第五章 深まる謎
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田中三郎の死を受けて、伊豆署内に捜査本部が設置され、静岡県警の林田勝警部(52)が捜査を担当することになった。林田はその容貌が柔道の重量級で金メダルを取ったことがある山下に似ているので、山ちゃんという綽名で呼ばれていたのだが、部外者にとってみれば、山ちゃんがまさか林田警部だとは思ってもみないことであろう。
それはともかく、林田は一郎の話を聞いて、権藤とは違って、一郎が田中三郎殺しの犯人ではないと看做した。
というのは、動機が、首を傾げざるを得ないものであったかった。
というのは、一郎によると、田中三郎は晴海埠頭で愛犬を一郎の車に轢かれ、難癖を一郎につけ、一郎に慰謝料として三百万払えと脅していたという。
しかし、その行為自体がまともではないし、また、それに関して裁判で争ったとしても、とても三百万の慰謝料は勝ち取れないであろう。それに、肝心の一郎を殺してしまえば、金を奪えないではないか。
更に、たとえ田中三郎が一郎の言動に腹を立て、ナイフを手に一郎を脅したとしても、それが田中三郎の死に結びつくだろうか? 一郎は今まで真面目な学生であったとのことだ。それ故、一郎がたとえ田中三郎からナイフを奪い取ったとしても、田中三郎を殺すといった行為に出るだろうか? そのようなことをせずに、一郎は田中三郎の許から逃げ出し、誰かに助けを求めるというのが、一郎の自然な行為といえるだろう。
それらのことから総合的に勘案すると、やはり一郎は田中三郎殺しの犯人ではないと思えてしまうのだ。
そして、その推理が正しいものだとすると、田中三郎の死はどう説明すればよいのか?
一郎によると、一郎は熱川の海岸で友人たちの許を後にし、堤防に上がり、土産物店の方にあった自動販売機に向かったという。そして、その距離は数十メートル程のことだったが、堤防を降りてすぐに一郎は被害に遭ったという。
一郎のアルトにGPS車両追跡装置が付けられていたとのことから、田中三郎がその装置を手掛かりに一郎を熱川にまで追跡して来たのは間違いないであろう。また、田中三郎の車の中には携帯電話があり、その携帯電話で一郎のアルトに装着されていたGPS車両追跡装置から発進する電波を受信していたことは間違いないということも既に証明されていた。
となると、田中三郎は一郎の背後から密かに近付き、エーテルのようなものを嗅がせ、一郎の意識を奪ったのだろうか?
だが、その点はまだ証明されてはいなかった。何故なら、田中三郎の車の中からは、そのような薬品は見付からなかったからだ。とはいうものの、その薬品とは何処かに遺棄したという可能性も有り得るだろう。
それはともかく、一郎の証言を受けて、一郎が田中三郎にエーテルのようなものを嗅がされたと思われる周辺で一郎の証言が事実であるかどうか、目撃者探しの捜査が行なわれることになった。それと共に、田中三郎がいかなる人物であったのかという捜査も行なわれることになった。
だが、一郎が被害に遭ったという場面を目撃したという情報はなかなか入手出来なかった。
だが、田中三郎がどのような人物であったのかは、徐々に浮かび上がって来た。
田中三郎は台東区内の「浅野荘」という古びた木造モルタル式のアパートに住んでいたのだが、「浅野荘」を管理してる管理人の話だと、昼間もしばしばアパートの部屋にいて、何をしてる人なのかなと思っていたとのことだ。
その管理人の話から推して、田中三郎は定職のないチンピラ然とした人物であったことが自ずから察せられた。また、一郎の話からして、そのような人物であったことは自ずから察せられたのだが、林田たち捜査人を驚かせたことがあった。
それは、犬だ。田中三郎は犬など飼っていなかったというのだ。
「浅野荘」の管理人の高山治(67)は、
「そりゃ、絶対に間違いありませんよ。それに、うちのアパートは、犬猫とかいったものを飼うことを禁止してますからね」
と、いかにも自信有りげな表情を浮かべては言った。
「浅野荘」の管理人の高山治の証言により、妙な事実が浮かび上がった。
それは、田中三郎は黒い犬など、飼っていなかったのだ。それは、まず間違いないであろう。だが、田中三郎に晴海埠頭で難癖をつけられたという田中一郎は、田中三郎との知り合うことになったのは、田中三郎の飼い犬を一郎が撥ねて死なせてしまったことにあると証言してるのだ。この一郎の証言と、高山の証言は、明らかに食い違っている。
それで、林田はその点を一郎に確かめてみた。
すると、一郎は、
「それ、本当ですか?」
と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
「本当さ。田中三郎さんのアパートの管理人がそのように証言してるからな」
と、林田は一郎に言い聞かせるかのように行った。
すると、一郎の言葉は詰まった。正に今の林田の言葉は、一郎の思ってもみなかったものであったからだ。
それで、一郎は少しの間、言葉を詰まらせてしまったのだが、やがて、
