第三章 決意
1
貞治は村山が鍋谷化学工業の大高工場から去ったと聞いて、鍋谷化学工業と闘うのは、自分しかないという自負を抱くようになった。
村山が有害物質を神通川に流してることに対して、反対していたというのは、貞治の推測に過ぎなかった。だが、貞治はその推測を堅く信じていたのである。
そして、こうなれば、鍋谷化学工業が有害物質を神通川に流してるという事実を貞治自身が突き止めてやると、奮い立った。
そして、もしその事実を突き止めれば、どうするか? 貞治はそこまでは考えてはいなかったが、貞治の決意は固まっていたのだ。
そこで、貞治がまず考えたのは、廃液の調査だ。
大高工場は、神通川から百メートル程離れた所に建てられてたが、地下に造られた排水管を経て、工場からの廃液が神通川に流れ出てるに違いない。
それ故、鍋谷化学工業からの排水管の排水口を見付け出し、その廃液を採取し、調べればよいのだ。そう貞治は考えたのである。
そんな貞治は、牧場での仕事を終えると、明を伴って神通川に向かった。
時刻は既に午後四時を過ぎていた。
夜の帳はまだ降りてはいなかったが、肌を刺すような寒気が生々しかった。
そんな中を貞治が運転する軽ワゴン車は進んだ。
「伯父さん。何処に行くのですか?」
明は眼を輝かせては、そう訊いた。明は、貞治が明の知らない魅惑的な世界に誘ってくれるかのような気がしたのだ。
「その内に分かるよ」
貞治はしばらくの間、明に話し掛けることなく、軽ワゴン車を走らせたが、やがて軽ワゴン車は停まった。
「着いたよ」
貞治は淡々とした口調で言った。
そこは、神通川の畔であった。なだらかな土手が、神通川に沿って伸びてるのが、おぼろげにも眼にすることが出来た。
貞治と明は、軽ワゴン車から降りた。
辺りには民家はまるで見られなかった。黒々としたシルエットが、拡がってるだけであった。昼間なら、恐らく畑を眼にすることが出来るのだろうが、それは今はまるで眼にすることは出来なかった。
「伯父さん。こんな所で、何をするのですかね?」
明は怪訝そうな表情を浮かべては言った。明は貞治がやろうとしてることが分からなかったのである。
「実は、鍋谷化学工業が流してる廃液の調査をやりたいのだよ。この近くに、鍋谷化学工業から流れ出る排水管の排水口がある筈だ。それを確認したいのだよ」
本来なら、こういった作業は昼間にやるべきなのだが、貞治は今、抱えてる仕事に手が離せなかった為に、この時間に敢えてやって来たのである。
そんな貞治は、早速土手を登り始めた。明はそんな貞治に続いた。 やがて、土手は下りになったので、貞治は明と共に、下りはじめた。
すると、程なく、河原に着いた。
河原には所々に小石があって、その向こうには清らかな神通川の流れがある筈であった。
貞治は少し河原を上流の方に向かって歩き、やがて、
「この近くに排水口がある筈だ。よく調べてくれ」
貞治は以前、仕事仲間から、この辺りに鍋谷化学工業の工場から流れ出る排水口があるようだと聞かされたことがあった。それを頼りに、貞治はそれを突き止めようとしたのである。
そんな貞治は、些か焦りを感じていた。
というのは、夜の帳が下りる前に、それを見付け出さなければならないからだ。夜の帳が下りてしまえば、それを見付け出すことは困難になってしまうからだ。
そして、二人は二手に別れて、それを見付け出そうとしたのだが、やがて、明が、
「伯父さん! 来てください!」
と、甲高い声で言った。
それで、貞治は明の許に駆けつけた。
「見付かったか?」
貞治は眼を大きく見開いては言った。
「あれじゃないですか」
明が指差したのは、神通川の流れに接した土手際にぽっかりと確かに排水管の穴がその姿を晒し出していた。それは、水面下三十センチ程の所にあった為に、よく見ないと見失いそうであった。また、それは、まるで、それがそこにあるのを衆人から眼にされないように、敢えて、水面下に造られてるかのようであった。
