第四章 都会
     
     1

「あの男、今日も来てるね」
「本当だな。こんな時間に来てて大丈夫なのかな。仕事、してないのかな」
 アルバイトのおばちゃんが、囁き合っていた。
 ここは、ガード下の大衆酒場。カウンターに、十個の席がある。そのカウンターに、毎日、午後四時頃になると、決まって同じ男が座るのだ。
 その男は、髪はくしゃくしゃで、無精髭を生やしていた。身に付けている背広は高価そうではあったが、皺くちゃであった。この男は、一体、どういった男なのだろうか?
 この男のことをよく眼にしてみると、かなりの学識を持ったように見受けられる。薄汚れた恰好をしてるものの、かなりのエリートだったのではないだろうか? 長年、学問に精を出して来たという雰囲気は、充分に感じさせた。
 この男の姓名は、村山寛士といった。元鍋谷化学工業のエリート社員だった男だ。
 村山は大高工場から本社に転勤なった。そして、人事部総務課に配属された。
 人事部総務課とは、どんな仕事をする部署なのか。
 人事部総務課に配属されても、仕事はない。会社に来ても、ただ何もすることもなく、終業時間まで、じっと待ってるだけなのだ。そして、その苦痛に耐えらず、人事部総務課に配属された者は、自ずから会社を辞めるのだ。
 村山は、人事部総務課に配属されて、一ヶ月後に会社を辞めた。
 村山は鍋谷化学工業に入社以来、ずっと社内のエリートコースを歩んできたが、大高工場で会社の方針に反対した為に、幹部の怒りを買い、人事部総務課に配属されてしまったのだ。
 無論、村山は会社に抗議した。だが、会社は村山を許しはしなかった。村山は二度と同じ仕事に戻ることは許されなかったのだ。
 村山は甚だショックだった。会社の方針に逆らった結果が、このようなものになるなんて、思ってもみなかったのだ。
 村山は会社を辞めて一週間程、寝込んでいた。
 だが、一週間経つと、まるで夢遊病者のように家を後にし、ガード下の大衆酒場で酒を飲んでは、憂さを晴らすようになったのだ。

     2

「あなた。そろそろ本気で、次の会社を見付けてね」
 智子は、酒の臭いを漂わせては帰って来た村山の前に姿を見せては言った。
 村山宅は、都心の郊外にある小さな建売住宅であった。二十坪程の敷地に二十五坪程の木造二階建ての建売住宅が、村山の家だったのだ。
 この建売住宅を村山はローンを組んで買った。
 この建売住宅を買った当時は、高度経済成長時代で、郊外の土地の値段は、鰻登りであった。都心の郊外に、サラリーマンが一戸建ての家を買えるのは、夢の夢と言われた。だが、村山は大手企業で働いていたということもあり、その夢を実現出来たのだ。
 地方であれば、敷地二十坪に二十五坪の建売住宅となれば、随分貧相な住宅と思われることであろう。だが、村山が買ったその家は、豪邸という謳い文句で売り出されたものであった。
 そして、そんな村山のローンは、まだ十五年残っていた。にもかかわらず、村山は職を失ってしまったのだ。村山は五十七歳でローンを完済する予定だったのだが、四十二歳で会社を辞めてしまったのである。そして、このことは、ローン返済に大きな障害となったのである。
 二十年働いた鍋谷化学工業からは、退職金は出ることは出た。
 しかし、それは、村山が予想していた金額より少なかった。
 会社の説明では、査定が悪かったのだという。
 しかし、村山はやはり、大高工場で村山が会社の方針に反対したことが、マイナス要因となったのだと思った。そう思ったものの、村山にはどうすることも出来なかった。ただ、やるせない腹立ちが、村山に渦巻くだけであった。
 そして、村山はこの退職金を住宅ローンの返済に当てることにした。
 だが、それだけでは、完済出来なかったのは、言うまでもないだろう。
 そして、村山一家には、妻の智子と、一粒種の直行がいたが、智子には職はなかった。
 それ故、一家の大黒柱の村山が稼がなければ、一家は生活していけないのだ。
「分かってるさ」
 村山は技術を持ったエリートだ。それ故、村山を採用したい会社は、いくらでもあったかもしれない。
 だが、村山はまだ新たな働き口探しを行なっていなかった。鍋谷化学工業を辞めたショックになかなか立ち直れなかったのだ。
 だが、鍋谷化学工業を辞めて一ヶ月経った頃、村山は初めて求人雑誌を購入したり、職安に足を運んだりした。
 そして、これはと思った会社三社に、履歴書を送った。
 その結果、ワカバ化学工業という会社から、是非面接に来てくださいという連絡を受けた。ワカバ化学工業は、鍋谷化学工業程の大手ではないものの、事業内容は、鍋谷化学工業とよく似ていた。そして、ワカバ化学工業で面接を受けた結果、村山は採用されることが決まった。村山のキャリアが買われたのだ。
 給料は鍋谷化学工業時代と比較し、かなり下がったものの、村山はほぼ満足であった。村山はほっと胸を撫で下ろしたのであった。

