第一章 同姓同名異人
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今やこれだけ人口が増えて来ると、同姓同名異人なる人は、決して少なくはない。伊藤一郎、鈴木太郎という姓名を持った人は、世の中には幾らでもいることであろう。
その例に洩れず、田中一郎という男は、正に有り触れた名前を持っている為に、これまで歩んで来た人生で損をした経験がいくらでもあった。
例えば、高校時代がそうであった。高校時代に、田中一郎という男が、一郎以外にもいたのだ。
もっとも、同姓同名であるから、その田中一郎とは、同じクラスになることはなかった。そのようなことになれば、何かと不都合が生じるので、学校側が考慮したのだ。
しかし、同姓同名であるから、何かと不都合なことが起こってしまった。
例えば、廊下を歩いていた時に、一郎が呼ばれたかと思ったら、実は一郎の近くを歩いていた田中一郎の方だったことが度々あったし、また、一郎が通っていた高校は、校内試験の成績優秀者名を掲示板に貼り出すのだが、いつも一郎の同姓同名異人の名前が貼り出されていた。一郎の成績は下位に位置していたのに、一郎の成績が優秀だと思われたこともあり、一郎は困ったものであった。
それに、その同姓同名異人は、女の子によくもてたものであった。クラスの女の子の口から度々その同姓同名異人の田中一郎の名前が発せられたのであった。
もし、女の子の口から発せられてる田中一郎が一郎であれば、一郎は決して悪い気はしないであろうが、一郎は醜男である為に、女の子からもてはしないのだ。女の子の関心の的になってるのは、一郎の同姓同名異人の方なのだ。
それ故、女の子の口から田中一郎という名前が出るのを耳にして、一郎は何度も嫌な思いをしたものであった。
それはともかく、一郎はやがて大学生になり上京することになった。そして、一郎が下宿したのは、江東区にある「黒川ハイム」という軽量鉄骨の二階建てアパートで、それは何処にでも見られる有り触れたものであった。
そして、月日は刻一刻と過ぎ、九月となった。
そして、その時、一郎は空室になっていた隣室の204室に新たに入居して来た人物の名前を知って、眉を顰めた。何故なら、郵便受けに記されていたそのネームプレートには田中となっていたからだ。
それを見て、一郎は郵便配達人が203室の一郎と隣室の田中さんと間違えたりはしないだろうか。
そう思うと、一郎はもう少し他人とあからさまに区別出来る姓を持って生まれたかったものだと、苦笑したのであった。
2
やがて、十月となった。台風シーズンも過ぎ、爽やかな秋晴れがここしばらくの間、続いていた。
一郎はガソリンスタンドの給油係のアルバイトをいつも通り終え、アパートに戻ったのは、いつもより早い午後六時頃であった。
そして、一郎は早速いつも通り、郵便受けから一郎宛ての手紙やチラシなどを取り出しては、一郎の部屋に戻った。
そして、今日はいつも見られるサラ金のチラシに交じって、一郎宛ての封筒が入っていた。だが、その封筒には、差出人の名前が記されてはなかった。
だが、一郎は躊躇わずに封を切った。すると、B5版のコピー用紙のような紙が入っていて、そこにはワープロでこのように記されていた。
〈 十日まで待ってやる。それまでに渡さなければ、さちと同じだ 〉
一郎はこれを読み終えると、首を傾げた。この手紙の内容は、一郎にとって何が何だか分からなかったからだ。
そんな一郎は改めて封筒の表を眼にした。
すると、一郎の顔色が変わった。何故なら、封筒の宛名は、隣室の田中二郎様となっていたからだ。更に、住所も一郎の部屋番号である203室ではなく、ちゃんと204室となっていたのだ。
そう! 郵便配達人が、一郎の郵便受けと隣室の郵便受けを間違えてしまったのだ。
〈この野郎!〉と、一郎は心の中で郵便配達人を罵ったのだが、田中という有り触れた姓だけではなく、名前までも似ていたので、これでは、郵便配達人を責めるのも、気の毒とも思った。
だが、郵便配達人に同情したと共に、腹立ちを覚えたのも当然であろう。郵便配達人が間違えさえしなければ、一郎は隣室の田中二郎なる人物の郵便の封を切ることはなかったのだから。
とはいうものの、一郎に過失がなかったとは言い切れないので、一郎はとにかく、その封筒を持って隣室に行き、隣室の田中二郎に謝ろうと思った。それで、隣室の扉をノックした。
だが、応答はなかった。
それで、八時頃、もう一度隣室を訪れ、扉をノックした。だが、応答はなかった。
それで、一郎は、
〈郵便配達人が僕の部屋とお宅とを間違えてしまい、僕の郵便ポストに入っていたので、うっかりと封を開けてしまいました。申し訳ありません。
203室 田中一郎 〉
というメモを添えて、その封筒を204室の郵便ポストに放り込んでおいた。そして、一郎は部屋に戻り、しばらくTVを眼にしていたが、やがて、床についた。
一郎は床に入ると、あの文面について、考えてみた。〈 十日まで待ってやる。それまでに渡さなければ、さちと同じだ 〉
そう書かれていたのだが、これは一体どういう意味だろうか? 今日は八日だから、十日といえば、明後日となる。明後日までに隣室の田中さんは誰に何を渡さなければならないのだろうか? もし渡さなければ、さちと同じになるということは、どういうことなのだろうか?
