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 根室は釧路のように霧が多い街だと聞かされていたので、大坪悟(45)は、大いに拍子抜けさせられてしまった。
 というのも、大坪は今、根室の街を抜けて納沙布岬に向かう道をバスに乗って揺られてるのだが、今まで霧とは全く無縁といった有様であったからだ。
 もっとも、今、右手の方に見える原野を隔てた海岸線沿いには霧が掛かり、何処が海で何処が海岸なのか、区別はつかない状態であったのだが、根室市街をバスで走ってる時は、大坪が住んでいる横浜と同じく、霧とは全く無縁といった状態であったのだ。それで、大坪は拍子抜けしてしまったのである。
 もっとも、そのことは大坪にとって幸運であったといえよう。何故なら、街中が霧で蔽われ、視界が利かなければ、遥々と根室にまでやって来た甲斐がないというものだからだ。大坪は霧を見る為に根室にやって来た訳ではなかったからだ。
 根室へは、根室本線の列車に乗って釧路から来たのだが、厚岸を過ぎた頃、列車に野生の鹿が並走するという光景に出交わしてしまった。
 その光景を目の当たりにして、大坪は正にここは北海道だなと思ったものであった。大坪は今までにこのような光景には出交わしたことはなく、妙に感動したものであった。
 また、列車は根釧原野を抜けて走っていたのだが、改めて北海道にはまだまだ自然が豊かだと思った。人間の手が入るまでの原風景が北海道にはまだまだ残ってると大坪は改めて思ったのである。
 もっとも、根釧原野を走ってる時は、何度も霧に包まれて、視界が利かない時があった。
 それ故、大坪は根室もこんな状況なのかと思っていたのだが、大坪のその予想は全く外れてしまったのである。
 それはともかく、今は乗客は大坪一人となってしまったそのバスは、刻一刻と納沙布岬に近付き、そして、遂に納沙布岬のバス停に着いた。バスの中からは、納沙布岬近くにある平和の塔という高層タワーは既に見えていたのだが、バス停からは少し歩かなければならなかったし、また、搭上付近には霧が掛かっていたりしてた為に、視界は利かないと大坪は思い、平和の塔には行かないことにした。
 そんな大坪は、納沙布岬に向かって歩き出した。
 その途中、観光物産館を通り過ぎ、また、土産物店を通り過ぎると、やがて、納沙布岬に着いた。
 納沙布岬からは晴れていれば、貝殻島や水晶島は無論、国後島も眼にすることが出来るのだが、大坪はそれらの島を眼にすることは出来なかった。
 今日は時折、薄らと陽が見える天気であったのだが、海上には霧が掛かり、その霧が視界を遮っていたのである。貝殻島まで納沙布岬から僅か3・7キロ余りなのだが、それも見えなかったのである。
 とはいうものの、大坪は根室は無論、納沙布岬に来るのは今日が初めてだったので、納沙布岬からの光景にじっと眼を凝らしていた。
 納沙布岬は日本の最北端に位置してるのだが、北方の島々を眼に出来なかったということもあり、大坪にとって納沙布岬は、特に感慨を抱かせるような場所とはならなかった。
 だが、大坪は神妙な表情でじっと島影の見えない北方の海へと眼を凝らし続けていた。
 そんな大坪の様を眼にすれば、大坪は何か悩みでも抱えているのではないかと勘繰る人もいることであろう。
 そして、その読みは正に当っていたのだ。何故なら、大坪は今、確かに悩みを抱えていたのだ。
 その大坪の悩みとは、仕事の悩みであった。
 大坪は三週間前に二十五年働いて来た小西興業という従業員五百人程の会社からリストラに遭い、失業してしまったのである。
 二十五年働いたといえども、退職金は僅か百万であった。
 これも、大坪は不満だったのだが、それと共に、大坪が不満なのが、次の就職先の目処がまるで立っていないことだ。
 小西興業は、大手工作機械会社を主として取引先に持っているのだが、大坪の仕事は入社以来、ずっと経理であったのだ。