とはいうものの、貞治はそれが鍋谷化学工業の工場から流れ出る排水管の排水口であると確信した。
というのも、この辺りには民家がないし、また、民家からの排水口としては、その排水口が大き過ぎると貞治は思ったのである。
それはともかく、今はその排水口からは、排水は流れ出てはいないようだった。
貞治は明に、それが鍋谷化学工業の工場から流れ出てる排水管の排水口に違いないと、改めて説明し、そして、
「恐らく、昼間なら、ここから鍋谷化学工業の工場から流れ出る排水が、流れ出てる筈だ。
そこで明にやってもらいたいのは、その排水を採取してもらいたいんだよ。
もっとも、排水口は、神通川の流れの中に造られてるから、明には神通川の流れの中に入ってもらわなければならない。しかし、この辺りは、深さ一メートルもない所だから、溺れる心配はないよ。
また、排水口からの排水をきちんと採取してもらいたいんだよ。出来るだけ、神通川の水が混じらないようにな」
と、正に明に言い聞かせるかのように言った。
すると、明は、
「任せてくださいよ。伯父さん! 僕はそういったことをするのが、得意なんですよ!」
と、眼を輝かせては言ったのであった。
2
翌日、明は牧場での仕事が一段落つくと、早速軽ワゴン車に乗って、昨日の場所にやって来た。
そして、昨日、貞治が停めたのと同じ場所に軽ワゴン車を停めると、車外に出た。
そして、明は辺りに眼をやった。
だが、特に感慨は抱かなかった。
冬でなければ、周囲の畑に作られているキャベツ、レタスといった野菜の緑が、青空の下に映える光景を眼にすることが出来るだろうが、今は雪に覆われ、陰鬱な光景を醸し出しているからだ。
ただ、少し向こうの方に、鍋谷化学工業の工場から吐き出されてる白煙が、ひっそりと静まり返ってる辺りの光景に違和感を感じさせるに過ぎなかった。
それはともかく、明は今回の為に貞治が用意してくれたガラス瓶を手にし、早速、河原に降り立った。そして、上流の方に向かって進んだ。そして、程なく、鍋谷化学工業の排水口を見付けることが出来た。
そして、その排水口に眼を凝らしてみると、そこからは確かに神通川の中に排水が流れ出していたのであった。
それを確認すると、明は、河原の上でズボンを脱いだ。今から、川の中に入らなければならないからだ。
幸い、今日はさ程寒くなかった。もし、これが、雪の降る日であったのなら、明はこの申し出にあっさりと応じる気にはなれなかったであろう。
とはいうものの、やはり、神通川の中に一歩、素足を踏み出してみると、それは驚く程、明の肌を刺した。正に、冷たくて冷たくて、我慢出来そうもないという位なのだ。
川の中に、果して一分も浸かっていれば、明の身体が持つだろうか? 明はそう思ったものの、貞治の命は果さなければならない。
そう思った明は、素早く排水口に近付いて行った。その頃には、水の深さは明の太股位になっていた。
明は腰を屈めては、排水口にガラス瓶を近付けた。
すると、うまい具合に排水はガラス瓶の中に入ってくれたようだ。
それで、明は素早くガラス瓶を水面上に上げ、蓋を閉めた。
そして、まるでその場から逃げるように、遠ざかり、先程ズボンを脱いだ河原にまで戻った。
その間、五分も掛からない位であった。
だが、その時間は、明にとってとても長く感じられたのであった。
3
明は仕事を終え、家に戻って来た貞治と顔を合わせると、
「伯父さん、うまく行きましたよ。ガラス瓶にたっぷり採取出来ましたから!」
と、いかにも嬉しそうに言った。
「そうか。それは、ご苦労さん」
と、貞治もいかにも嬉しそうに言った。そして、
「で、何処に置いてあるんだ?」
「こっちです!」
明はガラス瓶を置いてある納屋に貞治を連れて行った。
そして、ガラス瓶が置かれてある所にまで来ると、明は畏まった様を浮かべては、
「この廃液をどうするのですか?」
「この廃液の中で、金魚を飼ってみるんだよ。そして、綺麗な水の中での場合と変化があるか、確かめてみるんだ」
と言っては、唇を歪めた。
