4 有名人

 仕事を終え、世田谷区の閑静な住宅街にある白亜の五階建のマンションに広重が戻って来たのは、午後九時頃であった。そんな広重の帰りを、山村と嵐刑事は、広重のマンション近くの路上に覆面パトカーを停めては、待っていたのだ。
 そして、広重が戻って来たのは、山村と嵐刑事はすぐに分かった。何故なら、広重は有名人である為に、山村も嵐刑事も広重の顔を知っていたからだ。
 そして、広重がオートロックのエントランスからマンション内に入り込んだのと同時に、山村と嵐刑事も広重の後に続くように中に入った。
 そんな二人に広重は、不審な眼差しを向けたようなので、山村はすかさず警察手帳を見せては、
「広重さんですね」
 と、広重に声を掛けた。
 すると、広重は立ち止まり、
「そうですが」
 と、些か怪訝そうな表情を浮かべては言った。そんな広重は、警視庁の刑事が一体何の用があるのかと言わんばかりであった。
 そんな広重に、山村は、
「まあ、座って話をしましょうよ」
 と言っては、エントランス内にあるソファに広重を導こうとした。
 それで、広重は渋々と山村と嵐刑事と共にエントランス内のソファに向かった。そして、テーブルを挟んで広重は山村と嵐刑事と向かい合った。
 ソファに座ると、星野は、
「警視庁の刑事さんが僕に一体何の用があるのですかね?」
 と、TVでお馴染みの紳士然とした容貌を山村に向けた。
 そんな広重に山村は、
「広重さんは星野富男という人物のことをご存知ですかね?」
 と、さりげなく言った。
「星野富男? それ、どういった人ですかね?」
 広重は星野富男という名前を初めて耳にしたと言わんばかりの表情で言った。
「お台場のデックス東京ビーチ内に『南十字星』という喫茶店があるのですが、そこでウェイターをやっていた二十四歳の若者ですよ」
「成程。で、その人物がどうかしたのですかね?」
 広重はさして関心がなさそうに言った。
「その星野富男さんは、一日の早朝に、お台場海浜公園の自由の女神近くで絞殺死体で発見されたのですよ」
 と、山村は広重の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、広重は、
「そうでしたか……」
 と、神妙な表情で言っては、
「で、それが僕に何か関係してるのですかね?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「その問いに答える前に、広重さんに確認しておきたいことがありましてね。広重さんは六月三十日の午後十一時から翌日の零時頃にかけて、何処で何をされてましたかね?」
 と、星野の死亡推定時刻の広重のアリバイを確認してみた。
 しかし、この時、山村たちは既に有力な情報を入手していた。というのは、広重の妻の早苗から、広重は六月三十日の午後十一時から翌日にかけて、外泊していたという証言を入手していたからだ。もっとも、早苗は広重が何処にいたかは知らないとのことだ。しかし、早苗の証言だけでも、広重のアリバイは充分ではないと言えるだろう。
「その頃は、新宿のKホテルに泊まってましたね。三十日は学会での発表がありましてね。夜の九時頃まで会議が長引いてしまったのですよ。それで、家に帰るのが面倒になってしまい、Kホテルで泊まったのですよ」
 と、広重は薄らと笑みを浮かべては言った。その広重の様は、広重には何ら疾しいものはないと言わんばかりであった。
「では、深夜にKホテルから外出はされませんでしたかね?」
「そりゃ、勿論してませんよ」
 広重はいかにも自信有りげに言った。
「そうですか。では、別の質問をさせてもらいますが、広重さんには愛人がおられますかね?」
 そう山村が言うと、広重は顔を赤らめては、
「その質問は失礼ですぞ! いくら警察といえども、そのようなことは訊くものじゃないですぞ! 礼儀を弁えてくださいよ!」
 と、山村を非難するかのように言った。
 すると、山村は、