「一体、これはどういうことなんですかね?」
と、いかにも怪訝そうな表情を浮かべては言った。
そう一郎に言われ、今度は林田が言葉を詰まらせてしまった。何故なら、林田はその一郎の問いに適切な答えを返すことが出来なかったからだ。
だが、やがて、林田は、
「恐らく田中さんはかもにされたんだよ」
と、渋面顔で言った。
「かもですか……」
一郎は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「ああ。そうだ。かもだ。今までの捜査から、田中三郎という男は定職につかず、ルンペンのような生活を送っていたそうだ。それ故、のら犬でも拾って来ては飼い慣らし、晴海埠頭で田中さんの車にわざと轢かせようとしたんじゃないのかな。そして、その目論見に田中さんはまんまと引っ掛かってしまったというわけだ。つまり、田中さんは、田中三郎さんのかもになってしまったというわけさ」
と、林田は些か険しい表情を浮かべては小さく肯いた。そんな林田は、その可能性は充分にあると言わんばかりであった。
そう林田に言われ、一郎は〈成程〉と思った。確かにそう看做せば、うまく説明出来るというわけだ。
即ち、田中三郎は元々一郎にあの黒い犬を轢かせるつもりであったのだ。そして、一郎に難癖をつけ、一郎から金品を奪い取ってやろうと目論んだというわけだ。
そう思うと、一郎は小さく肯いた。
だが、そんな一郎の表情は、すぐに曇った。何故なら、やはり、附に落ちないことがあったからだ。
それは、田中三郎の死だ。何故、田中三郎が伊豆の熱川の雑木林で、一郎の傍らで変死したのか? その点に関しては、今の林田の説明からでは、うまく説明出来ないというものであろう。
それで、一郎はその旨に言及した。
すると、林田は、
「今の時点では何とも言えないな」
と、渋面顔で言った。
そう言われて、一郎も渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。一郎もその理由は分からなかったからだ。
だが、確かなことは、一郎が田中三郎殺しの犯人ではないということだ。また、今までの一郎の証言には、何ら嘘偽りはないということだ。
それで、一郎はその旨を改めて力説した。
すると、林田は、
「分かってますよ」
と、些か力無い声で言った。
その林田の声から、林田がその一郎の証言を信じてるかどうかは、一郎には分からなかった。
だが、今日はこの辺で林田は一郎への聞き込みを終えたのである。
2
田中三郎と田中一郎との関係は、どうやら偶然の結果によって生じたということが、今までの捜査から凡そ明らかとなった。つまり、市井のつまらないチンピラであった田中三郎のかもとして、田中一郎がたまたま引っ掛かってしまったというわけだ。
とはいうものの、何故一郎が、田中三郎の死体の傍らで意識を失い倒れていなければならなかったのか? その点は依然として謎だ。この謎を解明しなければ、田中三郎の事件の謎は解明出来ないであろう。
そう思った林田は、次に田中三郎の「浅野荘」の部屋を捜査してみることにした。田中三郎の部屋から何か田中三郎の死に関する手掛かりが得られるのではないかと思ったからだ。
すると、田中三郎の部屋から田中三郎と交友関係があったと思われる人物名を明らかにすることが出来た。部屋の中に、アドレス帳があったからだ。
それで、そのアドレス帳に記載されていた人物に順次電話をして、田中三郎の死に関して聞き込みを行ってみた。
すると、案の定、田中三郎は高校を中退すると、最初の内は、飲食店のアルバイトとかをやっていたらしいが、それも止め、今は何をしてるのか分からないという証言を少なからず入手した。だが、田中三郎が何故、田中一郎の傍らで死んでいたのか、それに関して言及出来るものは、誰もいなかった。
その結果を受けて、林田は、
「分からんよ」
と、いかにも気むずかしげな表情を浮かべては言った。
即ち、何故、田中三郎があのような死に方をしたのか、また、何故、田中一郎の傍らで死んでいたのか、今の時点ではてんで説明することが出来ないのだ。
田中一郎に説明したように、田中一郎が田中三郎のかもとして偶然に選ばれた可能性はやはり高いだろう。そして、こここしばらくの間、定職についていなかった田中三郎は、一郎に対して行なったような理不尽な行為を行ない金を得ていた可能性が自ずから察せられた。実際にも、最近、田中三郎のような人物が恐喝の疑いで逮捕されたのだ。その男と同じような男が、田中三郎であったのだ。
その点はまず間違いないと思われたのだが、それがいかにして、田中三郎の死と結び付くのか? その点は依然として謎であったのだ。
3
その一方、田中三郎の死に今、俄然興味を抱いてる人物がいた。
それは、田中二郎の死を捜査してる戸田警部だ。何しろ、伊豆で変死体で発見された人物の姓名が田中三郎というのだ。田中二郎の事件の捜査をしてる戸田が、その田中三郎という人物に興味を抱いて決して不思議ではないだろう。
