第六章 再会

     1

 四月に入ると、大高村の畑を覆っていた雪も溶け始め、農民も農作業に精を出し始めていた。貞治は牛の世話より、畑作業に重点を移し始めていた。
 畑で鋤を動かしながらも、貞治は鍋谷化学工業のことは、忘れはしなかった。有害物質を川に流してるに違いない鍋谷化学工業のことを!
 貞治は大高工場の実態を探る為に治子をアルバイトとして派遣したり、排水口から流れ出る廃液を調査してみたりした。
 その結果、分かったことは、貞治の推測を証明するものであった。
 それ故、貞治は役場に苦情に行ったのだが、役場には全く相手にされなかった。貞治は役場に鍋谷化学工業の手が伸びてるのではないかと思ってみたが、一介の農民である貞治には、どうすることも出来なかった。
 貞治は大高村の農民仲間に、貞治の胸の内を述べた。
 が、彼等は貞治程、環境破壊に興味を持っていないようであった。工場が進出して来たお陰で、村が活気づいてよくなったよと言う者もいた位で、貞治の話には、さして気乗りしなかったのである。
 だが、貞治の胸の内は、鍋谷化学工業の悪行を暴き、神通川に有害物質を排出するのを止めさすことは出来ないのかという思いが、消え去ることはなかったのであった。
 それはともかく、貞治は夕食時に、
「村山さんは、どうなったのかな?」
 と、治子に訊いた。
 すると、治子は、
「知らないわ」
 と、素っ気なく言った。
「大高工場から本社に転勤になったんだろ?」
「そうらしいね」
「村山さんは鍋谷化学工業が有害物質を神通川に流してることに反発したので、清掃係をやらされたんだよ。そして、その主張を変えなかったので、本社に転勤させられたんだよ」
「そうかもしれないね」
 と、治子は貞治の話にさして関心がなかったのか、せっせと料理を口に運んでいた。
「それでだな。治子にやってもらいたいのは、村山さんにもう一度、会ってもらいたいのだよ」
 と言っては、貞治は決まり悪そうな表情を浮かべた。貞治とて、毎日一緒に暮らしてる妻に対してでも、言いにくいことはあったのだ。
 そう貞治に言われて、治子は、
「えっ! どうして私が、そのようなことをやらなければならないの?」
 と、素っ頓狂の声を上げた。
「決まってるじゃないか! 村山さんから、大高工場の実態を聞き出すんだよ」
 貞治は村山から、大高工場の実態を暴露してもらおうと考えたのだ。
 役場に苦情を言いに行ったものの、てんで相手にされなかった。
 こうなったら、確固たる証拠を摑み、訴訟に持ち込むのだ。もっとも、貞治自身が鍋谷化学工業という大会社と闘うことは不可能だろう。それ故、地方公共団体に告発するという手段も有り得るだろう。いずれにしても、鍋谷化学工業の悪行を法廷の場で指弾するのだ。その為には、村山の助力が必要だと、貞治は判断したのである。
「でも、村山さんは、私が牧場で話した時には、何も話してくれなかったのよ」
「分かってるさ。でも、それは、村山さんが清掃係をやらされる前のことだろ? 村山さんの心境は、その時とは変わってるかもしれないじゃないか! だから、今、訊けば、ひょっとして話してくれるかもしれないよ」
「私はそうは思わないよ。それに、村山さんとどうやって連絡を取るの?」
「社員食堂で、治子と一緒に働いていた人に訊けばいいじゃないか! 仲が良くなった婦人がいたんだろ?」
「雪村さんのこと? 雪村さんなら、知らないと言ってたよ」
「だったら、他の人は?」
「他の人って、私、雪村さん以外に、村山さんのことを訊けそうな人を知らないよ」
「鍋谷化学工業の人事課に問い合わせるわけにもいかないしな」
 と言っては、貞治は思わず腕組みをした。
 貞治は化学に詳しい人を知らなかった。そのような人を知っていれば、廃液の成分を分析してもらって、その結果、違法分類されてる化学物質が含まれてることを立証出来れば、それをもとに告発出来るというものだが、それが出来ないのだ。
 それ故、貞治は村山に狙いを付けたのだが、村山に連絡が取れないとなると、貞治の思いも空振りに終わってしまう。
 貞治は握り拳にぐっと力を入れた。
 そして、自らに言い聞かせた。
〈鍋谷化学工業の思うがままに、大高村を翻弄させはしないと!〉
 それで、貞治はいかにも険しい表情を浮かべたので、そんな貞治に治子は、
「明に訊いてみれば?」
 と、治子はいかにも妙案が浮かんだと言わんばかりに言った。
「明に?」
「ええ。明はR大生だよね。R大は総合大学だから、化学に詳しい人がいるんじゃないかな。明なら、そういう人を知ってるかもしれないよ」
「それは、いい思い付きだ! じゃ、早速、明に連絡してみるか!」
「明か」
―そうです。先日は、お世話になりました。
「で、今日、明に電話したのは、明の知り合いに化学に詳しい人はいないかと思ってね」
―化学、ですか。僕は経済学部ですからね。友人も同じ学部の者が多いですからね。
 でも、何故化学に詳しい人が必要なんですかね?
「廃液を調査したいんだよ。鍋谷化学工業が流す廃液の調査をね」
―そういうわけですか。と言われても、化学に詳しい人は、僕は知らないですからね。
 そうだ! 僕の知り合いで、鍋谷化学工業の常務の息子がいるんですよ! 更に、その常務は、大高工場の工場長をやってるんですよ!
「本当か? それ?」
 貞治は眼を白黒させては言った。
―本当ですよ。そのことが何か役に立たないかと思わないこともないのですが、でも、伯父さんが工場が流す廃液のことを調査しようとしてることを知られたら、まずいと思うのですがね。
 と、明は眉を顰めては言った。
「流石、僕の甥だよ! よく、気が付くよ!」
 と、貞治は感心したように言った。
―それ程でも……。
「じゃ、早速、その息子に、人事異動のあった社員のことを調べてもらいたいんだよ」
―それなら、出来るかもしれませんね。
「じゃ、三月半ばまで大高工場で働いていた村山寛士という人が、本社に転勤になったみたいだが、その村山さんの住所を調べてもらいたいのだよ」
―分かりました。早速頼んでみますよ。
「頼むよ」