一郎はその意味が分からなかったのだが、それは当然だろう。一郎は隣室の田中二郎とは全く無関係の人間なのだから。
とはいうものの、一郎はまだしばらくの間、そのことに思いを巡らせていたのだが、やがて、眠りに落ちて行ったのであった。
3
やがて、十月十五日になった。その日までは、一郎には特に変わった出来事は発生せず、いつも通りの日々を過ごしていた。
一郎は今や、隣室の手紙を開封し、読んでしまったことなど、すっかり忘れてしまっていた。十日までは多少気にはしていたのだが、隣室の田中は何も言って来なかったので、今やすっかり忘れてしまっていたというわけだ。
それはともかく、一郎はアルバイトから戻って来ると、夕食を済ませ、TVを見始めた。それは、一郎の好きな刑事ドラマであった。
それで、一郎はつい熱中し始めたのだが、そんな一郎は度々眉を顰めるようになった。
それは、隣室の所為だ。いつも静かな隣室が、今夜はやけに騒々しいのだ。また、複数の人の話し声も聞こえるのだ。また、ドアの開け閉めも頻繁に行なわれてるようだ。一体、どうしたというのか?
一郎はCMになったのを機に、玄関扉を開けては、そっと隣室、即ち、田中二郎の室の様子を窺ってみることにした。
すると、一郎の顔に驚きの色が走った。苗なら、204室の前に、制服姿の警官の姿が見られたからだ。
すると、一郎は忽ち、その制服姿の警官と視線が合ってしまった。
それで、一郎は忽ち視線を逸らせ、首を一郎の室に引っ込めた。一郎は妙なことに関わりを持ちたくなかったからだ。即ち、隣室の田中さんに何か一大事が起こったに相違ないのである。
それ故、一郎は面白い筈のTVドラマが、特に面白く感じられなかったのである。
4
翌日の一郎の一日の始まりは、いつもの一日の始まりとは特に変わりはなかった。顔を洗い、トイレに行き、朝刊に眼を通すという塩梅であった。
そして、一郎は今、社会面に眼を通していたのだが、その時、一郎の顔色が突如変わった。というのは、その記事を読んでしまったからだ。そして、その記事にはこのように記されていたのだ。
〈 十五日の午前七時頃、浦安市舞浜の東京デズニーランドに隣接する旧江戸川で、三十の半ば位の男性の死体が浮かんでるのを、ジョギング中の男性が発見し、警官に通報した。男性の身元は、男性のズボンに入っていた遺留品から、江東区内の「黒川ハイム」204室に住んでいた田中二郎さん(30)と判明した。田中さんの遺体には、腹部に刃物で刺されたような痕があったが、千葉県警は目下、事件と事故の両面で捜査中である 〉
「黒川ハイム」204室の田中二郎とは、一郎の隣室の田中二郎のことだ。
それで、一郎はこの時、昨夜、隣室に何故制服姿の警官が姿を見せていたのかを理解した。即ち、警官は隣室を捜査していたのだ。
全く、この世の中、どんな出来事に遭遇するかもしれない。その格言を見事に一郎は目の当たりにしてしまったのだ。何しろ、一郎の隣室の男の死体が川に変死体で浮かんだのだ。その事件は直接には一郎には関係ないというものの、それが一郎の隣室の人間であったというのは、正にその格言を当て嵌めて誤りではないだろう。
そう思いながら、一郎はいつも通り、地下鉄に乗って、大学に向かっていたのだが、吊革に摑まりながら、急に一郎の脳裏に思い浮かんだことがあった。
それは、あの手紙だ。一郎がうっかりと開封し、読んでしまった田中二郎宛ての手紙のことだ。あの手紙には、〈 十日まで待ってやる。それまでに渡さなければ、さちと同じだ 〉と、記してあったのだ。正に、それは曰く有りげな文面なのだ。また、あの文章が示唆することが、田中二郎の死に関係してしまったのではないのか? 一郎にはそのように思えたのであった。
大学での講義を終え、その後、「黒川ハイム」に戻った一郎は、あの手紙のことを警察に話すべきかどうか、迷っていた。
すると、その時、警官が一郎の室を訪れたのだ。
その制服姿の警官は四十位のごつい感じで、
「僕は浦安署の川村と申します」
と言った。そして、
「で、田中さんは隣室の田中二郎さんが昨日、東京デズニーランド沿いの旧江戸川で死体で浮かんでるのを発見されたことを知ってますかね?」
「ええ。知ってますよ。今朝の新聞で眼にしましたから」
一郎はそう言っては、小さく肯いた。
