1 青龍軒
長崎の名所の一つとして、新地中華街を挙げなければならないだろう。江戸時代、中国船の積荷を納める倉庫を建てる為に、新たに唐人屋敷前の海面を埋め立てて出来たという歴史を持つ新地に東西約250メートルの十字路が設けられ、中華料理店や中華菓子、中国雑貨店が軒を並べている。それが、新地中華街だ。
そして、横浜、神戸と並ぶ日本の三大中華街と数えられてはいるが、横浜の中華街と比べれば、その規模は随分可愛らしいといえるだろう。
とはいうものの、長崎に観光に訪れる人は是非行ってみたいスポットとして数えられていることだろう。
そんな新地中華街から少し離れた所にある「青龍軒」という中華料理店は小路に面していた。新地中華街だけでなく、長崎随一の繁華街である浜町商店街に近い所にあるといえども、小路に面している為か、「青龍軒」に中華料理を食べに来るお客は相当に少なかった。それ故、「青龍軒」は、儲かっていなかった。店内に貼られたメニューを記した紙が相当に黄ばんでいるにもかかわらず、未だに貼り替えられていず、また、狭い店内には四人掛けのテーブルが六つあるのだが、そのテーブルは随分と薄汚れ、また、その椅子の背凭れには所々スポンジが露出してるのが、眼についた。
これらのことからも、「青龍軒」が儲かっていないことを如実に物語っているといえよう。
しかし、それはやむを得ないことなのかもしれない。何故なら、「青龍軒」から少し離れた所には新地中華街があるから、中華料理を食べようとする観光客はそちらの方に向かうだろうし、また、この薄汚れた店内を見れば、地元の人も何度も入りたいとは思わないであろう。
もっとも、「青龍軒」の中華料理が格別に美味いとか、あるいは、料金が安いとかいう特色があれば、お客がつくというものだろうが、「青龍軒」の中華料理は格別に美味いというわけでもなかったし、また、料金が安いというものでもなかった。
それ故、「青龍軒」が儲かっていないのは、当然のことなのかもしれない。
そんな「青龍軒」が今後、果たして営業を続けて行くことが出来るのだろうか?
「青龍軒」を切り盛りしてるのは、長内正平、知美夫妻であった。正平も知美も五十四歳で、十五年前からこの地で「青龍軒」を営んでいた。
正平は料理専門学校を卒業した後、佐世保の中華料理店でコックとして働いていて、その店で知美と知り合い結婚したのだが、三十になった頃、郷里の長崎に戻って来ては、今の地に「青龍軒」を開店させ、営業を始めた。
「青龍軒」が開店した当初は、店の新しさなんかが幸いしてか、お客は結構入っていたのだが、三度、四度と「青龍軒」を訪れるお客は少なかった。そして、十五年が経過したのである。
そんな状況であった為に、長内夫妻二人が何とか食べていくのに精一杯という状況であった。
とはいうものの、長内夫妻は料理以外の道で生きて行く自信はなかった。だが、他の店で使用人として働くことは可能と思われた。
しかし、この歳になって、二十代、三十代の若造に顎でしゃくられ、命令されて働くことは、正平にとって我慢出来ることではなかった。
もっとも、知美にとっては、それは我慢出来ないことではなかったのだが、いくら「青龍軒」が儲かってないといえども、正平一人で切り盛りすることは不可能というものだ。無論、経費の関係上、アルバイトを雇うことも出来ない。
それ故、「青龍軒」は長内夫妻によって、今も営業が続けられているというわけだ。
それはともかく、今日は十一月十日。
観光シーズンとは思えない季節なのだが、長崎の街は今日も賑わっていた。それは、東京の地下鉄並みにやって来る路面電車の乗客数を見れば分かるであろう。通勤、通学の時間帯でなくても、路面電車は相当に混雑してるのだ。長崎は人四十万を超えているといえども、長崎市以外からの者が大勢来てなければ、これ程路面電車は混雑しないのではないだろうか。
そして、時刻はやがて午後六時を過ぎた。一日の仕事を終えたサラリーマンたちはそろそろ家路に着く頃であろう。また、観光客たちは今夜の夕食の店選びを始めている頃ではないだろうか。
しかし、「青龍軒」には、まだお客が一人も姿を見せてなかった。「青龍軒」近くにある他の中華料理店にはちらほらとお客が姿を見せてるにもかかわらず、「青龍軒」には一人もお客が姿を見せていないのだ。
そして、そんな状況はここ三、四ヶ月の間、珍しいことではなかった。
「青龍軒」の営業時間は午前十一時から午後二時までと、午後五時から午後九時までなのだが、一日でお客の数が十人に満たなかった日が、ここ三ヶ月の間で二十日位あったであろうか。即ち、ここしばらくの間は赤字営業を続けて来たのだ。
四年前には、長崎市内にあった長内夫妻の自宅を売却し、「青龍軒」の営業資金とか、長内夫妻の生活費を捻出した。しかし、その資金もそろそろ底を尽き始めていた。
それ故、こういった状況が今後も続くのであれば、「青龍軒」はとても営業を続けていくことは出来ないと思われた。
そして、今日のお客は今のところ、僅か三人であった。こんな状況では、数日前に仕入れた生鮮品は捨てなければならなくなるであろう。