11 真相を話す
米倉はまず滝川から、ここしばらくの間で東京に行ったことがないかと訊かれた。
すると、米倉は即座にそれを否定した。
それで、次に米倉か「甚兵衛」の従業員が元々小早川のことを知っていたのではないかという問いが滝川によって発せられた。
だが、米倉はそれも即座に否定した。
だが、二ヶ月程前に米倉が一千万程の銀行預金を解約した事実が既に明らかになっていて、滝川からそれに関して問われると、米倉の言葉は詰まった。そんな米倉は、正にその滝川の問いには、大いに動揺したみたいだ。
そんな米倉に滝川は、
「その一千万は何に使ったのですかね?」
と、米倉に詰め寄った。
すると、米倉は、
「遊興費に使ってしまったのですよ。何しろ、僕はパチンコとか競艇なんかが好きですからね。
それで、つい羽目を外してしまい、一千万ものお金を使い果してしまったのですよ」
「しかし、パチンコや競艇なんかで一千万ものお金を使い果しますかね?」
「使い果しますよ。別に珍しいことではないですよ」
と、米倉は渋面顔で言った。
そう米倉が言っても、滝川は無論、その米倉の言葉を信じはしないが、この時点で滝川は小早川の部屋で見付かったテープのことを話し、そして、そのテープに録音されていた声が、米倉に似ていたことを話した。
すると、米倉は、
「そんな馬鹿な!」
と、そのことは話にならないと言わんばかりに言った。
「でも、念には念を入れなければならないので、米倉さんの声を正式に鑑定さてもらいますからね」
ということになり、専門家によって、小早川の部屋で見付かったテープの声と米倉の声が鑑定に掛けられた。
すると、その結果は滝川たちを喜ばせた。何故なら、その二つの声は同一人物である可能性が極めて高いという結果であったからだ。もっとも、小早川の部屋からは米倉の指紋は見付かりはしなかったが。
しかし、米倉は二ヶ月前に一千万ものお金を解約してることから、米倉が小早川に何か弱みを握られ、小早川はその弱みをねたに米倉をゆすり、米倉から一千万をせしめた可能性は充分に有り得るだろう。
それで、小早川が「甚兵衛」にやって来たのをチャンスとばかりに、米倉は小早川が食べた伊勢うどんに青酸を入れては殺した可能性は充分に有り得るだろう。
そして、その行為が計画的に行われたのか、衝動的に行なわれたのかは分からない。 しかし、その推理に基づいて、滝川は米倉を伊勢署に任意出頭させては、
徹底的に訊問した。
すると、米倉は程なく落ちた。米倉はさ程時間を経ずに真相を話し始めたのだ。米倉はその容貌から感じさせるように、善人なのかもしれない。悪には徹し切れないのかもしれない。
そんな米倉は眼頭にハンカチを当てながら、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべながら、話し始めたのであった。
「僕は運が悪かったのですよ」
伊勢署の取調室で、机を挟んで滝川と野口刑事と向い合いながら、折り畳み式の椅子に腰を下ろしてる米倉は、決まり悪そうな表情を浮かべながら、淡々とした口調で言った。
「運が悪かった? それ、どういうことですかね?」
滝川は神妙な表情を浮かべては言った。
「丁度三ヶ月程前のことなんですがね。
僕は千葉県の房総半島で、僕の車で一人でドライブしていたのですよ。伊勢から東京ですからかなりの長旅でしたが、僕は僕の車で長距離ドライブするという趣味がありましてね。
で、その日は、千葉市内のホテルに泊まり、翌日の午前八時頃、ホテルを後にし、房総半島の白浜に行こうと、車を走らせていたのですよ。
