2 進まぬ捜査
男性は直ちに伊勢市内のS病院に運ばれ、司法解剖が行なわれることになった。男性の死は、明らかに不審であったからだ。
そして、程なく解剖結果が出たのだが、それは何と青酸死であったのだ。
だが、今の時点では、男性が自らで意図的に青酸を飲んだのか、あるいは、誰かによって飲まされたのかは、皆目分からなかった。
それで、伊勢署の滝川正警部(50)は、男性の死を明らかにする為に「甚兵衛」に向かった。そして、「甚兵衛」の店員から話を聞くことにした。
すると、男性の死に際を眼にしたという花田房子が、
「それが、よく分からないのですよ」
と、いかにも泣き出しそうな表情を浮かべては言った。
「よく分からない? それ、どういうことですかね?」
滝川は眉を顰めた。
「ですから、私はその男性が倒れた場面を眼にしていたわけではないのですよ」
房子は決まり悪そうに言った。
「ということは、誰かが男性の異変を告げたので、慌ててその場に駆けつけたというわけですかね?」
「そうなんですよ。正に、そういうわけなんですよ!」
と、房子は何て物分かりの良い刑事さんだと言わんばかりに言った。
「じゃ、男性が自殺したのか、殺されたかというようなことは、まるで分からないのですかね?」
と、滝川は眉を顰めた。
「正にその通りです」
房子は正に神妙な表情で言った。
そんな房子に滝川は、
「男性には、連れはいなかったのですかね?」
と、渋面顔で言った。滝川は連れがいれば、その連れから詳細な話が聴けると思ったのである。
だが、房子はその滝川の問いに返答することが出来なかった。
だが、米倉が、
「連れはいなかったと思いますよ。もし、連れがいれば、男性を遺して帰る筈はないでしょうからね」
と言っては、小さく肯いた。
すると、滝川は、
「ふむ」
と渋面顔で言っては、
「だったら、男性の傍らにいたお客さんが、何か男性の死に関して役に立ちそうなことを言ってなかったですかね?」
と、好奇心を露にしては言った。
すると、米倉も房子も決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。というのは、本来ならそのようなことを確かめるべきだったのだろうが、気が動転していた米倉たちは、そのようなことまで気が回らなかったのである。
それで、米倉はその旨を話した。
すると、滝川は、
「そうですか……」
と、いかにも渋面顔を浮かべた。そういった状況なら、捜査が進まないと思ったからだ。
そんな滝川の胸の内を米倉も房子も察したのか、滝川から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせていると、そんな二人に滝川は、
「とにかく、男性が亡くなった時の状況をもう一度、説明してもらえないですかね」
と、渋面顔で言った。
「ですから、先程も言ったように、私たちはあの男性が倒れた場面を眼にしていたわけではないのですよ。でも、あの男性は一人で来られたのだと思います」
と言っては、房子は小さく肯いた。
「どうしてそう思われるのですかね?」
滝川は房子の顔をまじまじと見やっては言った。
「それは、私があの男性から注文を訊いたのですよ。すると、男性は一人分の注文しかしませんでしたからね。連れの人がいれば、一緒に注文した筈なんですが、そうではなかったですからね。ですから、一人で来たに違いありません!」
と、房子は甲高い声で言った。そんな房子は、そうに違いないと言わんばかりであった。
そう房子に言われ、滝川は、
「ふむ」
と言っては、小さく肯いた。確かに、房子の言ったことは、もっともなことだったからだ。
即ち、男性は一人で「甚兵衛」にやって来ては、伊勢うどんを食べてる時に亡くなったということは、間違いないようだ。
ということは、男性が食べた伊勢うどんを中に青酸が入っていたということになる。
それで、滝川はその旨を米倉と房子に話した。
すると、米倉は、
「滅相もない!」
と、顔を真っ赤にさせては、甲高い声で言った。米倉は、正にそのようなことは、絶対に有り得ないと言わんばかりであった。
すると、滝川は、
「そうですかね」
と、眉を顰めては、些か納得が出来ないように言った。
すると、米倉は、
「そうですかね、とは、どういうことですかね?」
