第七章 脅し

     1

 貞治は、ここしばらくの間、農作業がとても忙しかった。弁護士に相談して、いかにして鍋谷化学工業を訴えるか考えようと思っていたのだが、その時間が取れなかったのだ。
 そんな折に、一人の男が、貞治宅に姿を見せた。
 その男は、沢村哲也といった。
 そんな沢村は、大高村の村会議員で、副議長をやっていた。そんな沢村が貞治宅に姿を見せたものだから、貞治は驚いてしまった。
 それはともかく、貞治は沢村に、
「僕にどんなご用ですかね?」
 と、恐る恐る言った。
「うん。実はね。金山さんに、折り入って話があるんだよ」
 沢村は六十歳で、まるまると太った身体付きであった。そして、頭はすっかりと禿げ上がり、ずる賢そうな容貌が特徴であった。
「折り入った話ですか。では、こんな所では何ですから、中に入ってくださいな」
 と言っては、沢村を応接間に案内した。そして、治子にお茶を持って来るように言った。
 やがて、治子がお茶を持って来ると、沢村は、
「ありがとう」
 と言っては、口に持って行った。
 そして、お茶をテーブルの上に置くと、沢村は、
「農作物の収穫は、どんな具合かな?」
「今年は、豊作ですよ。天候が良かったですからね」
 と言っては、薄らと笑みを浮かべた。
「そうか。それはよかったね。で、金山さんは、牛も飼ってるんだろ?」
「そうです。酪農もやってますからね」
「そりゃ、儲かっていいことだな」
「それ程でもないですがね」
 といった遣り取りを交していたが、貞治は一体、沢村が何の話をする為にやって来たのか、思いを巡らせてみた。
 だが、その答を見出すことは出来なかった。
 だが、それは程なく分かることになった。
「金山さんに訊きたいんだが、鍋谷化学工業を訴えるというのは、本当かね?」
 と言ったからだ。
 貞治はそう沢村に言われ、嫌な予感が走った。村の実力者で、村会議会の副議長をやってる沢村がわざわざやって来た目的が、貞治の利益に反すると察したからだ。
 とはいうものの、貞治は、
「そのつもりですが」
 と、正直に言った。いま、嘘をついても、いずれ分かることだと思ったからだ。
 すると、沢村は、
「うーん」
 と、唸り声を上げては、厳しい顔付をした。
 そして、しばらく何も言おうとはしなかったのだが、やがて、
「訴えるのを止めるわけにはいかないのかね」
 そう言った沢村の口調は決して貞治に命令的であったり、また、威嚇したりするようなものではなかったが、明らかに沢村の強い意志が感じられた。
 沢村の言葉には、流石に貞治も怖気づいてしまった。
 これが、農民仲間の言葉であれば、貞治はてんで相手にしなかったことであろう。
 しかし、沢村は村会議員であり、また、村の屈指の実力者なのだ!
「はあ……」
 貞治は沢村の言葉に、言葉を濁した。
 いくら村会議員であるからといって、その言葉に従わなければならないということはあるまい。しかし、そうかといって、無視出来るものでもない。それ故、貞治ははっきりと意思表示することが出来なかったのだ。
「金山さんだって、大高村の一員だよね。大高村の一員なら、当然、大高村の繁栄を願っているよね。大高村の繁栄には、鍋谷化学工業の存在が不可欠なんだよ。
 というのも、鍋谷化学工業の従業員のおかげで、村の商店が潤うようになり、また、村の知名度も上がったんだ。また、鍋谷化学工業が村に落としてくれる税金のおかげで、村の財政収支が、改善したんだ。正に、鍋谷化学工業様様さ。
 それなのに、鍋谷化学工業の不興を買うようなことをやってもらいたくないんだよ。
 僕は村会議員として、一個人の愚かな行為によって、村の利益が損なわれることを防がなければならないんだよ」
 沢村は穏やかな表情を浮かべてはいるが、確固たる意志の籠った口調で言った。その意思はとても大きな岩のようで、決して退けることが出来ないような重量感があった。
「はあ……」
 貞治は頑として、沢村の要求に首を縦に振ろうとはしなかった。貞治には意地があったのだ。
 そんな貞治の様を見て、沢村は、
