第八章 悲劇
1
さて、村山はその後、どうなったであろうか。
ワカバ化学工業での仕事にも大分慣れ、村山は充実した日々を過ごしていた。仕事を終えて帰宅してから食べる晩飯も美味く食べられ、村山一家にも笑顔が戻るようになっていた。
そして、その日の晩飯の時に、村山は、
「今度の連休に、温泉にでも行ってみようか」
そう言った村山に、智子は嬉しそうに肯いたのであった。
やがて、温泉行きの日がやって来た。
もうすっかり準備は整っていた。直行は、真新しい衣服に身を包み、はしゃぎ回っていた。
だが、世の中、そう都合いいことばかりではなかった。温泉宿は、運良く取れたのだが、天候がどうもよくなかったのだ。天気予報では、午後から雨になるとのことだ。そうだからといって、温泉行きを中止するなんてことは、村山は全く考えてなかった。何しろ、愉しみにしていた旅行なのだから。
村山一家は雨具の準備をして、村山の愛車のカローラに乗り込んで、午前八時に出発したのであった。
2
秋草雄介は、いいカッコしたがり屋であった。何かにつけて、いいカッコをするのだ。
例えば、友人が二万円の皮ジャンバーを買って見せびらかせば、雄介は三万の皮ジャンバーを買って、どうだと言わんばかりの様をして見せたり、また、金もないのに友人が買った車よりも高い車をローンで買ったりしてるのだ。
そんな雄介の職業は、トラック運転手だった。
安全運転を心がけてはいるものの、何しろ雄介は、いいカッコしたがり屋だ。雄介が運転するトラックを颯爽と追い抜いて行く普通車のことを雄介がいいように思ってる筈はなかった。
もし、雄介がマイカーを運転していたのなら、追い抜かれれば、追い抜く。それが、雄介であったのだ。
だが、トラックだとそうはいかない。トラックは、普通車程、身軽ではないのだ。坂道を登る時など、正に喘ぎながら登るのだ。
雄介が運転するトラックは、今、雨足が強まって来た山間の道を走っていた。
四車線の道で、車の往来は、それ程多くはなかった。だが、雨足が強まって来ると、霧が出て来て、視界を悪くした。
雄介は焦っていた。時間通りに目的地に着けそうもなかったからだ。
雄介は実のところ、ドライブインで、かなり道草をしてしまった。うどんを食べ、アイスクリームを食べたり、また、トラックの中で仮眠したりして、一時間程過ごしてしまったのだ。
それ故、スピードを出して、失った時間を取り戻そうとしたのだが、この雨と霧では、雄介の思い通りにはなれそうもなかった。
この分だと、上司から大目玉を食うことは、間違いなしだ。
〈こんちくしょう!〉
雄介は舌打ちをしたが、トラックはのろのろ運転のままだ。
雄介は腹が立った。いいカッコしたがり屋の雄介は、むかむかして仕方なかったのだ!
雄介のトラックを、赤い小さな車が追い抜いて行った。それは、軽自動車であった。
〈こんちくしょう!〉
雄介の腹立ちは頂点に達した。軽自動車にまで追い抜かれたことにより、雄介は遂に堪忍袋の緒が切れたのであった。
雄介は走行車線から追い越し車線へと、トラックを移動させた。そして、アクセルを強く踏んだ。
すると、トラックは喘ぎながらも、速度を増して行った。
〈どんなもんだい!〉
雄介は甚だ気分が良くなった。今まで走行車線を走っていた為に、次から次へと追い抜かれていたが、追い越し車線に入ってしまえば、容易く追い抜かれることはないだろう。
しかし、スピードを上げなければならない。幸、視界は利かないものの、アクセルを強く踏みさえすれば、スピードは出るのだ。
それ故、雄介は笑みを浮かべながら、アクセルを強く踏んだのだが……。
だが、すぐその後、雄介は〈しまった!〉と、心の中で叫んだ。そして、血の気が引いた。急カーブに差し掛かかったからだ。
視界が利いていれば、それにもっと早く気付いたのだが、視界が悪かった為に、気付くのが遅れたのだ。
そして、〈しまった!〉と、心の中で叫んだ時には、既に急カーブは眼前であったのだ!
