もあるとのことだ。それを聞いて、明はびっくりしたのであった。

 明が牧場でアルバイトを始めて二週間が過ぎた。 
 明は貞治から牧場でアルバイトをやってみないかと誘われた時に、牧場での生活に希望を抱き、あっさりと承諾したものであった。
 だが、実際は、明が思っていた程、愉しくはなかった。
 というのも、太陽が殆ど射さないどんよりと曇った日が多いことが、明の気分を陰気にさせてしまったのだ。また、それ以外として、明は都会のネオンが煌めく光景に慣れていたので、大高村の雪に閉ざされた素朴な光景が、明の趣を削いだということもあった。それ以外としても、明の同年齢の話し相手がいなかったということもあったであろう。
 しかし、これが夏だとすれば、少し話が違って来るであろう。
 バイクでツーリングなんかをすれば、さぞ快適な気分に浸れることであろう。明は夏の大高村の光景を知ってるだけに、冬の大高村は余計に退屈さを感じてしまったのである。
     
 明は今朝、貞治から、
「今日は仕事をしないでいいから、好きなことをやってていいよ」
 と言われた。
 それで、貞治から軽ワゴン車を借り、大高村周辺を乗り回してみることにした。
 明は昨日、貞治の命を受け、軽ワゴン車で村の外れにまで行った。貞治の仕事仲間に、書類を渡す用を受けたのである。
 それで、今回、大高村にやって来て、初めて大高村を車で走ったのであった。
 だが、村の集落を抜けると、眼につくのは、単調な雪景色ばかりであった。これが、夏なら、辺りは眩いばかりの緑が眼につくのだろうが、今、眼に出来る光景は、このようなものであったのだ。
 しかし、軽ワゴン車で辺りを乗り回すことは、明の気分転換になったのは、事実であった。
 明が運転する軽ワゴン車は、やがて、金山牧場を通り過ぎ、北に向かった。そちらの方は、鍋谷化学工業の工場があった。
 明は別に鍋谷化学工業の工場に用があったわけではなかった。
 しかし、昨日はそちらの方には行ってなかったので、それだけの理由で鍋谷化学工業の工場の方へと車を走らせたのである。
 そして、程なく明は鍋谷化学工業の工場を眼に出来るようになった。
 すると、明は路肩に軽ワゴン車を停めては、車外に出た。
 すると、否応なしに、鍋谷化学工業の工場の煙突から吐き出される煙が眼に付いた。
 その光景を目の当たりにして、明は、
「全く、似合わない光景だな」
 と、呟いた。
大高村は、正に素朴な村であった。 
 村の中に繁華街などあるわけはなく、飲食店も数える程しかなかった。正に、畑と牧場ばかりの村であったのだ。正に、のどかという表現がぴったりの村であったのだ。
 そんな村の中に、まるで大都会の工場密集地帯で見られるような工場から吐き出される煙を眼にすれば、一層その光景は大高村には似合わないと明が思うのも、当然のことであった。
 明は軽ワゴン車から降りると、大きく伸びをした。軽ワゴン車の中はエアコンが聞いていた為に、寒さは感じなかったが、車外に出ると、肌を刺すような寒さであった。
 それで、明は、
「おお……、寒い……」
 と、身震いし、早々と軽ワゴン車の中に入ったのだが、すると、幌を付けた軽トラックが、鍋谷化学工業の正門から出て来るのを眼に留めた。そして、それは意外な光景であった。
 というのは、鍋谷化学工業の工場から製品を運ぶトラックのイメージとは程遠いものであったからだ。
 それで、明の脳裏に、思わず、
〈あのトラックは、何を積んでるのだろうか? 何処に行こうとしてるのだろか?〉
 という思いが浮かんだのも、それは、まるで自然の成り行きであるかのようであった。
 幌を付けた軽トラックは、村道を大したスピードも出さずに進んでいた。
 明は今、その軽トラックを尾行していた。かなり、距離を置いて……。あまり近付くと、尾行してることがばれるのではいかと、明は恐れたのである。