「そうですか。で、それに関して、新聞は事故と事件の両面で捜査してると記されていたと思うのですが、実は田中さんは既に他殺ということが明らかとなったのですよ。司法解剖の結果、腹部や胸を鋭利な刃物によって刺され、その結果、死亡したということが明らかとなったのですよ」
と言っては、川村は小さく肯いた。
そう川村に言われると、一郎は、
「そうでしたか……」
と、神妙な表情で、呟くように言った。
「それでですね。我々は今、田中さんの事件を捜査してるのですが、田中さんの隣室に住んでいた田中さんは、何か思い当ることはないかと思いましてね」
と、川村は一郎の室を訪れた理由を説明した。
すると、一郎は、
「僕は隣の田中さんとは全く面識はないのですよ。顔も全然知らないのですよ。何しろ、田中さんは最近引っ越して来たばかりですからね。でも、気になることが全くないわけでもないのですよ」
と言っては、件の手紙のことを話した。
川村はそんな一郎の話にじっと耳を傾けていたが、一郎の話が一通り終わると、
「確かにその話は気になりますね」
と言っては、眉を顰めた。
そんな川村を眼にして、一郎は小さく肯き、そして、
「で、その手紙を開封したことの詫び状を入れて、僕は204室の田中さんの郵便受けに入れておいたのですが、田中さんは何も言って来なかったのですよ」
「そうですか」
「で、その手紙が隣室から見付かりませんでしたかね?」
「そのようなものは、見付からなかったですね」
と、川村は再び眉を顰めた。そして、
「で、それ以外で何か思うことはありませんかね?」
「特にないですね」
そう一郎が言うと、川村はこの時点で一郎の室を後にした。
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田中二郎は江東区内のアパートに住んでいたといえども、その死体が発見されたのが千葉県内であったことから、田中の捜査は千葉県警が行なうことになり、そして、千葉県警捜査一課の戸田警部(50)が指揮を取ることになった。そして、浦安署に捜査本部が置かれることになった。
そして、戸田たちは既に「黒川ハイム」の二郎の室とか二郎の両親に連絡を取り、話を聴いてみたのだが、今のところ、捜査を進展させるような情報は入手出来なかった。
だが、両親の話から、二郎は今は無職であったが、少し前までは千葉市内にある中島モータースという会社で、自動車のセールスマンをしていたことが分かった。
とはいうものの、その時は千葉市内にある実家暮らしであり、江東区内の「黒川ハイム」には、隣室の田中一郎の証言通り、最近引っ越したらしい。
それで、戸田は中島モータースに行っては、話を聞いてみることにした。
因みに中島モータースは、従業員二十人の中古車販売店であった。
戸田は人事を担当してるという松田という四十位の男性に、
「以前中島モータースで働いていた田中二郎さんが先日、死亡したことをご存知ですかね?」
「凡そ、分かっていました。というのも、田中君が江東区内のアパートに転居したことをうちの従業員が知ってましたからね。で、新聞に江東区内の田中二郎さんと出てましたから、ひょっとしてそうではないかと思っていたのですよ。でも、やはり、そうでしたか」
と、松田は神妙な表情で言った。
「そういうわけですよ。田中さんの遺体は両親が確認されましたから」
と、戸田は言っては、小さく肯いた。そして、
「で、田中さんの死は、他殺によるものと、司法解剖の結果明らかになったのですが、何故殺されたのかは、まだまるで分かっていないのです。で、それに関して、何か心当りありませんかね?」
戸田は松田の顔をまじまじと見やっては言った。
だが、松田は黙って頭を振った。
「田中さんは自動車のセールスマンをしてたのですかね?」
「そうです」
「どれ位の間、自動車のセールスマンをやっていたのですかね?」
「十年位ですよ。うちの会社では、かなり長い間、働いてくれましたよ」
「自動車のセールスマンとなると、お客さんとの間で何かトラブルがあったのではないですかね? その関係で恨みを買い、殺されたのではないですかね?」
と言っては、戸田は眼を鋭く光らせた。
