9 暴かれた嘘
滝川は後になって、今回の事件を振り返ってみると、正についていたと思わざるを得なかった。というのは、滝川と皆川が沙知のアパートに着いたその時、沙知は何と玄関扉を閉め、外出しようとしていた最中であったからだ。
そして、幸運に見舞われたのは、今回で三度目であった。
一度目の幸運は、初めて滝川と皆川が田中のアパートにやって来た時に、沙知が田中のアパートを後にし、まだ捜査線上に浮かんでいなかった沙知の存在が早々と浮かんだということで、二番目の幸運は、小早川が死んだ時の様子を名古屋の大学生が偶然にビデオカメラで録画していたこと。
そして、今回が三度目の幸運であったというわけだ。何しろ、大きな鞄を手にしてる沙知は、何処かに雲隠れしようとしてるかもしれないからだ。
それはともかく、沙知は皆川の様を眼にすると、正に疫病神がやって来たと言わんばかりの様を見せた。
そんな沙知に、皆川は、
「何処かにお出掛ですかね?」
と、いかにも愛想良い表情と口調で言った。だが、その眼はとても冷ややかなものであった。
そう皆川に言われても、沙知はその皆川の問いに答えようとはせずに、
「何か用ですか?」
と、素っ気なく言った。
「ええ。とても重要な用があるのですよ」
「後にしてもらえないですかね。私、今、急いでるので」
と、皆川を突き放すかのように言った。
「分かりました。なるべく早く済ましますよ」
と、皆川は言ってから、
「山村さんは六月十日の午後二時頃、何処にいましたかね?」
と、沙知の顔をまじまじと見やっては、言った。
「その頃なら、知人と一緒にいましたよ」
と、沙知は皆川の問いに即座に返答した。
「その知人とは、どういった方ですかね?」
「田中さんですよ。ほら! 台東区の『椿荘』に住んでいる田中さんですよ!」
と、沙知は自信有りげな表情と口調で言った。
「それは、間違いないですかね」
皆川は些か険しい表情で、念を押した。
「間違いないですよ。嘘と思うのなら、田中さんに訊いてくださいな」
と、沙知は冷ややかな眼で皆川を見やった。
すると、皆川は、
「そうですかね」
と言っては、にやっとした。何故なら、今の沙知の言葉は、明らかに嘘であるということが分かっていたからだ。更に、沙知が田中の名前を持ち出したことから、田中も小早川殺しに噛んでる可能性が改めて浮上した。
そんな沙知に、皆川は、
「山村さんは以前、小早川正明という人物は、山村さんの知らない人物だと証言しましたよね。小早川さんとは、伊勢のおかげ横丁で六月十日の午後二時頃、『甚兵衛』という店で伊勢うどんを食べてる時に青酸死した人物です。その小早川さんの写真を以前、山村さんに見てもらったのですがね」
と、沙知の顔をまじまじと見やっては、言った。
すると、沙知は、
「私はそのような人物のことは、まるで知らないですよ」
と、平然とした表情で、素っ気なく言った。
「では、山村さんは台東区内にある小早川さんが住んでいた『清和マンション』というマンションには、今まで一度も行かれたことがなかったのですね?」
と、皆川は些か神妙な表情を浮かべては言った。
「そりゃ、当然行ったことはないですよ」
と、沙知は薄らと笑みを浮かべては言った。そんな沙知は、何故そんな馬鹿馬鹿しい質問をするのかと言わんばかりであった。
そんな沙知に、皆川は念を押した。
だが、沙知の返答は同じであった。
それで、皆川はこの時点で、沙知の指紋が小早川のマンションで見付かったという旨を話した。皆川はそろそろ沙知の嘘を暴く時が到来したと看做したのである。
すると、沙知の表情は、忽ち強張った。それは、正に不意打ちを喰らい、どのように対応すればよいのか、判断がつかないといった塩梅であった。
だが、沙知は程なく表情を元に戻すと、
「ホッホッホッ!」
と、笑い始めた。
そんな沙知を見て、皆川はむっとした表情を浮かべた。そして、
「何がおかしいんだ?」
「だって、これがおかしくない筈はないじゃないですか! 私の全く見知らぬ小早川正明という人物の部屋に、私の指紋があったなんて……。それは嘘じゃないのですかね? 警察は人をペテンにかけるということもやるのですか?」
