12 消えた女
米倉の自供により、事件は解決したかのように見えたのだが、まだ謎はあった。
というのは、米倉が小早川にゆすられたのは、米倉が房総半島の白浜の近くで子供を撥ねて死なせてしまったからだ。
その子供は確かに米倉の車が撥ねてしまった為に死んでしまったことは、米倉によって確認されている。
それで、滝川はその米倉の自供に基づき、それに該当する事件が発生してないか調べてみたのだが、その結果、そういった事件が発生してることは確認されなかったのである。
また、小早川は偶然に米倉が引き起こした事件の現場にいて、その場面をビデオカメラで撮影したのだろうか?
何しろ、小早川はピッキング強盗であった男だ。そんな小早川が偶然に米倉が引き起こした事件に居合わせていたというのは、何だか都合が良過ぎるのではないだろうか?
その点に関して、滝川は陳に確認してみた。
すると、陳は、
「確かにそれはタイミングが良すぎると思いますね」
と言ったものの、陳はそれに関して特に情報を持ち合わせてはいないと言った。
だが、
「ひょっとして、山村沙知さんなら、その件に関して何か知ってるかもしれませんね」
と、渋面顔で言った。
「どうしてそう思うのかな」
滝川は興味有りげな表情と口調で言った。
そう滝川が言うと、陳は渋面顔を浮かべては、何かに思いを巡らせているようであった。
そして、渋面顔を浮かべては、なかなか言葉を発そうとはしないので、
「どんな些細なことでも構わないから、遠慮なく話してもらえないかな」
と、滝川はまるで陳の機嫌を取るかのように言った。
すると、陳はまだしばらく、何やら考え込むような仕草を見せては、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「ひょっとして、その子供は山村さんの子供だったのかもしれないな」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「山村さんの子供? 何故そう思うのかな」
滝川はいかにも興味有りげに言った。
すると、陳は滝川から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべ、言葉を詰まらせていた。そんな陳はそれに関して情報を持っているのだが、それを話すことが山村沙知の為にならないので、それを話すことを拒んでるかのようであった。
だがやがて、陳は、
「山村さんは子持ちだったみたいですよ」
「子持ちだった?」
滝川は再び興味有りげに言った。
「そうです。でも、僕はそれ以上のことは分からないのですよ」
と陳は言っては、それ以降口を閉ざし、言葉を発そうとはしなかった。
それで、滝川はこの辺で陳に対する聞き込みを終え、今度は山村沙知から話を聴いてみることにした。
だが、沙知は以前住んでいた「大沢荘」204号室にはいなかった。沙知は既に「大沢荘」から転居してしまってたのだ。
この事実を目の当たりにして、何故沙知を逮捕し、身柄を拘束しておかなかったのかと後悔しても、後の祭りであったのだ。
それで、沙知の住民票を調べてみたのだが、成果は得られなかった。
それで、今度は沙知の戸籍を調べてみた。
すると、沙知には子供がいないことが明らかとなった。
だが、その事実を信用出来なかった滝川は、沙知が住んでいた「大沢荘」の近所の住人に聞き込みを行なってみたところ、沙知が三歳位の子供と度々一緒にいる場面を眼にしたという証言を入手出来たのだ!
となると、その子供は沙知の実子ではないということか?
その点に関しては、「大沢荘」の住人は情報を持ってはいなかった。
また、沙知の戸籍から、沙知の両親は既に他界し、また、兄弟姉妹もいないことが分かった。それ故、沙知の身内からそれに関する情報を入手することは出来ないというものだ。
だが、それに関して情報を持ち合わせてる人物が見付かった。
それは、沙知の生まれ故郷である長野県諏訪市に住んでいる高橋則子という人物であった。滝川たちは沙知の生まれ故郷である諏訪市周辺の中学、高校の同窓会の名簿を調べ、沙知が卒業した中学、高校を調べ出し、その線から沙知と親しかった高橋則子を見付け出したのだ。
則子は滝川の問いに対して、
「その子供は、山村さんの実子ですよ」
と、些か表情を曇らせて言った。
「どうして、そう言えるのですかね?」
滝川は興味有りげに言った。
「どうしてって、私は山村さんからそう聞いたので」
と、則子は渋面顔で言った。
「そうですか。でも、山村さんは結婚をされてなかったと思うのですがね」
滝川は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
滝川にそう言われると、則子は滝川から眼を逸らせては、渋面顔を浮かべ、少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「ですから、その子供はてて無し子だったみたいなのですよ」