雄介は急ブレーキを掛けた。
「キーン!」
という鈍い金属音と共に、トラックは、大きく車線からはみ出してしまった。
3
アクシデントというものは、正に予期しない時に襲って来るものである。それが、幸福の絶頂の時に襲って来たとしたら、運命というものは、何と薄情なものであろう。
山間の道を走っていた村山一家を乗せたカローラの中は、明るさに満ちていた。ハンドルを握っている村山の顔にも、後部座席に座っている智子の顔にも直行の顔も、笑みが見られたのだ。
「あなた。霧が出てなければ、さぞいい景色だったでしょうね」
と、智子は言った。
そんな智子の顔は、笑っていた。智子としては、ドライブ出来ただけでも、笑みを誘うのに、充分であったのだ。
「正にその通りだ。だが、温泉に行けただけでもよかったじゃないか」
と、村山は智子と同じ思いであった。
そう言った智子が視線を前方に戻した時である。
智子は突如、
「キャー!」
という叫び声を上げた。村山たちを乗せたカローラの前方から、とてつもなく大きく見えたトラックが、センターラインを大きくはみ出して、村山たちのカローラに突進して来たからだ!
村山は咄嗟にハンドルを左に切った。このまま直進すれば、トラックと正面衝突してしまうからだ。
だが、急にハンドルを左に切ったことと、路面が濡れていたことから、カローラはスピンしてしまった。何回も何回もスピンし、結局、トラックに追突してしまったのだ。
「バーン!」
と、激しい音がし、カローラは大破した。
フロントガラスは粉々に砕け、車体はひん曲がった。炎上はしなかったものの、カローラの修復の見込みがないことは、明らかであった。
だが、トラックの方は、特に被害は受けてないかのようであった。まるで、巨像と猫が衝突したかのように、被害を受けてないかのようであった。
やがて、トラックの窓が開き、雄介は恐る恐る、カローラを見やった。
大破したカローラには、まるで人気は見られなかった。カローラには、人が乗っていたに違いないのだが、その人は、まるで外に出ようとはしなかったのだ。
雄介はとにかく、トラックを安全な場所に停めると、トラックから出ては、カローラの許に来た。
辺りは霧に包まれ、視界は殆ど利かなかった。
だが、大破したカローラの悲惨さは、充分に眼にすることは出来た。雄介はカローラが炎上しなくてよかったと思った。炎上すれば、助かる見込みは殆どないからだ。だが、炎上してないとなると、まだ死んだとは限らないだろう。
とにかく、雄介は粉々になった運転席のウインドウから、中を覗き込んだ。
カローラに乗っていたのは、三人だった。運転席に一人と、後部座席に二人だ。恐らく、運転席の男性は主人で、後部座席の二人は、妻と子供だろう。そして、子供はまだ幼稚園に行ってるかいないか位だった。
三人は、まるでぴくりともしなかった。雄介には、生きてるのか、死んでるのか、まるで分からなかった。
それで、雄介はとにかく、運転席側のドアを開けようとした。
だが、とても開きそうになかった。
それで、雄介は粉々になったウインドウから手を差し伸べ、運転席の男性に触れてみた。
すると、温かさが感じられた。
それで、脈を調べてみた。
すると、脈は打っていた!
すると、雄介の顔面には、思わず笑みが浮かんだ。そして、雄介はこの時点で携帯出話で、直ちに救急車を呼んだのである!
