第四章 思わぬ災難

     1

 田中一郎が、隣室の田中二郎の事件に遭遇する一ヵ月程前のことである。
 車好きの一郎は、働くようになれば、絶対にマイカーを買おうと思っていた。だが、車好きの一郎は待ち切れなかった。で、つい二週間程前にアルバイトなんかで貯めた金を元にして、中古のアルトを購入してしまったのだ。何しろ、東京周辺はドライブスポットが数多くある。それで、時々レンタカーを借りて、東京周辺をドライブイしていたのだが、レンタカーを何度もレンタルする位であれば、いっそのこと、中古車を買った方が安上がりだと思ったのだ。何しろ、中古の軽自動車なら五十万以下で買えないことはなかったからだ。これなら、一郎でも可能だったのだ。
 そして、一郎はアルトを購入し、暇があれば、そのアルトに乗って何処かに出かけるという具合であったのだ。
 そして、今日は午前中は出なければならない授業もなかったので、早速まだ買って間もないアルトに乗って早速ドライブしてみることにした。そんな一郎が向かったのは、晴海埠頭であった。
 一郎は湾岸エリアに近い所に住んでいた為に、度々有明、晴海とかいった湾岸エリアにまでドライブしていた。そして、そこは一郎のお気に入りスポットとなっていたのだが、今日も晴海埠頭に向かった。
 晴海埠頭は倉庫が多く、特にこれといった名所があったわけではないのだが、その岸壁沿いに車を駐めては、辺りの光景を眼にしてると、何となく穏やかな気分に浸れるので、最近ではその場所が一郎のお気に入りスポットとなっていた。
 そして、殊に最近気に入っているその岸壁際に佇んでは、決して綺麗ではない東京湾の海が立てるさざ波をぼんやりと眼にしていたのだが、そろそろ戻ることにし、アルトに戻った。そして、エンジンを掛け、車を発進させ、次の信号のない交差点を右折しようとしたのだが、すると、その時、突如、黒い犬が前方に飛び出して来た。
 それで、一郎は急ブレーキを掛けたのだが、間に合わなかった。一郎は呆気なくその犬を撥ねてしまったのだ。 
 これが人間ではなくてよかったといえば、よかったのだが、そうだからといって、たとえ、犬といえども、撥ねてしまったことは気持ち悪さをもたらすというものだ。
 それで、一郎は車を道路脇に停めては、身動きせずに、道路の中央当りに横たわっている犬の傍らに近付いて行った。
 そんな一郎は、実のところ、その黒い犬よりも、その犬の傍らにいた人間の方が、気になっていた。何しろ、その男はその黒い犬の飼い主と思われたし、また、その男は頭を角刈りにし、また、髭を生やしたかなり人相の悪い風体をしていたからだ。
 そして、その一郎の恐れは現実化してしまったようだ。男は一郎に近付いて来ると、案の定、
「この野郎、どうしてくれるんだ?」 
 と、顔を真っ赤にしては、一郎を睨めつけたからだ。
 今の男の言葉によって、この男がこの犬の飼い主であることは明らかとなった。それで、一郎は、
「すいません」 
 と、いかにも申し訳なさそうに言った。
「すいませんで、済むと思ってるのか!」
 と、男は何らピクリともしなくなった黒い犬の傍らに行っては、黒い犬に顔を近付けた。
 そんな男の様を眼にして、確かに一郎は男の愛犬を死に至らしめてしまった為に申し訳なく思ったのだが、その一方、怪訝な思いも抱いていた。
 というのは、その黒い犬は正に駄犬で、犬猫販売店なんかにはとても販売されてるような高価のものとは思えなかったのだ。また、その黒い毛並みは、何となく薄汚れていて、手入れされてるようには思えず、また、その男の様も何となく本当に愛犬を失ったという悲しみが感じられなかったのである。
 それはともかく、男は黒い犬から顔を離すと、
「おい! どうしてくれるんだ!」
 と、まるで愛息子を轢き殺されたと言わんばかりの様で言った。
 すると、一郎の口からは自ずからこのような言葉が発せられた。
「この犬が急に飛び出して来たのです! だから、避けられなかったのですよ!」
 と、些か声を荒げて言った。
 正にその通りであった。黒い犬が何故が一郎の車を怖がることもなく、急に飛び出て来たのだ。あんなことをされれば、誰でも犬を避けることは出来なかったであろう。このようなことになったのも、正に傍らにいた飼い主に責任がある! 一郎の様からは、正にその思いが滲み出てるかのようであった。
 すると、男は、
「そんな言い訳が通用すると思ってるのか! ちゃんと償いはしてもらうぞ!」
「償いですか……。といっても、どうすればいいのですかね?」
 一郎は小さな声で言った。
 そんな一郎は、確かに愛犬を轢いたことは申し訳ないが、この黒い駄犬に一体どれ程の金銭的価値があるのかという思いが一郎の脳裏を過ぎった。
 すると、男は、
「三百万払えよ!」
「三百万、ですか……」
 一郎は正に呆気に取られたような表情と声で言った。
 この黒い犬の価値が三百万? そんな常識は通用しないであろう。
 それで、一郎は思わず笑みを浮かべてしまった。一郎は男の言葉があまりにも非常識過ぎて、おかしくなってしまったのである。
 そんな一郎を眼にして、男は顔を一層紅潮させては、
「何がおかしいんだ?」
「だって、この犬が三百万もするなんて……。それはいくら何でも、滅茶苦茶ですよ!」
 そう言った一郎の表情には、笑みはなかった。それどころか、いい加減なことは言わないでくれと、男を非難してるかのようであった。
 すると、男は、
「くろはな。俺がとても大切にしていたお犬様なんだ。俺にとって、人間以上に大切だったんだ。だから、三百万でも安い位だ。じゃ、五百万払うか」
 そう言われて、一郎は呆気に取られたような表情を浮かべては、返す言葉がなかった。
 そんな一郎に、男は、
「江戸時代の徳川将軍の中には、お犬様を人間よりも大切にしていたお方がいたそうじゃないか。正に俺はその将軍様と同じなのさ!」
 と、いかにも険しい表情を浮かべては言った。
 そう男に言われて、一郎の表情は徐々に厳しくなって来た。何しろ、相手はやくざのようなまともではないような感じの男だ。それ故、男がつけた難癖は常識では通用しなくても、この男とだけの間では通用してしまいそうな感じだからだ。それ故、一郎は男の要求通り、五百万払わなければならない羽目に陥ってしまいそうな塩梅となりそうだった。
 それで、何も言おうとはせず、一郎はいかにも険しい表情を浮かべた。
 だが、この時、一郎は警察のことを思い浮かべた。
 そう! 市民の安全を守る警察に助けを請おうと思ったのだ。
 それで、一郎は、
「じゃ、警察に行きましょう」
 そう一郎に言われると、男はびくっとした表情を浮かべた。そして、
「警察?」
 と、呟くように言った。
「そうです。この際、警察に善後策を考えてもらいましょうよ」
 そう一郎に言われると、男は眉を顰め、言葉を詰まらせた。
 だが、やがて、
「冗談じゃないぜ!」
 と、吐き捨てるように言った。
 そんな男に、
「いや。そうしましょうよ。こういった時は、警察の判断に頼るのが一番だと思いますよ」
 警察と一郎が言った途端、男は些か狼狽したような表情を浮かべたのを眼にした一郎は、男は警察沙汰になるのを嫌がってると、察知した。
 それはともかく、一郎がそう言うと、男は、
「警察とは関係ないさ。俺たちだけで、この話をしようぜ。
 でも、今、すぐに決断しなくてもいいぜ! だが、俺が三百万必要としてることを忘れるなよ」
 と言っては、ぴくりともしなくなった犬の死骸を男の車のトランクに入れ、再び一郎の許に戻って来ては、
「取り敢えず、あんたの名前と連絡先を知りたいんだが」
 そう男に言われると、一郎はびびってしまった。名前と連絡先を話せば、この男と縁を切れなくなると思ったからだ。
 それで、黙ってると、
「じゃ、この車はあんたの車なんだな」
「そうです」
 と、一郎は思わず言ってしまった。
 すると、男はにやっとしては、
「じゃ、あんたの車のナンバープレートを控えさせてもらうからな」
 と言っては、一郎のアルトのナンバープレートを手帳にメモをしていた。
 そんな男を眼にして、一郎は思わず頭に血が上ってしまった。何故なら、ナンバープレートから、その車の持ち主の連絡先が明らかになると思ったからだ。
 そんな一郎を尻目に、男は一郎のアルトのナンバーのメモを終えると、自らのフィットに乗り込んでは、その場をさっさと去って行ったのである。
    
