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 大坪は程なく女性と別れた場所に着いた。
 そして、それは女性と別れて、凡そ十五分が経過した頃であった。
 だが、女性の姿は、何処にも見当たらなかった。大坪の眼前には、奥深そうな森が開けていたので、その森の中に姿を消せば、大坪の眼につかないのは別に妙でもないのだが、それにしても、十五分も用を足してるというのは、少し長くはないのか?
 もっとも、腹痛であったのなら、妙ではないのだが……。
 そう大坪は思いながら、まだしばらく、この場で女性が戻って来るのを待っていたのだが、一向に女性が戻って来る気配は感じられなかった。
 それ故、大坪は一層女性のことが心配になって来た。そして、女性と別れて四十分が経過したともなれば、大坪は遂にその場を後にせざるを得なかった。女性に何か異変が起こったのではないかと、看做さざるを得なかったからだ。
 つまり、ヒグマに襲われたというようなことだ。この奥深そうな森を見れば、ヒグマが現われても、決して不思議ではないのだ。
 それ故、大坪も安易に森の中に入って行けば、ヒグマに襲われるかもしれない。
 それ故、大坪は手頃な場所で掌大の石が見付かったので、それを手にした。ヒグマに襲われたのなら、それで反撃しようとしたのだ。
 もっとも、その程度の石で、ヒグマと戦えるかどうかは、分からなかった。しかし、ないよりはましだと、大坪は思ったのである。
 そんな大坪は、いかにも緊張したような表情を浮かべては、森の中に踏み出した。
 そんな大坪は、女性の名前を聞いておかなかったことを後悔した。何故なら、女性の名前を知らないから、名前を呼ぶことが出来ないからだ。
 とはいうものの、大坪はとにかく、声を張り上げて、
「おーい!」
 と、叫んだ。
 そして、その声は、辺りに大坪の姿しか見えないこの空間の中で響き渡ったが、反応はまるで見られなかった。
 そんな大坪は、風蓮湖の方にちらっと眼を向けたが、そこにはまるで鏡のような湖面が拡がってるばかりであった。
 それで、大坪はもう少し森の中に入ってみることにした。
 そして、十分程辺りを探してみたのだが、やはり、女性の姿は何処にも見当たらなかった。
 それで、大坪は失意の表情を浮かべては、女性と別れた場所に戻ることにした。ひょっとして、女性は戻って来てるかもしれないと思ったからだ。 
 だが、その大坪の思いは裏切られてしまった。女性はやはり、辺りには見当たらなかったからだ。そして、女性と別れて一時間が経過した。しかし、女性がまだ姿を見せないということは、やはり、女性に一大事が起こったと看做さざるを得なかった。
 女性が大坪を遺し、一人で帰って行ったという可能性は全くなかった。何故なら、女性のレンタカーが、元の場所にきちんと停まっていたからだ。
 それに、キーを大坪が持ってるのだから、そもそも、大坪を遺し、女性が一人で帰ることなど、出来はしないのだ。
 それで、大坪はこの時点で女性のことを警察に知らせることにした。女性をこのままにして、大坪一人で風蓮湖から去るわけにはいかなかったからだ。
 とはいうものの、大坪は携帯電話を持って来なかったので、少し行った所で眼にした公衆電話まで大坪は歩いて行き、110番通報しては、警察に事の次第を話したのだが、警察は大坪の話を真に受けようとはしなかった。女性がただ単に大坪のことを悪戯で引っ掛けては、弄んだだけではないかと、警察は看做したのである。
 それで、大坪はレンタカーのことを話した。レンタカーを業者に返すことなく、女性が姿を晦ます筈はないと、大坪は主張したのである。
 すると、その野崎という警官は、後一時間して、女性の姿が見付からなかったのなら、もう一度電話してくださいと言ったので、大坪はそのようにすることにした。
 程なく、大坪はレンタカーが停まってる場所に戻って来たのだが、やはり、女性の姿は見当たらなかった。
 因みに、辺りには、女性のレンタカー以外の車は、見当らなかった。
 大坪はもう一度、女性と別れた場所にまで行ってみることにした。横眼に鏡のような風蓮湖の湖面をちらちらと眼にしながら。
 やがて、大坪は女性と別れた場所に戻って来たのだが、この時、大坪は妙なことに気付いた。
 それは、この場所で大坪は女性と別れた時に、女性は大坪に車のキーを渡したのだ。「車のキーは、あなたが持っていてください」と言って。
 しかし、それは、妙ではないのか?