貞治は高校を卒業して以来、家業である酪農と農業に従事して来た。そんな貞治の高校時代の成績は、特に優秀ではなかった。
だが、それで十分であった。貞治が高校を卒業すれば、何をするかは、既に決まっていたのだから。
そんな貞治であるから、廃液の成分を分析することなんて、土台無理な話であった。
それ故、幼稚染みたことかもしれないが、採取した廃液の中で、金魚を飼ってみて、金魚にどのような変化が出るか、見ようとしたのである。
貞治は「廃液」と書かれてるラベルが貼ってある水槽に、明が採取した廃液を入れた。
そして、もう一つの水槽には、「真水」というラベルが貼られていた。その二つの水槽に、それぞれ一週間前に治子が町で買って来た金魚を三匹ずつ入れた。
その作業が終わると、貞治は、
「どういった結果が出るか、愉しみだな」
と、明に言った。
すると、明は、
「何日位で、結果が出ますかね?」
「分からないな」
貞治は眉を顰めた。
4
何と、その三日後に、結果が出てしまった。三日目の夜の七時頃、「廃液」というラベルの貼られていた水槽で飼われていた金魚が、早々と死んでしまったのである!
この深刻な事態に直面して、明は、
「伯父さん……」
と、いかにも困惑したような表情を浮かべては言った。明は金魚がこんなに早く死ぬとは、思ってはいなかったのだ。
「思っていた以上だな」
貞治も困惑したような表情で言った。
貞治は鍋谷化学工業の工場から排出される廃液の中に、有害物質が含まれてるだろうと推測はしていた。
だからこそ、今回の実験を行なったのだが、その結果は、貞治の予想以上として終わったようであった。
「どうするんですかね?」
いかにも困惑したような表情を浮かべては、言葉を発しようとしない貞治に、明は心配そうに言った。
「うーん。どうしようかな。少し、考えてみるよ」
貞治は、鍋谷化学工業の工場から排出される廃液から、有害物質が含まれているという事実を確認してから、どうするかまでは、まだ考えてはいなかったのである。
それで、貞治は応接間のソファに腰掛け、焼酎を手にしては、思索に耽った。
貞治が鍋谷化学工業のことを意識するようになったのは、神通川での釣りの成果がめっきりと上がらなくなったからだ。
貞治は昔の神通川のことが、懐かしかった。川魚が豊富に釣れた昔の神通川が!
貞治は昔の神通川を取り戻さなければならないと思った。神通川は、貞治にとって安らぎの得られる場所であり、また、宝物のような存在であったからだ。
だが、鍋谷化学工業の連中どもが、その利益を得る為に、貞治の安らぎを奪い、また、宝物を奪おうとしてるのだ!
それ故、貞治はやはり、この事態を黙って見過ごすことは出来なかった。
それ故、貞治は翌日、村役場に向かったのであった。
5
貞治は村役場に来ると、生活課の職員に、貞治が突き止めた事実を述べた。生活課では、村民からの意見とか要望を受け付けていたのだ。
その五十を少し過ぎた位の田中という頭が少し禿げた職員は、貞治の話を聞くと、
「うーん」
と、唸り声のよな声を上げた。
そして、少し何やら考えていたようだが、やがて、
「上の方に伝えておきますよ」
と言っては、貞治の連絡先を訊いた。
それで、貞治はそれを話し、
「よろしくお願いします」
と言っては、村役場を後にしたのであった。
貞治は妙に晴々とした気持ちであった。正に、気掛かりな厄介な出来事を無事に解決出来たかのような気分であった。
そして、その夜、貞治はとてもご機嫌であった。仕事仲間と酒を飲み、久し振りに酔い潰れたのであった。
貞治が役場に行ってから、三日が過ぎた。
だが、役場からは、未だ連絡はなかった。
治子はといえば、鍋谷化学工業の社員食堂で、調理補助の仕事に携わっていたが、一時半頃、鍋谷化学工業の人事部の人から、事務所の会議室に来るように言われた。それで、治子は服を着替えては、会議室に向かった。
その会議室は、治子が採用された時に、面接を受けた時の場所であった。
その場所に、何故今頃、呼ばれたのであろうか?