「てて無し子ですか……」
滝川は呟くように言った。
「そうです。詳しいことは知りませんが、山村さんは男に騙されたみたいなのですよ。つまり、山村さんはその男と結婚するつもりで付き合っていたみたいなのですが、子供が生まれた頃、男は山村さんを捨て、姿を晦ませてしまったみたいなのですよ」
と、則子はいかにも言いにくそうに言った。
そう則子に言われると、滝川は表情を一層曇らせた。何故なら、沙知の子供が生まれた経緯には、複雑な事情があったことが分かったからだ。
とはいうものの、その子供が沙知の戸籍に記載されていないのは、妙だ。
それで、滝川はその思いを則子に話してみた。
すると、則子は、
「そのようなことを私に言われても、分からないですわ」
と言っては、眉を顰めた。
「そうですか。では、山村さんはその子供を可愛がっていたでしょうかね?」
と、滝川は眼をキラリと光らせては言った。
すると、則子は、
「可愛がっていなかったのではないですかね」
と、表情を曇らせた。
「何故そう思うのですかね?」
「何故って、その子供の父親は、山村さんを捨てたのですよ。子供が生まれた頃、山村さんを捨てて、何処かに姿を晦ませたのですよ。
そんな男のことを山村さんはいいようには思ってはいないですよ。それ故、そのような男との間に生まれた子供は、常識的に見て、可愛い筈はないと思うのですがね。
もっとも山村さんはその子供を産んだ頃、私達との付き合いを止めてしまったのですよ。自らの恥を私たちに見せるのがプライドの高い山村さんは嫌だったのかもしれませんね」
と、則子は表情を曇らせては、淡々とした口調で言った。
滝川はその則子の話を聞くにつれ、その表情は徐々に険しいものに変貌して行った。何故なら、滝川の脳裏にとんでもない思いが浮かんで来たからだ。
そのとんでもない思いとは、米倉が撥ねた子供は、陳が言ったように沙知の子供であったようなのだが、実のところ、沙知は故意に米倉に沙知の子供を撥ねさせたのではないかという思いが浮かんだからだ。
何しろ、沙知の子供の父親は、沙知を捨てて何処やら姿を晦ませてしまった。それ故、沙知の男に対する思いは、愛から憎悪に変わった。それ故、子供に対する思いも、愛から憎悪に変わったのではないだろうか? そして、その子供の存在など、沙知は認めなかったのではないのか? それで、沙知は出生届を出さなかったのではないのか?
そんな沙知は、その子供のことを持て余していたのだが、そんな折に陳と小早川のことを知った。
しかし、小早川と陳は、普通の男ではなかった。何しろ、二人はピッキング強盗であったのだから。表面的には、普通の市民を装っていたのだが、二人には裏の顔があったのだ!
そのことを知った沙知は、小早川に沙知の子供の処置を持ち掛けた。
それを受けて、考え出された手段が、房総半島で偶然にやって来た車に子供を撥ねさせるというものであったのだ。何しろ、その場所に選ばれた白浜近くの道は、車の往来の少ない場所だ。そういった場所で、子供を撥ねて死なせてしまった運転手はどういった手段を取るだろうか?
その場面を眼にした者がいれば、逃げようとする者は、少ないかもしれない。しかし、眼にした者がいなければ、逃げようとするのではないか? 小早川と沙知はそれを狙ったのではないのか?
即ち、沙知の戸籍に記載されていない子供を何者かに確実に撥ねさせ、その者をゆすり、金を奪おうと姦計し、その姦計が実行されたのではないのか? そして、その姦計に引っ掛ったのが、米倉であったというわけだ。
もっとも、目撃者がいないからといって、子供を撥ねた運転手が必ず逃げるとは限らないであろう。そういったケースなら、どういった出来事が発生したであろうか?
それに関して、滝川はうまく説明出来なかった。
しかし、米倉は逃げた為に、小早川と沙知の姦計に引っ掛かってしまったのだ。
そう思うと、滝川の表情は、自ずから険しいものへと変貌せざるを得なかった。
そんな滝川に則子は、
「どうされたのですか?」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
それで、滝川は些か表情を和らげては、
「いや。何でもありませんよ」
何しろ、滝川の思いを則子に話すわけにはいかなかったからだ。
そして、滝川はこの辺で則子に対する聞き込みを終えることにした。
則子に対して聞き込みを終えた滝川の表情は、些か満足げなものであった。何故なら、則子の証言によって、今まで謎だった部分に光が当ったからだ。
即ち、米倉の告白は、決して絵空事ではなかったのだ! 房総半島で米倉が犯していた轢き逃げは、実際に発生していたのだ! 米倉が轢いて死に至らしめた子供は、山村沙知の子供であったのだ! そして、その現場を小早川が密かにビデオに撮り、そして、米倉をゆすったのである!
