第二章 スパイ
   
     1

 治子は鍋谷化学工業の社員食堂で働くことに、もうすっかり慣れてしまった。
 といっても、その忙しさは、最初とは変わりはしなかったが。殊に正午頃は、鍋谷化学工業の社員たちが一気に食堂に入って来るので、その忙しさは眼が回る位だったのである。
 治子の横で、ご飯を盛りつけていた雪村由紀子が、
「金山さん。あの人が、村山さんよ!」
 と言っては、カウンター越しに、一人の男性の方を指差した。
 それで、治子は初めて眼にする村山の方に眼をやった。
 村山は、銀縁の眼鏡を掛けた華奢な身体付きの男性であった。年齢は、四十位に見えた。
 治子はそんな村山のことをはっきりと脳裏に刻み込んだのであった。
 治子は村山とは一度、話をしなければならないと思った。
 治子は、貞治に請われて、鍋谷化学工業の社員食堂でアルバイトをすることになった。そして、その目的は、鍋谷化学工業が有害物質を神通川に流してないか、探ることであった。
 そして、それは正にスパイであった。
 しかし、治子はスパイのようなことをするのが、好きであった。それ故、鍋谷化学工業でのアルバイトを引き受けたのであった。
 そんな治子は、この工場では治子の先輩に当たる雪村由紀子と親しく話をするようになったといえども、まだこの工場で有害物質を生成し、それを神通川に流してるという事実は、確認出来てはいなかった。
 それ故、その事実は、村山から確認するしかないと思ったのだ。由紀子から聞いた村山の人間像からして、村山はそのことを治子に話してくれそうな気がしたのであった。

 やがて、午後一時半を過ぎた。
 すると、社員食堂で眼に出来る人の数もめっきりと少なくなった。
 すると、治子たちの仕事も一段落ついた。
 すると、治子は由紀子に、
「雪村さんは、村山さんとは、どれ位親しいの?」
 そう治子が言うと、由紀子は、
「えっ?」
 と、素っ頓狂な声を上げた。由紀子は、治子が言ったことの意味が分からなかったのである。
「つまり、親しげに会話を交わせる位とか、ただ、挨拶を交わす位だけだとか」
 と、治子は些か言いにくそうに言った。
「そうねぇ。何しろ、村山さんは鍋谷化学工業のエリート社員だし、私はただの派遣会社の社員ですからねぇ。
 もっとも、村山さんはそのようなことを思わせない位、随分とざっくばらんな人ですからね。だから、ある程度は親しげな会話を交わしたりはしてますがね。何しろ、村山さんはもう一年位、隣に住んでいますからね。でも、どうしてそんなことを訊くの?」
 と言っては、由紀子は首を傾げた。
「私の周りには、エリートさんはいないのよ。だから、エリートさんと話をしてみたいのよ。それで、私、村山さんと一度、話をしてみたいの。
 それ以外として、私は小説を書いてるの。その中で、エリートが登場する場面があるので、小説を書く上で参考にしたいのよ」
 治子が言ったことは、半分は本当であった。治子は村山と話をしたいのは、無論、鍋谷化学工業が神通川に有害物質を流していないかを探ることにあったのだが、しかし、その半面、治子の周りには、エリートというような人がいなかったので、そのような人と治子は一度、話をしてみたかったということと、趣味で小説を書いてるというのは、本当であったのである。
 すると、由紀子は、
「金山さんは、小説を書いてるの?」
 と、眼を丸くしては言った。
「ええ。そうよ」
「へえ! 素敵な趣味があるのね。私の趣味は、メロドラマを見ること位よ」
 と、決まり悪そうに言った。そして、
「今の話は、村山さんに伝えておきますよ。村山さんは今の金山さんの話に興味を持ち、金山さんに会ってくれるんじゃないかな。私は、何となくそんな気がするな」
 そう由紀子に言われると、治子はほくそ笑んだ。