     3

 明は大高村から戻ると、そろそろ就職活動を始めなければと思った。何しろ、明は来月からは、四年生となるからだ。
 今時の学生は、三年生から就職活動を始めるのが殆どであった。
 しかし、明はまだ特に始めてなかった。成績がかなりよかった為に、明はそこそこの会社に入れる自信があったのだ。だが、油断は出来ない。それ故、そろそろ本腰を入れて始めようと思った。

 明は大学の求人ファイル室で、友人の高木正也と話をしていた。
 明の大学であるR大は、総合大学で、明の学部は、経済学部であったが、正也は工学部であった。
 では、何故学部の違う明と正也が友人になったかというと、明の友人が正也の友人でもあったからだ。それ故、その友人を介して、明と正也は知り合ったのである。
「高木君は、もう会社とコンタクトを取ったのかい?」
 明は訊いた。
「少しだけ取ったよ。栗田君は?」
「僕はまだなんだ。でも、そろそろやらないと」
「そうかい。で、栗田君の本命は何処?」
「大王ストアさ。スーパーが、僕の本命なんだ。僕は、スーパーとかいった流通関係の会社で働きたいんだよ。で、高木君は、どういった会社を希望してるのかな」
「電子関係の会社を志望してるんだ」
「電子関係……」
 明は呟くように言った。明はそういった方面はまるで苦手であったからだ。
「栗田君は、そういった方面には、興味あるかい?」 
 と、にやにやした。
「特にないな。だから、そちらの方面は、まるで弱いんだよ」
 と、明は照れ臭そうに言った。
「そうかい。でも、そういった会社にも、、経理とか総務とかいxた部署はあるからな。だから、そういった職種を希望すれば、僕と同じ会社で働けないこともないよ」
「僕と同じって、高木君は、もう見込みのある会社があるのかい?」
 明は驚いたように言った。
「ああ。あるよ。しかし、まだ、正式に決まったわけじゃないんだよ。まあ、内々定という感じかな」
 正也はにやにやしながら言った。
「何という会社なんだい? それは?」
 明は好奇心を露にしては、言った。
「鍋谷化学工業さ」
 正也は些か誇らしげに言った。
「鍋谷化学工業?」
 明は素っ頓狂な声を上げた。
「ああ。そうさ。知ってるかい? 鍋谷化学工業のことを?」
 正也は眼を大きく見開いては言った。
「そりゃ、名前は知ってるよ。大手だからな」
 そう言っては、明は大高村での出来事を思い出した。あの牧歌的風景の似合う大高村で、まるで異分子のような存在であった鍋谷化学工業の工場の光景が、明の脳裏にまざまざと蘇って来たのであった。
 それはともかく、
「でも、何故鍋谷化学工業のような大きな会社に採用されることになったのかい?」
 明は好奇心を露にしては言った。
「コネさ。コネなんだよ!」
 と、正也はにやにやしながら言った。
「コネか……。詳しく説明してくれないかな」
 明は再び好奇心を露にしては言った。
「僕のゼミ仲間に、早川守っていうのがいるんだよ。で、その早川君の親父が、鍋谷化学工業の常務なんだよ。
 それで、僕は早川君に頼んだんだよ。僕を鍋谷化学工業に採用してくださいと。
 すると、早川君は僕に履歴書とか成績証明書を渡してくれと言ったので、渡したんだよ。そして、それを、早川君は親父さんに渡してくれたんだよ。
 すると、僕は見込みがあるようなことを早川君の親父さんは言ったらしいんだ。
 それで、僕は早速、面接を受けたんだ。すると、早々と内々定を告げられたんだよ。
 こんなに早く内々定になったのも、無論、早川君の親父の推薦があったからだと思う。僕よりも成績がいい奴が、鍋谷化学工業を落ちたという噂を僕は聞いたことがあるからな」
 と、正也は神妙な表情で言った。
「そうか……。それはよかったな。で、早川の親父さんのポストは何なんだい? 人事部長位かい?」
「いや。違うよ、常務だよ。大高工場長をやってるらしいよ」
「大高工場長?」
 明は驚愕したような声を上げた。 
 しかし、それも当然であろう。明はつい先日まで、大高村にいて、しかも、伯父の金山貞治から、鍋谷化学工業の悪行を耳にしていたからだ。
 それなのに、明の友人の友人の父親が鍋谷化学工業の大高工場長だなんて! こんな奇妙なことが、有り得るのだろうか?
 そう思うと、明の脳裏には、改めて、大高村での出来事が、まるで早戻しのビデオを操作してるかのように、明の脳裏に蘇って来たのであった。
 そんな明を眼にして、正也は、
「どうかしたのかい?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、明は平静を繕い、
「いや。何でもないさ」
 と、笑みを浮かべては言った。
 そんな明は、正也に大高村での鍋谷化学工業に関する事を話そうかどうか、迷った。
 しかし、その迷いは、一瞬だけであった。明の結論は、すぐに出たのだ。
 即ち、明は貞治や明が大高村で取った行動は、正也には話せないと思った。何しろ、正也にとって、早川の親父はとても大切なのだ。そんな相手の顔に泥を塗るようなことは止めた方が良いと思ったのだ。また、貞治や明たちの取った行動を早川の親父に知られるのはまずいと明は判断したのだ。 
 明も貞治と同様、鍋谷化学工業には良い印象は持っていなかった。貞治は神通川で魚が釣れなくなったと嘆くし、また、明も鍋谷化学工業のトラックを尾行し、その結果、兎を山中に埋めるという不可解な行動を眼にしたのだ。 
 しかし、明にとって、鍋谷化学工業は所詮、関係のない存在だ。余計な口出しをしない方が無難だと、明は即断したのである。