「まだ、僕の話が分かっていただけないようですな。
 金山さんとて、村の人たちと仲良くやっていかなければならないでしょう。農協の人たちや、農民仲間たちとね。
 もし、金山さんが鍋谷化学工業を訴えれば、その人たちは、金山さんのことを忌み嫌うようになりますよ。そうなっていいのですかね?
 金山さんは、周りの人たちと、円滑なコミニケーションを取っていかなければならないでしょう。それを敢えて破滅の道を歩む必要はないと思うのですよ。
 僕は村会議員として、村民の幸を守ってやらなければならない。その為には、危険な道に歩もうとしてるのを阻止しなければならないのですよ。
 ここは、騙されたと思って、僕の忠告に従ってくださいよ。それが、金山さんの為になるのですから」
 と、まるでワシのように鋭い視線を貞治に向けた。
 貞治の神経は、非常に参ってしまった。村会議員と話をすることだけでも、かなりの緊張を強いられることなのに、その中身そのものが、貞治の胸中を引っ搔き回す激しいものであったからだ。
 それで、貞治はいかにも険しい表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「後で返事をさせてらってよろしいですかね?」
 貞治は今、この時点で、結論を出すこと出来なかったのだ。
 すると、沢村は鋭い眼差しで貞治を一瞥してから、
「いいでしょう」
 と言っては、貞治宅から去って行った。
 沢村が去って行くと、治子が応接間に入って来ては、
「何と言って来たの? あの村会議員さん?」
 と、興味有りげに言った。
「脅されたんだよ。鍋谷化学工業を訴えるなと」
 と言っては、貞治は冴えない表情を浮かべた。
「そうなの。そんな話だったの。で、どうするの?」
「少し考えてみるよ」
「そう……。でも、私たちの不利になることは止めてね」
 と言っては、治子は応接間から出て行った。
 貞治は何故、沢村が鍋谷化学工業を訴えようとしてることを知ったのか、考えてみた。貞治がそのことを話したのは、二、三人の農民仲間だけだ。
 となると、その二、三人の中の誰かから沢村に話が伝わったのであろう。
 それで、その二、三人に電話をしてみることにした。
 すると、電話して二人目の進藤五郎から感触を得た。進藤は貞治から聞いた話を農協職員に話したというのだ。
―僕が農協の荒木さんに話したのですよ。きっと、荒木さんから、沢村さんに話が伝わったのではないかな。金山さんには、悪いことをしたのかな。
「そんなことないさ。いずれ分かることだからな。
 それはそれとして、やはり、僕は鍋谷化学工業を訴えるということを止めた方がいいかな?」
―そうだな。やっぱり、訴えない方がいいよ。たとえ、鍋谷化学工業が神通川に有害物質を流してるとしても、金山さんが直に被害を受けてるわけではないからな。だから、僕はどんな訴訟になるかもしれないが、多分、むずかしい訴訟になると思うよ。
 それに、沢村さんは、ずる賢い政治家だからな。だから、金山さんが沢村さんの脅しに反して鍋谷化学工業を訴えたりしたら、どんなことをやって来るかもしれないよ。沢村さんという人は、そういう人だからな。だから、止めた方がいいと思うな。
「そうか。分かったよ。意見してくれて、ありがとうよ」
 そう言っては、貞治は送受器を置いた。
 そして、少しの間、眼をつぶって考えていたが、眼を開けた時の貞治の決意は決まった。
 即ち、貞治は鍋谷化学工業を訴えることは、止めることにしたのだ。
 それは、悔しいことであった。清らかで、川魚が一杯釣れた昔の神通川を取り戻したかっただけなのに、それが許されないとは! 何故、こうなってしまったのだろうか?
 あの沢村だって、鍋谷化学工業が裏で操ってるに違いない! 役場といい、村会議員といい、所詮、大企業に楯突くことは出来ないのだから!
 力の強い者の行為は、悪行と分かっていても、許されてしまうというのか?
 貞治の脳裏には、こういった怒りが次から次へと沸き出て来たのだが、貞治にはどうすることも出来ないと、認めざるを得なかったのだ。