そう思うと、治子は少し緊張した。
会議室の中に入ると、一人の男が椅子に座って待っていた。その男は、治子を採用してくれた柴山であった。
その柴山の様子が、治子が面接を受けた時とは、何となく違っていた。面接を受けた時は、にこにこしていたのに、今は何となく厳しい表情を浮かべているのだ。
それはともかく、柴山は治子を見ると、
「その椅子に掛けてくれれないか」
と言っては、柴山の前にあった折り畳み椅子を指差した。
それで、治子は柴山に言われた通りにした。
「金山さんの勤務は、いつまでだったかな」
柴山は、穏やかな口調で言った。
「三月一杯までです」
「そう……。実は、金山さんに働いてもらうのは、今日限りということになったんだよ」
その口調は、穏やかなものであったが、その言葉には、柴山の確固たる意志が込められてるかのようであった。
そう柴山に言われると、治子は、
「はっ?」
と、呟くように言った。治子は柴山の言葉の意味が、分からなかったからだ。
治子は呆気に取られたような表情を浮かべては、言葉を詰まらせてるので、柴山は、同じ言葉を繰り返した。そして、
「まあ、金山さんはアルバイトだからやむを得ないと割り切ってくださいよ。そういうことで」
と、言ったかと思うと、柴山はさっさと治子の許から去って行ったのであった。そんな芝山は、何故突如、治子を解雇したのか、その説明を治子から訊かれる時間も治子に与えまいと言わんばかりであった。
その夜、治子は貞治に鍋谷化学工業出のアルバイトを突如、解雇された不満をぶつけた。
治子は元はと言えば、貞治の命を受け、鍋谷化学工業の社員食堂でアルバイトをするようになったのだが、今では、雪村由紀子という友人も出来、社員食堂で働くのが愉しみになっていたのだ。
それ故、これからもまだまだ、このアルバイトを続けたいと思っていたのだ。
それ故、柴山の言葉は、正に寝耳に水であったのだ。
そんな治子に貞治は、
「仕方ないさ。アルバイトなんて、そんなものだよ」
「それにしたって、会社なんて、勝手なものね」
「そんなことより、僕は何故、治子を突如、解雇したのか、その原因が不審だな」
「私だって、不審に思うな。その理由を明らかにしなかったのだから」
「ひょっとして、治子が鍋谷化学工業をスパイしてたことに気付かれたんじゃないのかな」
「まさか……」
治子は些か顔を赤らめた。
だが、治子はその可能性は有り得ると思った。治子は柴山と正門近くで顔を合わせた時のことを思い出したからだ。
あの時、治子の口から村山の名前が出ると、柴山は突如、険しい表情を浮かべたではないか。そして、その時、治子は村山の名前を出したことを後悔したではないか。治子が村山に接しては、鍋谷化学工業のことをスパイしてることを気付かれてしまうのではないかと。
そして、その不安が現実のものと化したのではないのか?
