2 事件発生

 その翌日の午後一時頃、背広姿のお客が「青龍軒」にやって来た。
 そのお客は五十位の中肉中背で、銀縁の眼鏡を掛け、何となくインテリ風であった。
 そのお客が来る十分位前までは、三人のお客がいたのだが、今はそのお客一人だけであった。因みに今日の客数は、今のところ六人であった。
 それはともかく、男は薄汚れたテーブルの席につくと、壁に貼られている紙に書かれたメニューを見ていたが、やがて男の傍らに立っていた知美に、
「ちゃんぽん!」
 と、言った。
 それを受けて、知美はカウンターの向こうにいる正平に、
「ちゃんぽん!」
 と、甲高い声で言った。
 それを受けて、正平は直ちにちゃんぽんを作り始めた。
 ちゃんぽんは長崎名物の一つで、明治に入ってちゃんぽんという料理が作られたようだが、その由来とか語源には諸説があるらしい。
 それはともかく、正平は五分程でちゃんぽんを作り終え、それを受けて知美はちゃんぽんを盆に載せては男のテーブルに持って行き、
「どうぞ」
 と、言っては、ちゃんぽんをテーブルに置いた。
 それを受けて、男はテーブルに据えられた割り箸を一本取り出しては、早速ちゃんぽんを食べ始めた。
 そして、少しの間、脇目も振らずにちゃんぽんを食べていたのだが、突如、
「ゲッ!」
 と、奇声のような声を発しては、床に倒れてしまった。
 そんな男を見て、知美の表情は忽ち強張り、そして男の傍らに屈み込んでは、
「お客さん、どうしたのですか!」
 と、甲高い声で言った。
 だが、男はそんな知美の言葉に何ら答えることはなく、少しの間、身体を痙攣させていたかと思うと、程無くガクンと頭を垂れた。
 そんな男を見て、知美の表情は真っ赤になり、そして、
「お客さん!」
 と、男の身体を抱えては、男の身体を揺り動かした。
 だが、男はガクンと頭を垂れたまま、何の反応も見せなかった。そんな男を見れば、誰でも男は魂切れてしまったと思うに違いない。
 知美も正にそう思った。
 しかし、知美はそれを認めたくなかった。何しろ、知美と正平の店である「青龍軒」で正平が作ったちゃんぽんを食べていたお客が、突如奇声を上げては魂切れてしまったなんて信じろと言われても、信じられるわけがなかったからだ。
 だが、この出来事をこのままにしておくわけにはいかず、知美は直ちに110番通報した。
 それを受けて、長崎署の警官を乗せたパトカーがサイレンを辺りに鳴り響かせ、疾風の如く「青龍軒」の前にやって来た。
 そして、三名の制服姿の警官が「青龍軒」の中に入った。
 すると、「青龍軒」の中で倒れて動かなくなってる男を眼にしたので、警官の一人が男の脈をみ、また、瞳孔をみた。そして、その結果、男の死を確認した。
 すると、別の警官が男の遺体とか、辺りの様子を写真に撮った。
 警官が「青龍軒」に着いて五分経った頃、救急車が到着した。そして、四名の救急隊員が雪崩れ込むかのように「青龍軒」の中に入って来た。そして、男の遺体を担架に載せ、男の遺体に毛布を被せると、すみやかに「青龍軒」から去って行った。
「青龍軒」の前には十人程の野次馬が姿を見せていたが、男の遺体が救急車で運ばれて行くと、まるで潮が引くように「青龍軒」から去って行った。
「青龍軒」の中では今、長崎県警の山際警部(50)が事情を聞く為に、長内夫妻に聞き込みを行なっている最中であった。
 そんな山際に、長内夫妻は正に有りの儘に事の次第を話していた。
 即ち、お客としてやって来たその男はちゃんぽんを食べてると、急に奇声を上げたかと思うと、床に倒れ、少し痙攣してから、呆気なく魂切れたということを話した。
 そんな長内夫妻の話にじっと耳を傾けていた山際は、
「どうやら、あの男性は青酸によって死亡したみたいですね」
 と、いかにも険しい表情を浮かべて言った。男性の状態とか、アーモンド臭が感じられたことなどから、山際はそのように看做したのである。
「青酸死ですか!」
 思ってもみなかった衝撃的な説明を山際から聞かされた正平は、いかにも驚いたように言った。
「断言は出来ないものの、その可能性が高いですね」
