7 尾行
滝川と皆川は、皆川の運転する覆面パトカーで「椿荘」の近くまで行き、パトカーから降りると、早足で「椿荘」に向かった。それは、午後八時頃のことであった。
そして、程なく「椿荘」の近くにまで来たのだが、その時、203号室から若い女性が出て来ては、203号室を後にしたのを皆川は眼に留めた。
だが、そんな女性は、そんな滝川と皆川に気付くことはなく、一歩一歩、「椿荘」から遠ざかって行く。
そんな女性を眼にして、滝川と皆川は肯き合った。二人はその時、その女性を尾行することを確認したのだ。
だが、皆川は、
「二人での尾行となると、相手に気付かれ易いというものですよ。それに、滝川さんは東京の地理に詳しくないですから、尾行は僕に任せてくださいな。滝川さんは田中に聞き込みを行なってもらえますかね」
「分かりましたよ」
ということになり、皆川は直ちに女性の尾行に取り掛かった。
そんな皆川の後ろ姿を見送った滝川は、程なく203号室の前に来ては、玄関扉横にあるブザーを押した。
すると、程なく玄関扉が半分程開いた。そして、男が姿を見せた。その男は確かに四十位であったが、何処にでもいそうなサラリーマン風であった。
そんな男に滝川は警察手帳を見せた。
すると、男の顔に緊張の色が走ったように見受けられた。
そんな男に、滝川は、
「田中優さんですかね」
と、男の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、男は黙って小さく肯いた。
すると、滝川も小さく肯き、そして、
「田中さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
「僕に訊きたいこと?」
田中は怪訝そうな表情を浮かべては素っ気なく言った。そして、
「それ、どんなこと?」
「田中さんはこの部屋に一年程前から住んでますよね?」
「そうですよ」
「では、ここ一年位の間で、この部屋に田中さん以外の人物が住んでいたことはないですかね?」
「そのようなことはないですね」
田中は些か笑みを浮かべては言った。
「では、田中さんはこの部屋を『アーク不動産』から借りた時に、田中さんの父親に保証人になってもらってましたね」
「そうでしたね」
田中は平然とした表情で言った。
「では、田中さんの父親は浜松に住んでいるのですかね?」
そう滝川が言うと、田中は些か険しい表情を浮かべては言葉を詰まらせた。そんな田中は、滝川が何故そのようなことを訊くのか、滝川の胸の内を探ってるかのようであった。
案の定、田中は、
「何故、そのようなことを訊くのですかね?」
と、眉を顰めては言った。
すると、滝川も眉を顰めては、
「実はですね。僕は先程、浜松の田中さんの父親宅に電話してみたのですよ。すると、〈この電話は現在使われていません〉というメッセージが返って来たのですよ。
これ、どういうことなんですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
すると、田中は渋面顔を浮かべては、滝川から眼を逸らせ、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「どうして僕の父親宅に電話したのですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
そんな田中に滝川は、
「分からないですかね?」
と、田中の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、田中は、
「分からないですね」
と、首を傾げた。
「そうですかね。警察手帳を見て分かるように、僕は三重県警の者なんですがね。で、三重県警の警官が何故ここにやって来ては、田中さんから話を聴いてるのか、田中さんには心当りないのですかね?」
と、田中の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、田中は、
「分からないですね」
と言っては首を傾げた。
「そうですかね? 本当に心当りないですかね?」
だが、田中の返答は同じであった。
「そうですか。では、訊きますが、田中優という名前は偽名ではないですかね? 僕はそう思うのですがね」
そう滝川が言うと、田中の表情は突如、乱れた。そんな田中の表情の乱れを滝川は見逃さなかった。
だが、田中はすぐに表情を元に戻すと、
「馬鹿なことを言わないで下さいよ」
と、不満そうに言った。