4
村山一家が交通事故に遭ってから、一ヶ月が経過した。村山はやっと退院することが出来た。村山は左手と肋骨を骨折し、一ヶ月の入院を余儀なく強いられたのである。
直行も村山と同様、助かった。
だが、智子は打ち所が悪く、息を吹き返すことなく、死んでしまった。智子はトラックと衝突した時、直行の身体を包むような姿勢を取ったことが災いとなってしまったのだ。智子は、直行の命を助けたのだが、その代わり、自らの命を捨てたのだ。
村山は何とか退院出来たものの、直行はまだ入院していた。障害は残らなかったものの、まだ右足の骨折が完全に治癒してなかったのだ。
村山はまだ直行に、智子の死を知らせていなかった。智子の死は、直行にとってあまりにも辛い仕打ちであったからだ。
直行は村山に、
「ママ、何処にいるの?」
と、何度も村山に訊いて来た。
村山は、
「旅行に行って、しばらく帰って来ないんだよ」
と、言っていた。
そう言わなければならない村山の心情は、とても辛かった。そして、改めて智子を失った哀しみが、村山に押し寄せて来るのだ。
村山は病院のベッドでどれだけ泣いたか分からなかった。
しかし、そうだからといって、智子が戻って来るわけではなかった。あの日、温泉に行きさえしなければ……。あの日、霧が出てさえいなければ……。あの日、トラックさえ、ぶつかって来なければ……。
何度、そう思ったことか! しかし、それは、虚しい所業であった……。
村山は、入院してる間、様々なことを思い出し、また、考えてみたりした。幼少時のことから、少年時代、学生時代のこと。サラリーマン時代のこと。智子と結婚してからのこと。
それら中で、智子とのことを思い出すことは、村山にとても哀しみをもたらした。何度、涙が頬を伝わったことか。
しかし、哀しみに沈んでばかりにはいられない。
それ故、智子とのことを思い出すことは避け、他のことを思い出そうとした。
そこで、村山の脳裏に浮かんで来たのは、鍋谷化学工業時代のことだ。鍋谷化学工業は、村山の人生において、半分程過ごした所だ。
それ故、思い出すことは多い。
入社して間もない頃、受けた研修のこと。中央研究所で、研究に携わったこと。そして、大高工場で、新製品の開発に携わったこと……。
殊に、大高工場では、村山が考え出した技術が、大いに貢献した。
だが、有害物質を神通川に流すことになってしまった。
その有害物質は、現在の汚水処理技術では、完全に除去することは不可能であった。そうかといって、まだ、今の時点では法に抵触するわけでもなかつた。
しかし、有害物質であることには変わりなく、川に排出するなんて行為は、絶対にやってはいけないことであった。
それ故、原爆を製造した科学者ではないが、村山は新製品を開発してしまったことを、後悔する時も度々であった。
それで、鍋谷化学工業に対して、新製品開発の中止を申し入れたのであった。
だが、その結果、村山は閑職に追いやられ、結局、退職を余儀なくされた。
これは、正に村山の予期しない出来事であり、村山に大いなるショックをもたらした。
それ故、鍋谷化学工業時代のことを思い出すことは、正に後味が悪かった。
村山は病院のベッドに横たわりながら、大高工場でのことを見詰め直してみた。
すると、一つの結論を得た。
それは、鍋谷化学工業の悪行を公にすることである!
大高村に住んでいた金山さんという人が、しきりに鍋谷化学工業を訴えたがっていた。そして、金山さんは、村山の証言を欲しがっていた。
それ故、もし、村山が鍋谷化学工業の悪行を証言すれば、鍋谷化学工業は金山さんの手によって、訴えられるかもしれない。
だが、今の時点では、鍋谷化学工業は法的には罰せられないかもしれない。鍋谷化学工業が流す有害物質は、今の時点では有害物質とは認定されてないからだ。
しかし、村山たちがその有害性を訴えれば、将来、有害物質と認定され、大高工場での新製品の製造は中止に追い込まれるかもしれない。そうなれば、鍋谷化学工業にとって、大打撃となるだろう。大高工場での新製品は、鍋谷化学工業の稼ぎ頭なのだから!
問題は、村山の立場がどうなるかだ。鍋谷化学工業の上司だった男は、村山が大高工場での出来事を公にすれば、村山は製造を主導したということで、村山の名前を公にし、村山は社会から強い指弾を受けるだろうと言った。そうなれば、新たな職場にいられなくなるだろうと、村山を脅した。
しかし、村山は今、その脅しは、さして気にならなくなった。そのようなことより、智子を失った哀しみが、村山の心の中に大きく伸し掛かって来たからだ。
智子を失って、村山は頭に血が上ったのかもしれない。強くなったのかもしれない。それとも、他人の幸福を妬むようになったのか。正義感が強くなったのか。
村山は今の気持ちを正確に表すことは出来なかった。
しかし、鍋谷化学工業の悪行を公にするという決意が、心の中で確立されたのは、事実であった。
5
村山は、退院してから三日後、大高村の金山治子に電話をした。
「ご無沙汰しています。以前、鍋谷化学工業で働いていた村山ですが」
―村山さんですか。これは、お久し振りです。
「実はですね。金山さんと、是非、話したいことがあるのですよ」
―あら、どういったことですの?