 また、あまり近付かなくても、軽トラックを見失う心配はなかった。というのは、村道を走ってる車は殆どなかったし、また、辺りの視界を遮ってるものは、今は何もなかったからだ。更に、交差点というものも殆どなかったので、後続車がぴったりと尾いて来ても、何ら妙ではなかったのである。
 軽トラックは、やがて、左に曲がった。
 それで、明もその後に続いた。
 だが、その道が何処に行くのか、明は知らなかった。だが、曲がってみると、どうやら山の中に入って行く道であるようだった。
 軽トラックは、どんどんと進んでいた。
 やがて、その道は林道となった。周囲が雑木林となったのだ。そして、その雑木林は、今、すっかりと雪化粧を施されていた。
 林道もすっかりと雪が積もっていたが、その上を車が通った痕は見られなかった。しかし、通行止めにはなってなかった。
 大高村は今やすっかりと雪に覆われているといっても、大高村は豪雪地帯ではない。それ故、辺りにはスキー場などなく、また、大高村周辺の道が雪の為に通行止めになったりすることは、滅多になかったのである。
 それはともかく、軽トラックはぐんぐんと林道を上って行った。
〈一体、何処に行くのだろうか?〉
 明はそう思いながら、かなり、距離をあけて、軽トラックを尾行していたのだが……。
 そして、五分程進むと、林道は少し下りになった。
 そして、程なく雑木林越しに見えていた軽トラックが、右の脇道に曲がったのを、明は眼にした。
 だが、明はその脇道に曲がらず、そのまま進んだ。曲がるわけにはいかなかったのだ。そのようなことをすれば、明の軽ワゴン車が軽トラックを尾行してるということに気付かれてしまう恐れがあったからだ。
 しかし、明は楽観的な気分を味わっていた。というのも、脇道に曲がった軽トラックの行き先は、凡そ察知出来ると明は読んでいたからだ。というのも、あの脇道の先に本道があるとは思えなかったというわけだ。当りの地形が、明にそう思わせたのである。
 また、雪の上には、あの軽トラックのタイヤの痕跡がくっきりと刻まれてるに違いない。明はそう察知したのである。
 明は軽ワゴン車を少し進ませると、やがてUターン出来そうな場所に通り掛かったので、そこでUターンし、エンジンを止めては十五分程時間を稼いだ。
 そして、やがて、軽ワゴン車のエンジンを掛け、件の軽トラックが右折した脇道の手前まで来ては、軽ワゴン車を停めた。
〈どうしようか……〉
 明は迷った。というのは、軽トラックが、もしまだ引き返していないのなら、明の軽ワゴン車と鉢合わせしてしまう可能性があり、そうなってしまえば、明にとって好ましいものになるとは思えなかったからだ。
 それで、明は少し迷っていたのだが、やがて、明は笑みを浮かべた。というのは、もし軽トラックが引き返したのなら、そのタイヤの跡がくっきりと雪道の上に刻まれてると思ったからだ。
 それで、明はとにかく車外に出ては、雪道に刻まれたタイヤ痕を調べてみた。
 すると、明は再び笑みを浮かべた。何故なら、軽トラックが既に引き返したことを示すタイヤ痕が、雪道の上に刻まれてることを明は認めたからだ。
 それで、明は軽ワゴン車に戻ると、直ちにエンジンを掛け、脇道へと左折した。
 そして、軽トラックが進んだと思われる先へと軽ワゴン車をゆっくりとした速度で走らせていたのだが、その時、明は妙に思っていた。というのは、鍋谷化学工業の軽トラックが、何故このような場所に来る必要があるのかと思ったからだ。
 この道は、明らかに林道だ。伐木した木を運ぶ為の道なのだ。それなのに、何故?
 その疑問が明の脳裏を捕えていたのだが、その一方、明は快感を感じていた。
 都会慣れしてる明は、この雪に包まれた大高村での生活が、とても単調なものに感じていた。それ故、今、明が取ってる行動は、その単調な暮らしに刺激を与えたのだ。また、快感をもたらしたというわけだ。
 明は軽トラックのタイヤ痕が続いてる限り、軽ワゴン車を走らせるつもりであった。
 道はくねくねと曲がっていた。一体、この道は何処まで続いてるのだろうか?