    4

「こちらが、早川君さ」
 そう言っては、正也は早川守の肩をポンと叩いた。すると、守は「よろしく」と言っては、明に手を差し出した。
 すると、明も「よろしく」と言っては、手を差し出した。
 明は正也に、早川守を紹介してくれないかと頼んだ。それで、正也は、そんな明の申し出を快く受けたのだ。
 明と正也が友人になったのも、元はといえば、二人の共通の友人を介してだ。
 それ故、正也を介して、明と守が友人になっても、おかしくはない。正に、明たちは、友人を介して、友人の輪が広がって行くのだ。
 時刻は、午後二時半であった。三人は、午後最初の授業が終わった後、中庭で待ち合わせの約束をしていたのだ。
 明は守を一眼見て、確かに金持ちの息子だと思った。身に付けている服は高価そうだし、また、靴やバッグも明には手が出そうもない高級品に見えた。また、容貌も、坊っちゃん風だ。
 それはともかく、守は明に、
「栗田君の講義は、今日はもうこれで終わりなんだろ?」
「そうです」
「そうか。じゃ、三人でドライブでもしてみるか」
「それは、正にグッドアイデアですよ」
 と、正也はいかにも嬉しそうに言った。
 三人は、大学近くにある駐車場に向かった。
 やがて、守は正也と明を守の車の傍らに連れて来た。
 すると、守は、
「これが、僕の車さ」
 と言っては、ピカピカの国産車を指差した。
 それは、1800CCの車で、新車で買えば、二百万は超えるだろう。
「去年買ったんだよ。まだ、一万キロしか乗ってないんだ。さあ! 遠慮せずに乗ってくれよ」
 そう言われたので、明と正也は畏まった表情を浮かべながらも、とにかく後部座席に座った。すると、車の中は、まだまだ新車特有の香ばしい香りを感じ取ることが出来た。
 それはともかく、守はやがて、エンジンを掛け、アクセルを踏んだ。すると、車は滑るように、走り出した。
「栗田君は何学部だっけ?」
「経済学部です」
「あっ! そうだったな。で、僕は工学部なんだよ」
「高木君から聞いてます」
 明は畏まった口調で言った。
「そうかい。で、栗田君は、自宅から通ってるのかい?」
「いいえ。下宿です」
「下宿か……。で、何畳の部屋かい?」
「六畳のフローリングに三畳位のキッチンが付いています」
「家賃は幾らだい?」
「四万ですね」
「四万か……。バイトはやってるの?」
「今はやってないです。以前はやってましたが」
「どんなバイト、やってたんだい?」
「レストラン関係ですね。後は、ホテル関係ですか。それ以外としても、ガソリンスタンドの給油係もやったことがありますよ」
「そうか。色んなバイト、やってたんだ」
 とかいった遣り取りを交してる内に、車はある建物の駐車場に着いた。そして、それは、ボーリング場の駐車場であった。「明星ボウル」と言う派手な看板が眼についた。
「さあ! 降りてくれ!」
