第五章 大企業

     1

「今期は、大幅な増益になりそうだな」
 早川道哉は言った。
 ここは、都心にある鍋谷化学工業の本社ビルだ。十五階建の颯爽たるビルが、青空の下に一際映えていた。
 その十二階にある副社長室で、副社長の大友宗則と常務の早川道哉が談笑していた。
「大高工場で生産される新製品が、利益に貢献したんだよ。よくやってくれたよ」
 そう言っては、大友は、早川の肩をポンと叩いた。
「はあ……。今後もこの好調さを維持し、わが社の繁栄に貢献しようと思っています」
 早川は力強い口調で言った。
 すると、大友はいかにも機嫌良さそうに笑みを浮かべたが、突如、険しい表情を浮かべては、
「ところで、あの件はどうなったかね」
「あの件と申しますと?」
 大友が急に真剣な表情を浮かべたので、早川も同じような表情を浮かべては言った。
「廃液の件さ。有害物質を含んだ廃液を川に流してるとか言ってたじゃないか。その件はどうなったかと訊いてるのさ」
 大友は、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 すると、早川は眼を大きく見開き、
「今の技術では、有害物質を完全に除去することは出来ませんでしてね。ですから、川に流すしかないのですよ。多大なコストが掛かる除去システムを作れば、今よりは減らすことは可能なんですが、やはり、コストが問題ですし、また、それでも完全には除去出来ないので……」
 と、いかにも決まり悪そうに言った。
 そう早川が言うと、大友は、
「ふむ」
 と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
 すると、早川は眼を大きく見開き、
「我々の工場で作られる製品が、日本経済に貢献し、また、鍋谷化学工業の社員の生活を支えてるわけですから、川を少し位汚す位の犠牲は、やむを得ないですよ」
 と、きっぱりと言った。
 すると、大友は些か満足そうな表情を浮かべては、
「そうか。分かった! じゃ、その調子で頑張ってくれ」
「頑張りますよ」
 そう言った早川の表情には笑みが浮かんだ。
 そして、その笑みは、大友の笑みをも誘ったのであった。

     2

 この都心の豪壮なホテルの二階に設けられている大宴会場は、今、熱気に包まれていた。五百人を超えると思われる位のビジネスマン、ビジネスウーマンたちが、立ち食いパーティを愉しんでるのだ。
 ホテルのボーイたちは、ビジネスマン、ビジネスウーマンたちの間を縫うようにしては、忙しそうに動き回っている。
 ビジネスマンたちの顔は、とても紅潮していた。所々で一固まりになって、語らいに夢中になっている。正に尽きることのない話題に花を咲かせてるのだ。
 彼らは、グラスを持ったり、皿を持ったりしては、飲んだり食べたりし、今宵の一時を大いに愉しんでるのだ。
 そして、その立ち食いパーティも、夜が更けるに連れて、やがて、お開きになった。
 ビジネスマンたちは既に帰途につき、大宴会場のテーブルの上には、グラスとか食べ物の残った容器が、まるで主を失ったかのように、無造作に並べられていた。
 ホテルのボーイたちは、その後片付けに取り掛かっていたが、田中というボーイが、
「今日は、何という会社のパーティだったんだい?」
「鍋谷化学工業という会社さ」
 と、大田というボーイ。
「鍋谷化学工業か。今日は創業記念パーティあたりかな」
「さあ……。知らないな」
 といった遣り取りを交しながら、後片付けをやってたのだが、
「これ、見ろよ!」
 と、田中はテーブルに置かれた容器を指差した。その容器には、殆ど手が付けられていないベーコンが残っていた。
「勿体ないや」
 大田は、眉を顰めた。
「本当だ」
 田中も眉を顰めた。
「こっちを見ろよ!」
 大田は、別のテーブルの容器を指差した。そこには、全く手が付けられてないようなサンドイッチが残されていた。
「勿体ないな」
 田中は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「全くだ。大企業の蓮中は、何を考えてるんだ」
 大田は、吐き捨てるように言った。
「全くだ! 儲かってるんだろうが、食べられるものをこれだけ残すなんて、非常識だぜ! これだけのものがあれば、多くの飢えてる人たちを助けられるだろうよ」
「同感だ! 大体、大企業ってとこは、汚いことをして金を儲けてるところも、結構あるというじゃないか! そんなことをして金を儲けるよりも、ものを大切にしろって言いたいよ!」
「正に、その通り!」
 田中と大田は、パーティが終わった大宴会場に眼を配らせては、率直な感想を述べ合っていたのだった。

