第九章 複雑な家庭

     1

「守。いつも放ったらかしにして、済まないね」
 容子は夕食の準備をしながら、守に話し掛けた。
「構わないさ。お手伝いさんの料理がとても美味しいんだ。母さんが作るより、美味しいと思うよ」
「そう。それを聞いて、安心したわ。母さんは、守のことを気にすることなく、友達の看護に当れるというものよ」
 容子が森野三郎と暮らすようになって、四ヶ月が過ぎた。
 といっても、容子は時々、家に戻って来た。そして、二、三日すると、また、三郎の許に戻るという暮らしを続けていたのだ。
 容子は守には、友人の看護をする為と、家を留守にする理由を説明していた。守は当初はそれを信じていたのだが、次第に実情を知るに至った。
 しかし、守は容子に対しては、実情を知らない振りをしていた。というのは、容子を傷つけたくなかったし、また、日頃の道哉の態度を見ていると、容子が浮気に走っても仕方ないと思ったのだ。
 守だって、もし道哉が普通の父親だったら、守の人格も変わっていたと思っていた。守は同年代の仲間と比べて、自らが異質だと自覚していたのだ。
 例えば、金使いの荒さとか大人びた態度。
 それ以外にも、守はクスリに手を出したこともあるのだ。
 これらは、全て道哉の所為だ。出世のことしか考えず、家族への愛を忘れ、弱者を馬鹿にする。
 守は道哉から、そんな道哉の姿しか知ることなく、育ったのだ。
 そんな道哉を夫として持ってる容子のことをどうして守が非難することが出来ようか。
 悪いのは、道哉なのだ! 早川家では、容子と守が被害者だと守は思っていたのだ。
「母さん、明日からまたしばらくの間、家を開けるからね」
 容子は決まり悪そうに言った。
「そう……。その人、早く病気が治ればいいのにね。そうすれば、母さんは毎日、家にいることが出来るね」
「そうね。早くそうなりたいね」
 と、容子は眼を伏せては言った。

     2

「早川君。今週の金曜日にヤマノ電気工業の社長就任パーティが、Pホテルで開かれるんだ。早川君にうちの代表として出席してもらいたいんだよ」
 と、副社長の大友は言った。
「今週の金曜日ですか。時間は何時からですかね?」
「午後七時からだ。本来なら、うちの社長が出席するべきなんだが、今、過労の為に入院してるからな。僕は米国での仕事が入っているんだ。そして、その仕事はどうしても外せないんだ。
 その旨をヤマノ気電気工業には伝えてあるんだ。
 それ故、ナンバースリーで、将来の社長候補である早川君に、出席してもらいたいというわけだよ」
「社長候補だなんて、そんな」
 と、早川は照れ臭そうに笑った。
 すると、大友も微かに笑ったが、
「で、このパーティには、夫人同伴で出席してもらいたいんだよ。これは、相手側の要望なんだよ。頼むよ」
「承知しました」
 早川は川は頭を下げた。

 早川は大友との話を終えると、鍋谷化学工業本社ビルを後にし、自宅に向かった。
 今日の早川は、大高村を朝早く出発し、本社で経営会議に出席し、それが終わると、大友と二人で打ち合わせをしたのだ。そして、その時に、今の話が出たのである。
 早川は大友との話で、ヤマノ電気工業の社長就任パーティの話が出た時に、嫌な予感が走った。というのは、夫人同伴で主席してくれと言われたからだ。早川は、容子が出席してくれるかどうか、心配だったのである。
 そして、早川の心配は、それだけではなかった。容子の連絡先が分からなかったのだ。
 貧乏画家と暮らしてることは分かっていた。だが、その貧乏画家の連絡先を知らなかったのだ。
 それ故、容子にいかにして連絡を取ればいいのだろうか?
 早川は午後八時に自宅に戻った。 
 だが、明かりは点いていなかった。この広大な邸に、まるで人気がなかったのだ
 早川は冷蔵庫から、有り合わせのもので、軽い夕食を済ませた。そして、容子の部屋に行っては、容子の連絡先の手掛かりがないものかと、机の引出しや、箪笥の引出しを調べてみた。
 だが、それを見付けることは出来なかった。 
 それで、アドレス帳に記してある容子の友人たちに電話を掛けた。早川は容子が他の男と暮らしてることを他人に知られたくなかったので、電話では「家内がお邪魔してないでしょうか。急用が出来ましたので、是非連絡したいことがありますので」と言った。 
 そして、早川が電話して三人目の湯川秀子という婦人から感触を得た。
―奥さんに急用がおありなんですか?
「ええ。至急、連絡を取りたいことがありましてね」
―多分、××村の友人の所ではないかと思いますね。
「そこの連絡先は分かりますかね?」
―分かりますよ。じゃ、メモしてくださいね。
 秀子はあっさりと早川に森野三郎という名前と住所と電話番号を教えたのである。
 秀子は容子が森野三郎と暮らしてることを知っていたし、また、早川が森野三郎という名前と連絡先を知らないことを容子から聞いていたので、知っていた。それ故、秀子は早川から容子の連絡先を訪ねられても、不思議ではなかったのだ。
 そうかといって、早川に森野三郎という名前と容子の連絡先を教えていいのかと思いはしたが、早川が急用と言ったので、教えた次第である。