「そうですかね? では、田中さんは小早川正明という人物のことを知らないですかね?」
滝川は田中の顔をまじまじと見やっては、言った。
すると、田中は、
「知らないですね」
と、素っ気なく言った。
「そうですかね? 田中さんは小早川正明さんのことを知ってると思いますがね。それに、田中さんの本名は木島満男というのではないですかね」
そう言っては、滝川は田中に冷ややかな眼差しを向けた。
すると、田中は、
「僕が木島水満男ですか。そんな馬鹿な! 一体誰がそのようなことを言ったのですかね? アッハッハッ!」
と、大きな笑い声を上げた。
「では、何故浜松の父親の電話番号に電話が繋がらなかったのですかね? 僕はちゃんと『アーク不動産』の契約書に書かれていた電話番号に電話したのですがね」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
すると、田中の表情は、些か険しいものへと変貌した。そして、言葉を詰まらせた。
そんな田中を見て、滝川は薄らと笑みを浮かべては、
「どうしてですかね? どうしてお父さんの電話に電話が通じなかったのですかね?」
と、再びいかにも納得が出来ないように言った。
すると、田中は開き直ったような表情を浮かべては、
「実はですね。それは、嘘だったのですよ」
「嘘? それ、どういうことですかね?」
滝川は些か不満そうに言った。田中の言ったことの意味がよく分からなかったからだ。
すると、田中は神妙な表情を浮かべては、
「実はですね。僕は天涯孤独の男なんですよ」
「天涯孤独? 身内が誰もいないということですかね?」
「そうなんですよ。それに、友人も特にいないのですよ。だから、保証人になってくれる人がいなかったのですよ。だから、『アーク不動産』と交わした賃貸借契約書の保証人に出鱈目な父親の名前と連絡先を記したのですよ」
と、田中はいかにも決まり悪そうに言った。
「では、あなたは田中優だというのは、事実なんですかね?」
「それは、そうですよ」
「それを証明出来ますかね?」
「出来ますよ」
「じゃ、その証拠を見せてもらえますかね」
そう滝川に言われると、田中は戸惑った表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「何で証明すればよいのですかね?」
「運転免許証を見せてくださいよ」
そう滝川に言われたので、田中は少し席を外し、やがて、滝川の許に戻って来ては、それを滝川に見せた。
滝川はそれを手に取って見てみたが、それが本物か偽物かは見ただけでは判別がつかなかった。
だが、番号を調べれば、本物か偽物かは分かるであろう。
そして、それを確認してから田中の許に来ればよかったと後悔したが、もはや後の祭りだ。
それはともかく、滝川は今度は小早川の死顔の写真を田中に見せては、
「この写真をよく見てくださいよ」
そう滝川に言われ、田中はそれを手に取ってはしげしげと見やっていた。そんな田中の様を滝川はしげしげと見やっていたのだが、特に不審なものを見出すことは出来なかった。
そんな田中に滝川は、
「本当にこの人物に心当りありませんかね?」
だが、田中は、
「僕の全く知らない人物ですね」
と、力強い口調で言った。
「それ、間違いないですかね?」
滝川は念を押した。
「間違いないですよ。どうして嘘をつかなければならないのですかね」
田中は些か不満そうに言った。
すると、滝川は怪訝そうな表情を浮かべては、
「それは、おかしいですね」
「おかしい? どうしておかしいのですかね」
「その写真の人物は、先程説明した小早川正明というのですが、六月十日に伊勢のおかげ横丁という所で伊勢うどんを食べてる時に変死したのですよ。
で、その小早川正明さんは、木島満男さんのことを知っていたのですよ」
と、滝川が眉を顰めて言うと、田中は、
「だから、僕は木島満男ではないのですよ」
と、むっとしたように言った。
「しかし、木島さんの住所は、『椿荘』の203号室、つまり、この部屋になっていたのですがね」
「そりゃ、何かの間違いですよ。それだけのことですよ!」
と、田中は滝川の言ったことは話にならないと言わんばかりに言った。
「そうですかね。では、木島さんの電話番号も分かってるので、今からその電話番号に電話してみますからね」
と言っては、小早川のカセットテープに録音されてあった木島の携帯電話の番号に自らの携帯電話で掛けてみた。
すると、その時、部屋の奥の方から、「ルルルー」という電話の呼び出し音が聞こえて来た。滝川が電話したのは、やはり、田中の携帯電話であったのだ!