 それ故、大坪は確かに経理の仕事に関しては詳しかったのだが、管理職に向かない性質であった為か、そんなネクラな性格が嫌われ、リストラに遭ってしまったのである。
 そんな大坪には、再就職先の当ては、まるでなかったのである。
 とはいうものの、五十に近い年齢であったといえども、独身であった為に、自らの生活のことだけを考えていればよかったので、それが幸か不幸か分からないが、大坪は上司から肩叩きに遭った時に、あっさりと辞表を出したのである。
 そんな大坪であったが、五十に近い独身男の一人旅は、時々侘しいものであると思ったりしたものだ。
 旅先で仲睦ましそうな大坪と同年齢位の夫婦を見ると、大坪は思わず神妙な表情を浮かべてしまうのだ。
 そして、大坪は正に今、そのような表情を浮かべてしまっていたのである。
 そして、そんな大坪の表情は、五月の半ばを過ぎたといえども、まだまだ肌寒さを感じさせる納沙布岬の光景に似合っていたのかもしれない。
 それはともかく、先程までロシア人と思われる男性の二人組が大坪の近くで大坪と同じく北方の海に眼をやっていたのだが、その二人組もやがて姿を消した。
 それで、大坪はただ一人、納沙布岬でまだしばらく北方の海に眼をやっていたのだが、すると、いつの間にやら、一人の女性が大坪の傍らにやって来ては、大坪と同じように北方の海に眼をやり始めた。そして、二人はまだしばらく、その状態を続けた。
 とはいうものの、もし誰かが北方の海に眼をやっている大坪とその女性を眼にしても、二人が連れだと思う者は誰もいないのではないだろうか。
 というのは、大坪がいかにも落ちぶれた冴えない中年男といわんばかりの容姿と地味な服装であるのに対して、その女性は、三十位の年齢と思われたのだが、赤のブレザーと紫のミニスカートはいていたからだ。
 その女性の様は、まるで東京の繁華街で眼に出来る流行の最先端を行ってるかの女性であるかのようなのだ。そして、その様は、まるで大坪とは対称的であったのだ。
 そんな二人は、まだしばらく北方の海に眼をやり続けていたのだが、その時、突如、女性が、
「すいません」
 と、大坪に声を掛けた。
 それで、大坪は思わずその女性に眼をやった。
 すると、大坪は思わず心の中で、〈綺麗だ……〉と、呟いた。
 大坪はこの女性が大坪の傍らに来た時から何となく綺麗な女性だとは思っていたのだが、真正面から直に眼にしてはいなかった。
 だが、今、初めて真正面から眼にすると、そう思ったのである。
 女性にそう言われ、大坪は女性を真正面から眼にしたものの、大坪は言葉を発することは出来なかった。女性の用件が分からなかったからだ。
 そんな大坪の胸の内を察してか、女性はすぐに、
「あの……、写真を撮っていただけませんか」
 と、微笑を浮べながら言った。
 それで、大坪は女性に微笑を返した。何故なら、女性の用件が分かったからだ。
 それで、大坪は、
「いいですよ」 
 と、軽快な口調で言った。
 それで、女性は大坪にカメラを渡した。そのカメラはレンズ付きの使い捨てカメラであった。
 女性からカメラを受け取った大坪は、女性から少し離れては、北方の海を背景に、微笑を浮べた女性の写真を撮った。
 すると、女性は、
「もう一枚撮っていただけますか」
 と言ったので、大坪はもう一度、シャッターを押した。
 そして、カメラを女性に渡すと、女性は、
「ありがとうございました」
 と、にっこりした。
 その女性の笑みに釣られ、大坪も再び微笑を返した。
 その女性は決して若いとはいえなかったが、しかし、五十に近い大坪から見れば、可愛い女性と形容しても、何ら差し支えなかった。そして、今までにこのような女性が大坪の前に現われれば、大坪はプロポーズしていたかもしれないという思いが、ふと大坪の脳裏を過ぎった位であった。