ところが……」
と言っては、米倉は言葉を詰まらせた。そんな米倉は、正にこれからのことは話したくないと言わんばかりであった。
「ところが、どうしたのですかね?」
そう言った滝川の表情と口調は、穏やかなものであった。
すると、米倉は一層決まり悪そうな表情を浮かべては、
「ところがですね。その時に、急に子供が飛び出して来たのですよ。
勿論、僕は急ブレーキを掛けたのですが、間に合いませんでした。程なく『ドスン!』という衝撃音が聞こえ、子供は僕の車とぶつかった衝撃で、三、四メートル撥ね飛ばされました。そして、アスファルトに叩きつけられてしまったのです。
僕は車を停め、血相を変えては車外に出ては、子供の許に行きました。
すると、案の定、子供は魂切れていました。頭と口から血を流し、もはや死人の顔そのものでした。心臓の鼓動を確かめてみるまでもありませんでした。
僕はこの時、周囲に眼を凝らしました。
正にその道は白浜に向かう海沿いの道で、道の両側には綺麗な花のラインが設けられていました。また、その道から見える海は、僕の故郷である伊勢の海よりもよほど綺麗でした。伊勢の方が地方なのに、何故東京からさ程離れていない房総半島の海の方が綺麗なのか、僕は不思議に思ったものです。
それはともかく、僕は周囲に眼を配ったところ、辺りには人影は無論、車も一台も見られませんでした。
つまり、僕が子供を撥ねた場面を眼にした者は、誰もいなかったということが、僕にはすぐに分かったのですよ。
それと共に、その時、僕の表情は、まるで鬼のように変貌していたことでしょう。
そんな僕は、咄嗟にその子供を辺りに咲き誇ってる花の群落中に素早く持って行っては、そっと寝かせました。そうすれば、子供の死体発見を遅らせることが出来ると思ったからですよ。
そして、僕はその場を逃げるようにして去って行ったというわけですよ」
と、いかにも険しい表情を浮かべては、滝川と野口刑事に言い聞かせるかのように言った。
そう米倉に言われると、滝川は、
「成程」
と、些か納得したように肯いた。
米倉はそんな滝川を見て、小さく肯き、更に話を続けた。
「で、僕は子供を撥ねてしまったその日、東京ディズニーランド近くのホテルに泊まりました。そして、TVのニュースにかじりついていました。
しかし、僕が撥ねた子供に関するニュースは報道されませんでした。
そして、翌朝のTVのニュースや朝刊にも報道されてませんでした。恐らく、僕が花の群落の中に置いたので、まだ発見されていないのでしょう。僕はそう思いました。
そして、僕は午前八時半ごろ、そのホテルを後にし、その日の午後五時頃に伊勢に戻ることが出来ました。
そして、翌日からは、僕は「甚兵衛」の主として、いつも通りの一日が始まったのですよ。
そして、一週間が過ぎました。しかし、僕が撥ねた子供の件は、まるでTVでも新聞でも報道されませんでした。
それで、時の経過と共に、僕は徐々に胸を撫で下ろし始めました。即ち、僕が引き起こした子供の事件は、闇に葬り去ることが出来るのではないかと思ったからです。
ところが……」
そう言い終えた米倉の表情には、悲愴感が漂い始めていた。それは、今から米倉が話す出来事がなければ、これからの不幸は発生せずに済んだのだと言わんばかりであった。
「ところがですね。その事件が発生して二週間経った頃、僕の家にまるで地獄からの使者と言えるような人物から電話が掛かって来たのですよ。
―米倉孝さんですかね?