「しかし、どうしてもそのことを広重さんに確認しておかなければならないのですよ。そのことが星野さんの事件に関係してるかもしれないのでね」
 と言っては、薄らと笑みを浮かべた。その山村の笑みは、些か嫌味のある笑みであった。
 そんな山村が更に言葉を発そうとしたのを広重が手で制し、
「こんな所で話をするのも何ですから、外でしましょう」
 と、広重は山村との話をマンション内の住人に聞かれたくないと言わんばかりに言った。
 それで、三人は一旦マンションの外に出た。
 そして、手頃な所にまで来ると、
「で、僕に愛人がいるかということですか。
 で、そのことが星野さんの事件に関係してるかもしれないということですか。
 で、何故そのようなことが言えるのか、説明してもらいましょうかね」
 と言っては、広重は山村の顔をまじまじと見やった。そんな広重の表情は、まるで山村のことを憎き奴と言わんばかりであった。
 すると、山村は改まった表情を浮かべては、
「実はですね。星野さんには、盗撮という悪癖があったのですよ」
 と言っては、小さく肯いた。
「盗撮、ですか……」
 広重は呆気に取られたかのように言った。
「そうです。女子トイレの中とか、ホテル内なんかに密かに隠しカメラをセットしては、他人を盗み撮りしてたのですよ。
 で、我々は星野さんが盗撮したビデオを調べていたのですが、すると、広重さんと若いグラマーな美人がセックスしてる場面が映ったものがあったのですよ。
 で、広重さんが意図的にその場面を星野さんに撮らせたとは思えませんからね。
 それで、僕は広重さんに愛人がいるのかと訊いたのですよ。あるいは、デリヘル嬢を呼んだのかもしれませんがね」
 と、山村は広重をまじまじと見やっては言った。
 すると、広重は、
「そのビデオに映っていた人物が、絶対に僕だと刑事さんは断言出来るのですかね?」
 と、山村に挑むような眼差しを向けた。
「そりゃ、断言出来ますよ。何しろ、広重さんの顔は知れ渡ってますからね。僕以外の他の刑事たちも皆、広重さんだと言いましたよ」
 と、山村は険しい表情を浮かべては言った。
 すると、広重は突如、表情を綻ばせては、
「こりゃ、参ったな……」
 と、いかにも面映そうな表情を浮かべては、そして、苦笑した。そして、山村から眼を逸らせた。
 そんな広重を見て、山村と嵐刑事は、拍子抜けしたような表情を浮かべた。何故なら、こうあっさりと広重が、この事実を認めるとは思ってはいなかったからだ。もう少し、広重は言い逃れをすると読んでいたからだ。
 そして、広重は少しの間、決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、山村を見やっては、
「で、そのことが、どう星野さんの事件に関係してるというのでしょうかね?」
 そう言った広重の表情には笑みは見られなかった。そんな広重の表情は、とても真剣なものであった。
 すると、山村は畏まった表情を浮かべては、
「実はですね。星野さんの部屋から見付かった手帳に、広重さんの電話番号がメモされてたのですよ」
 そう山村が言うと、広重の表情は突如強張り、言葉を詰まらせた。
 そんな広重を見て、山村はいかにも真剣な表情を浮かべては、
「それは、何故ですかね?」
 と、広重の顔をまじまじと見やっては言った。
「何故と言われても、よく分からないですね」
 と、広重は困惑したように言った。
「そうですかね? 我々の捜査によると、星野さんは広重さんの電話番号を調べ、そして、広重さんに電話したのだと思うのですよ。
 で、星野さんが何故広重さんに電話したのかというと、それは、無論、あの盗撮ビデオの件ですよ。
 広重さんはTVなんかではいかにも紳士然としておられます。また、奥さんもおられます。それにもかかわらず、あんなグラマーの美人と情事に耽っていたことが公になれば、広重さんは致命的なダメージを受けてしまうことになるでしょう。
 それで、星野さんはあの盗撮ビデオで広重さんをゆすったのではないですかね?
