第十章 思わぬ惨事

     1

 早川が大高村に戻って一週間が過ぎた。
 その間は、特に変わったことはなかった。工場はいつも通り操業されていて、早川もいつも通り、仕事をこなしていた。
 そして、早川が大高村に戻って十日目のことであった。午後二時頃、早川の許に高林が血相を変えてやって来た。
「常務!」
 高林は、甲高い声で言った。
 その高林の只ならぬ様を見て、早川は、
「一体、どうしたんだ?」
 と、眉を顰めては言った。
「清水主任が、大変な目に遭ってしまったのです!」
「大変な目?」
「そうです。危険物質を眼に浴び、眼をやられてしまったのです! △△△△という化学物質です!」
「△△△△か……。で、どんな具合なんだ?」
「詳しいことは、まだ分からないのですが、今、医務室で応急手当てを施してもらってます。でも、一刻も早く、大手病院に移さなければならないと、春川医師が言ってます」
「分かった。じゃ、俺が春川医師と話をするよ。春川医師は、今、医務室にいるんだな?」
「そうです。僕も一緒に行きます」
 早川と高林は、直ちに医務室に向かった。医務室では、春川医師が、清水主任の看護を懸命に行なっていた。
 清水は、高林の部下であった。つまり、新製品開発プロジェクトのメンバーであった。
 清水は三十歳の若手社員であったが、技術力を買われ、大高工場の新製品開発プロジェクトの部員として参加していたのだ。
 そんな清水であったが、ちょっとした油断で、危険物質を眼に浴びてしまったのである。
 早川は春川医師に、
「清水君の容体は、どんなものだい?」
 と、いかにも真剣な表情で言った。
「よくないな。失明するかもしれないな」
 と、春川医師は、いかにも深刻な表情で言った。
「ふむ」
 そう春川医師に言われ、早川はいかにも険しい表情を浮かべた。大体、失明という危険の恐れがある環境下で作業をすること自体、問題があった。
 つまり、早川は予算の関係上、大高工場の建設時に、手を抜いたのだ。そして、その手抜き工事が、清水の事故に繋がったことを、早川は理解していた。
 だが、そのことを公にするわけにはいかなかった。
 そして、そのことは、大友も、また、社長も知らないことであった。早川と早川の少数の部下だけが知っていたことなのだ。
 それ故、そのことを大友が知れば、大友は早川のことを責めることであろう。
 そうなれば、早川の立場は、危うくなるだろう。社長の椅子は、正に早川から遠ざかるであろう。
 それ故、早川は手抜き工事のことと、清水の事故は、何としても、ここだけの話にしておきたかった。
 早川は今、ベッドに仰向けになって、苦しげに呻いてる清水を見下ろした。そんな清水に早川は心の中で、〈碌でもないことをしてくれやがって!〉と、罵ったのであった。
 やがて、救急車がやって来ては、清水を運んで行った。
 救急車を見送った後、早川は高林を工場長室に連れて行った。
 そして、早川はいかにも厳しい表情を浮かべては、
「清水君の事故は、作業中に起きた事故ではなく、作業外で起きた事故にしてもらいたいんだよ」
 すると、高林は眼を大きく見開き、
「勿論ですよ。あの事故は、本来なら、起ってはいけないものです。清水君がミスをしたから、起こったのです。
 無論、工場の設備が完璧であれば、起こらなかったでしょうが。
 しかし、それは、我々の責任というより、清水の責任です。
 しかし、それでは、社会に通らないでしょう。
 それ故、清水が仕事外で勝手に行動した結果、発生してしまった事故にしておきますよ」
「正に、その通りだ!」
 早川の思いを高林は充分に理解してるのか、今の説明に早川は充分に満足であった。
 すると、高林は力強く肯き、そして、
「清水君にも、僕の方から口裏を合わせるように言っておきますから。清水君は忠誠心のある男だから、心配には及びませんよ」
 と、いかにも早川の機嫌を取るように言った。
 そう高林に言われると、早川は些か表情を和らげ、
「頼むよ」
 と、高林の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、高林も些か表情を和らげ、
「了承しました」
 そう高林に意をれ、早川は、
「これでよし。アッハッハッ!」
 と、いかにも機嫌良さそうに高笑いしたのであった。