とはいうものの、これはまだ滝川の推理に過ぎず、それを裏付ける証拠があるわけではなかった。
それで、この事件を解決するには、山村沙知を見付け出さなければならないであろう。
しかし、沙知は何処かに姿を晦ませてしまった。
そうかといって、沙知の顔写真を日本全国の警察署、交番に貼り出すわけにもいかなかった。何故なら、まだ沙知の犯行が確定したわけではなかったからだ。
それで、滝川は陳に滝川の推理を話してみた。
すると、陳は、
「その可能性はありそうですね」
と、流暢な日本語で言った。
そう陳に言われ、滝川は些か満足そうに肯いた。滝川は改めて自らの推理に自信を持ったからだ。
とはいうものの、沙知を見付け出さないことには話にならない。
それで、滝川は改めて陳にその思いを話してみた。
だが、陳は、
「僕は山村さんが何処にいるのか知らないですよ」
と、淡々とした口調で言った。
それで、滝川はこの辺で沙知の行方を千葉県警に捜してもらおうと思った。何しろ、房総半島で小早川や沙知が引き起こした事件の管轄は、千葉県警にあるからだ。
それで、滝川は千葉県警の水野明夫警部補(38)に、米倉が房総半島で引き起こした事件の詳細に関して、滝川の推理を交えながら話した。
そんな滝川の話に何ら言葉を挟むことなく耳を傾けていた水野の表情は、気難げなものであった。そんな水野の表情は、まるでそのような事件の捜査は行ないたくないと言わんばかりであった。
案の定、水野は、
「まだ、米倉という人が、白浜の近くで子供を撥ねてはしなせてしまい、逃げたという確認が取れたわけではないのですよね?」
と、些か不満そうに言った。
「それはそうですが、しかし、その事件を引き起こした本人がそう自白したのですから」
と、滝川は滝川の話にクレームを付けた水野に対して、不満そうに言った。
「でも、本人の自白だけではねぇ。本人の自白だけでは有罪に出来ないことを滝川さんが知らないわけではないと思うのですがね」
と、水野は些か皮肉を込めた口調で言った。
「そりゃ、そうですが……。しかし、今までの成り行きからして、米倉さんの自白は正しいと思うのですがね」
「じゃ、そうだったとしても、その事故現場が何処だったのか、具体的に分かってるのですかね?」
そう水野に言われると、滝川は冴えない表情で、無言で頭を振った。
「だったら駄目ですよ。米倉さんが子供を撥ね、その死体を遺棄したという証拠がなければ、その話はまだ想像上の出来事ですよ。
それに、山村沙知という女性が本当に実子を戸籍に記載せず、故意に米倉さんの車に轢かせたというのも、何か具体的な証拠が無ければ、我々としても、山村さんの行方を追うわけには行きませんよ」
と、水野は今の状況では、山村沙知の行方を追うことは、困難だと言わんばかりに言った。
「ですから、その証拠を千葉県警に摑んでもらいたいのですよ」
と、滝川は真剣な表情で、また、水野に訴えるかのように言った。
そんな滝川の熱意に水野は心を動かされたのか、
「分かりましたよ。滝川さんの話は上司に伝えておきますから」
そう水野に言われ、この時点で滝川は伊勢に戻ることになった。
一方、その頃、北海道の外れの小さな町の「渡り鳥」という小さなスナックで、三十位の女性がお客の注文を訊いていた。
その女性は、岡田晴美と名乗っていた。
晴美は比較的美人の方だと思われたが、何となく陰気な雰囲気を漂わせていないとはいえなかった。
それはともかく、「渡り鳥」のママの長谷沼千恵(53)は、岡田晴美という名前は、偽名だと思っていた。「渡り鳥」では、ホステスを採用する時に、履歴書とか身分証明書を提出させたりはしなかった。面接だけで採用を決めていたのだ。
何しろ、世の中には、過去の経歴を話したくない者も往々にしているものだ。そして、千恵自身も、その類の女性であったのだ。それ故、千恵は面接だけで採用を決めていたのだ!
それはともかく、「渡り鳥」の常連客である桜井国男(36)というその自営業者は、
「姉ちゃん、見ない顔だな。最近、入ったの?」
と、にこにこしながら晴美に訊いた。
「そうよ」
晴美もにこにこしながら、言った。
「そう……。で、故郷は何処?」
そう桜井に言われると、晴美は戸惑ったような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「神奈川です」
「神奈川? そりゃ、随分、遠いんだな」
と、桜井が矢継早に晴美の過去を探ろうと言わんばかりの言葉を発したのを見て、千恵がすかさず桜井の許にやって来ては、桜井に何だかんだと話し始めた。
それによって、晴美は桜井の許を離れたのであった。
その岡田晴美という女性は、正に山村沙知そのものであった。山村沙知とは、伊勢署の滝川たちがその行方を追っている山村沙知のことだ。
だが、その岡田晴美は、ロングヘアーの鬘を被っているので、滝川たちが眼にしても、すぐには山村沙知だと気付かないことであろう。