 その一週間後、一郎の部屋に、あの男からと思われる手紙が郵送されて来た。その手紙には、
〈もう三百万払う気になったかい? もし、払わなければ、あんたの命がどうなるか保障されないことを、あんたは分かってるだろう。しかし、後少しだけ待ってやる。あんたはまだ金の準備を出来てないかもしれないからな。じゃ、また近い内に連絡するからな〉
 手紙にはワープロでこのように記されていた。
 そして、一郎がこの手紙を受け取った三週間後に隣室の田中二郎の事件が起こったのである。

     2

 田中二郎の事件が発生して、やがて十日経とうとしていた。
 だが、田中二郎の事件の捜査は特に進展してそうにないようであった。一郎は新聞を購読してるのだが、もし田中二郎の事件に何らかの進展がみられれば、新聞にその旨が報道される筈だ。だが、そうではなかったからだ。
 丁度その折に、一郎は大学の仲間たちと共に、伊豆に一泊で旅行に行くことになった。
 小さい頃から関東に住んでる者なら、二十歳を過ぎた頃には、もう何度も伊豆を訪れているかもしれないが、一郎以外の今回、一郎のアルトで伊豆に行くことになった者たちは、いずれも関東出身ではなかった。それ故、伊豆に来るのは、今回が初めての経験となるのだ。また、一郎以外に首都高速や東名高速を走るのも初めての経験であった。
 それ故、首都高速を走ってる時や、東名高速を走ってる時は、いかにも都会を走り抜けるスリルを味わうことが出来、感激も一入であったのだが、その三人と違って、一郎は冷や汗たらたらであった。
 一郎は首都高速を走るのは今回が三回目なのだが、一回目は折れる道を間違えてしまい、山手線を一周するかのように、首都高速を一周してしまう羽目に陥ってしまったのだ。正に冷や汗たらたらの首都高速初体験となったのだ。
 その苦い経験が功を奏してか、今回はきちんと東名高速に折れる道にすんなりと入ることが出来たのだが、正にその車の往来の激しさから息をつく暇もない位、運転に没頭しなければならなかったのだ。 
 そんな一郎を尻目に、いかにも愉しげに会話を交わしている友人たちに、「運転を代わってくれ!」と、言いたいのを、一郎は何度も堪えたものであった。
 だが、その思いは言葉として発せられることはなかった。
 というのは、任意保険は一郎しか支払われない。同乗してる友人たちがもしこの車を運転していて事故を起こしても、保険は支払われない仕組みになってるのだ。 
 それ故、慎重で律儀者である一郎は、決して友人たちに車を運転させようとはしなかったのである。
 それはともかく、そんな状況であったが、何とか熱海を通り過ぎ伊豆半島に差し掛かった。そうなると、車の通行量もかなり減り、一郎の運転はかなり楽となった。
 車の左側には太平洋の大海原が開けていて、その向こうに伊豆大島も望見出来た。
「伊豆って、いい所だな」
 山形の寒村で生まれ育った三沢は、三沢の知っている日本海の海とは違って、伊豆の海の穏やかさを感じたので、そう言った。
「そうだろ」
 茨木出身の一郎は、小学生の時から度々伊豆には来ていたので、三沢とは違って特に新鮮味は感じなかったのだが、三沢の言葉に相槌を打つかのように言った。
 そして、やがて、網代に入った。 
 すると、その時、三沢が、
「この辺で少し休憩しないか」
 そう三沢が言うと、滋賀県出身の長野と岩手県出身の森川は、
「そうするか」
 そう三沢たちに言われたので、一郎は手頃な道路脇に車を停め、四人は車外に出た。
 すると、自ずから潮の香りが四人の鼻をついた。そして、四人は少しの間、その潮の香りをかぎ、やがて、車内に戻っては、次に城ヶ崎海岸に向かったのであった。
 城ヶ崎海岸といえば、ほらがいに掛かる吊り橋が有名だが、その吊り橋を歩いてみたいと、三沢たちがしきりに言ったので、一郎はそこは三度目となるのだが、とにかく、城ヶ崎海岸の吊り橋へと車を向けた。
 そして、国道135号線から折れる道を間違うこともなく、城ヶ崎海岸に着くことが出来、そして、吊り橋を歩いたのであった。