 その三日後、明から貞治に連絡があった。
「どうだった? 村山さんの連絡先は、分かったかい?」
―分かりましたよ。今から言いますから、メモしてくださいね。
 と明が言ったので、貞治は早速それをメモした。
 メモを終えると、貞治は、
「よくやってくれた。ありがとう。で、その息子はどうやって調べてくれたのかな?」
―その人は、早川君というのですが、早川君は鍋谷化学工業の女子社員に知り合いがいるのですよ。その女子社員に調べてもらったというわけですよ。
 それで、分かったのですが……。ただ……。
 と、明は言葉を濁した。
「ただ、何なんだ?」
―村山さんは、鍋谷化学工業を辞めたそうですよ。
「辞めた……。そうか……」
 そう呟くように言っては、貞治は唇を噛み締めた。村山は会社の方針に反対した為に、退職に追い込まれたのではないのか? 貞治はそう思うと、なんだか、人間社会の非情さを感じたのだ。
 そんな貞治に、
―もうこれでいいですかね?
「ああ。いいよ」
 と言っては、貞治は送受器を置いた。 
 そして、傍らにいた治子に、
「村山さんは、鍋谷化学工業を辞めたらしいよ」
「そうなの……」
 治子は神妙な表情で言った。
「それ故、村山さんとは是非、話をする必要があるよ」
 と、貞治は厳しい表情で言った。