 早川は秀子から容子の連絡先を聞くと、早速電話をした。
―森野ですが。
 と、早川が聞いたことのない声が聞こえた。
「僕は早川道哉といいますが、家内がそちらにおじゃましてませんかね?」
―ちょっと待ってくださいね。
―もしもし。
「俺だよ」
―……。
「実はな。お前に用があるから、帰って来てもらいたいんだよ」
―あら。私、あなたから命令される覚えはないわ。
「そんなんこと言わずに、戻ってもらえないかな。今週の金曜日に取引先の社長就任パーティがあるんだ。それに、夫婦同伴で出席しなければならないんだ」
―私には、関係ないことよ。
「そう言わずに、戻ってくれないかな」
―あなたって、私に甘い声を出すのは、私があなたの仕事に必要な時だけね。
 いいですか。私は私の好きなようにさせてもらいますからね。あなたの命令には、従わないですからね。
 そう言っては、容子はさっさと電話を切ってしまったのだ。
 早川は「ちくしょう!」と、吐き捨てるように言っては、送受器を叩きつけるように戻したのであった。

 今や、早川と容子との間には、修復し難い隙間風が吹いていた。だが、二人の間からは、離婚という言葉は出て来なかった。何故だろうか?
 早川は、社会的体裁を気にして、離婚しようとしないのだ。大企業の重役が、いい歳をして、みっともないことは、やりたくなかったのだ。将来の鍋谷化学工業の社長候補といわれてる早川としては、早川のイメージダウンとなるようなことは、やりたくなかったのだ。
 それに、早川は容子との関係が冷え冷えとしたものであっても、何ら困ることはなかった。元々愛してはいなかったのだし、外に女をつくれば、それで性的に満たされたからだ。
 容子の方は、早川から手にする金銭が、何よりも魅力的であった。容子は離婚したとしても、一人で自立して行く自信はなかった。それに、守のこともある。それ故、容子が何をしようが、金だけは毎月きちんと容子の口座に入金してくれる早川と離婚するのは、得策ではないと、容子は見做していたのだ。それに、容子も元々早川のことが特に好きでもなかったのだから。
 早川と容子の関係は、こういった具合であったのだ。