 だが、そんな大坪の表情は、すぐに暗いものへと変容した。何故なら、今は無収入であり、サラリーマン時代も大坪の収入はとても少なかった。大坪の収入を知れば、今、大坪の眼前にいるような女性は、大坪の前からさっさと逃げて行くことであろう。
 そう思っていた大坪に、女性は、
「もしよろしければ、私も写真をお撮りしましょうか」
 と言って来たので、大坪は、
「じゃ、お願しますか」
 と、即座に言った。
 大坪のデジカメはセルフタイマーが付いていたのだが、女性の申し出を断るというのは、野暮というものであろう。
 それで、大坪はショルダーバッグからデジカメを取り出しては、女性に渡した。 
 女性は大坪からデジカメを渡されると、大坪から少し下がり、大坪が女性を撮ったように、北方の海を背景に、大坪の写真を二枚撮った。
 大坪の写真を撮り終えると、女性は大坪にカメラを返した。
 すると、大坪は、
「ありがとう」
 と、丁寧に頭を下げた。
「今日は霧が掛かっていて、残念ですね」
 女性は北方の海に眼を向けては、神妙な表情で言った。
「そうですね」
 大坪は女性に相槌を打つかのように言った。
「霧が掛かってなければ、北方領土の島々が見えるんですけどね」
「僕もそれを見るのを愉しみにしていたのですよ。正にそれを見る為に納沙布岬に来たのに、とても残念ですよ」
 と、大坪はいかにも残念そうに言った。
「私も同感です。納沙布岬は初めてなんですか?」
「そうです。根室も初めてなんですよ」
 と、大坪はにこにこしながら言った。
 大坪好みの女性が、大坪に次から次へと気軽に話し掛けて来るので、大坪はまるで映画や小説の主人公のような気分を感じていた。つまり、映画や小説では、旅先で見知らぬ美女と親しくなり、思いもよらないロマンスに陥った場面が描かれたりしている。大坪は正にそのような気分を抱いてしまったのである。
 それはともかく、女性は大坪の言葉に、
「実は私も初めてなのですよ」
 と、まるで大坪に相槌を打つかのように言った。
 そう女性に言われ、大坪は薄らと笑みを浮かべたのだが、大坪の表情からは、笑みはすぐに消えた。この女性には連れがいるかもしれないからだ。あるいは、女性の家には、女性の帰りを亭主が待っているのかもしれない。
 そう思うと、大坪は一気に現実に戻ってしまい、そのような表情を浮かべたのである。
 だが、女性は、
「お一人で来られたのですか?」
 と、大坪に訊いた。
 すると、大坪は薄らと笑みを浮かべては、
「そうです」
 と言っては、小さく肯いた。
 すると、女性も薄らと笑みを浮かべては、
「実は、私も一人で来たのですよ」
 それで、大坪は、
「遠方か来られたのですかね?」
「そうですねぇ。遠方といえば、遠方ですし、そうでないといえば、そうなんですよ。何しろ、札幌ですからね」
「札幌ですか……。僕は横浜から来ました」
「横浜ですか……。私は横浜に行ったことはないのですが、素敵な所でしょうね」
「そりゃ、見所は色々ありますが……。でも、人が多いですから、気が滅入ってしまうこともありますよ。それに、生存競争も激しくて……」
「生存競争ですか……」
「そうです。あれだけ人が多ければ、もたもたしていれば、落ち零れてしまうということですよ。つまり、自分の縄張りを他人に取られてしまい、その結果、自分は追い出されてしまうということですよ」
 と、大坪は自らの境遇を思い出しながら言った。即ち、これといって取柄のなかった大坪は、会社からリストラに遭ってしまい、大坪が以前いたポストに他の者が就いたということを思い出したのである。
 そして、大坪はそのことを女性に訴えようとしたのだが、しかし、実際にはそうもいかず、抽象的な表現となってしまったのである。
 すると、女性はやはり、大坪が言ったことの意味をよく理解出来なかったようで、
「あなたが言ったことは、よく分からないですわ」
 と、眉を顰めた。
 すると、大坪は些か顔を赤らめては、