     2

 その二日後、治子の思いが実現することになった。村山が治子と話をしてもよいという旨を由紀子に伝えたのである。
「村山さんは午後七時十分頃、工場の正門付近で待っていてくれと言ってたよ」
「そうですか」
 と、治子は嬉しそうに言ったものの、由紀子は、
「でも、村山さんは金山さんのことを知らないから、私も一緒に待っていてやるよ」
「悪いわね」
「どうせ、社宅に戻っても、私、大してやることがないのよ。だから、帰りが少し位、遅くなっても構わないから」
「よろしくお願いします」
 と言っては、治子は由紀子にぴょこんと頭を下げたのであった。
 
 鍋谷化学工業大高工場で働いてる従業員たちは、協力会社を含めて、その殆どが鍋谷化学工業の社宅住まいであった。
 鍋谷化学工業の社宅は、工場から七百メートル程、離れた所に建てられていた。
 社宅から工場までは、ある者はマイカーで、ある者はオートバイで、ある者は自転車で通勤していた。
 七時十分きっかりに、村山は工場の正門から現われた。
 そんな村山は、オートバイに乗っていた。
 村山は由紀子のことをすかさず眼に留めると、由紀子の許にやって来た。
 そして、オートバイから降り、エンジンを止めた。そんな村山は、治子にすかさず眼をやった。
 そして、
「こちらの方かい? 僕と話がしたいという金山さんという方は?」
 と、由紀子を見やっては言った。
 すると、由紀子は、
「そうですよ」
 と薄らと笑みを浮かべては言った。
 そう由紀子に言われると、治子は、
「私が金山です。よろしくお願いします」
 と言っては、ぴょこんと頭を下げた。 
 そんな治子に村山は、
「小説を書いてるんですか? どんな小説を書いてるのですかね?」
 と、些か興味有りげに言った。
「恋愛小説とか、青春小説ですね」
「そう……。僕も学生時代は色んな小説を読んだね。特に、フランス文学が好きだったな」
 村山と治子がそう言ったやり取りを交してると、由紀子は、
「じゃ、私、これで失礼するからね」
 と言っては、二人の許から去って行った。
 すると、治子は些かぎこちなさを感じた。今までは由紀子がいたから、村山と流暢な会話を交わせたのだが、由紀子がいなくなったので、そのように感じたのだ。
 それで、治子は、
「こんな所で立ち話も何ですから」
「そうだな。何処かいい所がないかな」
 大高村には喫茶店は一軒もなかった。 
とはいうものの、スナックは二件程あった。
 しかし、スナックでは、村山とは落ち着いて話は出来ないというものであろう。
 それで、治子は、
「うちの牧場は、どうですかね?」
「牧場?」
「そうです。主人が牧場を経営してましてね。稼業が酪農なんですよ。そこに事務所があるので、そこで話をさせてもらえないですかね」
「いいですね。そういった所で話をするのは、風流がありそうだな」
「私の牧場へは、ここからオートバイなら、七、八分なんですが、構いませんか?」
「構わないですよ」
「じゃ、私の後に尾いて来てください」
 と言っては、治子が運転するミニバイクの後に、村山が運転するオートバイは続いた。
 そして、確かに七分で治子と村山は、金山牧場に着いた。
 辺りは既に夜の帳に包まれていた為に、金山牧場の全容を村山は眼にすることは出来なかった。
 だが、仄かな明かりを地上に投げている月明かりなどから、かなり広い牧場であることは察せられた。
 それで、村山は、
「いいですな。このような所で仕事が出来るのは。僕もやってみたいですな」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。
「でも、なかなか大変ですよ。何しろ、動物の世話ですからね」
 そう治子が言うと、村山は突如、真剣な表情を浮かべては、
「で、僕に話って、どんな話ですかね? 小説が好きで、僕のことを観察したいと言われたそうですが、僕はそれが金山さんの本心とは思えないですね。何か別の話をする為の口実だと思うのですよ。違いますかね?」
 と、銀縁の眼鏡の奥に潜む鋭い眼を一層鋭くさせては言った。
 治子はといえば、村山にそう言われ、びっくりしてしまった。治子は策略を考えては村山を呼び出したのだが、村山はその治子の策略をあっさりと見破ってしまったのだ。
「全く参りました。村山さんのおっしゃる通りですわ。
 でも、分かっていたのなら、どうして村山さんは私と話をされることにしたのですか?」
 治子は眉を顰めては言った。
 すると、村山は、
「僕はまだ話をしてませんよ。金山さんから、まだ何も訊かれてはいませんからね。
 で、何かを訊かれても答えたくなければ、答えなければいいだけですからね。ただ、それだけのことですからね」
 と言っては、にやっとした。
 治子はそう言われ、些か怖気づいてしまった。村山は外見からは思えないような大胆な神経の持ち主だと思ったからだ。
 それで、治子はすっかり村山に呑み込まれた形になったが、貞治から言われたことを忘れはしなかった。
 そして、治子はこの時、決意した。思いきって、村山に訊いてみることを!
 そう治子に決意させたのも、村山という人間を信じてよいと、治子は直感的にそう感じたからだ。
 また、治子は直感というものを信じていた。
 治子は大高村で生まれ、大高村の自然の中で育って来た。
 そして、直に大自然というものに接して来た。
