4 自殺か他殺か

 恩田の上司であったという峰岸豊が主張したように、恩田は会社のお金を横領したことが発覚してしまったことを悲観して自殺したという見方が長崎署内でも有力なものとなっていた。
 とはいうものの、恩田自殺説に反対する刑事もいた。
 その刑事は徳野誠(52)という警部であった。
 徳野は刑事になって三十年のベテランで、殺人事件にはこれまで幾度となく捜査に携わって来た。それ故、犯罪事件には詳しい刑事であった。
 そんな徳野が、
「僕は恩田さんの死は自殺によるものではないと思いますね」
 と、恩田の死は自殺によるものとして処理しようとしてる長崎署刑事課長の村上正和(57)に異議を唱えた。
「何故、そう思うんだ?」
 村上は眉を顰めて言った。
「大体、中華料理店でちゃんぽんを食べてる時に自殺しようとしますかね。自殺するのなら、もっと別の場所で行ないますよ」
 徳野はいかにも納得が出来ないと言わんばかりに言った。
「その点は我々もかなり論議したんだよ。しかし、自殺しようとしてる者はもう平静を失ってしまってるんだ。それ故、中華料理店でちゃんぽんを食べてる時に死んでやろうという思いが生じても別に不思議ではないということになったんだよ」
 と、村上は顰面で言った。
「それもそうですが……。
 では、恩田さんは青酸をどうやって入手したのですかね?」
 と、徳野は眼をギラギラと輝かせては言った。
 そう徳野に言われると、村上は徳野から眼を逸らせては言葉を詰まらせた。確かにその点を明らかにしないと、恩田の死は自殺だと断定は出来ないからだ。
 そんな村上に、徳野は、
「僕は、やはり恩田さんの死は殺しによってもたらされたと思いますね」
 と、険しい表情で言った。そんな徳野は、殺しを自殺として処理し、犯人を見逃すようなことは、警察として絶対に行なってはならないと言わんばかりであった。
 そんな徳野に村上は、
「じゃ、犯人は『青龍軒』の長内夫妻だと言うのかね」
 と、渋面顔を浮かべては言った。
 もし、恩田の死が殺しによってもたらされたのなら、恩田が食べたちゃんぽんに青酸を入れることが可能なのは『青龍軒』の長内夫妻しか考えられないのだ。
 そう村上に言われると、徳野は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。というのは、どう考えてみても、恩田と『青龍軒』の長内夫妻との間でトラブルなんかがあったとは思えなかったからだ。
 それで、徳野は渋面顔を浮かべては少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「ひょっとして、恩田さんと長内さんとの間に接点があったのかもしれませんよ」
 と、眉を顰めては、眼をキラリと光らせた。
「接点があった? どういう風にあったと言うんだ?」
 村上は納得が出来ないように言った。
「長内さんは恩田さんのことを全く知らない人物だと言ってましたが、それは嘘で、例えば恩田さんは『青龍軒』を何度も訪れていては『この店のラーメンはまずくて食べられるか!』とか、『こんな薄汚い店でよくぞ商売をやってるもんだ。お客さんに失礼とは思わないのか?』という具合に長内さんに罵詈雑言を浴びせていたのはないですかね? そんな恩田さんに対しての恨みが積もり、長内さんは恩田さんが食べたちゃんぽんに青酸を入れたのではないですかね? あるいは、そういったケース以外の別の動機があったのかもしれません。それ故、恩田さんと長内さんとの接点を捜査してみる必要があると思いますね。
 それ以外にも、恩田さんの家族の者にもっと聞き込みを行ない、最近の恩田さんの様子を明らかにしなければならないですよ」
 その徳野の意見が取り入れられ、早速恩田と長内夫妻との間に接点がなかったか、また、恩田の家族の者に聞き込みが行なわれることになった。
 恩田は、妻の早苗(46)と高校三年の娘(18)と三人暮らしであったとのことだ。
「私は夫が自殺したなんて信じられません」
 早苗はその温厚そうな容貌を甚だ険しくさせては、徳野に訴えるように言った。
「でも、ご主人の会社の上司によると、恩田さんは会社のお金を四、五千万程横領し、使い込んでいたそうなんですよ。そして、最近になってその横領が発覚し、恩田さんは懲戒免職になることになってたそうです。それ故、恩田さんは将来のことを悲観し自殺したと言うのですがね」
 と、徳野は渋面顔を浮かべて言った。
 すると、早苗は徳野から眼を逸らせては言葉を詰まらせた。そんな早苗は、徳野の言葉に返す言葉はないと言わんばかりであった。
 そんな早苗に徳野は、
「奥さんは、ご主人が会社のお金を四、五千万も使い込んでいたという事実を知ってましたかね?」
 と、早苗の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、早苗は徳野を見やっては、
「いいえ」
 と、小さな声で言っては頭を振った。
 すると、徳野は、
「ほう……」
 と、渋面顔で呟くように言った。というのは、徳野は恩田が横領した金の使い道が分からなかったからだ。徳野は、恩田が横領した金を家族の為に使ったのではないかとも推理していた。となると、そのことを早苗が知らない筈はない。それ故、今の早苗の証言によって、徳野のその推理は早くも誤った推理となったのである。
 とはいうものの、