     3

 鍋谷化学工業の創立記念パーティが終わってから、早川は久し振りに我が家に戻ったが、宴会で酒を飲んだということもあり、早々と眠ってしまった。
 翌日、早川は息子の守と顔を合わせた。早川は守に、
「お前も来年は社会人になるのだから、会社に入って恥をかかないように、しっかりと勉強しておけよ」
「ふん! まだ、父さんの会社に入るとは、言ってないじゃないか!」
「だったら、何処に就職しようと思ってるなんだ? お前のような奴を雇ってくれる会社があるとでもいうのか? そんな会社があったとしても、せいぜい従業員が百人か二百人位の小さな会社だろ。そんな会社より、うちに会社の方が、どれだけいいか、考えてみたことがあるのかい?」
「会社の善し悪しは、従業員の数で決まるわけではないよ」
「お前は、何も分かっていないんだな。大きい会社の方がいいに決まってるじゃないか! 給与、福利厚生、作業環境……。何においても、優れてるんだ。
 こんないい所に入れてやるというのに、断るつもりか?」
 と、早川は声を荒げた。
「そんなことより、僕の友人の高木君は、大丈夫だろうね?」
「高木君は成績がいいから、俺を通さなくても、採用される可能性はあるよ。
 だが、守! お前の成績じゃ、駄目だ。
 大体、今の大学も俺が裏で頼んでやったから、入れたんだ。
 そんなお前だから、人一倍に勉強しなければならないのに、車ばかり、乗り回しやがって!」
 と、早川は渋面顔尾を浮かべた。
「そんなことより、母さんはどうしたんだよ。どうして、母さんはいないんだ?」
「あいつが、勝手に出て行ったのさ。出て行きたいのなら、出て行けばいい。
 もっとも、俺は別れるつもりはないさ。
 大体、あいつには、金のありがた味というものが、分かっていないんだよ。貧乏画家なんかに、現を抜かしやがって! 純愛が欲しいだって? 
 ふん! 笑わせるな! 
 いいか! この世で最も大切なのは、金なのさ! 愛よりも、金の方が大切なのさ! 母さんには、それが分かっていないんだ。だから、生活能力の無い貧乏画家には その内に愛想が尽き、戻って来るさ」
 早川はそう言っては、唇を歪めた。
「父さん。母さんは、どうして貧乏画家とやらと一緒に暮らすようになったんだい?」
「そんなことは、子供のお前が、いちいち気にすることではない!」
「俺、子供じゃないよ! 来年は、社会人になるんだ」
「でも、父さんから見れば、子供さ。子供は、大人のことに関して、余計な口出しをしなくていいよ」
「父さん。言ってやろうか。父さんには、若い愛人がいるんだ。だから、母さんは腹が立って出て行ったんだ!」
「黙れ! それ以上、言うな!」
 早川は顔を紅潮させては、リビングから出て行った。

     4

 村山がワカバ化学工業に入社して、一ヶ月が過ぎた。
 村山は徐々に新たな会社に慣れて来た。鍋谷化学工業から受けた仕打ちのことも徐々に忘れつつあった。
 そんな折に、鍋谷化学工業での仕事仲間であった崎山治郎から電話を受けた。
 崎山は村山より一歳年上で、村山と同じくエリート社員であった。だが、大高工場ではなく、他の工場に勤務していた。
―どうだ? 新しい会社に慣れたか?
「ああ。大分慣れたよ」
―そうか。一度会って話をしたいんだ。
「いいよ。いつが都合いいのかい?」
―明日がいいんだが。
「分かった。じゃ、何処で待ち合わせする?」
―駅前の「太閤屋」でどうかな。
「それでいいよ。じゃ、明日の八時に『太閤屋』で会おう」