「そのようなことはまずありませんね。何しろ、我々の商売はお客さんに納得してもらって、車を購入していただいていますからね。それに、クレームがあったとしても、きちんと対応しますからね。ですから、うちから買った車のことで、セールスマンとトラブルになったり、また、強い恨みを抱くなんていうことは、まず有り得ませんよ」
と、松田は些か自信有りげに言った。
「そうですか。じゃ、田中さんと親しくしていた人がいれば、話をしたいのですがね」
そう戸田が言うと、松田は、
「少し待ってくださいね」
と言っては、席を外し、少しして、三十の半ば位の男を連れて戻って来た。その男は、
「森口といいます」
と、自らの名前を名乗った。
「森口さんは以前、このモータースで働いていた田中二郎さんと親しくしていたとか」
「ええ」
「その田中さんが昨日の朝、他殺体で東京デズニーランド沿いの川で浮かんでるのが発見されたのですよ」
「そうらしいですね」
と、森口は神妙な表情で言った。
「で、その田中さんの死に関して何か心当りありませんかね?」
そう戸田が真剣な表情を浮かべて言ったものの、森口は、
「ないですね」
と、あっさりと言っては、頭を振った。
「でも、森口さんは田中さんと親しかったのですよね。ですから、今、思うと妙に思ったりするようなことはありませんかね? どんな些細なことでも構わないですから、遠慮なく話してもらえないですかね」
「そう言われても、特に思うことはないのですよ」
と、森口は申し訳なさそうに言った。
それで、戸田はこの辺で森口に対する聞き込みを終え、更に中島モータースの者から話を聞いたが、成果を得ることは出来なかった。
それで、この辺で中島モータースを後にすることにした。
中島モータースの者から話を聞いたことによると、田中二郎は仕事上でも私生活上でも特に問題を抱えていなかったようだ。それ故、誰もかれもが、二郎が殺されたことが信じられないようだった。
二郎の死は鋭利な刃物による刺殺であった。それ故、二郎に対する明確な殺意というものが、犯人に存在してる筈なのだ。
もっとも、今の時世、見知らぬ者同士が肩を触れたかどうかで、殺人事件が起こったりするものだ。それ故、二郎もその種の事件に巻き込まれたのかもしれない。そして、もしそうであれば、事件の解決は長引くことが、当然予想された。
とはいうものの、その線、即ち、行きずりの犯行という線も想定し、二郎の遺体が発見された旧江戸川周辺とか、二郎が住んでいたアパート周辺に立て看板を立てたり、また、その辺りの住人に聞き込みを行なってみたのだが、二郎の遺体が発見されて五日経っても、まだまるで成果を得ることは出来なかった。
また、二郎と交友関係があった者にも聞き込みを行なってみたが、やはり、成果は得られなかった。
そこで、再び二郎の自動車のセールスマン時代に動機があったという推理に基づき捜査をしてみることにした。中島モータースの関係者はそのような可能性はないと証言したが、彼らが知らないだけで、何かが存在してるかもしれないからだ。
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それで、戸田は再び中島モータースに行き、二郎が自動車のセールスマンをしていた十年間で、二郎が販売した車の顧客リストを見せてもらうことにした。というのは、その中に前科者がいたりすれば、その者が事に及んだというケースが考えられるからだ。何しろ、一度犯罪を犯した者は、二度、三度というケースはこれまでに何度もあったからだ。
そして、その顧客リストを調べた結果、前科者が二人いることが明らかとなった。
その前科者とは、山崎秀一(46)と、林君子(29)であった。山崎は傷害事件を起こし一年の刑を終え、一昨年の十月に出所したとのことだ。また、林君子は三角関係の縺れから、同僚の女性をナイフで刺し、執行猶予付きではあるが、一年の刑が下されたのだ。
それで、戸田は早速、この二人から話を聴いてみることにした。
山崎は千葉市郊外にある「秋田荘」という木造の古びたアパートに住んでいて、事件を起こした当時は建設会社の土木作業員をやっていて、事件を起こしたのは、千葉市栄町の飲み屋だそうだ。
それはともかく、私服姿で訪れた戸田が警察手帳を見せ、自己紹介すると、山崎は怪訝そうな表情を浮かべた。そして、