 山際は険しい表情のまま言った。
「信じられないですね」
 正平は山際から眼を逸らしては、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
 そんな正平を見て、山際は険しい表情を浮かべながら、言葉を詰まらせた。果たして、この事件は今後、どのような展開を見せるのか、山際には予測がつかなかったからだ。
 男性の死は殺しなのか、事故なのか、あるいは自殺のいずれかに違いないと思われるのだが、そのどれなのかは今の時点では、山際にはまるで予測がつかなかったのである。
 それ故、まず長内に聞き込みを行い、一歩一歩真相に近づいて行かなければならないだろう。
 その点を踏まえて、聞き込みを続けたところ、青酸死したと思われる男は午後一時頃、一人で「青龍軒」にお客としてやって来てはちゃんぽんを注文した。
 それを受けて、正平はいつも通り五分程でちゃんぽんを作り終え、知美が盆にちゃんぽんを載せては男のテーブルへと持って行った。
 男は知美によってちゃんぽんが運ばれて来ると、早速食べ始めた。そして、その二、三分後位にその惨劇が発生したとのことである。
 因みに男が「青龍軒」にやって来てから男が死に至るまで、「青龍軒」には男以外のお客は一人もいなかったとのことだ。
 そう長内夫妻から言われると、山際は渋面顔を浮かべては少しの間言葉を詰まらせたのだが、やがて、
「今の長内さんの説明を聞くと、男性は青酸入りのちゃんぽんを食べて亡くなったと看做さざるを得ませんね」
 と、正平と知美の顔を交互に見やっては言った。
 すると、正平は、
「そんな馬鹿な!」
 と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。また、その正平の表情には、そのような理不尽な言葉を発した山際を非難してるかのような表情も垣間見えていた。
 すると、山際は、
「そりゃ、長内さんの言われることはもっともなことだとは思います。しかし、現況はそう看做すのが妥当と思われるのです」
 と、眉を顰めてはいかにも言いにくそうに言った。
「でも、そんな馬鹿なことがありますか! 何故僕が見知らぬお客さんに青酸を入れなければならないのですかね」
 と、正平は顔を真っ赤にさせては、山際の話は馬鹿馬鹿しくて話にならないと言わんばかりに言った。
 すると、山際は、
「山際さんが故意に山際さんが作ったちゃんぽんに青酸を入れたとは言ってませんよ。誤って、青酸が紛れ込んだのかもしれません」
 と、些か顔を赤らめては、正平を宥めるかのように言った。
 すると、正平の興奮は少し収まったかのように見えた。
 だが、正平は、
「僕は生まれて以来、一度も青酸というものを手にしたことはないのですよ。そんな僕が作ったちゃんぽんに、青酸が誤って紛れ込むなんてことはないと思いますね」
 と、毅然とした表情を浮かべては言った。
 そう正平に言われると、山際は言葉を詰まらせてしまった。
 そんな山際に知美は、
「ひょっとして、あの男性はうちの店で自殺したのかもしれませんね」
 と、顔を紅潮させては、興奮の為か声を上擦らせては言った。
「自殺ですか……」
 山際は知美を見やっては、呟くように言った。
「そうです。自殺です。あの男性は死ななければならない理由があったのですよ。それで、自らで青酸を持っていたのですが、何故かうちの店でちゃんぽんを食べてる時にその青酸を飲んでしまったのですよ。衝動的に飲んでしまったのか、計画的に飲んでしまったのかは分かりませんが、それが真相ではないでしょうかね」
 と、知美は今度は落ち着いた口調で、まるで山際に言い聞かせるかのように言った。
 そう知美に言われると、山際は、
「うーん」
 と、唸り声のような声を上げた。知美が今、言ったケースは十分に有り得ると思われたからだ。
 そして、山際はこの辺で一旦長内夫妻に対する聞き込みを終えることにした。

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