「僕が言いたかったのは、会社のことなんですよ。会社での生き残り競争は、とてもシビアなものだということですよ。つまり、もたもたしていれば、評価が下がり、リストラに遭ってしまったりするということを言いたかったのですよ。
 でも、こういったことは、何も横浜の会社だけではないと思いますよ。北海道の会社もそうだと思いますよ。
 しかし、北海道のように自然が豊かですと、人間同士が生き残りを賭け、生存競争をするなんてことは、浅墓なことのように思えますね」
 と、大坪はまるでハムレットになったかのような口振りで言った。
 そして、そんな大坪は、今、正に、いつもの大坪ではない別人格の人間であるかのようであった。何しろ、大坪は日頃、今のように、哲学的な想いを抱くことはなく、況してや、そのようなことを口走ったことすらなかったからだ。
 そんな大坪は、正にネクラ人間であり、友人も少なかった。
 そんな大坪の性質であるが故に、リストラに遭ってしまったのだろうが。
 それはともかく、大坪の言葉を受け、女性は、
「私もそう思いますよ」
 と、まるで大坪に相槌を打つかのように言った。
 そう女性に言われると、大坪は、
「そうですか」
 と、些か嬉しそうに言った。大坪が言わんとすることを女性が理解してくれたようなので、大坪は些か嬉しくなったのである。
 そんな大坪の双眸には、今、大坪の眼前に広がっている北方の海は映っていないかのようであった。ただ、女性の様が映ってるに過ぎないかのようであった。
 すると、その時、女性は妙なことを言い出した。女性は、
「私、今、とても困っているのです」
 と、大坪から眼を逸らせては、とても神妙な表情で言ったのだ。
「困ってる? 何を困ってるのですかね?」
 大坪は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「実は、コンタクトを落としてしまったのですよ」
 女性はいかにも困ったと言わんばかりに言った。
 すると、大坪は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。何故なら、女性に何と言っていいのか分からなかったからだ。
 そんな大坪に女性は、
「実は、私、レンタカーを借りているのですよ」
 と、再びいかにも困ったと言わんばかりに言った。
 そう言われ、大坪は事の次第を理解した。
 即ち、女性はレンタカーに乗って納沙布岬にまで来たのだが、コンタクトを落としてしまったので、レンタカーを運転出来なくなり、途方に暮れているということだ。それ故、その悩みを大坪に打ち明けたというわけである。
 そんな女性に大坪は、
「それは困りましたね」
 と、女性の気持ちは十分に理解出来ると言わんばかりに言った。
「レンタカーを借りたのは、根室市内なんですがね。でも、ここから根室市内まで車を運転していくことは、とても無理なんですよ」
 と、女性はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 この時、大坪は自らのショルダーバッグに手を入れ、免許証が入ってるか、確認してみた。
 すると、入ってることを確認した。
 大坪は元々、根室でレンタカーを借りようと思っていた。しかし、結局、借りなかったのである。
 それはともかく、この女性がコンタクトを落としたからといって、女性に代わって、大坪がレンタカーを運転するわけにもいかないだろう。何しろ、大坪は女性にとって、全くの見ず知らずの他人なのだから。
 だが、大坪はその思いを口にしなかった。
 だが、そんな大坪の思いに反して、女性は、
「あの……、あなたは車の運転が、お出来になられますかね?」
 と、些か媚を含んだ様で言って来た。
 それで、大坪は、
「そりゃ、勿論、出来ますよ」
 と、声を弾ませては言った。大坪の本心としては、女性に代わって、女性が借りたというレンタカーを運転したかったのだ。
 しかし、その思いを口に出すのは、いくら何でも気が退けた。