 守にそう言われ、明と正也は、車から降りた。
 守はそんな明と正也に背を向けて、さっさと歩き始めた。そして、ボーリング場の中に入ると、フロントと何やら話をしていたが、やがて、明と正也の前に来ては、
「20レーンを確保したよ」
「ボーリングをやるんですか?」
 この期に及んで、明は妙な質問をした。というのも、今、明はバイトをやってなかった為に、無駄な出費を避けたかったのである。
 それで、明が何となく浮かない顔をしてると、そんな明の胸の内を察したのか、守は、
「心配するなよ。僕の奢りだからさ。今日は僕と栗田君の出会いを祝福する日さ。つまり、記念日なんだ。だから、パアーと行こうぜ!」
 と言っては早々と20レーンに向かって歩き始めた。
 すると、明は正也と顔を見合わせては、笑みを浮かべた。守の奢りということが分かったからだ。正也も明と同様、下宿暮らしであり、懐具合は決して豊かではなかったのだ。そんな明と正也は、颯爽と歩みを進めてる守の後に続いた。その様は、まるでご主人と使用人であるかのようであった。
 そして、やがて、3ゲームが終わった。
 この結果を受けて、明は、
「お上手ですね。早川君は」
 と、いかにも守の機嫌を取るかのように言った。
「こんなの、慣れなんだよ。慣れ。何度もやってれば、自然と上手になるのさ。
 それより、後、1ゲームやろうぜ! それで、今日は終わりにしよう」
 と言っては、守は立ち上がり、勢いよく、ボールをレーンに転がしたのであった。
 ボーリングが終わると、守はさっさとフロントで料金を払い、後方で待っていた明と正也の許に戻って来ると、
「ゲームセンターで少しゲームをやって行こう」
 と言っては、ボーリング場に隣接してるゲームセンターに向かった。
 今度ばかりは、守の奢りというわけにはいかなかったが、明はいつの間にか、あっさりと二千円も使ってしまった。
 だが、明はとても愉しかった。まるで、時が経つのを忘れてしまう位、愉しかったのだ。
 ボーリング場の駐車場に戻って来た時は、既に七時前であった。
 車の傍らまで来ると、守は、明と正也に、
「悪いな。僕に付き合ってもらって」
 と言っては、明と正也の顔を交互に見やった。
「とんでもない! 只でボーリングをさせてもらって、随分愉しい思いをさせてもらったよ。感謝してます」
 と言っては、明はぴょこんと頭を下げた。 
 すると、守は些か表情を綻ばせては、
「それならいいんだけど」
 やがて、三人は、守の車に乗り込むと、守は、
「これから、どうする?」
「僕はどうでもいいですよ」
 と、正也は言った。
「栗田君は、まだ帰らなくていいのかい?」
「いいですよ。僕は所詮、一人で下宿してる身の上ですから」
「そうか。分かった。じゃ、今から僕の家に行こうぜ」
 そう守は機嫌よく言っては、颯爽とアクセルを踏んだのであった。