「僕に何の用があるのですか?」
「山崎さんは以前、中島モータースで中古車を買いましたね」
そう戸田が言うと、山崎は十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、
「ああ」
と、素っ気なく言った。
すると、戸田は小さく肯き、そして、
「で、その時の山崎さんの担当セールスは、田中二郎さんでしたが、その田中二郎さんのことを覚えていますかね?」
そう戸田が言うと、山崎は、
「そういえば、そんな名前だったかな。何しろ、単純な名前だったので、その名前は覚えているよ」
と、何ら表情を変えずに、淡々とした口調で言った。
すると、戸田は再び小さく肯き、そして、
「その田中さんが先日、何者かに刺殺されたんですが、そのことをご存知ですかね?」
「いや。今、初めて知ったよ」
と言っては、山崎は表情を曇らせた。
「そうですか。では、田中さんの死に関して、何か心当りないですかね?」
戸田は山崎の顔をまじまじと見やっては、言った。
すると、山崎は、
「ないな」
と、素っ気なく言った。
「では、山崎さんが田中さんから車を買ったのは、一年程前なんですが、その後、田中さんとは付き合いはありましたかね?」
「特になかったな。納車してもらってから、僕は田中さんの顔すら見たことはないな」
と、山崎は素っ気なく言った。
「田中さんから買った車は、トヨタのカローラだったそうですが、そのカローラの調子は良かったですかね?」
「まずまずだったよ」
「では、山崎さんは十月十四日の夜から翌日の朝にかけて、どちらにいましたかね?」
と、戸田が訊くと、山崎はむっとした表情を浮かべては、
「刑事さんは、僕のことを疑ってるのですかね?」
「いや。そうではないですよ。でも、まだ田中さんの事件は全く目処が立っていないのですよ。ですから、是非捜査に協力してくださいよ」
「でも、何故僕のアリバイを調べようとするのですかね? その時間帯は、田中さんの死亡推定時刻なんだろ?」
と、山崎は再びむっとした表情を浮かべた。
「ですから、山崎さんは前科者ですからね。で、そういったハンディがありますから、我々としては、一応、山崎さんのアリバイを確認しておかざるを得ないのですよ」
そう戸田が言うと、山崎は、
「だったら、最初からはっきりとそう言ってくれればいいじゃないですか!」
と、声を荒げて言った。そして、
「その頃は、この家にいましたよ」
「そのことを証明出来ますかね?」
「それは、無理ですよ。僕は一人で住んでますからね」
と、山崎は戸田を突き放すように言った。
山崎への捜査はこんな具合であった。
そして、戸田は次に三角関係の縺れで同僚の女性をナイフで刺したという林君子に会って林君子から話を聴いてみることにした。
山崎の近くに住んでいた林君子宅を訪れ、戸田が警察手帳を見せると、君子は山崎と同様、怪訝そうな表情を浮かべた。そんな君子は、警察に来訪される覚えはないと言わんばかりであった。そして、
「警察の方が一体、私に何の用があるのですかね?」
と、いかにも怪訝そうな表情を浮かべては言った。
そんな君子を見て、戸田は君子なら田中二郎を刺殺出来ると思った。何故なら、君子はかなりの大柄な身体付きであったからだ。
そんな君子に、戸田は、
「林さんは一年程前に中島モータースで車を買いましたね」
「ええ」
「そうですよね。で、その時の林さんの担当したセールスマンは、田中二郎という人だったのですが、その田中さんのことを覚えていますかね?」
「覚えていますよ」
君子は何ら表情を変えずに、淡々とした口調で言った。
すると、戸田は小さく肯き、そして、
「で、その田中さんが先日何者かに刺殺され、東京デズニーランド沿いの川に遺棄されたのをご存知ですかね?」
戸田は君子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、君子は、
「それ、本当ですかね?」
と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
「本当です。新聞にも載ったのですがね。ご覧になられなかったですかね?」
「私は新聞を取っていないので」
と、君子は渋面顔で言った。
そんな君子に、戸田は、