     2

 都会の高層ホテルは、真夜中になったといえども、その灯が消えることはなかった。豪壮なロビーには、眩いばかりの光を放つシャンデリアが宝石のように光り輝き、艶やかな高級カーペットが、至る所の床を覆っていた。
 三十六階の3606室は、スイートルームだった。寝室以外にも、リビングが付いていて、このホテルでは、最高級の部屋であった。
 この3606室で、栄養の行き届いた肉付きの良い中年男と、若い女が、今、男女の行為の最中であった。
 男の名前は、早川道哉。若い女は、真弓優子といった。早川道哉は、無論、鍋谷化学工業常務の早川道哉であり、真弓優子は、早川の若い愛人であった。
 早川は行為を終えると、身体を起こし、シャワーを浴びに行った。
 優子は、上半身を起こし、乱れた髪を手で撫でた。
 優子の上半身を覆ってるものは、何もなかった。形の良い乳房が、新鮮な果実のように、その初々しさを見せ付けていた。
 やがて、シャワーを浴び終えた早川が、ユニットバスから出て来ては、バスタオルで身体を拭き始めた。早川は、優子に、
「お前も、シャワーを浴びろよ」
「そうするわ」
 優子はベッドから起き上がり、ユニットバスに向かった。若い優子の身体を覆ってるものは、何もなかった。
 だが、優子は何ら恥ずかしがる素振りを見せることもなく、早川の前を通り過ぎた。
 優子はシャワーを浴びると、バスローブに身を包み、ソファに座ってる早川の隣に腰を下ろした。
 優子は「カサブランカ」というクラブのホステスをしていた。
 早川は「カサブランカ」をよく接待などで利用していた。
 その内に、優子のことが眼に留まった。そして、優子を店外デートに誘った。
 優子としては、お小遣いをたっぷりくれる早川のことを気に入ってしまった。優子にとって、金さえくれれば、年齢差など、まるで問題としなかったのだ。
 それはともかく、優子は、
「最近、とても機嫌がいいみたい」
 と、煙草を一吹かししながら言った。
「会社の調子がいいんだよ」
「そう……。でも、鍋谷化学工業って、凄い会社なのね。今、不景気なのに。うちのお店に来るお客さんの財布の紐が固くなったと、ママが嘆いていたのよ」
「そうか。でも、うちの会社は、新製品の売れ行きがいいんだよ。その新製品が稼ぎ出す利益が、うちの会社の業績を押し上げているんだ。その新製品を作ってる工場長の俺の景気が悪いわけがないだろ」
 と、早川は自慢げに言った。
「そうなの。だったら、これからもお小遣いをたっぷりと頂戴ね」
「分かってるさ」
 と言っては、早川は優子の腰に手を回した。