     5

 守宅は、「明星ボウル」から、然程時間は掛からなかった。
 そんな守宅は、閑静な高級住宅街の中にあった。辺りは、高塀の豪邸が続いていて、決して広くはないが、住宅街を貫いてる道路には歩道が設けられ、車道と歩道との間には、欅並木が続いていた。
 守は三台は車が入るガレージに車をバックで巧みに停めると、
「さあ! 着いたよ! 降りてくれ」
 守宅は、正に豪邸であった。
 敷地は三百坪はあるだろうか。そんな広大な敷地を高塀が道路とを隔てていて、道路から守宅の中を窺うことは出来なかった。
 そんな広大な敷地の中に、守の住まいは、五十坪程の木造二階建てであった。それに使用されてる木材は、とても高価なものであることは、明でも充分に察せられた。
 それはともかく、守は明と正也を裏口に案内した。
「裏口ですまないな。玄関からは、親のお客さんしか、入れてはいけないことになってるんだよ。僕の友人は、裏口から入って貰えと、親父に言われてるんだよ。悪く思わないでくれよな」
 と守は言っては、苦笑した。
 だが裏口といっても、普通の家のそれとは、違っていた。それは、明の実家の玄関よりも、優ってる位のものであったのだ。
「さあ! 遠慮なく入ってくれ!」
「失礼します!」
 明と正也はそう言っては、靴を脱いでは、スリッパを履き、守の後に従った。
 守が明と正也を案内した部屋は、リビングであった。十四畳程の広さがあり、中央には大理石のテーブルが置かれ、それをソファが囲んでいた。また、壁には、有名画家が描いたような絵が架けられていて、また、天井からは豪華なシャンデリアが吊るされていた。
「いいんですか? 僕たちをこんな部屋に入れても……」
 と、明は思わず言ってしまった。それ程、この部屋は、明たちには相応しくないと思ったのだ。
「構わないさ。親父の客用に使う部屋は、別にあるんだよ。だから、気軽に寛いでくれないかな」
 と守は言っては、笑みを浮かべた。
 そう守が言った後、三人はソファに腰掛けては、何だかんだと雑談を交していたが、やがて、守が席を立った。
 守が部屋から出て行くと、明は正也に、
「凄い部屋だな」
 と、いかにも驚いたように言った。
 すると、正也は、
「全くその通りだ。でも、僕はこの部屋に入るのは、三回目なんだよ」
「三回目?」
「ああ。そうさ。僕は早川君との付き合いは、長いからな」
「ふーん」
 明は立ち上がり、壁に掛けられてる絵に眼をやった。
 それは、風景画であった。ヨーロッパの何処かを描いたものであろう。
 そんな絵に明は少しの間、見惚れていたが、やがて、窓越しに、庭に眼をやった。 
 すると、そこは見事な日本庭園で、大きな池があり、高価そうな鯉がうようよと泳いでいた。あの鯉は、一匹幾ら位するのだろうか?
 やがて、守はリビングに戻って来た。すると、守は、
「腹が減っただろ。夕食を食べていってくれよ」
「いいのですか? そんなことまでやってもらって?」
 明は恐ル恐る言った。守があまりにも気前がいいので、守に対する言葉は、正に敬語ばかりといった塩梅であった。
「いいに決まってるじゃないか! もっとも、断られたとしても、食べてってもらうつもりだよ。何しろ、もう作ってしまったからね」
 そう言っては、守は薄らと浮かべたのであった。
 夕食までは、まだ少し時間があったので、三人はTVゲームをしては、時間を過ごした。
 やがて、お手伝いさんが、
「食事の用意が出来ましたよ」
 と言ったので、三人は食堂に向かった。
 食堂は十畳程の広さであった。
 中央には、六人掛けの効果そうなテーブルが置かれ、その上には、豪勢な料理が並べられていた。
「さあ! 遠慮せずに、座ってくれ!」
 守は、明と正也に力強い口調で言った。
「失礼します!」
 明と正也は、手頃な椅子に座った。
 明はテーブルに並べられている料理に眼をやった。すると、カニとかイカや貝の刺身が眼に付いた。