『そうですが』
―僕は小早川という者です。
そう言われて、僕の言葉は詰まりました。小早川という名前とか、その声に僕はまるで心当りなかったからです。
それで、言葉を詰まらせてると、
―米倉さんは二週間前の水曜日、つまり、三月六日に房総半島の白浜の方にいましたね。
そう言われるや否や、僕の表情は忽ち、強張ってしまいました。
その理由を刑事さんは分かりますよね。即ち、僕は房総半島の白浜の近くで僕が撥ねてしまった子供のことを思い出したからです。
それで、僕は表情を強張らせたまま、言葉を詰まらせていると、小早川は、
―隠しても無駄ですよ。僕はちゃんと知っているのですから。
そう言われ、僕は依然として言葉を発することは出来ませんでした。
そして、固唾を呑んで、小早川の次の言葉を待っていると、小早川は、
―僕はその時、米倉さんがとんでもないことをやったことを知ってるのですよ。
と、いかにも冷ややかな口調で言いました。
それで、僕はとにかく、
『とんでもないこと? それ、どういったことですかね?』
と、いかにも小早川が言ったことに心当りないと言わんばかりに言いました。
すると、小早川は、
―僕は米倉さんが子供を撥ね、死なせてしまったことを知ってるのですよ。それなのに、米倉さんは子供をそのままにして逃げたのですよ。
つまり、米倉さんは死亡轢き逃げ事件を起こしたというわけですよ!
僕は小早川からそう言われるということは、凡そ察知していました。三月六日に房総半島の白浜の方にいましたねと、切り出されれば、それは自ずから察せられるというわけですよ。
しかし、僕は僕が引き起こしてしまった事件のことを誰にも眼にされていないという自信があったので、ここで弱みを見せれば、付け込まれると思い、
『一体、何のことを言ってるのですかね?』
と、惚けた声で言いました。
すると、小早川は、
―惚けても駄目ですよ。僕は米倉さんが轢き逃げ事件を起こした場面をちゃんとビデオに撮ってあるのですからね。
そう小早川に言われ、僕の言葉は詰まってしまいました。もし、それが事実なら、僕の立場は極めて深刻なものに陥ってしまうことは、明白だったからです。
しかし、それは、小早川のはったりかもしれません。
それで、僕は、
『何を言ってるんだ! 僕はそのような事故は起こしてないぞ! だから、あんたが何を言ってるのか分からないよ』
と、小早川を突き放すかのように言いました。
―おやおや。随分と強気なんですね。
じゃ、僕が何故米倉さんに行き着いたかというと、僕は轢き逃げ犯の車のナンバープレートを控え、それによって米倉さんに行き着いたというわけですよ。
そのことと、僕が撮ったビデオを警察に渡せば、米倉さんにとって極めてまずいものになるんじゃないですかね。
そう言われ、僕の表情は一層強張りました。確かに、僕の見知らぬ男がこうやって僕に電話を掛けて来たということは、僕の車のナンバー控えたことによると思ったからです。
となると、僕の思いに反して、小早川は僕が子供を撥ねた場面をビデオに撮っていたのかもしれない。
そう思うと、小早川のことを軽んじるのは、危険なのかもしれない。
一方、あっさりと僕の轢き逃げを認めるというわけにもいかなかった。何故なら、僕は辺りに眼を配り、誰もいないということを確認したのだから。
それで、
『僕はあんたが何を言ってるのか分からないよ。でも、どんな場面が映ってるのか知らないが、警察に持ち込まれ、何かの事件に僕が疑いを持たれてしまうのも嫌だからな。
だから、そのビデオを僕に見せてくれよ。そうしないと、事は始まらないというものだよ』
そう言っては、僕は小早川の出方を見ようとした。
すると、小早川は、
―フッフッフッ。そう来ると思っていたよ。
じゃ、そのビデオの映像をプリントして送るから、あんたの連絡先を教えてくれないかな。
そう言われたので、僕はやむを得ず、僕の住所を小早川に話した。
すると、その三日後に、小早川からの封筒が送られて来た。もっとも、小早川の住所は書かれてなかったが。
それで、僕はとにかく、その封筒の中を見てみた。
すると、僕は忽ち強張った表情を浮かべてしまった。何故なら、小早川が言った通り、僕が子供を撥ねた場面や、僕が子供を抱え込んでる場面が、きちんと、プリントされていたからだ。
一体、何処に身を潜め、撮っていたのか分からないが、ズームで撮った為に、僕の顔が鮮明に写し出されていたのです。
それらの写真は、全部で五枚あったのですが、僕はその五枚の写真をしばらくの間、まるで虚ろな表情で見やっていました。
だが、これによって、小早川の言ったことが、出鱈目ではなかったことが、明らかとなったのです。
それ故、そのビデオを警察に持ち込まれてしまえば、僕にとって致命的になってしまうことは、請け合いです。
そう思ってると、その日の夜、再び小早川から電話が掛かって来ました。
それで、僕は小早川に、
『あんたの要求は何なんだ?』
と、甚だ真剣な表情で言った。
―そりゃ、金さ!