 すると、この大自然というものは、人間の英知を超える大いなる力で支配されてると感じた。
 その力は理屈というより感覚的なものであったが、その治子の感覚的なものが村山を信じて良いと告げたのである!
「村山さんは、鍋谷化学工業の大高工場で、化学製品を製造する仕事に携わっておられるとか」
「そうだよ。うちの会社は鍋谷化学工業という言葉通り、化学製品がうちの主力製品だからね」
「どのような製品を大高工場では造ってるのですかね?」
 治子はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 無論、鍋谷化学工業の大高工場では、どのような製品が造られてるかは、凡そ公表はされていたが、治子はそれを口には出さずにまずそう訊いた。
 すると、村山は、
「こりゃ、随分と込み入った質問だな。金山さんは、ライバル会社のスパイかな?」
 と、笑いながら言った。
 すると、治子はいかにも真剣な表情を浮かべては、
「そんなのじゃないです!」
 と、村山の言葉を即座に打ち消した。
 すると、村山は小さく肯き、
「大高工場でうちの会社がどのような製品を造ってるかというと、電子部品だよ。産業用にも、民生用にも様々な電子部品が使われてるんだが、大高工場でもそれを造ってるというわけさ」
 と言っては、小さく肯いた。
「その電子部品の製造には、化学の知識が必要なのですかね?」
「必要だな」
「そうですか……」
 と、治子は些か残念そうに言った。
 すると、そんな治子に村山は、
「そのことを訊きたかったのかい?」
 そう言った村山の表情には、笑みはなかった。そんな村山の表情には、些か真剣さが見られた。
「そうじゃないのですよ」
 治子は村山のことをちらちらと見やっては、小さな声で言った。
 すると、村山は眼を大きく見開いては、
「遠慮しなくていいよ。さっきも言ったように、答えられない質問には、答えないだけだから」
 と、真剣な表情で言ったので、治子は、
「実は、鍋谷化学工業の大高工場から有害物質を含んだ廃液が神通川に流されてるのではないかと思いましてね。そのことを訊いてみたかったのですよ」
 遂に治子は言った。
 すると、村山は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 そして、村山のその沈黙は三十秒程続いたのだが、やがて、村山は、
「どうしてそんなんことを言うんだい?」
 と、いかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
「ある人がそのようなことを言ってたんですよ。名前は言えないですが。
 で、その人が言うには、最近、神通川でめっきりと魚が釣れなくなったとのことです。そして、その原因は鍋谷化学工業の大高工場から、有害物質を含んだ廃液が流されてることにあるからではないかと。それで、その真偽を確かめたかったのですよ」
 と、治子は今までの口調とは打って変わって、いかにも力強い口調で言った。
 すると、村山は、
「うーん。その質問には、答えられないな」
 と、困惑したような表情を浮かべては言った。 
 治子はそんな村山を見て、これ以上、この点に関して、村山に訊くべきではないと判断した。これ以上、問い詰めると、村山は怒って帰ってしまうのではないかと思ったのだ。
 それで、治子は話題を変え、
「村山さんは、お一人で社宅に住まわれているのですか?」
「そうですよ。うちの工場で働いてるうちの社員は、全員といっていい位、社宅住まいなんですが、その殆どは、単身赴任ですね。子供を連れて来れば、遊ばす環境はいいかもしれないですが、通学なんかが大変だからね」
「村山さんには、お子さんがいらっしゃるのですかね?」
「ええ。いますよ。でも、まだ三歳なんですよ。でも、家内がここに来るのに嫌だと言いましてね。何しろ、家内は都会暮らしが長いので、こういった所に住むのは好きでないみたいですね」
 と、村山は神妙な表情で言った。そして、
「金山さんには、お子さんは、おられないのですかね?」
「そうなんですよ。私は主人と二人暮らしなんですよ」
 と、治子は些か顔を赤らめては言った。
 すると、村山は、
「で、僕に話とは、これ位ですかね?」
「ええ」
 と言っては、治子は軽く肯いた。
「そうですか。では、僕はこの辺で失礼させてもらいますよ」
 そう言っては、村山は立ち上がったので、治子は予め用意してあった地元産の銘酒を渡した。
 すると、村山は些か嬉しそうに治子に礼を述べては、帰って行った。
 治子は家に戻ってから、村山との会話の一部始終を貞治に話した。
 すると、貞治は「うーん」と、唸り声のような声を上げては、
「村山さんはやはり本当のことを言えなかったのさ。つまり、やはり、工場からは有害物質を含んだ廃液が神通川に流されてるのさ。だから答えられないと言ったのさ」
 と言っては、力強く肯いた。
 すると、治子は、
「とにかく、私、もうこんなことをするのは、ご免だわ。神経が疲れてしまうからね。村山さんのような人間を相手にするのは苦手よ。村山さんったら、私の考えてることなんて、何もかもお見通しといった感じなんだから」
「アッハッハッ! エリートっていうものは、そんなものさ。
 で、このようなことは、もう今後、やってもらわなくてもいいよ。ご苦労さん」
 と、貞治は笑いながら言った。