「さあ! 遠慮せずに、食べてくれ!」
 その守の声と共に、明と正也は、料理を口に運んだ。
 明が最初に口に運んだのは、カニであった。恐らく、タラバガニであろう。予め、食べやすいように、挟みで切ってあった為に、何ら苦労することなく、カニを食べることが出来た。
 いかにも美味しそうにカニを食べている明を眼にすると、守は眼を細め、
「美味いだろ、このカニは」
「ええ。こんなに美味しいカニを食べたことがない位ですよ」
 と、明は率直な感想を述べた。
「そうだろ。このカニは、北海道の業者から、先日、冷凍便で送ってもらったんだよ」
「そうですか。道理で、味が違うと思ったよ」
 と、正也は守の機嫌を取るかのように言った。
「そうだろ。アッハッハッ!」
 と、守は正也にそう言われ、いかにも機嫌良さそうに、豪快に笑った。
 明はといえば、もう夢中で、次から次へと、テーブルに並べられている料理を口に運んでいた。
 明は日頃、下宿に近い所にある安い定食屋で、食事を取っていた。また、時には、自炊することもあった。
 そんな明の食べる料理は、いつも質素であった。
 それ故、こんな豪華な食事に有り付けたのは、R大に入って以来、初めての経験であった。
 そして、三十分位掛かって、夕食を食べ終わると、守が、
「リビングに入ってくれないか」
 と言ったので、明と正也は、リビングに入った。そして、ソファに座るや否や、正也が、
「美味しかったな」
 と、いかにも満足そうの言った。
 すると、明は、
「ああ」
 と肯き、そして、
「こんなにご馳走してもらっていいのかな」
 と、本音を漏らした。
 明は、あの豪華な食事は、一体幾ら位掛かったのか、考えてみた。恐らく、一人あたり、五千円近く掛かったのではないのか? それ以外にも、ボーリングのサービスなんかを考慮すると、一万を超えるサービスではないのか。
 もっとも、一万という金額は、大人にとっては、大したことのない金額かもしれない。しかし、明たち学生にとって見れば、大金なのだ。
「気にすることないよ。早川君の家は、ご覧の通り、金持ちなんだから」
 そう正也に言われ、明は守の親父が、鍋谷化学工業の常務であったことを思い出した。大手企業の常務ともなれば、。収入はさぞ多いことであろう。
 それ故、この程度のことは、特に気にする必要はないのかもしれない。
 やがて、守は盆にグラスを載せては、リビングに戻って来た。そして、それを大理石のテーブルの上に置いた。そして、
「ちょっと待っててくれ。ワインを持って来るからさ」
 と言っては、颯爽とリビングから出て行き、やがて、ワインを持っては、戻って来た。
 それは、フランスの高級ワインであった。
 守はワインの栓を開けると、それをグラスに注いだ。
「さあ! 遠慮せずに、どんどんと飲んでくれ!」
 守は声を張り上げては言った。
 明はワインを飲んだことは、これまでは滅多になかった。それで、その旨を言った。
 すると、守は、
「大丈夫さ。アルコール度は、それ程ではないからさ」
 そう言われ、明は早速飲んでみたが、確かにその通りであった。これなら、グラス一杯位なら、大丈夫であろう。
 やがて、三人は、再びTVゲームをやり始めた。そして、つい熱中してしまい、結局、その夜は、守宅に泊まることになった。
 そして、やがて、深夜の零時に近付いたので、この辺で床につくことになった。
 明と正也は、ゲストルームに案内された。
すると、その部屋はホテルのような室で、ベッドが二つ置かれていた。この部屋は、鍋谷化学工業の客が泊まる時に利用する部屋だそうだが、内緒で使わせてくれるとのことだ。
 そして、そのゲストルームには、シャワー室もあったので、シャワーを使わせてもらった。
 そして、ベッドに横になると、明と正也は瞬く間に眠りについたのであった。