     3

 それはともかく、早川は容子と電話で話した翌日、森野三郎の家に向かった。容子を連れ戻す為である。
 早川は鍋谷化学工業の次の次の社長を狙っていた。
 鍋谷化学工業は同族色の濃い会社であった。副社長の大友も、鍋谷一族であった。だが、早川はそうではなかった。
 しかし、そうだからといって、社長になれないわけではなかったのだ。副社長の大友が社長になり、その大友が早川のことを推薦すれば、早川は社長になれるのだ。それ故、大友の指示には、忠実に従っておく必要があるのだ。
 早川は森野三郎という男が住んでいる村に着くと、随分と鄙びた村だと思った。大高村もかなり鄙びた村だが、この村はそれ以上であったのだ。
 こんな村で容子は生活してるのだろうか? こんな所に住んでる男に、容子は何の魅力を感じたのだろうか?
 早川はそう思ったが、その思いはやがて、怒りに変わった。
 それは、地位と金を持った早川の許を離れ、このような寒村に住んでいる貧乏画家の許に走った容子への怒りであった。
早川は容子を愛していなかった。だが、自らの妻である。妻の行為を全て許せるかというと、そうではなかったのである。
 早川はやがて、森野三郎の家を捜し当てた。
 それは、防風林に囲まれていて、大層古臭い家であった。正に、鄙びた寒村を象徴してるかのような家であった。
 早川はゆっくりとした足取りで、母屋に近付いて行った。温かな陽光が降り注ぐ昼下がりのことであった。
 母屋に行く途中に、離れがあった。早川は何気なしに、窓から中に眼をやった。
 すると、そこにはカンバスに向かってる男の姿があった。
 だが、その男の姿は、少し異様であった。何故なら、その男は右手で絵筆を動かし、左手で女の肩を抱いていいたからだ。
 早川はその光景を眼にして、逆上してしまった。何故なら、男に肩を抱かれてる女は、容子であったからだ。早川はまさか、このような光景を眼にするとは、想像すらしてなかったのだ。
 早川は離れの入口を見付けては、すかさず中に入った。そして、二人の前に姿を現した。
 そんな早川の眼は、怒りの炎に煮えたぎり、拳を強く握り締め、唇はわなわなと震えていた。
 三郎と容子は、早川の突如の出現に啞然とした表情を浮かべた。三郎は絵筆を動かすのを止め、容子は狼狽した表情を浮かべながらも、
「あなた……」
 と、呟くように言った。
「おい! 何だ、その様は! この恥知らずめ!」
 と、早川は声を荒げた。
「あなたこそ、何よ! 他人の家に勝手に入って来たりして!」
 容子は言い返した。
「他人の家だと? お前は自分の立場を分かってるのか?」
 早川は容子を怒鳴り付けた。
 すると、三郎が、
「まあ、お二人とも、そう声を荒げないでくださいな」
 と、早川と容子を宥めるかのように言った。
 すると、早川は三郎を見やり、
「あんたかい? 森野三郎っていうのは?」
「そうです。奥さんには、色々とお世話になっています」
 と言っては、三郎はぴょこんと頭を下げた。
「ほぉ……。あいつがあんたにどんな世話をしたって言うんだ?」
 早川は三郎を嘲るような口調で言った。
「食事の世話をしてもらったり、それに、言いにくいことですが、金銭的にもお世話になっているのです」
 と、三郎は決まり悪そうに言った。
「食事の世話だって? 金銭的にもお世話になってるだって? ふん! 笑わせるな! そいつは、人妻なんだぜ! 亭主を放ったらかしにしておいて、他人の食事の世話をするなんて、何事か! それに誰が稼いだ金を貢いでると思ってるんだ!」
 早川は顔を真っ赤にしては、怒鳴り付けた。
「それは、分かっています。ご主人様には、申し訳ないと思っています。でも、ご主人様は、単身赴任しておられると聞いていましたので、つい、僕が甘えてしまって……」
「そんな言い訳は、聞きたくないわい!」
 と、早川は吐き捨てるかのように言っては、
「容子! 電話でも言ったように、お前に用があるんだ! 俺と一緒に帰るんだ!」
「今は帰りたくないわ。帰りたくなれば、自分で帰りますよ。だから、あなたの指示は受けないわ」
 そう言っては容子の右手で三郎の左手を強く握り締めたのであった。
 早川は容子の性格を知っていた。一旦、こうだと決めたからには、決してその意思を翻えそうとはしないのだ。それ故、早川はもはや、早川の思い通りにならないことを悟った。そして、まるで早川の攻撃から身を守ろうとするかのように、手を握り合ってる早川と三郎を眼にして、改めて強い怒りが込み上げて来た。 
 だが、早川は努めて平静を装い、カンバスに眼をやっては、
「これは、何を描いてるのかな?」
 と、興味有りげに言った。
「ヨーロッパの港町の風景です」
 三郎は眼を輝かせては言った。
「これが、港町か……」
 早川には、それが港町には見えなかった。何だか、得体の知れないようなものが描かれてるように見えたのだ。
 それで、つい大笑いしてしまった。
 早川が大笑いしたので、三郎は思わず真剣な表情を浮かべては、
「何がおかしいのですかね?」
「この絵を見て、笑わずにいられるかよ! 一体何を描いてるのかと思ったら、ヨーロッパの港町だって? 俺はてっきり、地獄絵図かと思ったよ。アッハッハッ!」
 と、早川はいかにもおかしくて仕方ないと言わんばかりに、大声で笑った。
「こういうのを抽象絵画というのですよ。僕の絵のスタイルは、こういった具合なんですよ」
 三郎は絵に関して、全く無知な人に説明するかのように言った。
「あんたは、この絵に描かれてる港町に行ったことがあるのかい?」
 早川は三郎を嘲るかのように言った。早川は貧乏人が、ヨーロッパに行く金があったのかと思ったのである。
「ありますよ。五年前ですけどね。この絵に描かれてる港町は、スペインの片田舎にあるのですよ。僕はそこで一週間過ごしました。そして、絵ばかり描いていたのですよ。
 今、描いてるこの絵は、その港町をモデルにした絵としては、二十作目なんですよ」
 と、三郎は眼を輝やかせて言った。
「ふーん。で、今まで描いた絵は、どうしてるのかな?」
「作品展に出したりしました」
「結果は?」
「落選しました」 
 と、三郎は伏目がちに言った。
 それを聞いて、早川は、
「アッハッハッ!」
 と、再び大笑いした。
 その早川の大笑いは、三郎を動揺させたようだ。三郎は厳しい表情を浮かべたからだ。
「何がおかしいのですか?」
 三郎は厳しい表情のまま言った。
「何がって、これが笑わずにいられるかよ。二十作も作品展に出して、一度も入選したことがないんだろ?」
「二十作全部を出したわけではないのです」
「でも、あんたは仕事をしないで、絵ばかり描いてるんだろ?」
「まあ、そんな具合ですが……」
 すると、早川はいかにも表情を和らげ、
「だったら、いい加減に見切りをつけたらどうなんだ? 夢みたいなことを考えていちゃ駄目だよ。あんたの才能じゃ、入選することは無理だよ。素人の俺が見たって、どうしようもなくひどいことが分かるよ。
 大体、あんたは何を見て描いてるんだ? 絵というものは、描く対象を見て作業するもんだろが」
「そうとも限りませんよ。僕には港町の光景が頭の中にこびりついています。だから、その風景を思い出し、更に想像力を駆使しながら描いてるのです」
「アッハッハッ! こりゃ、駄目だ。言うことが、滅茶苦茶だよ。そんな風だから、碌な絵が描けないんだ。あんたは、絵で自立することは、無理だよ」
 早川のその言葉で、三郎は黙ってしまった。
「あなた! 失礼じゃないですか! そんな言い方はないでしょう。森野さんに、謝って頂戴!」
「馬鹿野郎! お前は誰の女房だと思ってるんだ? 生意気な口を利くなよ!」
「あなたこそ、生意気な口を利かないでよ。碌に絵を分からないのに、文句ばかりつけて!」
「もういい! こんな所にいるのは、不愉快だ! 俺は帰る!」
 そう言っては、早川は離れから出て行ったのである。
     