 それで、広重さんはやむを得なく、金を払うとか言って星野さんを呼び出し、そして、星野さんの隙を見ては殺したのではないかということですよ。
 どうです? この推理は?」
 そう言っては、山村はにやっとした。その山村の笑みは、かなり嫌味のある笑みであった。
 すると、広重は、
「とんでもない! 僕は星野さんを殺してなんかいませんよ!」
 と、顔を真っ赤にしては、怒りを露にした表情で、また、声を荒げては言った。
「犯人は最初は誰だってそう言いますよ。最初から犯行をあっさりと認める者なんて、滅多にいませんからね」
 と言っては、山村は唇を歪めた。
「一体、何の証拠があって、僕を犯人呼ばわりするのですかね?」
 広重はいかにも不満そうに言った。
「先程説明したように、動機は充分ですからね。それに、広重さんのアリバイは曖昧と言わざるを得ないですからね。ホテルに泊まっていて、夜、外出しなかったということをあっさりと信じることは出来ませんからね」
 と、山村は渋面顔を浮かべては言った。
「そうだからといって、僕が星野さんを殺したという具体的な証拠は何もないじゃないですか! その程度の証拠で逮捕しても、とてもじゃないが僕を有罪には出来ませんぞ! それに、当り前のことですが、僕は星野さんという男を殺してはいませんからね」
 と、広重は言っては、にやっとした。
 そんな広重は、正に広重を星野殺しの犯人として疑った山村のことを嘲笑したかのようであった。
 そんな広重に山村は、
「でも、広重さんは星野さんにゆすられていたのですよね? そのことは認めてもらえるのですよね?」
 と、今度は穏やかな表情と口調で言った。
 すると、広重は山村から眼を逸らせては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「そりゃ、確かにゆすられましたよ。そのビデオでね」
 と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
 すると、山村は些か満足したように小さく肯いた。これによって捜査が一歩前進したからだ。そして、遅かれ早かれ、広重を落とせると察知したのである。
「で、それから広重さんは、どうしたのですかね?」
 山村は興味有りげに言った。
「そりゃ、僕としても、あんな場面が映ったビデオを公開されてしまえば、堪ったものではありませんからね。渋々、星野の要求通り、金を払うことにしたのですよ」
 広重は山村から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうに言った。
 すると、嵐刑事が、
「広重さんはあのビデオを眼にしたのですよね?」
「そりゃ、見ましたよ。そうでないと、金を払いはしませんからね」
 と言っては、広重は唇を歪めた。
「星野さんはあのビデオを広重さん宅に送り付けて来たのですかね?」
「そうです。僕の家に郵送して来たのですよ。
 それで、僕は星野の要求を飲むことにしたのですよ」
「で、広重さんはいくら払うことになったのですかね?」
 山村は興味有りげに言った。
「一千万ですよ。単なる火遊びの代償としては高いと思ったのですが、あのテープを公にされるよりはましだと思い、金を払うことにしたのですよ」
 と、広重はいかにも不快そうに言った。
「で、広重さんは結局、星野さんに一千万払ったのですかね?」
 山村は再び興味有りげに言った。
 すると、広重は、
「いいえ」 
 と、小さく頭を振った。
 すると、山村は、
「そりゃ、そうでしょう。広重さんは星野さんに一千万払うまでに殺してしまったのですから!」 
 と、薄らと笑みを浮かべながら言うと、広重は、
「そうじゃないのですよ! 僕の話を最後まで聞いてくださいよ!」
 と、甲高い声で、山村を諫めるように言っては、
「で、先程も言ったように、僕は僕の名誉を守る為に、一千万払うことにしたのですよ。
 といっても、僕の年収は三千万位ありますから、別に一千万払うからといっても、それで、困るわけではなかったのです。
 で、僕は星野に一千万払う旨を話し、そして、ビデオと引き換えに、一千万払う日まで決まっていたのですよ!
 それが、今日だったのですよ!
 ところが、その前に星野は何者かに殺されてしまったのですよ!