     3

 その三日後、由紀子は治子に、
「どうだった? 村山さんとの話は?」
 と、いかにも興味有りげに言った。
「色々と参考になったわ。小説を書くのにね」
 と、治子は笑いながら言った。
「そう……。で、実はね」
 と、由紀子は表情を曇らせて言った。
 その由紀子の表情に、治子も釣られては、神妙な表情を浮かべては、
「実は、何?」
「うん。実はね。村山さんが左遷されたみたいなのよ」
「左遷?」
 治子は素っ頓狂な声を上げた。その由紀子の言葉は、治子の思ってもみなかったものだったからだ。
「小林薫さんて、知ってる?」
「知らないわ」
「おばさんよ。清掃係の」
「ああ……。あの方ね」
 そう由紀子に言われてみると、治子は小林薫という清掃係のおばさんのことを思い出した。いつも箒を手に、工場内を箒で掃いている六十位の婦人がいるのだ。その婦人のことを由紀子は言ったのだと思ったのである。
「で、その小林さんから耳にしたんだけど、今日から村山さんが小林さんたちと共に清掃の仕事をするらしいのよ」
「えっ!」
 治子は再び素っ頓狂な声を上げた。正にそれは、信じられないような話であったからだ。
 それで、治子は、
「また、どうしてそんなことが起こったの?」
 治子は好奇心を露にしては言った。
「知らないわ。全く、この会社はどうなってるのかしら」
 と、由紀子は首を傾げたのであった。

 その夜、治子は村山が清掃係に回されたことを貞治に話した。
 すると、貞治は腕組みをしては些か険しい表情を浮かべては少しの間、考え込んでいたが、やがて、
「これは、何かあるな」
 と、呟いたのであった。