 清水は春林医師の応急手当てが功を奏し、失明は免れた。だが、一ヶ月の入院が必要であった。だが、早川は清水が失明を免れたことに、大いに胸を撫で下ろしたのであった。

     2

 清水の事故が発生して、一ヶ月が過ぎた。その間、大高工場では特に問題は発生しなかった。
 早川は工場長室で、いつも通り、仕事に励んでいた。
 三時を過ぎた頃、大切な取引先である隼電子工業から電話が入った。
 そして、その電話は、早川を天国から地獄に突き落とすかのようなショックをもたらすものであった。即ち、大高工場の稼ぎ頭である新製品に欠陥が見付かったというものなのだ。
 それを受け、早川は直ちに大高工場の技術陣を集めて、緊急会議が開かれた。そして、その結果、技術陣は、隼電子工業が指摘した欠陥を認めた。
「困りましたね、常務」
 五時間も続いた緊急会議が終わってから、高林はいかにも憔悴し切ったような表情を浮かべては言った。
「何故、気がつかなかったたんだ!」
 早川は技術陣を統括してる高林を怒鳴りつけた。
「ちょっとしたミスです。我々は万全を確信していたのですが、隼電子工業が指摘したようなケースは想定してなかったのです」
 高林はいかにも申し訳なさそうに言った。
「まあ、済んでしまったことは、今更、後悔しても仕方ない。今後のことを考えようじゃないか」
「ええ」
「隼電子工業には、納入した製品を回収し、新たな問題のない製品と無償交換するという旨を伝えるんだ!」
 と、早川は早口に捲くし立てた。
 すると、高林は渋面顔を浮かべては、
「そう簡単にはいかないのですよ。万全を期すには、もう少し調査をしなければならないので、まだまだ時間が掛かるのですよ」
「うーん。困ったな」
 と、早川は頭を抱え込んだ。
 大高工場で生産されてる製品の中で、その新製品の売り上げ比率は50パーセントを超える位のものであり、利益に至っては、80パーセントを超える位のものであった。また、隼電子工業は、正に鍋谷化学工業の大口顧客なのである。それ故、隼電子工業の信頼を失うことは、鍋谷化学工業にとって、大打撃となるのである。
 そんな早川に高林は、
「クレームをつけて来たのは、今のところ、隼電子工業だけなのですが、今後、他の顧客も言って来るかもしれません」
 と、いかにも決まり悪そうに言った。
「そうなれば、正にやばいな」
 と、早川はいかにも渋面顔を浮かべては言った。
「もっとも、隼電子工業が指摘して来たのは、特別なケースである為に、そのようなケースが他の顧客の製品に発生するとは限らないのですが」
 と、高林はいかにも苦し紛れに呼吸をしてる金魚のような様で言った。
「そうだからといって、欠陥が見付かった製品をこのまま造り続けるわけにはいかないじゃないか!」
 と、早川は吐き捨てるかのように言った。
「誠におっしゃる通りです」
「この製品に関しては、今のところ、生産をストップするしかない! そして、隼電子工業以外の顧客に関しては、何か不具合が発生してないか、確認をするんだ。そして、不具合が発生してなく、しかも、問題点が解決すれば、生産を再開するなんだ。そして、それまでは、納期を伸ばしてもらうんだ!」
「そうなれば、今期は大高工場は、赤字になるかもしれませんね」
「やむを得ないさ」
 早川はいかにも悔しそうに言ったのであった。