     2

 その日、治子は村山宅に足を向けていた。それは、村山の退職を知ってから五日後の日曜日のことであった。
 仄々とした陽気で、治子はやがて、公園に差し掛かった。
 その公園では、小さな子供を連れたパパとかママの姿を眼にすることが出来た。
 その公園を通り過ぎ、七、八分歩いた後、村山田宅の前に来ることが出来た。
 治子はこの辺りに来るのは初めてのことであったが、住宅地図のコピーを持っていたので、案外早く着くことが出来た。
 村山宅の周辺には、同じような住宅が並んでいた。敷地はとても狭く、地下に車庫がある二階建てであった。正に建売住宅で、大高村には、まるで、見られない住宅であった。だが、場所からして、かなりの金額であろうと思った。
 それはともかく、治子は思い切って、ブザーを押した。
 すると、程なく「はい!」という声がして、四十位の婦人が顔を出した。
「金山と申しますが、ご主人はいらっしゃるでしょうか?」
 治子は恐る恐る言った。
「ちょっと待ってくださいね」
 婦人は席を外し、少しすると、村山が治子の前に姿を見せた。
 すると、村山は開口一番に、
「これは、これは……」
 村山はそう言ったものの、村山の表情には、当惑の色が浮かんでいた。〈何故、この女はやって来たのか?〉と。
 そんな村山の胸の内を察したのか、治子は畏まった表情を浮かべては、
「実は、お話しがありましてね」
 その治子の表情に心を動かされたのか、村山は、
「まあ、中に入ってくださいな」
 治子が通されたのは、応接間であった。といっても、六畳位の洋間で、ソファ一式と、TVが置かれていた。だが、六畳という広さの為か、中はとても狭苦しく感じられた。
 テーブルを挟んで、治子は村山と向い合った。
 村山の妻が、
「お茶をどうぞ」
と言っては、お茶をテーブルに置いた。
 それで、治子は、
「ありがとうございます」
と言っては、軽く頭を下げた。
そんな治子に村山は、
「僕に話って、何ですかね?」
 と、興味有りげに言った。
「鍋谷化学工業のことなんです」
 治子は畏まった様で言った。
 すると、村山は、
「ふむ」
 と言っては、渋面顔を浮かべた。
 そんな村山に治子は、
「村山さんは鍋谷化学工業を辞められたということで、はっきりと言わせてもらいますが、鍋谷化学工業が神通川に有害物質を流してるということを認めてもらいたいのですよ」
 と、きっぱりと言った。
 そんな治子には、確固たる意志が感じられた。
 だが、村山は治子の言葉を聞いて、啞然とした表情を浮かべ、言葉を詰まらせた。
 そして、その村山の沈黙は少しの間、続いたが、やがて、村山は、
「そんなことだと思っていましたよ」
 と言っては、軽く笑った。
 それで、治子は、
「どうなんですかね?」
 と、まるで村山に詰め寄るかのように言った。
「もし、流してると言えば、どうするつもりですかね?」
「訴えるつもりですわ」
「訴える?」
「そうです。法廷で、はっきりと決着をつけたいというわけですよ」
 その治子の言葉に、村山は大いなる動揺を感じた。勿論、治子の前では、平静を装ってるのだが、心の中では、大いに動揺していたのだ。
 そんな村山の心の中では、様々な言葉が飛び交った。
〈訴えればいいさ。そうなれば、鍋谷化学工業が負けるに決まっている! 俺をいとも簡単に馘にした鍋谷化学工業に傷がつくんだ! ざまみろ!〉
〈いやいや。訴えられれば、困る。有害物質を製造する商品開発に村山も大いに関与したのだ。それ故、村山はひょっとして逮捕されるかもしれない。鍋谷化学工業なら、そういう風にもって行くだろう。