そして、その思いは、貞治も似たようなものであったのだ。
6
朝、一番でやらなければならない牧場での仕事は、牛の乳搾りだった。パイプラインミルカ―という機械で、乳搾りをするのだ。そして、この機械は、自動的に牛の乳を絞ってくれるのだ。
この機械を使うと、十キログラムの乳を出す牛だと、約五分で搾れるのだ。
貞治の親の時代は、皆、手で乳を搾っていた。手で搾る方が、当然効率が悪く、十キログラム搾るのに、二十分掛かった。また、暴れる牛の乳を搾る時なんかは、特に大変であった。
貞治は乳搾りの作業に携わりながら、治子が突如解雇されたことは、やはり、附に落ちなかった。そして、やはり、何かあると看做した。そして、その何かとは、貞治が役場に鍋谷化学工業が流す廃液に関して、苦情を申し立てたことが影響してるのではないかと思った。そして、それが、決定打となったのではないかと思ったのだ。
それはともかく、貞治は午後になって、役場に電話を入れた。まだ、役場からは、何も言って来なかったからだ。
「先日、生活課の田中さんと鍋谷化学工業の件で話をした金山貞治と申しますが」
―ちょっと待ってくださいね。
―田中ですが。
それで、貞治は田中に言ったことを改めて説明した。
すると、田中は、
―そのことですか。そのことなら、ご心配ありませんよ。
「そんな……。上の方には、話をしてもらったのですかね?」
―勿論ですよ。
「でも、神通川では、確かに魚が釣れなくなったのですがね。それに、鍋谷化学工業が流す廃液で飼った金魚は、三日で死んだのですがね」
―魚が釣れなくなったというのは、金山さんの腕が落ちたことに起因してるんじゃないですかね。それに、金魚が三日で死んだと言われてもねぇ。それが、鍋谷化学工業が流す廃液の所為と結論付けるのは、早合点過ぎますよ。そういうことなので。
と言っては、田中はさっさと電話を切ってしまった。
送受器を手にしたまま、貞治は唇を噛み締めた。何だか、一方的にあしらわれたという感じだったからだ。
しかし、貞治はこのままでは引き退がれなかった。
それで、その翌日、役場に足を運んだ。昨日の田中の電話の応答が、納得が出来なかったからだ。
役場に着くと、貞治は直ちに田中を呼び出した。
すると、田中は程なく貞治の前に姿を見せたが、田中は貞治の顔を見ると、些か表情を曇らせたように見えた。
そんな田中に貞治は、
「鍋谷化学工業の件ですがね」
貞治は落ち着いた口調で言ったものの、自らが興奮してることを実感していた。
すると、田中は、
「ですから、それは金山さんの思い違いだと思いますよ。つまり、魚が釣れなくなったというのは、鍋谷化学工業以外に原因があるのではないかということですよ。つまり、釣れるか釣れないかというのは、釣る人の腕もあるということですよ。僕の友人が最近、神通川で釣りをしたのですが、よく釣れたと言ってましたからね。
それに、神通川には大高村の住民たちの生活排水も流れ込んでいます。そのことも影響してるんじゃないですかね」
そう田中に言われ、貞治は言い返すことが出来なかった。田中が言ったことは、もっともだと思えたからだ。
それで、貞治は失意の表情を浮かべては、村役場を後にしたのであった。
神通川に大高村の住人の生活排水が流れ出てるのは、分かってる。
だが、それは昔からだ。
生活排水が原因なら、魚は昔から釣れなかった筈なのだ。しかし、昔は釣れたのだ。
魚が釣れなくなったのは、鍋谷化学工業の工場が建てられてからなのだ。それ故、原因は、鍋谷化学工業の工場が流す廃液にあるのは、間違いないのだ!
それで、貞治は村役場の者が、鍋谷化学工業を庇うような発言をしたことについて、考えてみた。
すると、鍋谷化学工業と村役場が裏で繋がってる可能性があると察した。即ち、鍋谷化学工業が村役場の幹部に賄賂を贈り、鍋谷化学工業が垂れ流す廃液に眼をつぶってくれるようにという具合だ。
その可能性は有り得るのではないか?
もし、そうだとすれば、貞治にはどうすることも出来ないというのか? 貞治に鍋谷化学工業と村役場の幹部との癒着を暴露しろというのか?
いや、いや。そのようなことをするのは、ご免というものだ。
そう思うと、貞治は痛い程、貞治の無力さを感じた。そして、幼少時に遊び回った神通川での光景が、貞治の脳裏に浮かび上がっては、消えたのであった。
春が近付いて来たということもあり、明は大高村を去ることになった。大高村に滞在したのは、二ヶ月程であったのだが、生涯忘れることのない経験をしたような気がした。
殊に、鍋谷化学工業の幌を付けた軽トラックを尾行したことや、神通川に入っては、鍋谷化学工業の廃液を採取したことは、スリルがあって、強い印象が残っていた。また、牛の世話をしながら、自然の中で働いたことも、とても有意義だと明は回想したのであった。