     4

 村山は治子と金山牧場で話をした日の一週間後、人事部の柴山から、事務所の三階にある会議室に来るように言われた。
 それで、村山は清掃の作業を中断し、会議室に向かった。
 会議室に入ると、村山の上司である高林貞利部長が村山のことを待っていた。
 高林は村山を眼にすると、椅子に座るように言った。
 それで、村山は椅子、といっても、折り畳みの椅子であったが、座り、机を挟んで、高林と向い合った。
 高林は開口一番に、
「どうだ? 今の仕事は?」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
 すると、村山は、
「はあ……」
 と、言葉を濁した。
「毎日、泥に塗れて仕事をするのも、悪くはないだろ。そう思わないかい?」
 と、高林は眼鏡の奥に潜む細い眼を更に細めては、唇を歪めた。
 そう高林に言われて、村山は言葉を発することは出来なかった。今の作業に村山が不満に思ってることを高林が知らないことはないわけがなかったからだ。
 村山が渋面顔を浮かべては、言葉を発しようとはしないので、高林は、
「僕はね。君みたいな優秀な社員を清掃係として使いたくないんだよ。そのことを君も理解してると思うんだが」
 すると、村山は眼を高林に向け、
「分かってます」
 と、気丈な表情と口調で言った。
「そうか。じゃ、考え直してくれたんだな」
 高林は、眼を大きく見開いては言った。
「いや、そういうわけでは……」
 村山は高林の言葉を打ち消すかのように言った。
 すると、高林は眉を顰めた。
 村山は有名国立大学を優秀な成績で卒業し、鍋谷化学工業に入社した。そして、社内のエリートコースを歩んで来た。
 そして、この大高工場では、技術主任として、重要なポストを任せられていた。
 だが、村山はあることをきっかけに、会社の方針に反発するようになったのだ。
 鍋谷化学工業が大高村に進出した最大の理由は、新製品を開発する為であった。
 だが、その製造過程において、有害物質が生成されることは分かっていた。
 しかし、その有害物質は、処理装置を介しても、完全には除去することは不可能であった。
 それ故、有害物質を排出しても、辺りに居住者が被害を受けにくいような場所を選ぶ必要があったのだ。
 そういった経緯により、選ばれたのが、大高村であったのだ。
 何しろ、大高村は過疎地域であり、また、神通川という廃液を流すのに打ってつけの川があったからだ。
「だったら、君は、Xプロジェクト(新製品開発プロジェクト)には加わりたくないという考えを改める気にはならないんだな?」
 高林は、厳しい口調で言った。
「ええ。そうです。僕の考えは変わってはいません」
 村山はきっぱりと言った。
 村山は有害物質がどんどんと神通川に流されている現状を憂い、Xプロジェクトを解散しないのなら、Xプロジェクトから外してくださいと、高林に直訴していたのだ。
「分かった! もういい!」
 村山の返答に、高林は声を荒げて言った。

     5

「おはようございます!」
 治子は正門を通り過ぎ、更衣室に向かう途中、柴山とばったりと顔を合わせてしまったのだ。
 柴山は、五十位の温厚な感じの男性で、治子が鍋谷化学工業のアルバイトに応募した時の面接官であった。
 治子に声を掛けられ、柴山は立ち止った。そして、治子に、
「仕事は慣れましたか?」
「ええ。毎日、大変ですが、愉しくお仕事をさせてもらってます」
「そうですか。それは、いいことですね」
 そう言っては、柴山は治子の許を去ろうとしたのだが、そんな柴山に治子はさりげなく、
「鍋谷化学工業の社員の方は、色んな仕事をなされてるんですね」
 その治子の言葉に柴山は興味を抱いたのか、柴山は振り返り、
「それは、どういう意味ですかね?」
「村山さんという方がいらっしゃいますね。エリートの方ですが。その村山さんが、草取りとか、ゴミ拾いをされてるので、私、びっくりしてしまいました」
 そう治子が言うと、芝山は、
「そのこと、ですか……。でも、何故金山さんは、村山君のことを知ってるのかな?」
 柴山は、怪訝そうな表情で言った。
「村山さんは、私の仕事仲間の雪村さんの隣の部屋に住んでるのですよ。そういう関係で、私は村山さんと顔を合わせ、話したことがあるのですよ」
 と、治子は些か顔を赤らめては言った。
「そう……。それで、村山君とは、どんな話をしたのかな?」
 柴山は興味有りげに言った。
「ご家族はいらっしゃるのかとか、お子様はいらっしゃるのかといったような話ですわ」
 と、治子はそう言うに留まった。柴山には、無論、有害物質を神通川に流していないのかと訊いたなんてことは、言えなかったからだ。
 そんな治子に柴山は、
「それだけかい? 村山との話題は?」
「ええ」
 治子は些か顔を赤らめながらも、そう言った。
「そうかい。で、金山さんに村山君を紹介したのは、雪村という女性なんだね?」
「そうです」
「確か、雪村由紀子という名前だったね?」
「そうです」
「そうかい。で、雪村さんは、何故村山君が清掃の仕事をやってるのか、金山さんに何か言ったかね?」
「いいえ。何も言ってなかったですよ」
「そうか。分かった」
 そう言っては、柴山は治子に軽く会釈をしては、治子の許から去って行った。
 治子はそんな柴山の後姿を眼にして、柴山に村山に関して言及したことを後悔した。
 というのも、柴山は治子が村山に関して言及すると、突如、真剣な表情を浮かべては、治子と村山との会話に関して詮索して来たからだ。
 何故、そうしたかというと、柴山は村山が治子に会社の機密事項を漏らしたのではないかと、危惧したからではないのか? そして、治子がそれを探ろうとしていたということに、柴山が気付くのではないのか?
 そういった不安が治子の脳裏を掠めたのであった。