 それで、大坪は言葉を詰まらせたのだが、女性はといえば、大坪と同様、言葉を発しなかったのだが、大坪に何かを訴えるかのような眼差しを投げたのである。
 そんな女性の沈黙は少しの間、続いた。そんな女性は、見栄の為に言葉を発することが出来ないかのようであった。
 そんな女性の胸の内を察したのか、大坪はにこにこしながら、
「実は僕もあなたのように、根室でレンタカーを借りようと思っていたのですが、結局、借りなかったのですよ。
 でも、今は後悔してるのですよ。何故なら、この辺は交通の便が悪いですし、レンタカーでないと、色んな所に行けませんからね」
 と、いかにもレンタカーを借りなかったことは失敗だったと言わんばかりに言った。
 すると、女性は眼を大きく見開き、
「もしよろしければ、私に代わって、レンタカーを運転してくださらないかしら」
 と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 そんな女性は、正に恥じらいをかなぐり捨てて、大坪に助けを請うと言わんばかりであった。
 大坪はこの女性を初めて眼にした時から、このような女性とデートをしてみたいと、歳がいもなく、甘い思いを抱いてしまった。
 大坪の外見を見れば、正に冴えない中年男そのものであった。また、性格も暗かった為に、女性にはまるでもてなかったのである。
 それ故、この歳になっても、独身であったのだ。
 そんな大坪であったから、今、大坪の眼前にいるような女性から、今のような言葉を掛けられたことは、一度もなかったのである。
 それ故、大坪は即座に、
「いいですよ」
 と、即座に言った。
 しかし、そんな大坪の表情は、比較的落ち着いたものであった。大坪は自らの感情を露骨に出すのが、照れ臭かったのである。
「じゃ、その言葉に甘えてよろしいかしら」
 女性はまるで大坪に訴えるかのように言った。
「そりゃ、勿論構わないですよ」

 二人はやがて、納沙布岬の駐車場近くに停められてあるという女性のレンタカーの前に来た。それは、マツダのデミオであった。
 そして、大坪は女性と相談した結果、大坪がバスで根室から納沙布岬に来た道ではなく、根室湾に面した道を行くことにした。何故なら、その先には風蓮湖があったからだ。女性が風蓮湖に行ってみたいと言ったので、そうすることに決まったのである。
 風蓮湖は白鳥の飛来地として有名だが、その程度の知識しか、大坪はなかった。大坪は元々、風蓮湖に行く予定はなかったので、風蓮湖に関して、下調べをしてなかったのである。
それはともかく、納沙布岬を出発してから、大坪と女性との会話は次第に打ち解けて来た。
 それ故、大坪は今まで抑えていた言葉を遂に発することにした。もうこの辺でその問いを発してもよいと、大坪は判断したのである。
 そして、その言葉はこうであった。
「ご主人を家に遺し、一人でやって来られたのですかね?」
 大坪としては、女性が独身であることを期待していた。
 しかし、女性は三十位の年齢と思われることから、結婚してるのではないのか。しかし、万一ということもある。それ故、大坪はそう訊いたのである。
 すると、女性は、
「いいえ」
 と、はっきりとそう言った。
 そう女性に言われ、大坪は思わず笑みを浮かべてしまった。もし、この女性が人妻なら、女性に対して深入りは出来ないが、そうでないとなると、そうでもないと大坪は思ったからだ。
 即ち、大坪はこの女性との関係を、今、この一時だけでは終わらせたくないという思いを抱いてしまっていたのだ。
 それはともかく、「いいえ」だけでは、事の詳細は分からないというものだ。
 それで、大坪は、
「『いいえ』とは、どういうことですかね?」
 と、いかにも興味有りげに言った。
「私、独身なんですよ。ですから、主人はいないのですよ」
 と、女性はまるで可憐な少女に戻ったかのような表情を見せては言った。