     3

 城ヶ崎海岸の次は、熱川だ。熱川のバナナ・ワニ園を見物することになっていたのだ。
 バナナ・ワニ園には、数多くのワニが飼育されていて、東伊豆海岸の代表的な観光スポットになっている。それ故、伊豆を初めて訪れる少なからずの観光客が訪れることであろう。そして、そう一郎が三沢たちにバナナ・ワニ園のことを推薦したので、その一郎の意向を受け、城ヶ崎海岸の次は、バナナ・ワニ園となったのだ。 
 だが、その前に熱川海岸に出ては、熱川海岸からの光景を愉しむことになった。 
 温泉情緒のある土産物店などが連なる通りを抜け、やがて、一郎が運転するアルトは、熱川海岸に出た。
 すると、紺青の海に浮かぶ伊豆大島のことが否応無く眼についた。
 すると、三沢は、
「田中君は、大島には行ったことがあるのかい?」
 と、眼前の大島をまじまじと見やっては言った。
「いや。それが未だ一度もないんだ」
 一郎は決まり悪そうに言った。 
 茨木に生まれ育った一郎であるから、今まで一度位は伊豆大島に行ったことがあってよさそうなのだが、一郎は未だその機会がなかったのだ。また、伊豆大島以外にも、一郎は伊豆七島のどれにも行ったことがなかった。それどころか、実のところ、一郎は今までに一度も離れ島なる所に足を運んだことはなかったのだ。
 それで、その旨を一郎は話した。
 すると、三沢は、
「そうか」
 と、特に関心無さそうに言った。
 そして、その時点で三沢が、「浜に出てみよう」と言ったので、四人は堤防から浜に乗り出した。
 だが、今は浜には人気はまるで見られなかった。また、この場所は海水浴場になってはいるのだが、十月の終わりという季節柄、浜には人気はなかったのである。
 それはともかく、一郎はジュースを飲みたくなったので、この近くにジュースの自動販売機があったことを思い出し、その旨を言った。
 すると、三沢たちもジュースを飲みたいと言ったので、一郎は四人分のジュースを買う為に、浜に三沢たちを残し、一人堤防に上がった。そして、海に背を向けて、自動販売機の所にまで歩き掛けたのだが、その時、ふと背後に人気を感じたかと思うと、鼻を突く薬のような臭いを嗅ぎ取った。
 だが、そう感じた後、一郎はその後のことは分からなくなってしまったのだ。

     4

「田中はどうしたのかな」
 という言葉が三沢の口から自ずから発せられた。しかし、それもそうであろう。一郎が、
「ジュースを買ってくるよ」と言って、この場を離れてから、既に十五分が経とうしてるのだ。
 一郎がジュースを買う為の自動販売機が何処にあったのかを、三沢は記憶していた。それ故、十五分という時間は、何となく長いと思ったのだ。
 そう三沢に言われ、長野も、
「確かにそうだな」
 と、訝しげな表情で言った。
 いくら正面に伊豆大島が見える好スポットとはいえ、この場に十五分も佇んでいれば、そろそろ戻りたいという思いが働いても、それは至極当然のことといえるだろう。それに、今日の予定では、バナナ・ワニ園を訪れた後、下田市内を散策することになっていた。それ故、既に三時に近付いたのだから、この辺りでそろそろバナナ・ワニ園に向かわなければならないであろう。
 それで、一郎が未だ姿を見せないといえども、三沢たちはこの時点で一旦、浜から堤防に上がることにした。
 すると、一郎がジュースを買おうとした自動販売機を自ずから眼にすることが出来たのだが、一郎の姿は何処にも見当たらなかった。一郎のアルトは、きちんと先程の場所に停められてるというのに……。
 その事実を目の当たりにして、三沢は、
「どうなってるんだ?」 
 と、呆気に取られたような表情を浮かべた。
 そして、そんな三沢の言葉に、長野も森川も言葉を発っすることが出来なかった。何故なら、この思ってもみなかった事の成り行きに想像を膨らませることすら出来なかったからだ。
 そういった状況ではあったが、三沢たちは改めて周囲に眼を凝らせ、一郎がいないか、探してみた。
 だが、一郎の姿を見付けることは出来なかった。
 それで、長野は、
「土産物店で土産物を探してるんじゃないのかい?」
 と、眉を顰めて言った。
 そう! 正にその通りだ! それ以外には考えられなかったのだ。
 それで、一郎のアルトの前で一郎のことを待ってみることにした。
 だが、一郎が三沢たちの許を後にして、三十分が過ぎようとしてるのに、依然として、一郎は姿を見せようとはしなかったのである。
 こうなってしまえば、一郎が土産物物色しているという見方は瓦解してしまった。そうかといって、一郎は携帯電話を持っていない為に、一郎に連絡をするわけにはいかなかった。
 そして、一郎が姿を見せなくなって四十分が過ぎたともなれば、もはや一郎に何か異変が起こったと看做さざるを得なくなってしまった。
 一郎が交通事故に巻き込まれたという意見も出されたが、その意見はすぐに打ち消された。もし、そうであれば、救急車のサイレンの音が聞こえるに違いないのだが、そうではなかったからだ。
 それで、長野が、
「警察に連絡しようか」
 と、いかにも弱々しい口調で言った。
 すると、三沢は、
「いや。それは早急過ぎるよ。まだ、何かの事件に巻き込まれたと決まったわけではないからな」
 と、慎重な性格の三沢は、些か表情を引き締めては言った。
「じゃ、これからどうするんだ?」
 長野は眉を顰めては言った。
「だから、とにかく俺たちだけで旅を続けるんだ。俺たちが今夜何処で泊まるか、田中君はちゃんと知ってるからな。だから、きっと、その下田の宿に電話をしてくるさ。俺が思うことには、これは田中のジョークかもしれないと思ってるんだ。田中は時々こういったことをやるからな」 
 と、些か笑みを浮かべては言った。
 とはいうものの、一郎の車をこのまま放置しておくことは出来なかったので、一応警察に連絡し、事の次第を話した。だが、警察によると、三沢たちと同様、一郎がまだ何かの事件に巻き込まれたと決まったわけではないので、一郎のことを今の時点では捜査は行なわないとのことだ。
 そういうことになり、三沢たち三人は、伊豆急熱川駅から踊り子号に乗って下田に向かったのであった。因みに、一郎たちは皆、携帯電話を未だ持ってなかった。それ故、今更ながら、現代社会ではやはり携帯電話はこういった時には、必需品だなと痛感したのであった。