 これが、僕と星野の何もかもなんですよ!」
 と、広重は甲高い声で言った。そんな広重の様は、まるでTVで眼に出来る広重の様とは別人のようであった。
 そんな広重の様を眼にして、山村も嵐刑事も言葉を詰まらせてしまった。今の広重の様を眼にすれば、広重が嘘を言ったとは思えなかったからだ。
 それで、山村も嵐刑事もなかなか言葉を発することが出来なかった。
 そんな二人を眼にして、広重は、
「僕の言い分を分かっていただけましたかね?」
 と、まるで山村に訴えるかのように言った。
 すると、山村と嵐刑事は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、嵐刑事が、
「広重さんの命を受けた殺し屋が、星野さんを殺したということはないのですかね?」
 と、広重の顔をまじまじと見やって言うと、広重はむっとした表情を浮かべては、
「さっきも言いましたが、僕の年収は三千万ですよ。ですから、千万払ったからといって、どうということはないのですよ。僕の名誉を失う位なら、千万は惜しくなかったのですよ。
 それなのに、星野を殺すわけがないじゃないですか!」
 と、何故そのことが分からないのかと言わんばかりに、広重は些か苛立ったように言った。
 そう広重に言われると、嵐刑事は言葉を詰まらせた。確かに、今の広重の言葉はもっともなことと思えたからだ。
 それで、この辺で広重に対する捜査を終えることにした。
 広重への捜査を終えた山村と嵐刑事の表情は、甚だ冴えないものであった。その二人の表情を眼にすれば、広重への捜査が期待外れであったことを物語っていた。即ち、二人は広重がシロである可能性が高いと思ったのだ。
「広重さんが言ったように、確かに広重さんは高収入だ。それ故、一千万の金を捨てるのが惜しくて、殺しは行なわないだろう」
 山村は渋面顔で言った。
「では、小倉さんが証言した暴走族風の若者たちのことはどうなのでしょうかね?」
 嵐刑事は冴えない表情でいった。
 嵐刑事がそう言うと、山村は言葉を詰まらせた。今の嵐刑事の言葉に何と言えばよいか、分からなかったからだ。
 そんな山村は、
「とにかく、もう一度、星野さんが盗撮したテープを検証してみよう。何か見落としてるものがあるかもしれないからな。それに、星野さんの協力者と思われる女性も見付け出さなければならないよ」
 ということになり、その捜査を行なってみたのだが、成果は得られなかった。広重に関するビデオ以外に、山村たちの注意を引きそうなものを山村たちは見付けることは出来なかったのだ。また、星野の協力者と思われる女性が誰なのかは、依然として見当すらつかなかったのだ。
 その結果を受けて、山村は、
「困ったな……」
 と、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては言った。
 そんな山村に嵐刑事は、
「ひょっとして、犯人は星野さんを殺した時に、星野さんが盗撮したビデオテープを奪ったのかもしれませんよ」
 と、眼をキラリと光らせては言った。
「つまり、星野さんはそのビデオをダビングしておかなかったというわけか」
 と、山村。
「そうです」
「じゃ、その犯人とは、やはり、小倉さんが証言した暴走族風の若者と思ってるのかい?」
 と、小林刑事。
「そうじゃないかな。あるいは、その若者たちは、犯人の手先だったのかもしれない……」
 と、嵐刑事は些か自信無さそうに言った。
「だったら、犯人の手掛かりはまるでないじゃないか! その若者たちの手掛かりは何もないのだから!」
 と、小林刑事はいかにも不満そうに言った。
 すると、嵐刑事は小林刑事から眼を逸らせては、決まり悪そうな表情を浮かべた。
 すると、山村は、
「もっと情報が欲しいよ。そうすれば、それに基づいて捜査出来るんだが……」
 と、些か悔しそうに言った。
 さて、困った! どうやら、捜査は壁にぶつかってしまったみたいだ。星野が盗撮したと思われるビデオから広重の存在が浮かび上がり、これで事件は解決したと思ったのだが、どうやらその思いは空振りに終わってしまい、また、広重以外の線では特に有力な情報はないといった塩梅なのだ。
 それで、山村は捜査本部にあてられた会議室の中で、動物園の檻の中の熊のように、ひっ切りなく動き回ったのだが、そうだからといって、捜査が進展するわけはなかった。
 それで、とにかく、改めて新聞等で情報提供を呼び掛けてみることにした。
 だが、特に有力な情報は寄せられなかった。
 それで、山村たちの表情には、徐々に焦りの色が浮かんで来た。
 だが、そうだからといって、捜査は進展しなかった。
 そして、星野の事件が発生して二ヶ月が経ってしまったのである!

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