小早川はいかにも力強い口調で言った。
もっとも、小早川がそう言って来ることは予め予想出来たことなので、僕にとって問題なのは、その金額だった。
『一体、いくら欲しいんだ?』
―一千万だ! 一千万欲しいんだ!
小早川は再び力強い口調で言った。
『一千万? そりゃ、あまりにも高過ぎるんじゃないのかな』
僕は正に話にならないと言わんばかりの口調で言った。一千万という金額は僕にとって払えない金額ではなかったが、しかし、僕の銀行預金の全額といってもいい位の金額であった。
それで、僕は一千万はとても無理だと言った。
すると、小早川は、
―嫌なら、僕のビデオカメラを警察に持ち込み、僕の知ってることを何もかも警察に話しますよ。
と、まるで僕のことをせせら笑うかのように言った。
それで、僕の表情は、忽ち茹で蛸のように真っ赤になってしまい、
『分かったよ。でも、これで最後にしてくれよな』
と、僕は思わず口走ってしまった。
―そりゃ、分かってるさ。
小早川は正に軽快な口調で言った そんな小早川に僕は、
『じゃ、その映像を録画したSDカードは僕に渡してくれるんだろうな』
―そりゃ、分かってるさ。
と、小早川は正にそのようなことは訊かれるまでもないさと言わんばかりに言った。
『そうか。でも、そのビデオのコピーを保存してないだろうな?』
―そりゃ、そのようなことはやってないさ。そのような心配は無用というものさ。
と、僕に信じろよと言わんばかりに言った。
『そうか。分かったよ! じゃ、そのSDカードと引き換えに、一千万渡すことにするよ』
―流石米倉さんだ。物分かりがいいよ。で、何処で取引するんだ?
『東京ディズニーランドの近くがいいな』
―そんなとこまで出て来るのか?
『ああ。構わないよ』
―じゃ、東京ディズニーランドの近くといっても、具体的にどの辺りかな。
『それは、僕の方から連絡するよ。一週間後に連絡するよ。で、あんたの携帯電話の番号を教えて欲しいな』
小早川の携帯電話の番号を聞くと、その時点で僕は小早川との電話を終えた。そして、その一週間後、僕は僕の車で東京に向かった
そして、東京ディズニーランドから少し離れた所で僕は小早川と待ち合わせをし、僕は小早川からSDカードを受け取ったのと引き換えに、一千万を渡した。
とはいうものの、その時に僕はちょっとした細工をした。
それは、小早川が僕が渡したお金が一千万あるかどうか、数えてる時に、小早川の車に車両追跡装置を密かにマグネットで装着したということだ。これによって、小早川の移動場所が僕のスマートフォンで分かるというわけだ。そうなれば、僕は小早川の居場所を知ることが出来るというわけだ。
何故、僕がそのようなことをやったというと、小早川は必ずしも僕との約束を守るとは限らない。それ故、もし、そうなれば、僕は小早川に〝目には目を歯には歯〟の理論で、小早川に反撃をしてやろうと思った。その為には、小早川の居場所を知っておく必要があると思ったというわけさ。
それはともかく、小早川は僕が渡したお金が一千万であったことを確認すると、僕は、
『どうしてあんたは、僕の事故現場の近くにいたんだ?』
という言葉が自ずから発せられた。以前から、僕はこの疑問を抱えていたのだが、遂に言葉となって小早川に対して発せられたのだ。
すると、黒いサングラスを掛け、素顔を見せようとはしない小早川は、
『そんなことは、どうだっていいさ。深く考えるなよ』
と、薄らと笑みを浮かべては言った。
そう言われ、僕は決まり悪そうな表情を浮かべた。僕はその理由を知ることを熱望していたのだが、小早川にあっさりとその思いを絶たれてしまったからだ。