「ご主人はサラ金なんかに借金をしてなかったのですかね?」
 と訊いてみた。
 すると、早苗は、
「サラ金には借金はしてなかったです。それは絶対に間違いありません!」
 と、正に真剣な表情を浮かべては甲高い声で言った。
「では、ご主人は横領したお金をどのような目的に使ったのでしょうかね? 奥さんはどのように思いますかね?」
 と、徳野は早苗の胸の内を問うた。
 そう徳野に言われると、早苗は渋面顔を浮かべてはしばらくの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「あの女の為に使ったのかもしれませんね」
 と、いかにも気難しそうな表情を浮かべては言った。
「あの女?」
 徳野はいかにも興味有りげに言った。
 徳野にそう言われると、早苗は黙って肯いた。
「あの女とは、一体誰のことなんですかね?」
 徳野は再びいかにも興味有りげに言った。
「ですから、女ですよ。つまり、愛人です。主人は愛人を作ってたみたいなのですよ」
 そう言った早苗の表情は、甚だ険しいものであった。そんな早苗は、恩田の死よりも恩田が愛人を作っていたことの方が余程ショックであったと言わんばかりであった。
「成程。で、奥さんはどうしてそのことを知ったのですかね?」
「二年程前のことでしたが、主人のワイシャツの袖口に口紅が付いていたことがあったのですよ。それを見て、私は主人は女を作ってるのではないかと疑ったのですよ。
 それで、主人に訊いたところ、主人は会社の同僚とスナックで飲んでいた時にホステスの口紅が付いたのだと言いました。
 しかし、私は主人が同僚と飲みに行ったりするのが嫌いだということを知ってます。また、仮に飲みに行ったとしても、主人の性格からして、主人がどんちゃん騒ぎなんかはしないと思います。それ故、ホステスの口紅が主人のワイシャツの袖口に付くということはまず有り得ないと思ったのです。
 それ故、私は高いお金を払って興信所で主人のことを調べてもらったのですよ。
 すると、主人は浦上駅近くのマンションで女を囲っていることが明らかになったのです」
 と、早苗はまるで話したくない早苗の恥部を話してしまったと言わんばかりに、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。そして、
「何しろ、主人の給料の手取りは三十万位しかないのです。そのお金で私たち三人が生活をしていたのです。
 それ故、主人が愛人を囲うなんてことは出来る筈がありません!
 それ故、主人はその愛人を囲う為に会社のお金を横領したのだと思います」
 と、いかにも表情を険しくさせては、いかにも不快そうに言った。
 そう早苗に言われ、徳野は、
「成程」
 と、いかにも納得したように肯いた。早苗の推測は正しいと思ったのだ。
 そんな徳野は、
「で、奥さんはそのことをご主人に問い詰めたのですかね?」
「そりゃ、勿論問い詰めました。といっても、興信所にその事実を突き止めてもらったとまでは言いませんでした。何しろ、興信所に払ったお金は相当なものでしたからね。そのようなことを主人に話せば、主人からどやされるに違いありませんからね。そして、そのことが起因して、私たちは離婚してしまうかもしれません。でも、それは娘の為にはよくないです。それ故、私は主人のワイシャツの袖に付いていた口紅のことや、外泊することが増えたことなどを根拠に、愛人がいるのではないかと主人に問い詰めたのです。
 でも、主人は頑なにそれを認めようとはしませんでした。
 それ故、今度はその愛人からのメールなんかを摑んでやろうと思っていたのですが、その矢先にこの事件が発生してしまったのですよ」
 そう言い終えた早苗の表情はいかにも生気のないものであった。
 そんな早苗を見て、徳野の表情も一層曇った。とはいうものの、徳野は恩田の死はやはり自殺ではないと改めて思った。何故なら、恩田は女を囲う為に会社の金を横領したのだ。そんな恩田が良心の呵責を感じ、自殺するような殊勝な性格の持ち主とは思えない。
 それ故、徳野はその思いを早苗に話してみた。
 すると、早苗は、
「私もそう思うのですよ」
 と、険しい表情を浮かべながらも、徳野に相槌を打つかのように言った。
 そう早苗に言われると、徳野は些か納得したように小さく肯き、
「で、ご主人が殺されたとすれば、その犯人に心当たりありませんかね?」
 そう徳野に訊かれると、早苗は言葉を詰まらせては少しの間何やら考えているようであったが、やがて、
「分からないですね」
 と、いかにも気難しげな表情を浮かべては言った。
「では、ご主人が亡くなられた中華料理店の経営者、即ち、『青龍軒』の長内夫妻とご主人は何か接点はありませんでしたかね?」
 と、徳野は早苗の顔をまじまじと見やっては訊いた。
 すると、早苗は、
「ないと思いますね。私は主人からその『青龍軒』のこととか、その経営者である長内夫妻に関して今までに一度も耳にしたことはありませんからね」
 そう早苗に言われたものの、徳野はとにかく亡き恩田の部屋の中を捜査してみることになった。恩田と長内夫妻の接点を裏付ける物証が何か見付かるかもしれないからだ。
 だが、結局、そのような物証は見付からなかった。
 それで、徳野はこの辺で一旦、恩田宅を後にすることになった。

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