 そう思ってる内に、やがて、道は直径十メートル位ある円形の広場に出た。
 明はそこに軽ワゴン車を停めた。何故なら、軽トラックのタイヤ痕は、この場所で止まっていたからだ。林道はこの先も続いていたのだが、タイヤ痕は、この場所で途切れていたのだ。
 それで、明はこの場所に軽ワゴン車を停め、車外に出た。
 明が地面に降り立つと、真っ先に気付いたのは、人間の足跡であった。それが、鍋谷化学工業の軽トラックを運転していた者が、この場所で降りたということを如実に物語っていた。
 明はすかさず周囲を見回した。
 すると、辺りは雪化粧を施された雑木林が広がってるだけで、今までの光景とは特に変わらなかった。一体、鍋谷化学工業の者は、このような場所に何の用があったのだろうかという思いが改めて明の脳裏を過ぎったが、明は程なく眉を顰めた。何故なら、人間の足跡が、雑木林の中へと続いているのを眼に留めたからだ。
 明はその足跡を追ってみることにした。
 足跡から判断すると、中に入って行ったのは、二人だった。一体何をする為に雑木林の中に入って行ったのだろうかという思いが、改めて明の脳裏に込み上げて来た。
 それはともかく、明はわくわくしながら、その足跡を追ったのだが……。
 だが、足跡は雑木林の中、五メートル程入った所で止まっていた。
 明は周囲に眼を凝らした。
 すると、すぐに人為的所業によって生じたと思われる光景を眼に留めた。
 それは、穴掘りであった。軽トラックの人間が、穴を掘り、その穴を埋めたような形跡を明は眼に留めたのだ。
 そこは確かに土が被せられ、その上に雪が被せられてはいたが、しかし、その周囲に人間の足跡があり、しかも、雪の被せ方が中途半端であった為に、子供でもその場所に穴が掘られ、その穴が埋められたということに気付く位のものであったのだ。
 そりゃ、明日になれば、今夜に降るであろう雪によって、この人為的光景は跡形もなく消失するかもしれないが、今はそうではなかったのだ。軽トラックの人間も、まさか明のような輩がこの場所に来るなんて、夢にも思ってはいなかったことであろう。
 それはともかく、明はこの時点で、どうすべきか迷った。
 つまり、この穴に何が埋められたのか探るのかどうかということだ。
 まさか、人間の死体が埋められてはいないと思うが、しかし、このような場所にまで来て埋めなければならないものは、明たちにとって好ましいものとは思えなかった。
 それ故、明はこのまま引き返そうかと思った。
 しかし、この時、明の脳裏に浮かんだのは、退屈な大高村での暮らしであった。
 今、このまま、伯父の家に戻っても、何もすることがないじゃないか! 雪に包まれてる大高村の光景を眼にしても、何ら趣がないじゃないか! 牛と睨めっこしたって、大して面白くないじゃないか!