     4

 ヤマノ電気工業の社長就任パーティは、結局、早川一人で出席した。
 パーティの出席者たちは、全てといっていい位、夫人同伴に見えた。それ故、早川は気まずい思いを抱きながら、パーティでの一時を過ごしたのであった。
 早川は翌日大高村に戻り、仕事に携わっていたのだが、何と米国にいる大友から電話が掛かって来た。
―ヤマノ電気工業の社長就任パーティに出席してくれて、ありがとう。
「どういたしまして」
―一人で出席したんだって?
「ええ。家内の都合がつきませんでして」
―困るな。夫人同伴で出席してくれと、言っておいたじゃないか。相手が夫人同伴と言って来てるんだから、その意向を無視することは、相手に失礼なんだよ。こんなことを今更、常務の早川君に言うのは、馬鹿馬鹿しいんだが、一応、言っておかないとね。
「誠に、申しわけありません」
―今後、気をつけてくれよ。
「はっ! 肝に銘じて、気をつけます!」
 送受器を置いた後、早川の頭には、血が上ってしまった。副社長の大友から、𠮟責されてしまったからだ。
 ヤマノ電気工業が大切な取引先であることは言うまでもない。その社長就任パーティだから、鍋谷化学工業としては、社長が出席するのが礼儀だが、社長は今、過労で入院し、副社長が米国行きとなれば、ナンバー3である早川が出席するのが当然だ。
 だが、ヤマノ電気工業としては、何故副社長の大友が出席しないのか、訝しがったことであろう。うちよりも、米国の取引先の方が大切なのかと。
 このことだけでも、ヤマノ電気工業の不興を買うのに十分だったのに、それを理解した上で、大友は早川に夫人同伴で出席を頼んだのだ。
 ところが、早川は夫人を伴わずに、出席してしまった。これは、ヤマノ電気工業の感情を害してしまったことであろう。正に、社交とは、そのようなものなのだ。
 それ故、大友はわざわざ米国から、この件で早川に電話して来たのだ。
 それ故、早川はこの件が、早川の社長就任の足かせにならなければよいのにと思った。そして、今後、このようなミスは絶対に行なってはならないと、自らに強く言い聞かせたのであった。


目次     次に進む