治子は興味有りげに言った。
「以前、金山さんは、鍋谷化学工業の悪行を訴えたいとか、言っておられましたね」
―あら。そのことですか……。そのことなら、もういいのですよ。
「そんな……。どうしてですか? あれ程、意気込んでいたのに……」
―色々と事情がありましてね。ちょっと待ってくださいね。主人と変わりますから。
―金山貞治です。
「これは初めまして。村山です」
―実はですね。村山さんに妻を接触させたのは、僕の意図だったのですよ。
「そうだったのですか……」
―それでですね。僕の知り合いの紹介で、化学に詳しい者が見付かりましてね。
で、その人に、鍋谷化学工業が排出する廃液を神通川で採取し、成分を分析してもらったのですよ。
すると、とんでもない有害物質が含まれてたというのですよ。
それ故、それを公にすれば、鍋谷化学工業は製造中止に追い込まれるのではないかとのことらしいのです。もっとも、法的には、どう対処すればいいのか、僕は分からなかったので、弁護士に相談しようと思っていたのですよ。
ところがですね。その矢先に圧力を掛けられたのですよ。それで、断念せざるを得なくなってしまったのですよ。
「圧力?」
―そうです。村会議員ですよ。村会議員から、鍋谷化学工業を訴えるようなことをやれば、村八分にするぞという具合ですよ。
僕も大高村で仕事をしてる以上、周りの者と円滑な関係を維持していかなければなりませんからね。
と、決まり悪そうな表情で言った。
「そんなことがあったのですか……」
―そうです。まあ、世の中には、色々と複雑なことがありますからね。
で、村山さんは、鍋谷化学工業の件で、どういった話があるのですかね?
「実はですね。金山さんに協力しようと思ったのですよ。金山さんが鍋谷化学工業の悪行を公にしようとするのなら、その証拠を提供しようかと思ったのですよ」
―そうでしたか……。でも、またどうして、そう思われたのですかね?
貞治は興味有りげに言った。
「僕の方も、厄介な問題に見舞われたのですよ。交通事故に遭い、妻を亡くしてしまったのですよ」
―……。
「それで、心境が変わったのですよ。それで、村山さんに協力しようと思った次第なんですよ」
―そうでしたか。でも、僕はもう鍋谷化学工業のことをどうにかしようとするつもりはありませんので。
「そうですか。それは、残念ですね」
と、村山は落胆したように言った。
―で、村山さんは交通事故に遭われたとのことですが、どんな具合だったのですかね?
―一ヶ月程前のことでしたが、家族で温泉に向かったのですよ。
でも、天気の良くない日でしてね。山間の道を走っていた時に、雨が強くなりましてね。また、霧も出て来たのですよ。
そういった状況だったので、僕は慎重に運転をしていたのですが、トラックが前方から突っ込んで来ましてね。
僕の車は大破し、妻は死亡。僕は一ヶ月の重傷という具合ですよ。息子の直行は、まだ入院というわけですよ」
―じゃ、お見舞いにお伺いしなければなりませんね。何処の病院ですかね?