    5

 一方、一郎は今、どうしてるかというと……。
〈一体、ここは何処なのだろうか?〉
 一郎は意識が戻るや否や、そう思った。何故なら、そこは一郎のまるで知らない藪の中であったからだ。
 それで、一郎はどうなってるんだと、怪訝そうな表情を浮かべたのだが、その一郎の表情は、忽ち強張ったものに変貌した。何故なら、一郎の傍らに見知らぬ男が横たわっていたからだ。また、その男と一郎の間には、鋭利の刃を持ったナイフも落ちていたのだ。そして、そのナイフには、血のようなものも付いている……。
 この事実を目の当たりにして、一郎が強張った表情を浮かべたのは、至極当然のことと言えるだろう。
 だが、一郎は一体何事が起こったのかは、まだ思い出せなかった。即ち、何故一郎はこのような場所にいて、また、一郎の隣に身動きしない見知らぬ男が横たわってるのか、てんで見当もつかなかったのだ。
 それで、一郎の表情は、強張ったものから、徐々に怪訝そうなものへと変貌して行ったのだが、この時、一郎の耳に徐々に聞こえて来る音があった。
 それは、どうやらサイレンの音だ。救急車かパトカーのサイレン音が、徐々に一郎の耳を捕えて来たのだ。
 だが、まさかそのサイレン音を鳴らすパトカーか救急車の行き先が、一郎の許であったということに気付くのには、まだ少し時間が掛かったのである。
 