     3

「今日は何だか機嫌が悪そうね」
 優子は浮かない顔をして、煙草を吹かしている早川に言った。
 早川は眼下に見えるビル群の明かり、高速道路を流れ行く明かりに眼をやりながら、
「忌々しいことが、立て続けに怒っているんだよ」
「あら? それ、どんなこと?」
 バスローブに若々しい肌を包んでいる優子は、興味津々たる表情で言った。
「うちの工場の製品に欠陥が見付かったんだ。主力製品のな。
 それで、俺は顧客に平謝りしなければならなかった。ペナルティを払って、今後も贔屓にしてもらえるように取り計らったんだが、ここしばらくの間は、うちの工場は赤字になることは確実だ。ということは、鍋谷化学工業の今期の利益は、大幅減というわけだ。これが、忌々しくない筈がないじゃないか!」
 と、早川は腹立たしげに言った。
「それに、それだけじゃないんだ。うちの工場の若手社員が、事故で入院してしまったんだ。工場の設備に手抜きがあったんだよ。
 手抜きを改善するとなれば、かなりのコストが掛かってしまう。しかし、そんなコストは掛けられないんだ! そんなことをすれば、会社に多大な迷惑を掛けてしまうことになるんだ!」
 と、早川は捲し立てた。
 そんな早川に、優子は、
「ちょっと待ってよ! 私にそんな不満をぶつけたって仕方ないじゃないの」
 優子は眉を顰めては言った。
「そうだな。すまん。すまん。何しろ、むかつくようなことが次から次へと起こるものだから。でも、お前と一緒にいる時だけだよ。気が休まるのは」
 早川はそう言っては、優子の腰に手を回した。
「奥さんと一緒の時は、気が休まらないの?」
「休まる筈がないじゃないか! あんな糞婆あ! 先日もあいつの所為で、とんでもない目に遭ったんだ!」
「あらっ? それ、どんなこと?」
「大切な取引先のパーティがあって、夫人同伴で出席しなければならなかったんだ。それなにのに、あいつは拒否したんだ。だから、副社長に大目玉を食ってしまったんだよ。正に、あいつは俺の女房として失格だよ」
「あなただって、私とこんなことをやってるから、奥さんのことばかり悪く言えないわ」
「それを言うなって!」
 早川は優子の鼻をつついた。
「でも、こそんなことが次から次へと起これば、社長になるのはむずかしいみたいね」
「いや。俺はなってみせるさ!」
 そう言った早川の表情には、笑みは見られなかった。真剣な表情そのものであった。
「あなた、絶対に社長になってね。社長になったら、私をヨーロッパ旅行に連れて行ってやるという私との約束を忘れないでね」
「分かってるさ」
 早川はそう言っては、にやりと笑った。

     4

 村山は来週から仕事に復帰することになっていた。だが、復帰するまでにやっておきたいことがあった。
 村山は鍋谷化学工業で同じだった崎山に電話をした。
「村山だが」
―村山さんか。久し振りだな。どうだね、仕事の方は?
「実はな。交通事故に遭って一ヶ月の重傷を負ってしまったんだ。それに、妻は死んでしまったんだよ」
―……。
「それで、一度、お前に会って話しておきたいことがあるんだよ」
―いいよ。俺は明日なら都合がいいんだよ。明日はどうかね?
「それで構わないよ。じゃ、明日の夜八時に『太閤屋』でどうかね?」
―それで構わないさ。
「じゃ、俺が予約しておくからな」
―分かったよ。じゃ、明日。