     6

 治子と柴山が正門近くで会話を交わしたその日の午後八時頃、雪村由紀子は仕事を終え、帰り仕度をやっていた時に、チーフの梶川芳子に呼び留められた。芳子は、
「雪村さん。少し話があるのよ。時間いいかしら」
「ええ。構わないですが」
 由紀子は首を傾げながら、芳子の後に続いた。
 由紀子は、芳子の後に続きながら、一体何の仕事だろうかと、首を傾げた。この大高工場で働くようになってから、今のように、芳子から話があると言われたことはなかったからだ。
 由紀子はやがて、二階にある会議室に連れて来られた。
 その部屋には隅の方に折り畳み椅子が数多く置かれていたので、芳子と由紀子は、それを一脚ずつ手にしては、手頃な場所で腰掛けた。
 すると、芳子は開口一番に、
「実はね。アルバイトの金山さんのことで、訊きたいことがあるのよ」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
「金山さん?」
 由紀子は、怪訝そうな表情と声で言った。由紀子は、まさかこの場所で金山治子のことが話題になるとは思ってもみなかったのである。
「あなたと金山さんは、結構仲がいいみたいだけど、金山治子って、どんな女性?」
「そうですねぇ。明るくて、一緒にいて、愉しい人ですよ」
「そう……。で、あなたは金山さんに鍋谷化学工業の村山という人を紹介したの?」
 芳子は、由紀子の顔を覗き込むようにして言った。
「ええ」
 由紀子は何故芳子がそのことを知ってるのか、疑問に思ったが、とにかくそう言った。
「そう、じゃ、何故金山さんに村山さんを紹介したのか、その経緯を話してもらえないかな」
 そう芳子に言われたので、娯楽室での出来事から治子を村山に引き合わせたまでのことを隠さずに一部始終話した。何故なら、由紀子はそのことは何ら隠しだてする必要がないことだと思ったからだ。
 それはともかく、芳子は由紀子の言葉に何ら言葉を挟まず、じっと耳を傾けていたが、由紀子の話が一通り終わると、
「つまり、金山さんは、エリートと話がしたいと言うので、村山さんのことを紹介したのね?」
「そうです。エリートが出て来る小説を描いてるから、エリートと話をしてみたいとか言ってましたね」
「そう。大体分かったわ。で、雪村さんに言っておかなければならないことは、鍋谷化学工業は私たちにとって、大切なお客さんなのよ。だから、アルバイトの人が鍋谷化学工業の社員と話をしたいと言ったからといって、引き合せては駄目よ。どんな情報が洩れるか分からないからね。だから、今後、気をつけてね」
「はい。気をつけます」
 と、由紀子は教師に叱られた生徒のように、ぴょこんと頭を下げたのであった。
 由紀子が室から出て言った後、芳子は室内にあった電話で早速、柴山に電話を入れた。
「私です。梶川です」
―梶川君か。僕が言ったことを調べてくれたかい?
「はい。今、調べました。で、金山治子というのは、どうも一癖も二癖もありそうですよ。村山さんと接触したのも、どうも会社の機密事項なんかを探りたかったからかもしれませんね」
 と、芳子は自らの推測を交えて言った。
―そうか。分かった。ありがとう。
 柴山は、上の者からの命を受けて、村山の行動に眼を光らせていた。
 村山は会社の方針に反発し、自らの主張を押し通した。 
 その結果、清掃係に異動させられたのだが、そんな村山には清掃係への異動への腹立ちが渦巻いてるに違いない。それ故、その腹立ちを部外者に漏らそうとしてる可能性は充分に有り得るだろう。
 そして、そうなってしまえば、それは鍋谷化学工業にとって痛手となるだろう。
 それ故、柴山は村山の行動には眼を光らせていたのだが、そんな折に、正門の近くで偶然に顔を合わせた金山治子の口から村山の名前が出た。
 それで、柴山は軽い気持ちで村山と治子との会話の内容を探ろうとしたのだが、すると、それは予想外の結果となった。というのは、どうも金山治子という女性は、柴山の思いに反して、とんでもない食わせ物であった可能性があったからだ。
 そう察知した柴山は、
〈金山治子をこのままにしておけないな〉
 と、心の中で思っては、眼を鋭く光らせたのであった。