     6

 一郎は今、熱川交番の中にいた。
そんな一郎の許には、制服姿の屈強そうな刑事が二人陣取っていた。
その二人の刑事は、静岡県警の権藤刑事(33)と波方刑事(32)であった。
 権藤と波方は、バナナ・ワニ園の近い所にある藪の中に、男が二人倒れ、また、その内の一人は死んでるようだという匿名の通報を受け、現場に急行したところ、一郎と、一郎の傍らに死亡してる男を発見した。
 その結果、男は司法解剖の為に熱海市内のS病院に運ばれ、また、一郎は熱川交番で静岡県警の権藤と波方から事情聴取を受けることになったのだ。
 そんな一郎は、
「僕の言うことを信じてください!」
 と、顔を真っ赤にして言った。何しろ、権藤も波方も、一郎があの男を殺したと決めつけてるからだ。
 しかし、それも当然といえるだろう。あの場所には、一郎と死亡した男しかいず、しかも、男は外見上から傍らに落ちていたナイフによって刺殺されたことは間違いないと思われたのだ。更に、一郎の掌には、男の血が付いていたともなれば、一郎が男を刺殺したと看做されても、やむを得ないというものであろう。
 更に、その後の取調から、男はどうやら一郎の顔見知りであることも分かった。となれば、一郎に不利な条件が揃っているといえるだろう。
 更に、一刻も早く事件を解決したい思っている権藤たちは、一郎を一刻でも早く自供に追い詰めようと懸命になっているのだ。
 そんな権藤は、一郎に、
「あの男は、あんたとどういった関係なんだ?」
 と、詰め寄った。 
 一郎は既にあの男のことを何処かで眼にしたことがあると、証言していたが、何処の誰なのかに関しては、まだ言及してなかった。
 だが、権藤としては、あの男は一郎にとって殺さなければならない相手だったと推理していた。また、あの男の素性はまだ明らかになっていなかった。それで、一郎の口を割らせ、男の素性を明らかにし、事件解明にこぎつけようと目論んだのである。
 そんな権藤に、
「ですから、何処の誰だか分からないのですよ」
 と、言っては大袈裟な身振りで言った。
「嘘をつけ! 自分で殺した相手が何処の誰だか分からない筈がないじゃないか!」
 と、権藤は声を荒げて言っては、テーブルを拳で叩きつけた。
 そう言われて、一郎はこの時点であの男が誰なのか分かった。
一郎は権藤に言ったことが嘘ではなかった。即ち、一郎は確かにあの男を眼にしたことはあることは分かっていたのだが、しかし、誰なのかは分からなかったのだ。
 だが、今、思い出したのだ。
 そう! あの男はあの犬男だったのだ! 
 一郎がついこの間、晴海埠頭にまでドライブに行き、そして、帰ろうとした時に、犬を轢いてしまった。そして、その男はそんな一郎に難癖をつけて来たあの人相の悪い男だったのだ! 一郎に犬を轢いた慰謝料として、三百万請求して来たあの人相の悪い男だったのだ!
 だが、一郎は附に落ちなかった。何故あの男が一郎が眼が覚めた時、一郎の傍らにいて、更に、死んでいたのか? その経緯がてんで一郎は分からなかったのである。
 それで、一郎はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせていたのだが、そんな一郎に、権藤は、
「あんたはあの男を元々殺してやろうと目論んでいたんだろ? それで、あの場所に連れて来ては殺したんだ。だが、何かアクシデントが発生しまい、あんたは気を失ってしまったんだ。それが、事の真相なんだろ?」
 そう言っては、権藤はにやっとした。実際にも権藤はそれが、事の真相だと思っていたのだ。
 だが、そんな権藤に一郎は、
「そうじゃないんです! 僕は熱川の海岸で友人たちと海を眼にしていたんですよ! そして、その時にジュースを買おうと思い、皆の許を離れ、自動販売機の許に行こうとしたんです。そして、自動販売機に近付いた時にふと背後に人気を感じたんですよ。
すると、その時に何か薬のようなものの臭いを嗅いだんですよ。そして、気がついたら、あの場所にあの男と共にいたんですよ!」
 と、声高らかに言った。そんな一郎は、一郎のその言葉を信じてくれと言わんばかりであった。
 そう一郎に言われ、権藤の言葉は詰まった。今の一郎の言葉は初耳であったからだ。そして、今の一郎の説明が真実なら、一郎は事件には無関係となる。