この事実を受けて、滝川はにやっとした。それは、正に田中の嘘を証明出来たみたいなものであったからだ。
一方、田中は憮然とした表情を浮かべては、滝川から眼を逸らせては、言葉を詰まらせた。
そんな田中に滝川は、
「僕が電話したのは、やはり、田中さんの携帯電話でしたね」
と言っては、にやにやした。
すると、田中は滝川から眼を逸らせては、いかにも不満そうな表情を浮かべて、言葉を詰まらせた。
そんな田中に滝川は、
「とにかく、今、呼出音が鳴っている携帯電話をこちらに持って来てくださいよ」
滝川にそう言われたので、田中はとにかく、奥の部屋から呼出音が鳴っている携帯電話を滝川の許に持って来た。
その携帯電話は依然として、「ルルル……」と呼出音が鳴ってるが、滝川が滝川の携帯電話を切ると、呼出音は鳴らなかった。
この事実を目の当たりにして、滝川は、
「これ、どういうことですかね?」
と、高飛車な口調で言った。
すると、田中は、
「分からないですね」
と、滝川から眼を逸らせては、決まり悪そうに言った。
「分からないはないでしょう。今、僕がその携帯電話の電話番号に電話を掛けたから、呼出音が鳴ったのですよ。これ、どういうことなんですかね?」
と、滝川は田中に詰め寄った。
「ですから、僕には分からないのですよ。先程も言ったように、僕は木島満男ではないし、また、小早川正明という人物のことも知らないですからね。
それなのに、何故、小早川正明という人物が僕の住所や携帯電話の番号を知っていたのか、まるで分からないのですよ。何故、小早川正明という人がそれを知っていたのか、こっちが訊きたい位ですよ」
そう言っては田中は、些か不満そうに言った。そして、
「それに、小早川正明という人物が、僕の住所や携帯電話の番号を知っていたことが、重要なことなんですかね?」
と、田中は些か納得が出来ないように言った。
「それが、とても重要なことなんですよ」
と言っては、滝川は小さく肯いた。
「どうして重要なんですかね?」
田中は興味有りげに言った。
「先程も言いましたように、小早川さんは伊勢のおかげ横丁で変死しました。しかし、小早川さんは自らが変死する可能性を事前に予測していたのですよ。そして、その予測が現実と化してしまったのですよ。
で、小早川さんがもし変死したら、木島満男という人物に殺されたと思ってくれという内容を録音したカセットテープが見付かったのですよ。
そして、その木島満男の住所と携帯電話の番号も録音されていたのですよ。それが、田中さんのものだったのですよ」
と、滝川は田中に言い聞かせるかのように言った。また、田中にしらばくれても駄目だよと、田中に言い聞かせてるかのようであった。
滝川にそう言われると、田中は何やら考え込むような仕草を見せては、少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「そういうわけだったのですか」
と、何故三重県警の刑事が、東京の田中のアパートにまで来ては、田中に何だかんだと訊いて来るのか、その理由が分かったと言わんばかりの様を見せた。
だが、田中は、
「でも、僕は木島満男ではないし、また、何故小早川正明という人物が僕の連絡先を知っていたのかは、やはり心当りないのですよ」
と、いかにも不満そうに言った。そして、
「これは、陰謀ではないのですかね?」
「陰謀?」
「そうです。陰謀です! 僕のことを快く思っていない人物がいて、僕が迷惑になるようなことをやったのですよ! そうに違いありません!」
と、田中は甲高い声で言った。
「では、そのような人物に心当りあるのですかね?」
「いや。そのような人物には心当りないのですが……」
と、田中は決まり悪そうに言った。
そういう風にして、滝川は田中に何だかんだと話を聴いたのだが、結局、特に成果を得ることが出来なかった。
それ故、滝川は一旦、「椿荘」を後にせざるを得なかった。
一方、田中の部屋を後にした謎の女性の尾行を始めた皆川はどうなったかというと、皆川の尾行は結局、成功した。山手線に乗ってる時に、見失う寸前まで行ったが、結局見失わずに済んだ。そして、見事に女性が住んでいるアパートを突き止めることが出来たのである。
そのアパートは北区内にある「椿荘」と同じよう感じのアパートで「大沢荘」という名前であった。その204号室に女性は住んでいたのだ。
そんな女性が部屋の中に入って五分頃に、皆川は204号室の扉をノックした。表札には山村となっていた。
扉をノックして程なく応答があった。
そして、扉が少し開いたので、皆川は自らの身分と名前を名乗った。
すると、女性の言葉は詰まった。そんな女性は、思わぬ来訪者に戸惑ってるかのようであった。
それで、皆川は再び自らの名前と身分を名乗り、そして警察手帳も見せた。
すると、山村沙知は、
「どういった用件ですか?」
と、小さな声で言った。
「山村さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