だが、
『じゃ、あの子供は、誰の子供だったんだい? それに、あの事故のことは、公になったのかな?』
という言葉が自ずから発せられた。何しろ、僕は僕が撥ねた子供が誰の子供であったのか、また、あの事故のことが公になったのか、とても気になってたからだ。それは、伊勢方面の新聞では、記事としては記載されはしなかったのだが、関東地方の新聞では、記事になったかもしれないと、僕は思ったのだ。
すると、小早川は、
『つまらないことを考えるなよ』
と、まるで僕のことを突き放すかのように言った。そして、小早川の車に乗り込み、僕の許をさっさと去って行ったのである。
僕はそんな小早川の車が去って行くのを呆然と見送るばかりであった。
それはともかく、小早川は僕がセットした車両追跡装置のことに気付いていないみたいであった。何故なら、その装置によって、僕は小早川が住んでいるマンションを突き止めることが出来たからだ。
それは、東京台東区にある『清和マンション』というマンションであった。
もっとも、部屋番号までは分からなかったが、それは後で調べれば、分かることであろう。
そう僕は思ったものの、僕は改めて、僕が被った不運を嘆いた。あの時、子供を撥ねるという不運に見舞われなければ、このような羽目に陥らなくても済んだのだからだ。正に、子供を撥ねてしまったというのは、不運だったとしか、言いようがないからだ。
それはともかく、小早川に一千万を渡したことによって、僕が犯した不運は、一応闇に葬ることに成功した。
そして、一ヶ月が過ぎた。
すると、その頃、思ってもみなかった相手から電話が掛かって来た。
その相手とは、小早川だった。小早川とは、無論、僕を脅し、僕から一千万を奪った憎き小早川であった。
小早川とは、一ヶ月前に一千万を渡して、縁が切れた筈だ。その小早川からまだ一ヶ月しか経たないのに、電話が掛かって来たのだ。
それで、僕の表情は、思わず強張った。
そんな僕に小早川は、
―米倉さんは伊勢のおかげ横丁で、『甚兵衛』という店を経営してるんだってな。
『……』
―おかげ横丁は伊勢神宮の近くにあるんだってな。だったら、さぞお客がやって来ては、儲かってるんだろうな。
そう小早川に言われ、僕の脳裏に嫌な予感が過ぎった。
それで、僕は言葉を詰まらせていると、
―商売繁盛してるから、さぞ米倉さんはお金を持ってるんだろ。
そう小早川に言われ、僕は思わずかっとしてしまった。何故なら、僕と小早川の関係は、既に終わってるにもかかわらず、小早川がまたしても電話を掛けて妙なことを言って来たからだ。
それで、僕は、
『一体、何の用があるんだ?』
と、強い口調で言った。
すると、小早川は、
―俺が今、何処にいると思う?
『そんなこと、知らないよ』
僕は小早川を突き放すかのように言った。
すると、小早川は、
―実はな。俺は今、伊勢にいるんだよ。
そう小早川に言われ、僕は呆気に取られたような表情を浮かべては、言葉を詰まらてしまった。
すると、小早川は、
―今、俺は伊勢のおかげ横丁の近くにいるんだよ。
そう小早川に言われ、僕は再び言葉を発することが出来なかった。
とはいうものの、僕はその時、『甚兵衛』にはいなかった。何故なら、『甚兵衛』の営業時間は午後六時までなのだが、今は午後八時であったからだ。
それはともかく、小早川の言葉に僕は言葉を詰まらせてしまうと、小早川は、
―実はな。あのビデオの映像には、コピーがあるんだよ。
そう小早川に言われ、僕の表情は怒りで真っ赤になってしまった。何しろ、僕はコピーがないことを確認して、小早川に一千万を払ったのだから! 即ち、小早川の行為は約束違反だ!