 何しろ、レンタカーを借りたのは、大坪ではなく、女性だったのだから。
 それなのに、女性は何故大坪に車のキーを渡したのか? いくら大坪が女性に代わってレンタカーを運転したからといって、キーは借主が持ってるのが、常識というものではないのか?
 それ故、女性のその行為は、女性の意思が込められていたのではないのか?
 即ち、女性はこの場所で自殺しようとし、その思いを実行したのではないのか? そして、自殺する前に、見知らぬ男との会話を愉しもうとし、その思いを実行したのではないのか?
 大体、その日に知り合った男をドライブに誘うという行為は、あまり尋常とは思えない。何しろ、女性は大坪がどういった男なのか、まるで知らないわけなのだから。
 また、コンタクトを落としたというのも、怪しいものだ。実際はそうではなく、大坪を誘う為の餌であったのではないのか?
 そう思うと、大坪は一層厳しい表情を浮かべた。何故なら、辺りには女性の遺体があるかもしれないからだ。
 その大坪の悪い予感は、かなり現実味がありそうだと思い、再び大坪が先程入って行った森の中に入って行っては、もう一度、女性のことを探してみることにした。
 そして、その五分後、大坪のその悪い予感は、現実となった。何故なら、女性は何とその丈の低い草の上で、うつ伏せになって倒れていたからだ。その女性の不自然の恰好から推して、女性は既に息絶えてる可能性が、極めて高いというものだ。
 そう思った大坪は、とにかく、女性の許に小走りで行っては、女性の身体を揺り動かしてみた。
 しかし、女性は何の反応も見せなかった。
 また、女性の肌に触れてみたところ、女性に体温は感じられなかった。また、身体が少し硬直していたことから、やはり、女性は魂切れているということは、間違いないのだ!
〈これは、大変なことになったぞ!〉
 大坪はそう思うと、血相を変えて森から飛び出し、駆け足でレンタカーにまで戻った。
 そして、レンタカーで公衆電話にまで行き、そして、直ちに110番通報しては、状況を話した。
 大坪から女性の死体が見付かったと聞かされれば、警察としても、現場に急行せざるを得ないだろう。
 そして、大坪が110番通報して、さ程時間を経ずに、サイレンを鳴り響かせたパトカーがやって来た。そして、パトカーからは、制服姿の警官が三人、姿を現わした。
 そんな警官たちに大坪は待ってましたと言わんばかりに近付いて行っては、
「あっちです!」
 と、甲高い声で行っては、四人の警官を女性の遺体が見付かった場所へと連れて行った。
 すると、そこには確かに女性の遺体が丈の低い草の上に横たわっていた。
 それを、一人の警官が写真に撮った。 
 そんな警官の様を大坪は正に緊張した表情で見入っていたのだが、すると、その時、大坪は突如眉を顰めた。そして、首を傾げた。何故なら、女性のスカートの裾が少し捲れ、女性の白のショーツが僅かであるが、露出していたからだ。だが、大坪が最初にその女性の遺体を眼にした時には、そのような様は気付かなかったのである。
 それ以外としても、ブラウスの裾が少し捲り上がり、女性の肌も少し露出していたのだ。これも、先程の大坪には、気付かないことであったのだ。
 更に女性をよく見ると、女性が履いていたハイヒールが両足とも脱げていて、女性の足から一メートル程の所に脱ぎ捨てられていたのだ。これも、先程には気付かなかった光景である。
 そして、それらの光景は、大坪に首を傾げさせるに十分なものであったのだ。
 女性の遺体を具に調査していた警官の一人が、
「どうやら、この女性は乱暴された後、首を絞められては殺されたみたいですね」
 その警官の言葉を聞いて、呆気に取られたような表情を浮かべたのは、大坪であった。何故なら、女性はてっきり自殺したものとばかり思っていたからだ。それが、乱暴され、首を絞められて殺されたなんて……。
 そのような事態は、大坪はまるで想像もしてなかったのである。
 だが、女性の着衣の乱れを眼にすれば、警官がそう推理するのも、当然のことなのかもしれない。   