「林さんは田中さんから車を買った後も、田中さんと付き合いはなかったですかね?」
と、君子の顔をまじまじと見やっては言った。
というのも、君子は何しろ、色恋沙汰で傷害事件を起してる人物だ。そんな君子であったから、なかなかの男前であった田中二郎に好意を抱いても不思議ではない。その結果、二郎と君子は付き合うようになった。だが、その後、何かトラブルが発生し、その結果、前科者の君子が二郎に事に及び、それが今回の事件となった。その可能性は有り得るだろう。
そう推理した戸田は、君子は捜査する必要はあると思った。
それはともかく、君子は戸田のその問いに、
「そのようなことはないですよ」
と、間髪を入れず答えた。
「では、林さんは十月十四の夜から翌日の朝にかけて、何処で何をしてましたかね?」
と、まずアリバイを確認してみた。
すると、君子は山崎と同様に、このアパートにいたであった。また、山崎と同様、一人で住んでるから、そのことは誰も証明は出来ないであった。
そして、これが、田中二郎が車を売った客の中で、事件に関係ありそうな山崎秀一と林君子の捜査結果であった。
とはいうものの、山崎と君子の証言を鵜呑みにするのは、よくないであろう。
それで、山崎と君子のことを、その近所の住人とか、友人、知人なんかに聞き込み範囲を広げ、捜査してみたのだが、特に成果を得られなかったのであった。
7
この時点で、戸田は「黒川ハイム」の田中二郎の隣室に住んでいたという田中一郎が誤って開封してしまったという田中二郎宛ての手紙のことを思い起こした。その手紙には、〈 十日まで待ってやる。それまでに渡さなければ、さちと同じだ 〉と記されていたというのだ。また、その手紙は、隣室の田中一郎が田中二郎の郵便受けに投函したとのことだが、そのような手紙は警察の捜査では入手出来なかった。これは正に不可解というものだ。
戸田はこの手紙に関して言及された時は、それ程この手紙のことは気にはしてなかったのだが、山崎秀一、林君子への捜査が成果を得られなかった今となれば、この不可解な手紙のことが、改めてクローズアップされても、それは自然の成り行きというものなのかもしれない。
それで、その内容を改めて検討してみると、さちという人物が殺されたという可能性が有り得る。何しろ、田中二郎は殺されたのだ。さちのように。
その解釈が成り立つというものであろう。
そのことから、さちという人物が誰を指すのかを突き止めることが、事件解決に繋がるかもしれない。
そこで、ここしばらくの間で、さちという呼称をつけられそうな人物が殺されたか、あるいは、死亡したような事件とか事故はないものかと、調べてみることにした。
すると、以下の事件とか事故のことが浮かび上がった。
H八年八月三日 東京世田谷区で、主婦の長谷川幸代(29)が運転する乗用車が電柱にぶつかり、幸代は死亡。
H八年八月八日 神奈川県横浜市鶴見区で、浮浪者の野田幸男(65)が、浮浪者仲間と些細なことが原因で喧嘩となり、鈍器で殴られ死亡。
H八年十月一日 長野県長野市に住む横田幸男(40)宅が火災により全焼。焼け跡から、横田の死体が発見される。
この三件が、ここしばらくの間で、さちという呼称がつけられてそうな人物が関係してそうな事件とか事故であった。
戸田は部下の野口刑事(28)から渡されたこの報告書を眼にして、
「この三件共、捜査しなければならないな」
と、眉を顰めて言った。
「八月三日に起きた長谷川さんの自動車事故は何故捜査しなければならないのですかね? 単なる事故ではないのですかね?」
と、野口刑事は些か納得が出来ないように言った。
「何らかのアクシデントがあり、事故となったかもしれないじゃないか」
「では、十月一日に起きた横田さんの火事は何故捜査しなければならないのですかね?」
「殺されてから放火されたかもしれないし、また、放火による殺人かもしれないからな。それ故、この三件はその状況を確認してみる必要があるよ」
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ということになり、戸田はまず長谷川幸代の事故を担当したという世田谷署の谷山警部補から話を聞いてみることにした。
―長谷川さんの事故に関して、何か不審点があるのですかね?