「太閤屋」は、カウンターとテーブルが三十席程ある居酒屋であった。
 村山は予約してあったテーブルに既についていた。
 やがて、八時になった。崎山はまるで列車の如く正確にやって来た。
 崎山は村山と顔を合わせると、
「元気かい?」
「まあ、元気だよ」 
村山は些か照れ臭そうに言った。
 村山は崎山と顔を合わせるのは、久し振りであった。村山は大高工場に来る前には、毎日のように崎山と一緒に仕事をしていたので、村山はその頃のことが、俄かに村山の脳裏に蘇って来た。
 やがて、二人のテーブルにビールが運ばれて来た。そして、乾杯が終わると、
「新しい会社は、どんな具合だ?」
「まずまずさ」
「そうか。それなら、一安心だな。ワカバ化学工業なら鍋谷化学工業と同じような仕事内容だからな」
「そうなんだ。だから、仕事に違和感はないさ」
「そうか。それはよかったな。で、今は何処で勤務してるんだい?」
「丸山事業所という所さ。自宅から一時間四十分位なんだ」
「一時間四十分か。それなら、何とか通勤は可能だろうな。
 で、転職した方が良かったんじゃないかな。色んな面で」
「色んな面って、それ、どいうことかな」
「だから、給与とか、人間関係なんかさ」
「そんなんことないさ。給与水準は、鍋谷化学工業の方が上だよ。人間関係だって、まだ入ったばかりだから、分からないさ」
「でも、まあまあの感じなんだろ?」
「ああ」
「だったら、いいじゃないか。でも、村山のような優秀な人材を何故、鍋谷化学工業は手放したのかな?」
 と言っては、崎山は首を傾げた。
「色々あってな」
 と言っては、村山はグラスを口に持って行っては、一気に飲み干した。
「一体、どんなことがあったんだい?」
 崎山はいかにも興味有りげに言った。その崎山の様から推すと、どうやらそれが今夜の崎山の最大の関心事であるかのようだ。
 そう崎山が言うと、村山は、
「それは……」
 と、呟くように言っては、言葉を詰まらせた。村山は退職するに至った経緯のことを話したくはなかった。話すとなると、有害物質を含んだ廃液を神通川に流してることに触れなければならないからだ。それを村山は避けたかったのだ。
 しかし、それは何故だろうか?
 村山は元はと言えば、その有害物質を生成する製品の製造に携わっていたのだ。
 そのことを崎山は知らないのだ。それ故、村山は自らの恥を崎山に告白するようなものだからだ。
 もっとも、村山はそのことを辞めようと会社に進言した為に会社と対立するようになり、鍋谷化学工業を辞めさせられたのだが、そうかといって、村山も元はといえば、加害者なのである。
 村山が退職する少し前に、人事部総務課の物置のような部屋で、何もすることなく、ぼんやりしていた村山の前に、大高工場時代の上司が村山の許にやって来た。そして村山に、
「廃液のことは、決して他人に話さないように。その方が、君の為だ」
 と言って来た。
 それで、村山がその理由を訊いたところ、
「新製品の開発には、村山君のアイデアが大いに影響してるからさ。万一、会社側の関係者が法的に罰せられることがあったのなら、村山君も同罪を免れないだろう。そして、そうなれば、新たな勤務先も辞めなければならないだろう。村山君だって、家族を路頭に迷わせることは避けなければならないからな」
と、言って来たのだ。
 村山は、この言葉に返す言葉がなかった。正に、上司に脅されてしまったのだ。
 しかし、その脅しが、決して理不尽なものではなかった。それどころか、もっともなことに思えたのである。
 それ故、村山は大高工場でのことは、決して部外者には話すまいと決意したのである。たとえ、鍋谷化学工業の同僚であった者に対してもだ。
「崎山君は、何故僕が辞めたのか、知らないのか?」
 村山は眉を顰めては言った。
「ああ。知らないな。だから、訊いたのさ」
「実はな。鍋谷化学工業の経営姿勢が、嫌になったのさ。何しろ、鍋谷化学工業は同族色が強い会社だからな。役員会でも、鍋谷化学工業一族の発言には、逆らえないそうじゃないか。
 それが嫌だったのさ。
 それに対して、今の会社には、そういった同族色はないからな」
 と、村山は嘘をついた。
「同族経営に不満か。その気持ち、分からないこともないな。
 でも、そのことは、入社した時から、分かっていたんじゃないのかな」
「そりゃ、そうだけど、歳を取ってくれば、ものの見方も変わって来るというわけさ」
 と、村山はまるで崎山に言い聞かせるかのように言った。
「成程。そういうわけか。しかし、村山君は偉いよ。きっぱりと会社を見切ることが出来るんだからな。僕には、そんな真似は、とても出来ないな」
 と、崎山はまるで村山を称賛するかのように言った。
 そして、その後、二人は仕事とは関係ない話へと話題が移って行ったのであった。

     5

 その翌日、崎山は村山の上司だった高林と鍋谷化学工業の本社内の会議室で顔を合わせた。二人は元々、その日、話をする予定になっていたのだ。
 高林は崎山と顔を合わせるや否や、開口一番に、
「どうだった?」
 と、いかにも真剣そうな表情で言った。
「まず、大丈夫だと思いますね。村山は誰にも話してないと思いますよ。僕は村山に鍋谷化学工業を辞めた理由を訊いたのですが、村山は同族経営に不満だったと言いましたよ。村山とかなり親しかった僕にそう言ったのですから、廃液のことは、誰にも話してないんじゃないですかね」
 と言っては、崎山は小さく肯いた。
「そうか。その公算が高いな。これで、一安心だ」
 と言っては、高林は安堵した表情を浮かべた。
 高林は恐れていた。村山の口から、大高工場の実態が暴露されるのを。
 もし、環境保護団体などが嗅ぎつけ、クレームを付けられたりしたら、最悪の場合、新製品の製造がストップしてしまうことにもなりかねない。元々、新製品製造工場として大高村が選ばれたのも、過疎地であり、また、廃液を流せるのに相応しい川があったからだ。
 それ故、何とか誤魔化してでも、製造を続けなければならないのだ。そうでなければ、大高工場の建設コストを回収出来ないのだ。
 それ故、村山の動向には注意を払っていたのだが、どうやら一安心であったというわけだ。

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