1 事件発生

 おかげ横丁という名前を知ってる人はどれ位いるだろうか?
 恐らく、多くの人は知らないと言うだろう。
 しかし、その説明は三重県人には当て嵌まらないだろう。三重県人なら、多くの人がおかげ横丁のことを知ってるに違いないからだ。
 では、おかげ横丁がいかなるものなのかを説明しよう。
 日本人なら誰もが知ってる伊勢神宮の内宮手前二百メートル程の所には、江戸後期から明治初期の風情をテーマにした建物が集まっている。
 それを「おはらい町」というのだが、その「おはらい町」の中程に誕生したのが、おかげ横丁なのだ。
 おかげ横丁という名前の由来は、伊勢名物「赤福」が約三百年も営業を続けてこられたのも、お伊勢さんのおかげという思いと、江戸末期から明治初期にかけて、庶民の間で流行したおかげ参りの故事に因んでとのことなのだ。
 そんなおかげ横丁は、テーマパークではないので、入場料は必要ないが、「おかげ座」という入場料が必要な見世物もある。
 しかし、その殆どは無料で見物出来る。
 といっても、その殆どは飲食店か土産物店だ。
 そして、その飲食店は伊勢うどんを食べさせる店が多いのが特色だといえるだろう。
 しかし、それは肯けるというものだ。
 何しろ、伊勢うどんは赤福と並ぶ伊勢の名物だ。それ故、伊勢を訪れる多くの観光客は、土産物として赤福を買い、伊勢うどんを食べて帰るのだ。
 そして、今日もおかげ横丁にある「甚兵衛」では、伊勢うどんを食べている客の姿を眼にすることが出来た。
 そして、その誰もが、美味しそうに伊勢うどんを食べていた。その客たちの間を、レトロな服に身を包んだ店員たちが、忙しそうに動き回っていた。そして、それは、いつもながらの光景であった。
 因みに、伊勢うどんが、他のうどんとどこが違ってるかというと、伊勢うどんは麺が太く、たれが少ない。たれは、正に、素麺並みなのだ。それ故、麺を丼に入ったたれでかき回して食べるのだ。これが、伊勢うどんなのだが、このような説明より、一度食べてみることをお勧めする。そして、それは、きっとグルメをも満足させることであろう。
 それはともかく、話は元に戻るが、「甚兵衛」は今日も伊勢うどんを食べる客で賑わっていた。
 といっても、今日は六月の初めだから、客の多くは中高年だ。既に仕事の第一線を退き、余生を趣味とか旅行で過ごそうとしてる人が殆どなのだ。
 そのような客は、伊勢うどんを充分に賞味し、少し休憩してから席を立つ。
 すると、別の客がやって来ては伊勢うどんを注文する。
 そんな状況がまだしばらく続きそうだったが、午後二時頃、突然異変が発生した。というのは、「甚兵衛」の露天に並べられてる席に座って、今まで美味そうに伊勢うどんを食べていた中年の男が、突如、ぶっ倒れたのである。
 そして、その男はぴくぴくと痙攣しては、口から泡を吹いていた。そんな男を眼にした婦人の中には、悲鳴を上げた者もいた。
 その異変を素早く眼にした女店員が素早くやって来ては、男性の傍らに屈み込んだ。
 男性の傍らには、男性が食べていた伊勢うどんの丼が転がっていて、丼からはまだ男性が食べ終わっていなかった伊勢うどんが零れ落ちていた。
 だが、その女店員、即ち、花田房子(24)は、それには眼もくれずに、
「お客さん! 大丈夫ですか!」
 と、いかにも心配そうな表情と口調で言った。
 だが、男性はそんな房子の言葉に何ら反応せずに、依然として小刻みに痙攣していたが、程なくがくんと頭を垂れた。その様は、明らかに男性がこの時点で魂切れたことを物語っていた。
 しかし、房子にはそれが信じられなかった。
 男性が食べていたのは、明らかに「甚兵衛」の伊勢うどんだ。となると、その伊勢うどんを中に、男性を死に至らしめたようなものが、入っていたというのか?
 もし、それが事実だとしたら、それは「甚兵衛」にとって一大事だ。
 という思いと、男性の死を目の当たりにしたショックが重なり、房子は正に茫然自失の様をしては、まるで金縛りに遭ったように、その場から動くことは出来なかった。
 だが、程なく「甚兵衛」の店主である米倉孝(50)がやって来ると、大田敬子(30)という店員に直ちに110番通報するように指示を出し、そして、房子と共に魂切れた男性を甚兵衛の奥の部屋に運んで行った。 
 そして、米倉は房子と、男性が零した伊勢うどんの後片付けをした。そして、「甚兵衛」の店内が平常に戻るのに、さ程時間が掛からなかった。それは、正に今の異変を眼にした者でなければ、果してそのような異変が起こったことに気付く者は誰もいないだろうといった塩梅であった。
 もっとも、それは「甚兵衛」に制服姿の警官が到着するまでの話だ。制服姿の警官が五名到着し、また、救急隊員も四名到着し、男性を担架で運んで行くまでは、再び辺りは緊迫した雰囲気に包まれたのだ。
 だが、警官と担架を持った救急隊員がその場から去って行くと、今度こそ、いつも通りの「甚兵衛」に戻ったのである。

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