「△△△病院ですよ」
―じゃ、今度の日曜日に直行君のお見舞いに行きますよ。その後、村山さん宅にお伺いしますよ。無論、家内とですが。
「じゃ、お待ちしてます」
6
大高村から村山が住んでる都会へは、バスと電車を乗り継いで、三時間程掛かった。それ故、日帰りでは行けないので、金山夫妻は、ホテルを予約しておいた。
だが、昨夜、村山から電話が掛かって来て、直行が退院したとのことで、金山夫妻は病院へは行かず、直接に村山宅に行くことにした。
村山は金山夫妻を笑顔で迎えた。そして、応接間へと案内した。
そこは、治子が訪れた時と、何ら変わってはいなかった。
だが、村山の妻の智子が亡くなったという。
治子は智子がお茶を持って来てくれたことを思い出した。その時の智子はとても元気そうで、その智子が死んだなんて、治子には信じられなかった。
村山は貞治と治子にお茶を持って来た。そして、
「本当は、妻がやることなんですがね」
と言っては、微かに笑った。
そんな村山を見て、治子は村山は変わったと、感じた。以前の村山の笑い顔は、自信に満ちたものであったのに、今の笑い顔は、何となく哀愁を帯びていたからだ。妻を亡くしたからであろう。
「奥さん、気の毒でしたね」
治子は言った。
「トラックにぶつかった時に、打ち所が悪かったのですよ。直行を包み込むような姿勢を取りましてね。それが、災いになったようです」
と、村山は淡々とした口調で言っては、目頭をハンカチで拭った。
「そうですか……」
と言った治子も、目頭をハンカチで拭った。
すると、村山は、
「すいませんね。こんな様を見せてしまって。
で、こちらの方が、金山さんですか。お眼にかかるのは、初めてですね」
「そうですね。で、僕は村山さんに謝らなければならないのですよ。家内が村山さんの迷惑になるようなことをお訊きしてしまって。あれは、全部、僕の差し金なんですよ」
と、貞治は決まり悪そうな表情と口調で言った。
「そのようなことを電話でおっしゃってましたね。でも、僕は気にしてませんよ」
と言っては、村山は笑った。
その笑いに釣られて、貞治も治子も笑った。その三人の笑いは、まるで智子を失った哀しみを忘れようとしてるかのようであった。
「でも、あれだけ鍋谷化学工業の悪行を公にしようとされてたのに、こうあっさりと引き下がられるとは思ってもみなかったですよ」
と、村山は怪訝そうな表情を浮かべた。
「電話でもお話ししたように、村会議員に圧力を掛けられたのですよ。鍋谷化学工業を訴えるようなことをやれば、村八分にするぞと言わんばかりにね。
僕はこれからもずっと大高村で働いていかなければならないですから、村八分になるのは、ご免ですからね。全く、情けないことなんですがね」
と貞治は自嘲気味に言った。そして、
「でも、何故村山さんは鍋谷化学工業の有害物質に関しては、堅く口を閉ざされていたのに、急に心変わりされたのですかね? 奥さんを亡くされたからですかね?」
と、貞治は村山の顔をまじまじと見やっては言った。
「そうですね。そのことが影響してると思いますね。
妻は不正なことが、大嫌いでしてね。
で、僕は大高工場での出来事を妻に黙っていたのですよ。僕たちが考え出した製品の為に、有害物質が神通川に流されてるという事実を妻が知れば、妻は嘆くと思ったのですよ。
ところが、妻を亡くしてしまうと、僕は今までの自分を粛清しようと思うようになったのですよ。そして、新たな出発をしようと思ったのですよ。
で、その為には、垢を捨て去らなければならない。そして、大高工場での出来事は、僕にとって垢だったのです。
つまり、鍋谷化学工業での出来事を公にすることにより、僕は垢を捨て去ることが出来るというわけですよ。
そうすれば、妻もあの世で、喜ぶことでしょう。
もし、僕が鍋谷化学工業の悪行を世に公表すれば、僕も同罪で今の会社を辞めることになるかもしれません。
しかし、それが何だというのですか! 妻の死と比べれば、大したことではないじゃないですか! 僕はどんな仕事をしてでも、直行を食べさせてやると、決意したのですよ!」
と、村山は強い口調で言った。
そんな村山はかなり興奮してるかのようだった。村山の口調は、些か上擦っていたからだ。
そして、その言葉は、華奢な感じの村山の言葉とは思えない位、力強さを感じさせた。
「成程。そういう具合だったのですか……」