それで、僕は直ちにその思いを小早川に話した。
すると、小早川は、
―そりゃ、分かってるさ。単なる俺のミスだったんだ。悪気はなかったんだよ。
『そうか。だったら、そのコピーを僕に渡してくれないかな』
―ああ。渡すよ。俺はルール違反は嫌だからな。
『じゃ、今からそのコピーを渡してもらおうかな』
―それでいいよ。
『じゃ、今、おかげ横丁の近くのどの辺りにいるんだ?』
僕がそう言うと、小早川はその場所を説明した。
それで、僕は直ちにその場所に行った。その場所は確かにおかげ横丁の近くで、僕がその場所に着くのに十分も掛からなかった。
僕は車から降り、その場所に行くと、確かに小早川はそこにいた。
だが、以前のように、黒いサングラスは掛けていなかった。
僕はその男が小早川だと確認すると、
『今日はサングラスを掛けていないんだな?』
と、些か嫌味を込めた口調で言った。
すると、小早川は、
『俺と米倉さんは、一蓮托生じゃないですか! それで、今後、米倉さんには俺の顔を覚えてもらう必要があるんですよ』
と言っては、にやにやした。
小早川はそのように笑顔を浮かべたのだが、僕の表情は小早川とは対照的に甚だ強張っていた。そして、
『それ、どういう意味だい?』
だが、小早川はその問いに答えずに、コピーが保存してあるというSDカードを僕に渡した。
僕は持参して来たビデオカメラで、そのSDカードがあの忌まわしき事故のコピーであることを確認すると、
『本当にコピーはこれだけだろうな?』
と、小早川を睨み付けるように言った。
『ああ。本当さ。これで、最後さ』
そう小早川に言われ、僕は小さく肯いた。何しろ、その言葉を信じるしかなかったからだ。
そして、僕はこの時点で小早川の許を去ろうとすると、小早川は、
『明日、米倉さんの店に行くからな』
その小早川の言葉によって、僕の歩みは止まった。
そんな僕に
『明日、米倉さんの店、つまり『甚兵衛』に行っては、伊勢うどんを食べさせてくれよな。愉しみにしてるからな』
と、小早川はにやにやしながら言った。
僕はそんな小早川をその場に遺しては、去って行った。
そして、その翌日の午後一時頃、小早川は確かに『甚兵衛』にやって来た。そして、伊勢うどんを注文した。
そんな小早川は、花田房子ちゃんに、
『米倉さんを呼んでくれないか』
と言ったので、僕は小早川の許に行った。
すると、小早川は、
『この伊勢うどん、とても気に入ったから、毎日でも食べに来ようかな』
そう言っては、にやにやした。
僕はそう小早川に言われ、返す言葉がなかった。何しろ、辺りにはお客さんがいたので、このような場所で小早川と混み入った話をすることが出来なかったからだ。
また、僕は小早川の話に付き合わされるのが嫌だったので、店の奥に行こうとすると、そんな僕の手を摑み、小早川は、
『もうちょっと、付き合ってくれよ』
と言っては、にやにやした。
それで、渋面顔を浮かべては、その場に立ち止まると、小早川は、
『あの子供の両親は、どうしてるかな』
そう小早川に言われ、僕は思わず冷や汗が流れて来た。ここしばらくの間、その子供のことは忘れていたが、今、強烈に思い出してしまったからだ。
それで、僕は顔を赤らめては、引き攣った表情を浮かべてしまった。
小早川はそんな僕を眼にして、にやにやした。小早川はまるで僕を虐めるのが、愉しくて仕方ないと言わんばかりであった。
そして、小早川はやがて、伊勢うどんを食べ終えた。そして、僕に、
『料金は払わないからな』
と、正に横柄な口調で言った。
しかし、そのようなことは許されないので、僕は不満そうな表情を浮かべてると、小早川は、
『また来るからな』
と、僕の肩をポンと叩いては、いかにも機嫌良さそうな表情を浮かべては、僕の許を去って行った。
僕はそんな小早川にどうすることも出来なかった。
そして、その時から一週間後の水曜日の午後八時頃に、またしても小早川から電話が掛かって来た。
―俺だよ。小早川だよ。
そう言われ、僕の言葉は詰まった。
そんな僕に小早川は、
―何故俺が米倉さんに電話したのか、分かるかい?