 しかし、今の一郎の説明をあっさりと信じてよいものだろうか?
 その思いが権藤の脳裏を過ぎったのだが、そんな権藤に一郎は、
「そうだ! 僕の友人たちに聞いてくださいよ! 友人たちが僕の言ったことを証明してくれますよ!」
 と、眼を輝かせては言った。そんな一郎は、何故今まで三沢たちのことを忘れていたのか、失笑した位であった。
 そう一郎に言われ、権藤は、「ふむ」と言っては、腕組みをし、少しの間言葉を詰まらせたが、程なく、
「確かにその説明は合ってるかもしれない。だが、問題はそれからなんだ」
 と、些か表情を曇らせて言った。
 そんな権藤の言葉に一郎は、
「それ、どういうことですかね?」
 と、些か納得が出来ないように言った。
「だから、君たちは確かに熱川に来ていた。だが、そこでアクシデントが発生した。
 つまり、君はあの男と偶然に顔を合わせてしまった。そして、言い争いになってしまった。
 それで、あの男は君をあの男の車なんかに乗せ、あの雑木林の所まで行った。そして、言い争いはまだまだ続いたが、あの男は逆上してナイフを取り出した。だが、君はそのナイフを奪い、あの男を刺殺したというわけだ。君が意識を失っていたというのは、正に出鱈目だというわけさ」
 と、権藤は力強い口調で言っては、大きく肯いた。そんな権藤は、これが真相だと言わんばかりであった。
「馬鹿なことを言わないでください! それは、滅茶苦茶な推理ですよ!」
 と、一郎はそのような推理は話にならないと言わんばかりに言った。
「何が滅茶苦茶な推理なものか! 実際にも、君はあの男の傍らにいて、しかも、あの男の傍らにはあの男の血が付いたナイフが落ちていたんだ。君の手にも、あの男の血が付いていたじゃないか! 更に、やがて、あのナイフからは、君の指紋が付いていたことが証明されるであろう。そうなれば、君がいくら巧みな言い訳をしても、そんな言い訳は通用しなくなるぜ」
 と権藤は言っては、にやっとした。そんな権藤は、もはや一郎をあの男殺しの疑いで逮捕出来るのは、時間の問題だと言わんばかりであった。
そんな権藤に一郎は、
「ですから、僕は何者かに意識を奪われ、気がついたら、あの場所にいたのですよ!」
 と、懸命に自らの潔白を主張した。そして、
「今、あの男がどういった人物だったのか、思い出しましたよ」
 と、一郎は大きく息を弾ませては言った。
 すると、権藤は、
「ほう……、一体どういった人物だったのかい?」
 と、いかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
 それで、一郎はあの男がどのような男だったのか、説明した。
そんな一郎の説明に何ら言葉を挟まずじっと耳を傾けていた権藤は、一郎の説明が終わると、
「やっぱりそうじゃないか!」
 と、いかにも勝ち誇ったような表情を浮かべて言った。そして、
「つまり、君はあの男に強い怒りを持っていたわけだ。そして、熱川の海岸で偶然あの男と顔を合わせてしまい、君の怒りは頂点に達してしまった。何で旅先まで僕を追って来るんだという具合にな。また、男は君をもっと人気のない場所で話をしようじゃないかとか言って、君をあの場所に連れ出し、あんたに再び金の要求をしたんだ。だが、君はそんな男を相手にしなかった。
 それで、男はかっとしてナイフを取り出し、あんたに襲い掛かったんだが、あんたは逆に男のナイフを奪い、そして、男を刺殺したというわけさ。どうだ? これが事件の真相じゃないかね」
 と、権藤は言っては、にやっとした。そんな権藤は正にそれが事件の真相だと言わんばかりであった。
 一郎はといえば、そんな権藤の話にじっと耳を傾けていたのだが、権藤の話が一通り終わると、
「ふっふっふっ」
 という笑い声を立てた。
 そんな一郎を眼にして、権藤の顔色が変わった。一郎は権藤の推理に恐れをなし、もはやここまでと観念するかと思っていたら、一郎はいかにもおかしそうに笑い始めたではないか!
 それで、権藤はむっとした表情を浮かべては、
「何がおかしいんだ?」
 すると、一郎は、
「そんな奇妙な偶然が起こる筈はないということですよ。つまり、僕が友人たちと伊豆に行くなんてことは、その男は知るわけがないんですよ。それなのに、何故熱川で僕と鉢合わせしなければならないのですかね? その男もたまたま熱川に来ていたというのですかね? 