     3

 早川容子は、無心にカンバスに向かって絵筆を走らせてる四十二歳の男の顔を慈しむような眼差しで眺めていた。
 その男の名前は、森野三郎といった。三郎は、自称画家であった。
 三郎は絵を描き出して十五年になるが、未だに世に認められていなかった。多くの作品展に出展して来たのだが、未だに入選したことがなかったのだ。
 しかし、三郎の絵に対する情熱は、決して萎えることはなかった。三郎は、来る日も来る日も、カンバスに向かって絵筆を動かし続けるのであった。
 そんな三郎のことを容子が知ったのは、容子の絵のサークル仲間からであった。容子は絵を描くのが好きで、駅前の雑居ビルの中にある絵のサークルに週に一度通っていたのだが、そこで知り合った湯川秀子という婦人から、三郎のことを知ったのである。秀子が何故三郎のことを知っていたかというと、秀子の実家が、三郎の家の近くにあったからだ。ただ、それだけのことである。
 三郎のことは、三郎の住んでいる村の近所の人たちの間では、時々噂になっていた。何しろ、その村は、人口の少ない村である。風変りな人間のことは、すぐに噂になってしまうのである。
 三郎は、正に風変りな人間であった。朝から晩まで、働くこともなく、カンバスに向かって絵ばかり描いているからだ。一体、どうやって三郎は、生活してるのだろうか?
 三郎は数年前に、両親を相次いで亡くした。その両親が遺してくれた僅かばかりの田畑を貸して、生活費を得ていたのである。そんな三郎の生活費は、とても少なかった。正に、三郎は貧乏暮らしをしていたのだ。
 容子は、秀子からその森野三郎という人物の話を聞いて、とても興味を持った。その当時、容子と早川道哉との仲は、冷え冷えとしたものになっていた。元々、早川は仕事人間で、家庭のことを思うことなど結婚当初より殆どなかった。
 それでも、容子は守が生まれると、とても愉しさを感じることが出来た。
 だが、守が大きくなり、早川が外で浮気に精を出してることを知ると、やり切れない思いを感じるのは、自然の成り行きであったのだ。
 大体、容子が早川と結婚したのも、双方の親が薦めたからだ。早川家と容子の家に親戚関係が出来ると、双方が得をするからだ。容子は早川のことを特に好きではなかったが、親の意に従っただけのことだったのだ。
 容子は、そのやり切れない思いを打破する為に、絵のサークルに通っていたのだが、その程度のことで、容子の気分が解れるわけではなかった。
 容子は早川と同じように、浮気したかった。そう思っていた時に、秀子から三郎のことを聞き、三郎を浮気相手として、強く意識することになったのだ。
 もっとも、容子は秀子から三郎の話を聞いただけで、三郎を浮気の相手に選んだのではなかった。容子は秀子から、三郎の顔写真を見せてもらったのだ。
 その写真は、容子の気を惹くに充分であった。
 三郎は華奢で、芸術家風の容貌であった。その容貌は、ストレスの堪った中年女の気を惹くのに打ってつけであったのだ。
 容子は秀子に連れられて、秀子の実家のある村に行った。その村に行くのには、容子宅から、列車やバスを乗り継いだりして、二時間半程掛かった。
 その村は、正に鄙びた寒村だった。所々に見られる農家を防風林が囲み、それを田畑が囲んでいた。そして、秀子の実家も、それらの農家の一つであった。
 秀子は、この村で高校まで過ごした後、専門学校を経て都会の病院に就職し、医者と結婚した。そして、今では裕福な暮らしをしていたが、故郷というものは、いつ訪れてもいいものだと、容子に言った。
 容子は秀子と共に、三郎宅に行った。
 三郎宅も、秀子の実家のように、暴風林に囲まれていた。だが、母屋は、築五十年以上は立ってると思われる古びた家であった。
 秀子は容子に、
「早川さんも物好きね。あんな男の何処がいいの?」
 夫婦円満な秀子にとってみれば、三郎なんて、正に滑稽な変わり者にしか見えなかったのである。
「湯川さんには、森野さんの良さが、分からないのよ」
 と、容子はうっとりとした眼差しで言った。
 それはともかく、その日、容子は秀子を介して三郎と対面し、付き合うようになった。
 初めの内は、絵の話をするに過ぎなかったが、やがて、男女の関係になった。容子の方が三郎よりかなり年上であったのだが、そんな年齢差を気にすることなく、二人の間に恋の思いが芽生えたのである。
 容子はこれによって早川にしっぺい返しが出来たのである。そして、容子は公然と家を開ける日々が続いたのである!
 守は、そんな両親を目の当たりにして、学友たちに気前良く奢ったりして、憂さ晴らしをしていた。
 そして、早川家の人間たちは、このような有様だったのだ。

  

目次     次に進む