『分からないな。まさか、あのコピーがまだあると言うんじゃないだろうな』
と、僕は眼をギラギラさせては言った。
―まさか! いくら俺でも、そんなことはしないさ。
『じゃ、何故電話して来たんだ?』
僕はいかにも納得が出来ないように言った。
―実はな。俺をあんたの店の店員として雇ってもらいたいんだよ。
『馬鹿なことを言うな!』
僕は小早川を怒鳴りつけた。
すると、小早川は、
―まあ、そう怒るなよ。
実は俺は今、失業中なんだよ。あんたから貰った一千万は、サラ金の借金の返済なんかに消えてしまったんだ。だから、俺は今、金にとても困ってるんだよ。
だから、あんたの店で働きたいんだよ。
と、まるで僕の機嫌を取るかのように言った。
しかし、僕がそんな小早川の言い分を認めるわけはなく、すげなく断った。
すると、小早川は、
―いいのかい? そんなことを言って。
と、まるで、僕を脅すように言った。
『それ、どういう意味だい?』
僕は小早川に抗うように言った。
―だから、何故俺と米倉さんが知り合うようになったのかを忘れてもらっちゃ、困ると俺は言いたいんだよ。
そう小早川に言われ、僕は表情を強張らせ、言葉を詰まらせたが、程なく、
『僕はもうあんたとの縁は切れたのだから、今後、もう電話しないでくれないかな』
と、いかにも迷惑だと言わんばかりに言った。
―そう言わないでくれよ。俺は米倉さんを必要としてるんだよ。俺と米倉さんとの関係は一蓮托生だと以前言ったじゃないか! 米倉さんの店で俺は喚き散らしたっていいんだぜ! 「甚兵衛」の米倉さんは子供を轢き逃げしては死なせた犯罪者なんですよという具合にな!
『馬鹿なことを言わないでくれ!』
僕は顔を真っ赤にしては、甲高い声で言った。
―そうだろ。だったら、俺と冷静に話し合おうじゃないか!
『だから、何を話し合うというんだ?』
―だから、今後、俺と米倉さんは友人関係を保ち、米倉さんに俺の仕事を手伝ってもらおうと、俺は思ってるんだよ。
『もし、断ったら?』
―だったら、さっき言ったことを実行するだけさ。
そう小早川に言われ、僕は苦渋に満ちた表情を浮かべた。
この小早川という男は、正に僕の弱みに付け込んでは、僕の骨の髄までしゃぶろうとしてるのだと思った。僕は小早川に一千万払ったことによって、小早川との関係は終わったのだと思っていたのだが、その思いはどうやら甘かったということが、今、明らかとなったのだ。
そんな僕は正に苦渋の表情を浮かべては、言葉を詰まらせていると、小早川は、
―明日、「甚兵衛」に行くからな。
『明日?』
―ああ。明日だ。明日、俺は伊勢に行って「甚兵衛」に行くよ。そして、俺たちの今後のことを話し合おうじゃないか。
『それは、止めてくれ!』
僕はヒステリックに言った。
―じゃ、話し合いは別の場所でも構わないよ。でも、明日、とにかく、「甚兵衛」に行くからな。
そう言っては、小早川は電話を切った。
そして、翌日、小早川は僕に言った通り、確かに「甚兵衛」に姿を見せた。それは、午後二時頃のことであった。
これによって、僕の決意は決まった。
即ち、僕は小早川が食べる伊勢うどんに青酸を入れて、小早川を亡き者にするということを!