     7

 由紀子は芳子から、鍋谷化学工業の社員と親しく口を利かないようにと言われていたのだが、アルバイト仲間とは気が合ったので、色々と話が弾んだ。そして、その会話の中で、治子は由紀子が独身であることを知った。
 由紀子は、
「一人でなければ、社宅住まいなんかしませんよ。家族を放ったらかしには出来ませんからね」
「でも、ここでは、相棒を探すことは出来ないのではないかな」
 と、治子。
 すると、由紀子は、
「あら。いやだ。この歳になれば、相棒探しはもう諦めてますよ」
 と、些か開き直ったように言ったのであった。
 また、由紀子と同様、派遣社員で、鍋谷化学工業の社員食堂で働いていて、しかも、社宅住まいの者の殆どは、独身であることも治子は由紀子から知った。また、梶川芳子も独身とのことだ。
 それはともかく、今度の休日に、治子は由紀子の社宅を訪れることになった。由紀子が治子に一度遊びに来てよ言ったのだ。
 
 そして、その日、治子はミニバイクで由紀子が住んでいる鍋谷化学工業の社宅にやって来た。社宅は四階建てで、全部で五棟あった。
 治子は外来用の駐輪場にミニバイクを停め、三号棟の206号室に向かった。それが、由紀子の室であったからだ。
 治子は由紀子の室をノックする前に、由紀子の隣室に眼をやった。由紀子の隣室には、村山が住んでる筈であったからだ。
 だが、その室には、表札は掛かってなかった。村山という表札が掛かってる筈であったのだが、それはなかったのだ。そして、それは、まるで空室であるかのようであった。
 それで、治子は首を傾げながら、由紀子の室をノックしたのだが……。
 そんな治子は、由紀子の室に入るや否や、村山のことを訊いてみた。
 すると、由紀子は、
「村山さんは、転勤になったのよ」
と渋面顔で言った。そんな由紀子は、村山のことは話したくないと言わんばかりであった。
 そんな由紀子の胸の内を素早く察した治子は、これ以上、村山のことを話題にはしようとしなかった。
 治子は家に戻ってから、貞治に村山が転勤になったことを話した。
 すると、貞治は、
「村山さんは会社のやり方、つまり、神通川に有害物質を流すというのに、反対したのではないのかな。それで、清掃の仕事をさせられてたんだが、村山さんはやはり、反対の立場を変えなかった。それで、転勤になったのではないのかな」
 と、眉を顰めては言った。

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