 いやいや、そんな偶然は起こり得るわけはないですよ。そのようなことを刑事さんが分からない筈はないですよね?」
 と、些か自信有りげに言った。そんな一郎は、正に今の一郎の話はもっともなことだと言わんばかりであった。
 一郎がそう言ってる間は、権藤は何も言おうとはしなかったが、一郎の言葉が終わると、権藤は、
「君の話はそれだけかい?」
 と言っては、口元に笑みを浮かべた。
 そんな権藤を眼にして、一郎の顔色は変った。正に今の権藤の自信有りげな様は、一郎の表情をそのように変貌させるのに十分であったからだ。
 それで、一郎は思わず言葉を詰まらせてしまうと、そんな一郎に権藤は、
「君はGPS自動車追跡装置というものを知ってるかい?」
 そう権藤に言われて、一郎は言葉を発することが出来なかった。そのようなものは聞いたことがなかったからだ。
 だが、GPS機能付き携帯電話のことは知っていたので、それに言及した。
 すると、権藤は、
「正にそれだよ。つまり、GPS機能の付いた電波発信機が付けられた車は、その位置を突き止めることが出来るというわけさ」
 と言っては小さく肯いた。
 すると、一郎は、
「ほう……、そうですか。確かにそういうものもあるでしょうね。でも、それがどう僕に関係してるというのですかね?」
 と、些か納得が出来ないように言った。
 すると、権藤は、
「それがだな。実は関係してるんだよ」
 と言っては些か険しい表情を浮かべた。
 すると、一郎はむっとした表情を浮かべては、
「どう関係してるというのですかね?」
「実はな。確かに今、君の友人たちが熱川の海岸で君と別れ別れになったという情報が警察に入ったんだよ。それ故、君たちが口裏合わせをしてなければ、君の言ったことは正しいということになるだろう。
 だが、それはそれとして、君のアルトにそのGPS車両追跡装置が付いていたということまで、君は知らないだろうな」
 と権藤が言うと、一郎は、
「えっ!」
 と、素っ頓狂な声を上げた。その言葉は正に寝耳に水であったからだ。
 そんな一郎に権藤は、
「嘘じゃないよ。君のアルトの車体の裏にマグネットで付けられていたんだ。だから、気付かなかったのは、無理もないだろう。しかし、それが君のアルトに付けられていたというのは、正に事実なんだ」
 と言っては、大きく肯いた。そして、
「それ故、あの男は、そのGPS車両追跡装置を使って、君を熱川まで追けて来たというわけさ」
「……」
「そして、後は僕の推理通りというわけさ」
 と、権藤はいかにも自信有りげに言った。
 すると、一郎は、
「でも、分からないことがあるのですがね」
 と、眉を顰めた。
 確かに今の話は確かに意外なものであったが、それはそれとして、一郎の疑問を話した。
 そして、それは仮に男がGPS車両追跡装置なるもので一郎を熱川にまで追って来たとしても、男はいかにして、熱川にまで来たのか、そして、いかにして、男の死体が見付かった場所にまで来たというのか? つまり、男と一郎を移動させた車のような足がないというわけだ。
 その疑問を一郎は権藤に話すと、権藤は、
「ふむ」 
 と言っては、腕組みし、気まずそうな表情を浮かべた。その点は確かに妙だからだ。
 それで、権藤は、
「ひょっとして、共犯がいたのかもしれないな」
「共犯ですか」
「ああ。そうだ。共犯だ。つまり、君はあの男から三百万をゆすられていたんだろ?」
「ええ」
「だったら、共犯がいたのかもしれないじゃないか。そして、君から奪った金を山分けしてやろうと目論んでいたというわけさ。犬一匹の引き換えとして三百万手に出来れば、儲けは大きいというわけさ。それで、男は共犯と共に行動していたというわけさ」
 と、権藤は言っては、小さく肯いた。
 すると、一郎は、
「その推理は正におかしいですよ」
 と、いかにも納得が出来ないように言った。
「何がおかしいんだ?」
「ですから、それなら相手は二人ですよね? 二人が僕一人に負けるわけはないじゃないですか。それ、おかしいというものですよ」
 と言っては、一郎は唇を歪めた。そんな一郎は、その権藤の推理は話にならないと言わんばかりであった。
 それはともかく、やがて、その一郎の疑問は解決されることになった。何故なら、その男と一郎を乗せたと思われる車が放置されてるのが、近くに住んでる者によって発見されたからだ。