皆川は落ち着いた口調で言った。
「それは、どういったことですかね?」
沙知は神妙な表情を浮かべては言った。
「山村さんは台東区内にある『椿荘』203号室に住んでいる田中優さんのことを知ってますよね?」
そう皆川が言うと、沙知の言葉は詰まった。そして、沙知はなかなか言葉を発そうとはしなかった。
それで、皆川は同じ問いを繰り返した。
すると、沙知は、
「どうしてそのようなことを訊くのですかね?」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「その問いに答える前に、先程の僕の問いに答えてもらえませんかね?」
そう皆川が言うと、沙知は些か不満そうな表情を浮かべながらも、
「知ってますよ」
と、小さな声で言った。
すると、皆川は小さく肯き、そして、
「山村さんは先程、田中さんの部屋を訪れていましたね」
そう皆川が言うと、沙知は呆気に取られたような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「刑事さんは私のことを尾行して来たのですかね?」
「まあ、そんな具合ですね」
「何故そのようなことをやったのですかね?」
沙知は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「それに関して、山村さんは心当りあるんじゃないですかね?」
皆川は沙知の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、沙知は、
「全くないですね」
と、皆川を突き放すかのように言った。
「そうですか。では、『椿荘』203号室に住んでいる田中さんという人は、どういった人なんですかね?」
皆川は興味有りげに言った。
すると、沙知は眼を大きく見開き、
「どういった人とは?」
「ですから、どういった仕事をされてるのかというこようなことですよ」
と、皆川は眉を顰めては言った。
すると、沙知も眉を顰めては、
「よく、知らないですわ」
と、沙知は再び皆川を突き放すかのように言った。
「では、山村さんは、田中さんとはどういった関係なんですかね?」
そう皆川が言うと、沙知は皆川から眼を逸らせては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ただの知人ですよ」
と、皆川を見やっては、素っ気なく言った。
「ただの知人ですか。それ以上の関係ではないのですかね?」
と、皆川は沙知の胸の内を探るかのように言った。
すると、沙知は、
「ですから、ただの知人ですよ」
「そうですか。では、何故僕が山村さんに田中さんのことを何だかんだと訊くのかという山村さんの問いに答えることにしますね。実はですね」
と言っては、皆川は小早川正明が伊勢のおかげ横丁で変死し、その小早川の死を捜査して行くと、小早川の件のテープが小早川の部屋から見付かり、その内容に基づいて木島満男が住んでいるという台東区の「椿荘」に行くと、その部屋に住んでいたのは木島満男ではなく田中優で、再び田中宅を訪れようとしたところ、田中さんの部屋から女性が出て来たので、尾行したところ、それが山村さんであったという旨を皆川は落ち着いた口調で説明した。
すると、沙知は、
「そういう具合でしたか」
と、些か気難しげな表情を浮かべては言った。そして、十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、
「でも、刑事さんはとんでもない時間潰しをしてしまいましたね」
と、皆川のことを嘲笑するかのように言った。
「時間潰し?」
皆川は些か納得が出来ないように言った。
「そうです。時間潰しです。私は最近、田中さんと付き合い始めたばかりでしてね。ですから、田中さんに関する詳しい情報を持っていないのですよ。
ですから、木島さんが本名で、田中さんが偽名ではないかと言われても、私では分からないのですよ」
と、沙知はいかにも困惑したように言った。
すると、皆川は、
「それは、間違いないですかね?」
と、念を押した。
「間違いないですよ!」
沙知は、甲高い声で言った。
「では、これが小早川正明という人物なんですが、山村さんはこの人物に心当りないですかね?」
と言っては、皆川は小早川の部屋から入手した小早川の生前の写真を沙知に見せた。
沙知はその写真を手に取ってしげしげと見やっていたのだが、やがて、
「私の知らない人物ですね」
と言っては、首を傾げた。
それで、皆川は後少し沙知から話を訊いたのだが、特に成果を得られなかったので、この辺で「大沢荘」を後にすることにした。
沙知に対して尾行は成功したものの、沙知に対する聞き込みでは、成果を得ることは出来なかった。皆川たちが必要としてる情報を皆川は何ら入手することが出来なかったのである。
もっとも、沙知が皆川たちが必要としてる情報を意図的に話さなかったという可能性もある。
しかし、今の時点では沙知に強く出ることは出来ないというものだ。