 すると、大坪は眼を大きく見開き、
「実は、僕も独身なんですよ」
「そうですか……。じゃ、私たち、こうやって二人で車に乗っても、誰にも咎められることもないのですね」
 と、女性は些か顔を赤くしては言った。
「正に、その通りですね」
 と、大坪も些か顔を赤くしては言った。
 そんな大坪の表情は、些か得意気であった。
 というのも、今までこの女性と話した結果、この女性も大坪と同じ思い、即ち、大坪とのロマンスを望んでいるのではないかと、思ったからだ。
 女性は三十を過ぎて一人なので、寂しい思いを抱いてるに違いない。何故、このような魅力的な女性が一人なのか分からないが、その寂しさを晴らす為に、旅先で知り合った男とのロマンスを切望してるのではないのか? 女性の言動は、そう大坪に思わせるに十分な程のものであったのだ。
 そういった会話を交わしながら、やがて、二人を乗せたデミオは、風蓮湖に着いた。風蓮湖に向かう道を走るのは、大坪は無論、初めてであったのだが、道が空いていたこともあり、あっさりと着いたという感じであった。
 そして、手頃な場所に車を停め、風蓮湖、及び、風蓮湖周辺の風景見物へと二人は乗り出した。
 これが、恋人同士なら、手を繋いでというところだが、大坪と女性は恋人同士ではないし、また、たとえそうだとしても、そのような年齢ではないだろう。
 そのようなことを思いながら、遊歩道をてくてくと歩いていたのだが、やがて、女性は、
「あの……、用を足したくなったのですよ。それで、車の方に戻ってくれませんかね」
 と、顔を赤らめては、いかにも言いにくそうに言った。
 辺りには公衆トイレはなかった。それ故、人眼のつかない茂みの中で用を足すしかなかったというわけだ。
 もっとも、男性なら、その行為は容易く行なえるだろうが、女性ではそうはいかないというわけだ。
 それ故、そう言われたからには、大坪は一旦、車にまで戻るしかないというものだ。
 それ故、大坪は元来た道をゆっくりとした足取りで戻り始めた。そして、そこには、三、四分程で着いたのだが、そんな大坪はその時、妙な想いを抱いた。
 それは、ヒグマだ。
北海道で用を足す為に、茂みの中に入ったところ、ヒグマに出交わしてしまったというような話を聞いたことがあったからだ。
 もっとも、風蓮湖周辺にヒグマが出没するのかどうか、大坪は分からなかったのだが、辺りの風景を眼にすると、ヒグマが棲んでいても、何ら不思議ではないという印象を抱かざるを得ないのだ。
 それ故、大坪は女性のことが少し心配になって来たのだが、女性は十分位してから、戻って来てくれと、大坪に言ったので、大坪はそろそろ女性と別れた場所に戻ろうとした。女性と別れて、そろそろ十分が経過しようとしていたからだ。
 そんな大坪は、実のところ、今、妙な想いを抱いていたのだ。
 それは、今のままでは、風蓮湖を後にしたら、根室に戻ることになるだろう。そして、そこで、女性とお別れたとなるだろう。
 しかし、そうではなく、女性を更に野付け半島のトドワラでも見に行きましょうと誘い、その帰りにモーテルにでも入り、女性をものにしてやろうと、大坪は企んだのである。何しろ、この歳になるまで、女性とモーテルといったラブホテルに入った経験のない大坪である。それ故、今日こそ、女性をホテルで思うように、弄んでやろうと思ったのだ。
 また、女性も大坪と同じ思いを抱いてるのではないのか? そう思わすのに十分であるというのは、前述した通りだ。
 そんな大坪は、正に今日はいつもの大坪とは違うと、実感せざるを得なかった。何しろ、今まで、何かと消極的な大坪である。それ故、金にも女にも恵まれなかったのだ。
 そう思うと、大坪は正に、今日の大坪は、いつもと違うエネルギーが漲って来るのを感じざるを得なかったのである。

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