谷山は訝しげな表情を浮かべては言った。
「長谷川さんの事故は単なる事故であったのですかね? ブレーキに細工がしてあったとか、普段飲まない薬物を飲んでいたというようなことはなかったのですかね?」
―酒ですよ。少し、酒を飲んでいたみたいですよ。幸代さんの体内から僅かですが、アルコールが検出されましてね。そのことが、幸代さんの事故に繋がったと我々は見てますね。
と、谷山は淡々とした口調で言った。
「幸代さんは日頃から酒を飲んでいたのでしょうかね?」
―そうらしいですね。それ故、少し位飲んで運転しても大丈夫だと高をくくっていたのかもしれませんね。その油断が事故に繋がったのかもしれませんね。
「では、幸代さんとは、どのような人物だったのですかね?」
―ただの普通の主婦でしたよ。ご主人は建築関係の会社に勤めておられて、お子様はまだいなかったですね。
「では、幸代さんはさちという愛称で呼ばれていなかったですかね?」
―さあ。そこまでは知りませんね。
戸田は谷山から亡き長谷川幸代宅の連絡先を聞くと、亡き幸代宅に電話をし、幸代がさちという愛称で呼ばれていなかったか、確認してみたが、そのような愛称では呼ばれていなかったとのことだ。
それによって、どうやら長谷川幸代は、田中二郎の事件には関係なさそうだ。
戸田は次に神奈川県警鶴見署に電話をし、野田幸男という浮浪者の事件を捜査したという丸山警部から話を聞いてみることにした。
「野田さんは浮浪者だったそうですか、どういった経歴だったのですかね?」
―札幌で生まれ、札幌で飲食店なんかで働いていたそうですが、平成の時代になって横浜に出て来ては、建設会社の土木作業員なんかをやっていたそうですが、不況の為に解雇され、浮浪者になったそうです。
「浮浪者はどれ位やっていたのでしょうかね?」
―一年位だったそうですよ。
「野田さんを殺したのは、野田さんと同じ浮浪者だったとか」
―ええ。野田さんたちが寝泊まりしていた公園がありましてね。で、犯人の岸という男もその公園で寝泊まりしていたのですが、些細なことで喧嘩になり、野田さんは岸に頭を大きな石で殴打され、死亡したのですよ。
「成程。で、野田さんはさちという愛称で呼ばれてませんでしたかね?」
―さあ……。そこまでは分からないですね。
と、丸山は眉を顰めた。
「で、岸は今、どうしてるのですかね?」
―今はM刑務所に収監されてます。刑期は十年です。
刑務所に収監されてるとなれば、岸が田中を殺したという可能性は有り得ないだろう。
しかし、岸と知人関係のある者が殺したのかもしれない。それ故、岸とは話をしてみなければならないだろう。
そう思った戸田は、M刑務所に行き、岸と会って、話をしてみることにした。
岸は小柄な男であり、今は髪も綺麗に整髪され、嘗ての浮浪者の面影は見られなかったが、眼つきはとても鋭く、普通の者には見られないような凄味が感じられた。
そんな岸に、
「あんたが殺した野田幸男さんのことで訊きたいことがあるんだよ」
と戸田が言うと、岸は表情を一層引き締め、戸田から眼を逸らせた。そんな岸からは、もう野田幸男に関する話には言及されたくはないと言わんばかりであった。
そんな岸に戸田は、
「野田さんはさちと呼ばれていなかったかい?」
「さち? そのようには呼ばれてなかったよ」
岸は素っ気なく言った。
「じゃ、野田さんはどのように呼ばれていたんだい?」
「野田さんとか、幸男だよ」
「じゃ、岸さんたちと同じ浮浪者をやっていた仲間で、田中二郎という人物のことに言及していた人はいなかったかい?」
戸田はいかにも穏やかな表情を浮かべては言った。
すると、岸は、
「田中二郎って、一体誰なんだい?」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「千葉市内にある中島モータースという中古車販売店でセールスをやってた男だよ」
「そうですか。でも、そのような人物の話は聞いたことがないな」
と、岸は怪訝そうな表情を浮かべた。そんな岸からは、これ以上、捜査に役立ちそうな情報は入手出来そうもないと戸田は思い、この辺でM刑務所を後にすることにした。
岸の浮浪者仲間が、田中二郎の事件に関係ないと断言は出来ないと思ったが、今の時点では岸の浮浪者仲間たちのことに捜査の手を伸ばすのは、適切な捜査ではないと、戸田は判断した。
それで、今度は長野県警に電話をして、横田の事故について話を聞いてみることにした。
すると、横田の事件を担当したという長野署の山野警部が、
―横田さんの死は遺体の損傷が激しく、死因を特定出来なかったのですよ。また、横田さん宅が放火されたという可能性が全くないわけではないのですよ。
「放火ですか……」
―ええ。そうです。何しろ、火の気が無い所が火の発生元であったみたいなので。
「ほう……。で、横田さんとは、どういった人物だったのですかね?」
―その当時は、特に仕事はしてなかったし、また、一人暮らしであったみたいですね。
「そうですか。で、横田さんはさちという愛称で呼ばれてなかったですかね?」
戸田は眼を大きく見開いては言った。
―それは、分からないです。
「横田さんには、家族はいなかったのですかね?」
―横田さんは独身でしたが、弟さんがいましたね。で、両親は既に他界してますが。
「では、弟さんの連絡先を教えてもらえないですかね」
―構わないですが、どうして千葉県警の方が、横田さんのことに興味があるのですかね?