 そうなってしまえば、今の会社を辞めなければならないだろう。となると、智子と直行はどうなるんだ?〉
 村山は迷った。さあ! どうするんだ?
 治子は村山の様子を窺った。
 村山はとても迷ってるようだ。村山は治子の言葉に動揺し、自らの心の中で、激しい問答を繰り返してるのではないのか?
 治子には、そう見えた。
 そして、そのことは、治子の言葉を肯定してるということではないのか?
 村山は脂汗が沸き出るて来るのを感じた。まるで、蛇に睨まれたカエルのような心境とでもいおうか。
 とはいうものの、村山は程なく冷静さを取り戻し、
「僕の口からは、何とも言えませんね」
 それが、村山の言葉であった。村山は曖昧な言葉で、終止符を打とうとしたのだ。
「そこを何とかなりませんかね。村山さんは化学関係の製品を開発されていたそうですから、何もかもをご存知だと思うのですがね」
 と、治子はまるで村山を追い詰めるかのように言った。
「そんなことはないですよ。確かに僕は化学関係の製品の製造に携わっていましたが、それはかなり前のことでして、僕の仕事は変わりましたからね。ですから、詳しいことは分からないのですよ」
 と、村山は嘘をついた。だが、治子は村山の嘘を嘘だと断定することは出来ない。
 治子はもうこの件で、村山は何も話してくれそうもないと思った。
 すると、その時、ジングルベルの音楽を口ずさんだ小さなサンタクロースが、応接間に闖入して来た。
 その子供は、サンタクロースの衣装を身に付け、ソファに飛び乗っては、
「僕はサンタクロースだよ!」
 と言ったのだ。
 村山はその可愛い一粒種を摑まえては、
「こら! 直行! よしなさい! お客さんの前で!」
 と言っては、サンタクロースの帽子と付け髭を直行から外した。
 すると、そこには、まだあどけない子供の顔があった。
 直行は治子の眼前に来ては、微笑みかけた。
 すると、治子は微笑みを返し、直行の頭を撫でては、
「いい子ね」
 と言った。
 すると、直行は再びサンタクロースの帽子を被り、ジングルベルの歌を歌いながら、応接間から出て行った。
「すいませんね。お騒がせしてしまって」
 と、村山は笑いながら言った。
「直行君は、サンタクロースが好きなんですかね?」
「そうなんですよ。でも、まだ四月ですからね。何だか変ですね。子供だから、クリスマスとサンタクロースの関連が分からないのですよ」
「直行君は、サンタクロースに何か特別の思いでもあるのですかね?」
 治子は興味有りげに言った。
「大したことじゃないのですがね。クリスマスの時に、直行を連れて街を歩いていたのですよ。そしたら、サンタクロースの衣装をつけた人が、直行の前にやって来ては、直行の頭を撫でたのですね。それが、気に入ったのではないですかね」
「そういうわけですか……」
 それから、治子と村山の会話は、当りさわりのないものへと移り、やがて、治子は村山に、
「おじゃましました」
 と言っては、村山宅を後にしたのであった。
 治子は玄関扉を閉めて、しばらく歩みを進めてから、今一度、村山宅を振り返った。
 村山宅は、確かに小じんまりとした建売住宅であった。
 だが、治子にはそれがとても大きなものに感じられたのであった。
 それは、小じんまりとした建売住宅の中に住む村山一家を知った為だ。村山一家は、確固たる愛情によって結びついていたのだ。それは、小じんまりとした建売住宅を吹き飛ばすかの如く、大きなものに治子は感じたのだ。村山一家の息吹が小じんまりとした建売住宅を包み、それをとても大きなものに感じさせたのであった。
     