村山の強い決意の前に、貞治と治子は些か委縮してしまった。村山は職を捨ててまでして、鍋谷化学工業を訴えようとしてるのだ。悪行の加担者であるのか、ないのかという違いはあろう。また、妻を失ったという違いはあろう。
その二つの違いが、村山は貞治が出来なかったことを村山にさせようとしてるのだろうが、村山の決意には、ただ敬服するばかりであった。
すると、その時、ジングルベルの歌を歌いながら、サンタクロースの衣装を身に付けた村山の一粒種が、応接間に入って来た。
そう! 直行である! 直行の身体はすっかり回復し、元気一杯のようだ。
直行は治子の前にやって来ると、
「僕、サンタクロースだよ」
そんな直行を村山は摑まえては、サンタクロースの帽子と付け髭を外し、
「こら! お客さんの前では、もっとお行儀よくしてなさい!」
直行はその村山の言葉を無視するかのように、
「パパ。ママいつ戻って来るの?」
その言葉を耳にし、貞治と治子の表情は、曇った。今までは、直行の仕草に笑みを浮かべていたが、その直行の言葉受けて、突如、笑みは消えたというわけだ。
「直行。ママは、直行がもう少し大きくなれば帰って来ることになってるんだ。その時まで、我慢さ。いい子だから、あっちへ行ってなさい!」
そう村山に言われると、直行は再びサンタクロースの帽子を被り、ジングルベルの歌を歌いながら、応接間から出て行った。
直行が応接間から出て行くと、村山は、
「まだ、直行に智子の死を知らせてないのですよ。何しろ、言いにくくて……」
と、神妙な表情と口調で言った。
「そうでしょうね」
と、貞治と治子は相槌を打つかのように言った。
その後、三人は当りさわりのない世間話をしては、貞治が村山に大高村の地酒を渡し、村山宅を後にすることになった。
玄関で、村山と直行が、貞治と治子を見送った。
直行は手を振りながら、
「バイ、バイ」
と言った。
貞治は駅への道を歩みながら、村山宅にはもう来ることはないと思った。何故、そう思ったのだろうか?
村山は今や貞治の手の届かない人物と昇華してしまったからだ。
嘗ては自らの思いを遂げる為に、村山の協力を渇望した。
その時の貞治の情熱はまるで大波が波打ち際の幼児を浚うかのように、激しいものであった。
それが、今は立場がすっかりと逆転してしまった。貞治は生活を守る為に、悪との戦いを断念した。しかし、村山は生活を失ってでも、悪と闘おうとしてるのだ。
それ故、村山は今や貞治の手の届かない人物へと昇華してしまったのである。そんな村山に、貞治はもはや顔を合わせる資格はないと、貞治は思ったのである。
その夜、貞治と治子は、その夜、都会の高層ホテルに泊まった。最上階にある展望レストランからは、都会の有様が、手に取るように望められた。
「凄いものね。人間の力って」
治子は、眼下の光景に眼をやりながら、呟くように言った。治子の眼下には、大高村の風景とは違って、もの言わぬ高層ビル群が、林立していたのだ。
「そうだな。人間の英知は、改めて凄いものだと思うよ」
貞治も眼下の光景に眼をやりながら、感心したように言った。
元来、このようなビル群は、地球上には存在してなかった。人間の英知によって、様々な法則を発見し、今日の物質文明を作り上げたのであった。
貞治の仕事は、物質文明の構築には関係ないだろうが、都会にやって来ると、改めてその威力に圧倒されてしまうのだ。
「俺は今まで鍋谷化学工業のことを随分と悪者扱いしていたが、ある程度の悪事には眼を瞑らないと、今のような文明社会は、構築されなかったのではないのかと思うよになったよ」
「あら。そうかしら。あなたは随分と弱気になったのね。鍋谷化学工業のように、有害物質を平気で川に垂れ流すような会社は罰せられなければならないよ。そうしないと、いつか誰かが被害に遭うのよ。結果を出せば、過程がどうでもよいというものではないと思うな」
「そんなものだろうか」
「そんなものよ。私はあなたが、鍋谷化学工業の悪事を公にすることを断念して、がっかりしたな。あなたなら、どんなことがあっても、やり遂げると思っていたのよ」
「俺たちの生活が壊れてもいいのか。村八分になってもいいのか。俺はそんな目に遭っても、鍋谷化学工業と闘うのは、ご免だよ」
「私だって、今の生活を守りたいわ」
「そうだろ。だったら、仕方ないじゃないか」
やがて、フランス料理が運ばれて来たので、二人の会話は途切れたのであった。