 そう思うと、明は意を決して、連中が何を埋めたのか、探るこを決めた。
 そんな明は軽ワゴン車に戻り、工具箱からスコップを取り出した。そして、それを手に、元の場所に戻った。
 そして、直ちに彼らによって掘られたと思われる穴を掘り返す作業に取り掛かった。
 とはいうものの、一度掘られた穴であったから、さ程労せずに掘り返すことが出来た。その穴の直径は五十センチ程と思われた。もし、それが二メートル程のものであったのなら、明は穴を掘り返すことを断念したかもしれない。
 というのも、もし二メートルもあれば、いくら一度掘られた穴といえども、かなり労力が必要となるだろうし、また、埋められたものが明が見てはならないものである可能性も生じ、そのような危険を冒すことを明は警戒しただろうからだ。
 そう思いながら明は穴を掘り進めたのだが、程なくそこに埋められていたものが何だったのか分かる時が来た。
 それは、何と兎の死骸だったのだ。
〈何だ、つまらない……〉
 明はその事実を間の当りしして、そう思った。わざわざ、勇気を奮って穴を掘り返したのに、その先に待っていたのが、兎の死骸だったなんて……。
 その事実は、明に失望をもたらすのに十分なものであった。
 その一方、何故兎の死骸をこのような場所にまで来て埋めなければならないのかという疑問が、明の脳裏を捕えた。そして、その疑問に対して、明は少しの間、頭を働かせてみたのだが、適切な答を見付け出すことは出来なかった。
 とはいうのものの、何が埋められていたのかを突き止めたので、この時点で明は引き返すことにしたのであった。

     5

 明が今、お世話になっている金山家の住まいは、金山牧場から五百メートル程離れた所にあった。
 金山宅がある辺りには、民家が二十軒程、固まってた。
 そして、その周囲には、畑が拡がっていた。
 また、金山宅の敷地は三百坪程であり、それは大高村の中では大きい方であった。
 明は、明の室として割り当てられている二階の六畳間で夕食を待っていた。
 明は雪に包まれた大高村の光景には不満であったが、食事はとても愉しみであった。貞治の妻の治子は、とても料理が上手であったのだ。殊に、すき焼きとか、山菜がふんだんに入った釜飯なんかが、特に美味しいと思った。
 ただ、夕食の時間が、午後八時というのは、些か残念であった。
 しかし、只で食べさせてもらってるので、文句は言えないであろう。
 やがて、食事の時間になったので、明は階下に降りた。食事室は一階にあったのだ。
 四人掛けのテーブルには、既に貞治と治子が席についていた。そんな明と治子との間には、子供はいなかった。それ故、明をアルバイトとして、金山宅に招いたのかもしれない。
 テーブルにつくと、明は今夜のメニューが何かを眼にした。
 すると、それは、すき焼きであった。明の大好物である。
 それで、席に付くと、明は待ってましたと言わんばかりに、すき焼きを口の中に持って行ったのだが……。
 明が食事をかなり食べた頃、貞治が、
「今日は何をしてたんだ」
「その辺りを軽ワゴン車で回っていたんですよ」
 と言っては、
「この村の外れに鍋谷化学工業がありますよね。あの工場では何が造られてるのですかね?」
 と、いかにも好奇心を露にしては言った。
「そりゃ、あの会社は、名前の通り化学製品を造ってるんじゃないかな」
「化学製品、ですか。でも、具体的に何を造ってるのですかね?」
 と、明がいかにも興味有りげに訊くので、貞治は、
「どうしてそんなことを訊くのかい?」 
 と、笑いながら言った。
 それで、明は今日、明が経験したこと、即ち、鍋谷化学工業の工場から出て来た軽トラックを尾けては、兎の死骸を発見した時までのことを話した。
 貞治はそんな明の話に言葉を挟まずに、些か険しい表情を浮かべては耳を傾けていたが、明の話が一通り終わると、
「随分、大胆なことをやったんだな。まるで、探偵みたいじゃないか」
 と言って、薄らと笑みを浮かべたが、
「でも、僕も明と同じように、何故兎の死骸をそのような場所に捨てたのか、疑問に思うよ」
 と言っては、首を傾げた。
「そう思うでしょ。伯父さん」
 と、明も薄らと笑みを浮かべた。そんな明は、今日の明の行為が、貞治の興味を引いたようなので、些か嬉しくなったのである。
 そんな明は、
「伯父さんは、どう思いますかね?」
 明は興味津々たる表情で言った。
「うーん。むずかしいな。普通は、兎の死骸をそのような山の中に捨てはしないからな。だから、そうだな。何かの化学実験に兎が使われ、その結果、兎は死んだんじゃないかな。
 その為に、身近な所に兎の死骸を捨てることが出来なくなってしまったんだ。その化学物質の拡散を防ぐ為にな。その位の推測しか出来ないよ」
 と、貞治は些か険しい表情を浮かべては言ったのであった。

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