 だが、一体誰が、女性に乱暴し、絞殺したというのか? もし、そのような事態が現実に発生したのなら、女性は叫び声を上げ、その叫び声を大坪が耳にするのではないのか? しかし、大坪はそのような叫び声をまるで耳にしなかったのである。
 それで、大坪はいかにも怪訝そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな大坪にその小柄な警官、即ち、小林巡査部長(37)は、
「あなたと、女性の関わりを話してもらえないですかね」
 と、些か険しい表情を浮かべては言った。
 それで、大坪は電話で応対した警官に行なったのと同じ説明、即ち、納沙布岬でたまたま知り合い、女性がコンタクトを落としたので、女性に代わって風蓮湖まで女性が借りたレンタカーを運転して来たという旨を説明した。
 また、用を足すと言った女性と別れてからの事情も丁寧に説明した。
 その大坪の説明に、三人の警官はいかにも険しい表情を浮かべては黙って耳を傾けていたのだが、大坪の説明が一通り終わると、
「女性の悲鳴のような声は聞こえなかったのですかね?」
 と、小林は眉を顰めては言った。そして、その疑問は大坪と同じ疑問でもあった。
「僕もそう思ったのですがね。しかし、そのような声はまるで聞こえなかったのですよ」
 と、大坪は眼を大きく見開き、いかにも怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「大坪さんが女性と二人で風蓮湖にやって来た時に、辺りには車は停まっていなかったのですかね?」
「それが、辺りに停まってる車は見当たらなかったのですよ」
「ほう……。となると、一体誰が、女性をこのような目に遭わせたのでしょうかね?」
 高橋警部補が言った。
「僕はそれが誰なのか、まるで分からないのですよ」
 と、大坪は首を傾げては言った。
「では、大坪さんが女性と別れた時に、辺りに人の気配は感じられなかったのですかね?」
 と、高橋。
「それが、まるで感じられなかったのですよ」
 と、大坪はその時のことに思いを馳せるかのような表情を浮かべながら言った。
「となると、犯人は森の中に身を潜めては、様子を窺っていたということでしょうかね?」
 と、三人の中で一番背が高い中森治巡査(30)が言った。
 そう言われても、大坪はその問いに答えることが出来なかった。そのようなことは、大坪はまるで分からなかったからだ。
 そして、その時、女性の顔がふと眼に留まったのだが、すると、大坪の顔は大きく歪んだ。
 そんな大坪の変化を眼にした高橋は、
「どうかしたのですかね?」
 と、興味有りげに言った。
 そう高橋に言われても、大坪は何も言おうとはせずに、女性の傍らに一層近付いては、屈み込み、女性の死顔に眼をやった。
 そして、十秒程、女性の死顔をじっと見入ったのだが、すると、大坪は立ち上がり、
「違うんですよ!」
 と、興奮の為か、些か声を上擦らせては言った。
「違う? 何が違うのですかね?」
 高橋は思わず声高に言った。
「僕が探してる女性と、この女性が違うということです!」
 大坪は再び声高に言った。そんな大坪は、正に興奮を隠そうとはしなかった。
「大坪さんが探してる女性と違う? それ、一体どういう意味なんですかね?」
 高橋は、いかにも納得が出来ないように言った。
「ですから、僕は納沙布岬から女性と共に風蓮湖にやって来たのですが、その女性とこの女性が違うということですよ!」
 と、大坪は興奮の為か、声を上擦らせては言った。そんな大坪は、正にその事実は、信じられないと言わんばかりであった。
 すると、高橋は、
「そんな馬鹿な!」
 と、その大坪の言葉は、話にならないと言わんばかりに言った。そんな高橋を大坪はまじまじと見やっては、
「嘘じゃないです! 本当です! 信じてください! それに、この女性は今、初めて見る女性なのですよ!」
 と、声を荒げては言った。そんな大坪は、正に大坪の言うことを信じてくださいと言わんばかりであった。
「ということは、大坪さんが探してる女性は、まだ見付かっていないということですかね?」