と、いかにも納得が出来ないような表情と口調で言った。正に「甚兵衛」が出した伊勢うどんに青酸が入っていて、男性が死んだということが公になれば、それは正に「甚兵衛」にとって死活問題となるであろう。それ故、米倉は滝川に憤然と抗議したのである。
すると、滝川は些か表情を和らげては、
「例えば、『甚兵衛』の関係者に男性の知人がいたとして、その知人は男性に恨みを持っていたとします。それで、男性を亡き者にしようと目論み、男性が食べようとした伊勢うどんに密かに青酸を入れたというわけですよ」
と、米倉と房子に言い聞かせるかのように言った。そんな滝川は、正にその可能性は充分にあると言わんばかりであった。
すると、米倉は、
「そのようなことは、絶対に有り得ないと思いますね。
それよりも、僕はあの男性は自殺したのではないかと思いますね」
と、神妙な表情で言っては、小さく肯いた。
「自殺ですか……」
滝川は眉を顰めては、呟くように言った。
「そうです。自殺です。つまり、男性は自らが食べようとした伊勢うどんに、自らで青酸を入れては、魂切れたというわけですよ」
と、米倉は渋面顔で言った。そんな米倉は、それが事実だとしたら、「甚兵衛」はとんでもない迷惑を被ってしまったと言わんばかりであった。
そう米倉に言われると、滝川は、
「自殺ですか……」
と、呟くように言っては、
「でも、自殺なら、このような場所で、また、あのような方法で行なうでしょうかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
すると、米倉は眉を顰めては、
「今の時世、変わってる人がいますからね。自分の死に謎を遺して死んでやろうとか、世間を騒がせてやろうとか、世間に迷惑を掛けてやろうとかいう人がいますからね。それ故、あの男性もそういった類だったのかもしれないですよ」
と、その可能性は充分にあると言わんばかりに言った。
すると、滝川は、
「うーん」
と、唸り声のような声を上げた。そして、
「とにかく、あの男性の身元を早急に明らかにしますよ。そうしなければ、捜査は進まないですから」
と言っては、滝川はこの辺で「甚兵衛」を後にすることにした。
男性の死は既に青酸死であるということは明らかになっていたが、男性が所持していたと思われるショルダーバッグには、男性の身元を明らかにするものは入ってはいなかった。しかし、伊勢志摩方面の観光ガイドブックが入っていたので、伊勢志摩方面の観光客であった可能性はあった。
しかし、そのことと、中肉中背で、四十位と思われる年齢だけでは、身元証明にはならないことは明らかだ。
それ故、男性の指紋が警察に保管されていないかの捜査が行なわれた。
だが、成果は得られなかった。男性の指紋は警察に保管されてなかったのである。
だが、男性の身元を明らかにしなければならなかった。男性の死は殺しによる可能性は充分にあるからだ。
そこで、伊勢署内の会議室で、早速、捜査会議が行なわれることになった。
といっても、会議に出たのは、三人だけであった。まだ、殺しと決まったわけではないので、多くの人員を投入出来ないのである。
そして、まずどうやって男性の身元を明らかにするかの論議が交わされた。
そして、その結果、伊勢志摩方面のホテルとか旅館を当ってみようということになった。何しろ、男性が持っていたと思われるショルダーバッグに、伊勢志摩方面の観光ガイドブックが入っていたことから、男性はその方面の観光客だったかもしれず、それ故、伊勢志摩方面のホテルか旅館を利用したか、利用する予定だったかもしれないということだ。
その点を踏まえて、捜査してみることになったのだ。
だが、成果は得られなかった。男性と思われる者が宿泊したり、また、宿泊する予定だったのに、チェックインしなかったという情報は入手出来なかったのである。
男性が死んで、一週間が経過した。
だが、依然として、身元判明には至ってなかった。
男性には家族がいなかったのだろうか? 家族がいれば、男性のことを警察に届け出はしないのだろうか?
となると、男性は一人暮らしだったのか?
そうだとしても、会社を一週間も無断欠勤していれば、その線で警察に情報が入る筈なのだが、実際にはそのような情報はまるで入っていなかった。
となると、男性は一人暮らしの無業者だったのだろうか?
最近はそういった人が増えているとも聞く。もし、男性がそういった人物だったとしたら、男性の身元確認は遅れそうだ。
そう思うと、滝川たちの表情は、一層曇らざるを得なかった。