 翌日は、守は私用があるから、学校には行かないと言ったので、明は正也と共に、電車で大学に向かった。
 吊革に?まりながら、正也は、
「凄いだろ。早川君は」
 そう正也に言われると、明は、
「ああ」
 と、肯いた。
 正に、「凄い!」の一言で片付けてしまうに充分な人間であった。早川守という人物は! 明は同じ大学の中で、早川守のような学生がいたことを知り、大いに驚いたのであった。
 また、明は今まで生きて来た二十二年間で、早川守のような人間に出会ったことはなかった。
 明は地方に生まれ、育った。父親は、平凡なサラリーマンであった。
 祖父は小さな雑貨店を営んでいて、父親は金山貞治の妹と結婚し、明が生まれたのであった。
 そんな明は、今までに早川守のような人間と接する機会はなかったのである。明の周囲には、何事においても、平均的な人間ばかりであったのだ。
 そう明が思ってると、正也は、
「早川君のこと、どう思う?」
 と、突如、神妙な表情を浮かべては言った。
「どう思うって?」
 車窓に流れ行く光景に眼をやっていた明は、眉を顰めた。正也が何だか妙な事を訊いたと思ったからだ。
「だから、どう思うかだよ」
 と、正也は些か真剣な表情を浮かべては言った。
「だから、凄い人だと思ったよ」
「それは、分かってるさ。それ以外に何か思ったことはないかということなんだよ」
 正也は眼を大きく見開いては言った。
「だから、凄い金持ちとか、恵まれてるとか思ったよ。
 でも、早川君は、きさくな人だよ。金持ちなら、それを鼻にかけたりするものだが、早川君からはそのような感じはまるで受けないからな。だから、人間は悪くないと思ったよ」
 と、明は率直な感想を述べた。
「それ以外は?」
「昨日、始めて会ったんだ。だからそれ以上のことは分からないよ」
「そうか……」
 と、正也は呟くように言った。
 そんな正也に、明は、
「高木君は、どう思ってるのかな」
 と、興味有りげに言った。
「実はな。早川君は、可哀相なんだよ」
 と、神妙な表情で言った。
「可哀相? あんなに恵まれてるのに、どうして可哀相なんだ?」
 明は些か納得が出来ないように言った。
「早川君は、あの広い家に一人で住んでるんだよ。もっとも、通いのお手伝いさんはいるんだけどね」
「何故、それが可哀相なんだ? あんな広い家に住み、車も持ち、お金も持ってるのに、可哀相なわけがないじゃないか!」
 と、明は正也の言葉に反発した。
「早川君のお母さんは、早川君の父親がいない間は、愛人と暮らしてるんだ。昨日だって、早川君の母親を見なかっただろ?」
「そういえば、そうだったな」
 と、明は確かにそう思った。
「もし、自分の親が、愛人と暮らしていたとしたら、どう思う?」
「そりゃ、嫌だな」
「そうだろ。でも、それだけじゃないんだ。早川君の親父にも愛人がいるんだ」
「本当かい? それ?」 
 明は素っ頓狂な声を上げた。正に、昨日から、驚くべきことの連続だ。
「本当さ。最初に愛人を作ったのは、親父の方なんだ。それに腹を立て、母親は愛人を作ったのさ」
「そういうわけか。しかし、高木君は、何故そのようなことを知ってるんだ?」
 明は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「僕の母さんが、早川君宅のお手伝いさんの友人なんだよ。だから、知ってるのさ」
「そういうわけか」
 と、明は納得したように言った。
「言っておくが、このことは、絶対に秘密だぜ。栗田君だから、話したんだぜ」
「ああ。分かってるさ」
 やがて、電車は駅に着き、二人はR大に向かう道を歩き始めた。R大までは駅から五分位だ。
 明はR大に向かう道を歩きながら、早川守という人間のことを考えてみた。
 確かに、正也が言ったように、守は可哀相な人間なのかもしれない。守は両親の不義にやり切れない思いを抱いてるのかもしれない。それだからこそ、友人たちにパーと奢り、憂さを晴らしてるのかもしれない。
 もし、明が守であったのなら、守と同じようなことをやったかもしれない。
 明は正に人間というものは、外見では分からないと思ったのだ。
 やがて、二人はR大の正門を通りぬけた。すると、二人はそこで別れ、別々の校舎に向かったのであった。

   

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