 小林は、眼を白黒させながら言った。
「そうなんですよ」
大坪は正に困惑したような表情を浮かべながら言った。大坪は今、何が何だか、分からなくなってしまったと言わんばかりであった。
 また、三人の警官たちの思いも、大坪と同じであった。彼らの前に遺体で横たわってる女性が、大坪の連れの女性でなかったなんて、それはまるで狐につままれたかのようであった。
 そんな警官たちに、大坪は改めて、
「本当です! この女性は、僕と共に納沙布岬から来た女性ではないのですよ!」
 そう大坪に言われ、三人の警官たちは、正に困惑したような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたのだが、やがて、中森が、
「大坪さんが最初にこの女性の遺体を眼にした時は、どうだったのですかね? つまり、その時は、連れの女性であったのか、そうでなかったのかということですよ」
 と、眼をキラリと光らせては言った。
 すると、大坪は、
「その時は、落ち着いて女性のことをよく見なかったのですよ。何しろ、びっくりしてしまって……。それ故、この女性が僕の連れの女性ではないなんて、その時は思ってもみなかったのですよ」
 と、渋面顔で言った。
「その時、顔は確認しなかったのですかね?」
 と、中森。
「ええ。そうです。何しろ、服装は同じだったし、身体付きも同じようなものだったので、まさか、別人だなんて思ってもみなかったというわけなんですよ」
 と、大坪はいかにも決まり悪そうに言った。そんな大坪は、
「でも……」
 と、言葉を濁した。
「でも、何ですかね?」
 中森は、いかにも興味有りげに言った。
「つまりですね。僕が最初にこの女性を見た時には、スカートの裾が捲れ上がったり、ブラウスの裾が捲り上がったりしてなかったような記憶があるのですがね」
 と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
 そう大坪に言われると、三人の警官は渋面顔を浮かべた。三人の警官は、やはり、大坪が言った事が信じられなかったからだ。
 それで、高橋は、
「でも、女性は納沙布岬で大坪さんが初めて知り合ったのですよね?」
 と、大坪の顔をまじまじと見やっては言った。
「そりゃ、そうですが……」
 大坪は決まり悪そうに言った。
「だったら、この女性は大坪さんの連れの女性ですよ。顔が違って見えたのは、大坪さんがこの女性のことをよく知らなかったからですよ。
 それに、スカートの裾やブラウスの裾が捲り上がっていたことに気付かなかったのは、その時、大坪さんの気が動転していたからですよ。だから、見落としたのですよ」
 と、高橋はそうに違いないと言わんばかりに言った。
 そう高橋に言われると、大坪はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべた。何故なら、そう言われてみれば、そう思えないこともなかったからだ。
 それで、大坪は言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな大坪に中森は、
「服装は、大坪さんが納沙布岬で知り合った女性のものと同じなんですよね?」
「まあ、そんな感じなのですが……」
 大坪は些か顔を赤らめては言った。
 すると、中森は、
「だったら、この女性はやはり、大坪さんが納沙布岬で知り合った女性ですよ」
 と、いかにも自信有りげな表情と口調で言った。
 また、他の警官たちの思いも、その中森の言葉と同様だった。
 そして、高橋が、
「では、一体、誰がこの女性を殺したのでしょうかね?」
 と、改めて言った。
 すると、大坪の言葉は詰まった。大坪は誰が女性を殺したのか、てんで分からなかったからだ。
 とはいうものの、女性はやがて、救急車で根室市内の病院に運ばれて行き、司法解剖されることになったのだ。

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