 崎山は午後八時十分頃、「太閤屋」に姿を見せた。崎山は交通事情の関係で少し遅れてしまったのだ。
 予約してあった席に来ると、既に村山が席についていて、ビールが二本、運ばれていた。
 そんな村山に崎山は遅れて来た詫びを言ってから、
「奥さんが亡くなったんだって?」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「ああ。僕が運転する車がトラックとぶつかってしまってね。僕も死ななかったことが、奇跡みたいなものだったんだよ」
「そうか……。それは、災難だったな。僕がどんな慰めの言葉を掛けても奥さんは戻って来ないからな」
「そうだな。しかし、今日はそのことを話す為に崎山さんと会ったわけじゃないんだ」
 と、村山は神妙な表情を浮かべては言った。
「じゃ、どういった話の為かな?」
 崎山は興味有りげに言った。
「以前、君は僕が鍋谷化学工業を辞めた時に、何故辞めたのか、訊いたよな」
「ああ。そうだったな。確か、村山さんは鍋谷化学工業の同族経営が気に入らなかったとか言ったよな」
 崎山は穏やかな口調で言った。
「ああ。そうだったな。しかし、それは嘘だったんだよ」
 村山はきっぱりとした表情で言った。
「嘘?」
「ああ。そうだ。実は、本当の理由はこうなんだよ」
 そう言っては、村山は村山が大高工場で新製品の開発に携わり、そして、有害物質を含んだ廃液を川に流していたことや、その有害物質の処理方法で上司と対立し、その結果、退職に追い込まれたという旨を話した。
「成程。そう言うわけだったのか。俺も、同族経営が嫌で辞めたというのは、何となく変だと思っていたんだよ。何しろ、そんなことは、最初から分かっていたことだからな」
 崎山は些か声を上擦らせては言った。
 そんな崎山に村山は、
「崎山さんは、そんな僕の行為をどう思う?」
「うーん。僕だったら、上司や会社の方針には、逆らわないよ。そんなことをすればどうなるかは、凡そ見当がつくからね。会社の方針に逆らえば、降格、賃金カット位ならまだ軽い方で、場合によっては解雇に追い込まれてしまうよ。村山さんは、そのことを分かっていたんだろ?」
「いいや。まさか、人事部総務課に回され、退職にまで追い込まれるとまでは思ってはいなかったよ」
「甘いんだよ。村山さんは。僕はそう思うよ。廃液処理装置を使っても、有害物質を完全には除去出来ないんだろ?」
「ああ」
「それだったら、やむを得ないじゃないか。有害物質は、結局、何処かに捨てなければならないんだ。それだったら、川に流したって、やむを得ないさ。それに、その有害物質はまだ人間に被害をもたらすと確認されてないわけだから」
「しかし、兎を殺す程の毒が発生するんだから、人間にも悪影響を及ぼすに違いないさ」
「しかし、まだ社会的に確認されたわけではないんだろ?」
「……」
「だったら、多少のことはやっても構わないんじゃないかな」
 そう言っては、崎山は小さく肯いた。
「君は、僕の取った行動を嘲笑うのかい?」
「そんなことはないさ。しかし、会社の意思には逆らわない方が無難だと言ってるのさ。たとえ悪いことでも会社が決めたことには、従わざるを得ないのさ。サラリーマンとは、そういうものさ」
「いや。僕はそうは思わないさ。僕は退職する羽目に陥ったが、サラリーマンとして分別のある行動を取ったと思っている。
 悪いのは、鍋谷化学工業の方さ。僕はこのまま鍋谷化学工業をのさばらせてはおかないさ。僕は妻を亡くして開き直ったんだ」
 と、村山は眼をギラギラと輝かせては言った。
「おいおい。何かをやらかそうとしてるんじゃないだろうな」
 崎山は、今の村山の様からして、村山が何かをやらかそうとしてるのではないかと感じたのである。
「僕は鍋谷化学工業を訴えてやるんだよ。鍋谷化学工業をさ」
 村山は決意を新たにしたような表情で、きっぱりとそう言った。
「訴える?」
「ああ。有害物質を川に流している事実を是正するようにとな。このままじゃ、神通川はいずれ、魚の棲めない川になってしまうよ。それに、農作物は、有害物質に汚染されてしまうだろう。神通川の下流の村では、神通川を農業用水として使ってる村もあるんだ。それが分かっていながら、何もしないわけにはいかないさ」
 村山は声を荒げては言った。
「だから、それは大袈裟に考え過ぎてるだけじゃないのかい? まだ、人間に被害が及ぶと決まったわけではないんだろ?」
「だから、まだその事が確認されていないだけなんだよ。被害が発生してからでは遅いんだよ。鍋谷化学工業は被害が確認されるまでは、今のやり方を改めないとか言っていたが、それでは遅いんだよ!」
 村山は興奮の為か、些か声を上擦らせては言った。
「分かったよ。だから、もう少し落ち着いて話をしてくれないかな。
 で、村山さんはやはり、鍋谷化学工業のことを訴えるつもりかい?」
「ああ。必ずやるさ。まだ、どういう手段でかは決まっていないが、弁護士と相談するさ。つまり、僕は女房に死なれ、鬼と化したんだ!」
「でも、そんなことをすれば、村山さん自身にも傷がつくよ。村山さんも、大高工場で新製品の製造に携わっていたのだから!」
「そんなことは分かってるさ。だから、自分自身の首を絞めることになるかもしれない。しかし、僕はやるさ!」
 村山は力強く言った。

     5

 崎山は迷っていた。村山の話を高林に伝えるかどうかを。
 崎山は以前、高林の命を受け、村山のことを探った。村山が大高工場のことをばらしていないかどうかを。
 そして、ばらしていないことが分かった。
 それを崎山は高林に報告した。
 その時点で、崎山の村山調査という役割は終わった。
 だが、面倒な事態が発生してしまった。村山は今になって、ばらすと言い出したのだから。
 もし、村山が訴えた後、村山が事前にそれを崎山に話していたということ高林が知り、かつ、それを崎山が高林に話してなかったとしたら、そんな崎山のことを高林は強く叱責することだろう。
 そして、𠮟責位では済まないかもしれない。場合によっては、閑職に追い込まれるかもしれない。鍋谷化学工業とは、そういう会社なのだ。
 それ故、崎山は村山には悪いとは思いながら、本社の会議室で、高林に村山のことを話した。
 すると、高林は、
「それはまずいな」
 と、いかにも険しい表情で言った。
「神通川に流してる有害物質は、村山が言うように、人間にも被害をもたらす位のものなのですかね?」
 崎山は訊いた。崎山は、大高工場の製品に関しては詳しいことは知らなかったのだ。
「そのようなことまでは、崎山君は気にしなくていいさ。それより、よくぞ僕に報告してくれたな。ありがとうよ。今後は、崎山君のことは気に掛けておくからな」
 高林は笑みを浮かべながら言った。
「それは、ありがとうございます」
 と、崎山は深々と頭を下げた。
「じゃ、君はもうこれでいいよ」
「はっ!」
 崎山はうやうやしく一礼しては、会議室から出て行った。