 大高村に戻って、治子は貞治に村山とのことを報告した。
 すると、貞治は、「うーん」と言っては、腕組みをしたが、
「村山さんは、有害物質を含んだ廃液を流してるということに関しては、肯定もしなければ、否定もしなかったわけだ」
「そうよ」
「そうか。どういう事情があるのか分からないが、沈黙を守らなければならなかったのではないかな」
 そして、貞治はこの時点で、村山から証言を得るのは、困難だと思った。村山は鍋谷化学工業を辞めたとなれば、鍋谷化学工業の悪事を洗い浚い話してくれるのではないかと期待していたのだが、その当てが外れたというわけだ。
 そんな貞治は、渋面顔を浮かべては、これからどうすべきか、考えを頭の中で巡らせたのであった。

     3

 季節は夏を過ぎ、九月に入った。
 今年の大高村の農作物の収穫は、好調だった。梅雨時にまとまった雨が降り、それが農作物の発育を促したのであった。
 大高村の農民は、今、正に農作物の収穫に超繁忙であったのだ。
 そんな農民たちの中で、金山貞治だけが、異色的な存在であった。
 もっとも、外見は他の農民とは、何ら変わりはなかった。だが、貞治の心の中は、他の農民とは甚だ異なった感情が燃え上がっていたのだ。
 貞治は農作業の合間を見付けては、神通川に釣りに出掛けた。
 だが、相変わらず釣れなかった。鍋谷化学工業が大高村に進出して来る前は、こんな風ではなかったのに。
 その原因は、鍋谷化学工業の廃液にあることは、明らかであった。
 それ故、貞治は役場に苦情に行った。
 だが、役場は貞治のことをてんで相手にしなかった。また、村山の証言を得ようとしたのだが、村山は口を噤んでしまった。
 貞治は農民仲間に頼んでみた。
 だが、多くの者は、無関心であった。大高村の農民は、神通川に生活を依存してるわけではないからだ。それ故、無関心でいられるのだ。
 農民の中には、鍋谷化学工業が大高村に進出して来たことを歓迎する者もいた。これまで、若者がどんどんと村を出て行く過疎村に活気が出て来たという具合に。
 そのような者に貞治が何を言っても、暖簾に腕押しという具合だ。
 貞治は神通川の流れに眼を向けては、もはや貞治の力ではどうすることも出来ないと思った。貞治に出来ることは、もう何もかもやり尽くしたのだから。
 神通川に有害物質が流れ出てるといっても、神通川で獲れた魚を食べた女性が、奇形児を産んだわけではない。身体に何か不具合が発生したわけではない。要するに、具体的に何か被害が発生したわけではないのだ。強いて言えば、貞治の釣りの成果が落ちた位なのだ。貞治とて、実生活では、何ら支障は発生してないのだ。
 それらのことから、この件は、意識しないようにするしかないと思わざるを得なかったのだ。

     4

 人間、誰でも将来、自分自身に、どのような出来事が発生するか予測することは困難であろう。
 もっとも、占いなどによっては、ある程度、予測は可能かもしれない。
 しかし、どんな優れた占い師でも、些細な出来事を予測することは不可能であろう。
 そして、この出来事は、どんな優秀な占い師でも、予測することは不可能であろう。しかし、貞治にとってみれば、正にその人生において、最も大きな出来事と思える位の出来事が発生してしまったのである。
 その夜、都会の大学に通ってる甥の明から、貞治に電話があった。
―伯父さん。僕です。
「明か。元気にやってるか」
―ええ。それで、今日、電話したのは、伯父さんに是非、お伝えしたいことがあるからです。
「何だ、それは?」
―伯父さんは、以前、化学に詳しい人を探していましたね。
「ああ」
―それが、見付かったのですよ。化学に詳しい人が!
「本当か?」
―本当です。柳沢さんという人ですがね。僕より四歳年上ですが、今はうちの大学で助手をやってるのですよ。
 で、僕は柳沢さんに伯父さんが言ったことを話してみたのですよ。
 すると、すごく興味を示し、「俺に任せとけ!」と言ったのですよ。つまり、鍋谷化学工業が流してる廃液の成分を調べてくれるとのことですよ!
「それ、本当か?」
 貞治は興奮の為か、思わず声を上擦らせては言った。
―本当ですよ。明日、そちらに行く段取りになってるのですよ。伯父さんは異論ないですよね?
「あるわけがないじゃないか! じゃ、待ってるよ」
 そう言っては、貞治は送受器を置いた。

 翌日の夕方、明は柳沢一郎を連れて、貞治の家にやって来た。柳沢は銀縁の眼鏡を掛けたごつい身体付きの男性であったが、その容貌はいかにもインテリ風で、銀縁の眼鏡の奥に、鋭い眼を光らせていた。
 そんな柳沢と明を、貞治は農作業を早めに切り上げて、家で待っていた。
 やがて、二人が金山宅に姿を見せた。
 すると、貞治は貞治よりかなり年下の柳沢に、
「お待ちしていました」 
 と、深々と頭を下げた。
 すると、柳沢は薄らと笑みを浮かべては、
「話は、栗田君から聞いていますよ。
 僕の専攻は化学関係なのですが、社会問題にも関心がありましてね。殊に、環境破壊にも関心があるのですよ。会社の利益の為には、環境を破壊しても構わないという考えが、大嫌いなのですよ。また、そんな奴等を懲らしめてやるのが大好きなんですよ」
 と言っては、にやっとした。
 貞治はそんな柳沢を眼にして、大いに頼りになりそうだと思ったのであった。