小早川という男は、一度甘い汁を吸うと、死ぬまでその甘い汁を吸おうとする悪辣極まりない男だ! それ故、小早川を亡き者にするしか、僕は救われる道はないと、僕は理解したというわけである。
もっとも、僕の店で小早川を殺すことに、僕は躊躇いを感じないわけではなかった。
しかし、僕の勘としては、小早川は過去に何か問題を起こしてるような男と思われることから、小早川が死んだ理由は、僕とは無関係と警察に思わせることが可能と僕は読んだのである。何しろ、僕は子供の事故のビデオカメラのコピーを手にし、小早川はもうコピーはないと言ったので、僕と小早川との関係は明らかにはならないと僕は読んだというわけである。
もっとも、僕のその判断に間違いがないという自信はなかった。
しかし、僕は小早川を一刻も早く片付けないと、気がおかしくなりそうであった。
それで、僕の知人で、鍍金工場で働いていた人から貰った青酸を小早川が食べた伊勢うどんに入れては、僕は小早川を亡き者にしたというわけですよ。
僕はこの犯行はばれないと思っていたのですが、やはり、日本の警察は優秀でしたね。
もっとも、僕は余計なことをやってしまった為に墓穴を掘ってしまったのかもしれません。
余計なこととは、僕が小早川のマンション、即ち、『清和マンション』に行っては、僕が録音したテープを小早川の机の引出しの中に入れたことです。
僕は小早川と話をしてみて、とても驚いたことがありました。それは、小早川の声が僕の声と驚く程、似ていたということです。小早川の声を聞いてると、まるで僕が話してるのかと思ったことがありました。
僕はそのことを利用し、小早川の死を誤魔化してやろうと、目論んだというわけですよ。
僕は、僕がセットした車両追跡装置で、小早川のマンションを突き止め、また、小早川が死んだ時に、小早川のズボンのポケットにあった財布から、小早川の部屋の鍵と思われる鍵を抜き取りました。
そして、その鍵は案の定、小早川のマンションの鍵で、僕は小早川が死んだ翌日に、東京にまで行っては、その鍵で小早川の部屋に侵入し、そして、部屋の中を物色しては、小早川の死を誤魔化す手段がないものかと思いました。
すると、小早川の机の引出しの中に入っていた手帳に、〈木島満男に気をつけろ! 木島満男は俺の命を狙ってるぞ!〉と、メモ書きされていたのですよ。
僕は無論、木島満男という人物のことは知りませんでしたが、小早川がメモ書きしていたように、小早川は木島満男に命を狙われてる可能性があると思いました。そして、そのことは、充分に利用出来ると思ったのです。
そして、その手帳には、その木島満男の住所と電話番号も記してあったので、僕は机の上に置いてあったラジカセに、机の中に入っていたカセットテープをセットし、刑事さんが耳にした内容を録音し、○重と書いたラベルを貼り、物入れの中に入れたというわけですよ。
そして、僕はその手帳を持ち帰り、破棄したというわけですよ。
でも、その行為は余計な行為だったですね。何故なら、そのテープがきっかけで、僕の犯行が発覚してしまったわけですから。
そして、これが、小早川の事件の一部始終なんですよ。
最後に言い添えておかなければならないことは、花田房子ちゃんは、小早川を殺したのは僕だということに、薄々気付いていたと思いますね。でも、そのことを警察に言わなかったのは、正に房子ちゃんは立派だと思いますね」
そう言い終えると、米倉はズボンのポケットから何やら取り出した。そして、素早くそれを口の中に持って行った。
〈しまった!〉
滝川がそう思っても、それは後の祭りだった。
米倉はあっという間に横転し、小刻みに身体を痙攣させたかと思うと、呆気なく魂切れてしまったのだ。そんな米倉の様は、ほんの少し前に生きていたことが信じられない程、微動だにしないものであった。