    7

 その車は一郎の車とは違ってフィットであった。そして、その車の中には免許証が入っていて、その免許証から、その車が男が乗って来たということが明らかとなったのだ。
 また、その免許証から、男の姓名も明らかとなった。
 その男の姓名は、何と田中三郎というものであったのだ。
 その事実を権藤から告げられて、呆気に取られたような表情を浮かべたのは、一郎であった。何しろ、一郎の姓名は田中一郎であり、そして、一郎を犬問題で脅し、また、今回の事件で変死したその男の姓名が、一郎と一字しか違わない田中三郎だというのである。
 マンガを読んでるんじゃないのか? そういった思いが一郎の脳裏を過ぎっても不思議ではなかった。
 それで、一郎は、
「刑事さん。冗談を言ってるのではないでしょうね?」
 と、呆気に取られたような表情を浮かべながら言った。
「冗談じゃないよ! 今、その田中さんの車が発見されたんだ。田中さんの免許証入りのな」
 と、権藤はいかにも真剣そうな表情を浮かべては言った。そんな権藤は、殺人事件の捜査で冗談など言うものかと言わんばかりであった。
 そう権藤に言われ、権藤が冗談を言ってるのではないということは分かった。 
 しかし、こんな奇妙なことがあるだろうか?
 しかし、こんな奇妙な出来事が発生したのは、今回だけではなかった。というのは、先日、一郎が住んでいる江東区内のアパートの隣室の男が、東京デズニーランド沿いの川で変死体で浮かんだのだが、その男の姓名が田中二郎だったのだ。即ち、一郎の身近な者が何と二人も変死し、そして、その二人の姓名がいずれも一郎と一字しか違わない似通ったものであったのだ。これが奇妙でなくて何といえばよいのであろうか。
 それで、一郎は思わずその思いを権藤に語った。
 すると、権藤は、少しの間、険しい表情を浮かべては言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「まあ、偶然というものは、往々にして有り得るものだよ」
 と、悟り切ったような表情を浮かべては、呟くように言ったのであった。
 とはいうものの、今の時点では一郎を田中三郎殺しの疑いで逮捕するわけにもいかなかった。また、一郎の身元はしっかりしていて、逃亡の恐れもなさそうだということで、一郎はこの時点で一旦、警察からの拘束を解かれ、自由の身になったのであった。

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