 翌日の二時頃、貞治は明と柳沢を軽ワゴン車に乗せて、件の土手にやって来た。
 二時という時間は、貞治は正に廃液を採取するに相応しい時間だと看做していた。何故なら、明が金魚が三日しか生きなかった廃液を採取したのが、二時頃であったからだ。
 三人は、軽ワゴン車から降りると、土手を登り、そして、降り、やがて、排水口が近い所にある河原にやって来た。
 すると、明が以前のように水着になり、早速ガラス瓶を手に、神通川の中に入って行った。そして、その明の後に、今日は水着姿の貞治も続いた。
 今日は前回と違って、とても快適であった。何しろ、前回は冬の最中であったのだ。正に、神通川の水は凍るような冷たさであったのだ。だが、今日は正にとても気持ちよいと表現するのが、適当であろう。
 それはともかく、柳沢は、そんな明と貞治の様を正に興味深げな表情で見入っていた。
 明と貞治は、柳沢が分析し易いようにと、ガラス瓶四杯分の廃液を採取した。
 そして、貞治は柳沢の許にやって来ては、ガラス瓶を柳沢に示し、
「どんな物質が含まれてると思いますかね?」
 と、興味有りげに言った。 
 すると、柳沢は、
「分析してみないことには、分からないですね。でも、金魚が三日しか生きれなかったことから、かなりの有害物質が含まれてると察せられますね」
 と、眼を鋭く光らせては言った。
 
 三人はやがて、土手に登った。 
 すると、大高村の田園風景が、手に取るように眼に出来た。
 明がこの場所に初めて立ったのは、三月の初めであった。その時は、辺り一面が雪に覆われていた。
 だが、今は緑眩い光景が拡がっていて、それが、青空の下に映えていた。正に、生命の息吹が感じられたのであった。
 三人は一旦、貞治宅に戻った。採取した廃液を保管する為だ。
 そして、その後、貞治は軽ワゴン車に柳沢と明を乗せては、大高村を案内した。
 そして、その夜は、二人は貞治宅に泊まり、翌日の朝、貞治は明と柳沢を軽ワゴン車で最寄りの駅まで送って行った。最寄りの駅といっても、車で四十分程掛かったのだが。
 別れ際に柳沢は、
「結果が分かり次第、すぐに連絡しますよ」
 と、改めて、力強い口調で言った。
「待ってますよ」
 貞治はいかにも愛想よい表情と口調で言ったのであった。
 そんな貞治は、明と柳沢を送り出した後、いつものように、農作業に精を出したのだが、そんな貞治が柳沢から電話を受けたのは、その一週間後であった。
「どうでした?」
 貞治は開口一番に言った。
―含まれていました。いましたよ! 有害物質が! あんなの流していいのかという代物ですよ! 
 と、柳沢は甲高い声で言った。そんな柳沢は、明らかに興奮していた。
「やっぱり……」
 貞治は感激のあまり、言葉を失いそうであった。そして、唇を噛み締め、握り拳を強く握り締めた。
―詳しい分析結果を郵送しますから、それを元にして、訴えてやってくださいよ。で、廃液はまだしばらくの間、保管しておいてください。裁判の時の証拠として役立つと思いますから。
「分かりました。ありがとうございました」
 と言っては、貞治は姿の見えない柳沢に深々と頭を下げたのであった。
 そんな貞治の顔面には、笑みが広がっていた。正に、一時は諦めていたものの、貞治の執念が実ったのだ! そう理解した貞治の脳裏には、改めて、鍋谷化学工業憎しの思いが蘇って来たのであった。
 そして、その三日後の土曜日に、貞治は農民仲間を自宅に招いては、ちょっとした宴会を催したのであった。

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