「実はこちらで起こった殺人事件に関係があるかもしれないのですよ」
と言っては、戸田は田中二郎の事件のことを手短に話した。
すると、山野警部は、
―そういうわけですか。
と言うに留まった。
戸田は山野との電話を終えると、早速、横田幸男の弟であるという横田徹志に電話をしてみることにした。
「僕は千葉県警の戸田と申しますが」
―千葉県警? 千葉県警が僕に何の用があるのですかね?
徹志は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「実は横田さんのお兄さんである横田幸男さんのことで、訊きたいことがあるのですよ。幸男さんは平成八年の十月に自宅の火災によって亡くなられたとか」
―そうです。
「長野署の警官に確認してみたのですが、死因が明らかにならなかったとか、また、火災の原因は明らかにはならなかったとか」
―まあ、そうですね。
「放火の疑いもあるとのことだそうで」
―そのようなことを長野県警の方が言ってましたね。
「もし、放火だとしたら、何か心当りありますかね?」
―それが、特にないのですよ。
「では、横田さんはお兄さん宅の火災の原因をどのように考えておられるのですかね?」
―それが、よく分からないのですよ。何しろ、兄は用心深い性質だったので、失火の原因を作ったとも思えないし、また、放火なら他人に恨まれてると思うのですが、そのような気配もなかったのですよ。それで、僕は何故兄宅が火災になったのか、よく分からないのですよ。
と、徹志は決まり悪そうに言った。
「そうですか。で、お兄さんはさちという愛称で呼ばれてなかったですかね?」
と、戸田は眼を大きく見開いては言った。
すると、徹志は何ら表情を変えずに、
―そう呼ばれてましたよ。
すると、戸田は眼を大きく見開き、そして、輝かせては、
「ほう……、で、誰がそのように呼んでいたのですかね?」
―そりゃ、兄さんの友達たちですよ。もっとも、兄さんは小さい時からそのように呼ばれていましたよ。そして、大人になってからも、さちと呼ばれていたのですよ。
「そうですか。で、お兄さんは死亡当時は無職だったそうで」
―そうでしたね。
「ずっと無職だったのですかね?」
―いいえ。火災で亡くなる一年位前までは、喫茶店を経営してました。
「喫茶店ですか。で、喫茶店を止めてからは、どのようにして生活していたのでしょうかね?」
ー蓄えを切り崩して生活していたそうですよ。
「喫茶店は儲かっていたのでしょうかね?」
―あまり、儲かっていなかったのではないですかね。
「それなのに、一年間、働かずに生活していけたのでしょうかね?」
―さあ、僕は兄の懐具合の何もかもを知っていたわけではなかったので。
と、徹志は渋面顔を浮かべた。
「では、お兄さんは一人で暮らしていたのですかね?」
―そうです。
「結婚はされなかったのですかね?」
―そうです。
「では、横田さんは何故お兄さんと同居されてなかったのですかね?」
―そりゃ、僕は結婚したからですよ。ですから、兄が住んでいた実家を出たのですよ。
「そうですか。では、兄さんは何処で喫茶店を経営していたのですかね?」
―長野市K町六丁目の雑居ビルの一階です。
「そうですか。分かりました。捜査にご協力ありがとうございました」
と言って、徹志との電話を終えようとすると、徹志が何故兄のことを捜査してるのか訊いて来たので、戸田はそれに関して徹志に分かり易く説明した。
そして、それが終わった時点で、戸田は徹志との電話を終えた。
戸田は徹志との電話を終えた後、横田幸男のことを捜査してみようと思った。何故なら、横田の死には不審点が存在してるし、また、さちという愛称で呼ばれていたからだ。