だが、田中二郎、田中三郎という姓名を持った人物は相当なものであろう。何しろ、有り触れた姓名である為に、都会の電話帳を調べてみれば、その姓名を持った人物が少なからずいることは確かなことであろう。
それ故、熱川で変死体で見付かった男の姓名が田中三郎であったとしても、戸田が捜査してる田中二郎の事件と関連あると疑うのは、適切ではないといえるだろう。
だが、戸田はそうは思わなかった。何故なら、田中三郎の死体の傍らには何と、戸田が捜査しる田中二郎の隣室に住んでいた田中一郎がいたというのだ。そして、それらの事実はまるで世間をおちょぐってるかのようなのだ。
これらのことから、この二つに事件に田中一郎が関与してると思う者もいるだろうし、また、静岡県警の刑事たちもそのように看做してる者もいないわけではなかった。
だが、戸田はそこまでは思わなかった。とはいうものの、改めて、田中一郎から、熱川の事件の概要を聞かなければならないであろう。
それで、戸田は一郎に連絡を取り、「黒川ハイム」の一郎の部屋で熱川の事件の概要の説明を受けることになった。
些か興奮しながら、熱川での事件の概要を話した一郎の話が一通り終わると、戸田は、
「で、田中さんは何故そのような事件に巻き込まれたのだと思いますかね?」
と、一郎の顔をまじまじと見やっては、興味有りげに言った。
すると、一郎は、
「それがよく分からないのですよ」
と言った。そして、それは一郎の正直な感想であった。
そんな一郎に、
「田中三郎という男は正につまらないチンピラでしてね。田中さんに対して行なったようなつまらない言い掛かりをつけては小遣い稼ぎをやっていたようですよ」
「そうらしいですね」
一郎は静岡県警の林田警部からそう言われたので、そのことを思い出しながら言った。 すると、戸田は小さく肯き、
「でも、そうだからといって、何故田中三郎が熱川で殺され、その死体の傍らに田中さんがいたのかということですよ」
と、戸田は眉を顰めた。
「正にその通りですよ。僕は何度もその点に関して思考を巡らせたのですが、てんで分からないのですよ」
と、一郎はいかにも怪訝そうな表情を浮かべては言った。
そんな一郎に、
「田中さんは、田中三郎の事件が起こる少し前に、田中さんの隣室の田中二郎さんが何者かに殺された事件のことを覚えていますよね」
「そりゃ、勿論覚えていますよ」
と、一郎は正に当然だと言わんばかりに言った。
「その田中さんの事件を我々は捜査してるのですが、まだ解決には遠いという状況なんですよ」
「そうですか……」
「で、そんな折に、田中三郎の事件が起こったのですよ。
で、世の中には、いくら似たような姓名を持った人物がいるといえども、田中一郎、田中二郎、田中三郎という人物が被害者になったような事件が立て続けに起こるなんて、これが偶然で片付けられますかね?」
と、戸田はいかにも気むづかしげな表情を浮かべては言った。
そんな戸田に、一郎は、
「僕は被害者ではないですがね」
と、戸田に釘を刺した。
すると、戸田は、「そりゃ、分かってますよ」と言っては、小さく肯き、そして、
「でも、田中さんは田中二郎さんの隣室に住んでいましたからね。更に、第二の事件である田中三郎の死体の傍らにいた。更に、田中二郎さんに投函された手紙を読んでしまった。
これらのことから、田中さんも田中二郎さん、田中三郎さんの事件に無関係とは思えないのですよ」
すると、一郎は、
「僕は無関係ですよ。偶然に事件に巻き込まれただけなのですよ」
と、正に戸田に訴えるかのように言った。
そんな一郎に、戸田は、
「それは、田中さんの眼から見た場合ですよ。だが、犯人はそうではありません。つまり、田中二郎さん、田中三郎さんに似た姓名を持っている田中一郎さんを事件に巻き込み、警察の捜査を攪乱させてやろうという意図が、犯人にはあったのかもしれませんよ」
と、眼をキラリと光らせては言った。
すると、一郎の言葉は詰まった。一郎は正にそこまで考えが及ばなかったからだ。また、戸田のことを流石にベテラン刑事だとも思った。
そう思うと、戸田を見る目が違って来た。
戸田は一見、くたびれた中年男で、何となく頼りなさそうに見えるのだが、実際は見た眼とはまるで違う辣腕刑事ではないかと戸田のことを思ったのである。
それはともかく、そんな一郎に戸田は、
「それ故、僕は田中三郎さんの事件は、田中二郎さんの事件に関係してるんじゃないかと思ってるですよ」
と、言っては、小さく肯いた。
「それ、本当ですかね?」
一郎は眼を白黒させては言った。
「いやあ。まだ推理の段階に過ぎません。でも、そう思わせるようなものに田中さんは何か気付きませんでしたかね?」
と、戸田は自らの推理を裏付けるような情報を一郎が持っていないかと言わんばかりに言った。
だが、一郎は、
「そのようなことには、気付きませんでしたがね」
と、渋面顔で言った。
すると、戸田は、
「そうですか」
と、些か落胆したように言った。そして、
「また、後で何か気付いたことがあれば、遠慮なく言って下さい」
と言っては、この辺で一郎の部屋を後にしたのであった。