 高林は、その日の内に、大高工場に戻った。
 時刻は既に午後八時となっていた。大高工場の従業員たちは殆ど帰ったようで、工場内は静まり返っていた。
 だが、事務所内にある工場長室は、灯が煌々と照らしていた。そして、その中で、早川と高林が、いかにも緊迫した様で、意見を交していた。
 やがて、早川は、
「やはり、それはまずいな」
 と、いかにも渋面顔を浮かべては言った。
「そうですよね。実にまずいですね」
 高林は、早川に相槌を打った。
「ただでさえも、新製品に欠陥が見付かり、四苦八苦してるというのに、そんなことをされてしまえば、致命的打撃を受けることは請け合いだ!」
 早川は吐き捨てるように言った。
「誠におっしゃる通りです」
「法の場で争うことになれば、うちが負けるに決まっている。
 しかし、そう簡単に負けるわけにはいかないさ。我々は、社員の生活を守り、また、豊かな生活を保障してやらなければならないからな。その為には、多少の犠牲はやむを得ないというものさ。
 俺が、新たな工場の建設地として大高村を選んだのは、神通川が近くに流れていたからだ。神通川の流域には村が少なく、また、大高村では、神通川の水を飲料水や農業用水として用いてはいなかった。つまり、神通川は廃液を流すのに都合のよい川だったのさ。それ故、我々が神通川に有害物質を流しても、大高村の人々は困らないと 判断したのさ。
 もっとも、大高村よりかなり下流にある秋野村では、神通川の水を農業用水として利用している。
 しかし、秋野村までは、かなりの距離がある。それ故、秋野村に至るまでに、神通川の水は浄化される。そう俺は読んでいた。それ故、俺は大高村に工場を造ることを決断したんだ」
 と、早川は力強い口調で言った。
「そうでしたよね」
 高林は、早川の機嫌を取るような口調で言った。
「だから、有害物資を神通川に流してるからといって、誰も困らないんだ。
 魚が釣れなくなったとか文句を言って来た人がいたらしいが、そんな些細なことを気にしていれば、事業なんて出来やしない! 我が大高工場で製造されている製品が、日本経済に多大に貢献してるんだ! それが、肝心なんだ!」
 と、早川は眼を大きく見開き、爛々と輝かせては言った。
「もっともなことで」
 高林は、正に早川の機嫌を取るかのように言った。
「だから、俺は今のやり方を変えるつもりはないさ。
 しかし、訴えられたんじゃ、それは話は別だ。
今の時点で、我々が流してる化学物質は、まだ法的には禁止されてるわけではないんだ。 
 しかし、いずれ、禁止物質に指定されてしまうかもしれない。
 だが、そうなっては、まずいんだ。
 だから、事を荒げては駄目なんだ。つまり、穏やかに我々がやってることを隠し遠さなければならないんだ!」
「おっしゃる通りで」
 と、高林は、そう言った早川のことを、いかにも尊敬するかのように言った。
 そんな高林を見て、早川は小さく肯き、そして、
「だから、我々を訴えるなんて行為は何としてでも、阻止しなければならぬ」
 早川はいかにも険しい表情を浮かべては言った。
「正に、おっしゃる通りで」
「だから、村山のことは、このままにはしておけぬ」
 と、早川は険しい表情のまま、眼を光らせた。
「じゃ、どうするのですかね?」
 と、高林は、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「だから、村山の口を封じるしかないさ。K組に頼んで、村山を始末してもらおう」
「やっぱり、殺りますか」
「ああ。もっとも、俺の名前は無論、鍋谷化学工業の名前が出ることは、絶対に許されない! 分かってるな」
「そりゃ、勿論、分かってますよ!」
 と、高林は、力強い口調で言った。
「報酬は、一億だ。それで、K組はやってくれると思う。後は、高林君に任せるよ」
 更に、早川はこう付け加えた。
「高林君が、この仕事をうまくやってくれたら、高林君を第一技術部の部長に推薦するよ。第一技術部長といえば、将来の取締役候補だ」
「はっ! それは、誠に光栄に存じます!」
 と、高林は深々と頭を下げたのである。

   

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