と、まるで皆川の言ったことは話にならないと言わんばかりに言った。
すると、皆川は、
「では、山村さんは六月十日の午後二時頃、本当に田中さんと一緒にいたのですかね?」
「ええ。そうですよ」
「田中さんと何処にいたのですかね?」
「浅草周辺を散歩していましたわ」
「それを誰かに証明してもらえますかね?」
「それは無理ですよ。一緒に歩いてる場面を誰かに見てもらってるなんてことは有り得ませんからね」
と、沙知は素っ気なく言った。
「そうですかね? 僕はその山村さんの言ったことは、嘘だと思いますね。山村さんはその頃、伊勢にいたのではないですね」
と、皆川は沙知の顔をまじまじと見やっては言った。
「伊勢? どうして私が伊勢にいなければならないのですかね?」
と、沙知はまるで今の皆川の言葉は話にならないと言わんばかりに言った。
それで、皆川はこの時点で持参して来たビデオカメラで、件の大学生が録画した映像の再生を始めた。そして、沙知に見るようにと言った。
それで、沙知は渋面顔を浮かべながらも、そのビデオカメラの液晶モニタを見始めた。
そして、少しの間その映像は停止することなく、再生されていたが、その時、皆川は映像を一時停止させた。
その場面には、小早川の死顔が鮮明に移っていた。
それで、皆川は沙知を見やっては、
「これが、小早川正明さんなんですが、やはり、山村さんの知らない人物ですかね?」
と、沙知の顔をまじまじと見やっては、言った。
すると、沙知は黙って小さく肯いた。そんな沙知の表情には、特に変化は見られなかった。
それで、皆川は再生を続けた。そして、程なく再び一時停止させた。何故なら、その場面には、沙知が映っていたからだ。
皆川は左隅に映ってる女性をズームで拡大させ、指差しては、
「この女性は誰ですかね?」
と言っては、にやにやした。
すると、沙知の表情は、忽ち強張った。何故ならその女性、即ち、沙知の顔は鮮明に映っていたからだ。沙知と面識のない者でも、その映像の女性と沙知を見比べれば、同一人物だと容易く認識することが可能であろう。
それ故、沙知の表情は、甚だ強張ったものに変貌していた。
そんな沙知を眼にして、滝川と皆川は、この時点で勝利を確信した。
そして、これによって、沙知は任意出頭という形で、署で訊問を受けることになったのだ。
そして、取調室で、滝川と皆川から厳しい訊問を受けると、沙知は徐々に供述し始めたのであった。
だが、その供述は事件解決には程遠い内容であった。
即ち、沙知は小早川と関係のあったことや、小早川と共に伊勢に行ったことは認めたが、小早川の死に対する関与は、頑なに否定したのである。また、小早川が「甚兵衛」で死んだ時に沙知がその場に留まらずに、まるで逃げるようにその場を後にしたことに関しては、
「警察から、妙な疑いをもたれるのが、嫌だったのですよ」
「妙な疑い? それ、どういう意味なんだ?」
皆川は眉を顰めては言った。
「ですから、私は今、こうやって、小早川さん殺しの疑いを警察に持たれてるじゃないですか。もし、私が小早川さんの許にいれば、恐らく今のように、警察から疑われていたと思います。私はそれが、嫌だったのですよ」
と、沙知はまるで自らの潔白を訴えるかのように言った。
すると、滝川が、
「どうして警察に疑われると思ったのかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
すると、沙知は滝川から眼を逸らせては、言葉を詰まらせた。
そんな沙知を見て、滝川は、
「後暗いものがあったから、疑われてしまうと思ったんだね。
じゃ、その後ろ暗いものを説明してくださいよ」
そう滝川に言われても、沙知は二人から眼を逸らせ、言葉を発そうとはしなかった。
そんな沙知に皆川が、
「山村さんは、田中さんと小早川さんの二人と同時に付き合っていたのですよ。しかし、山村さんは小早川さんのことが邪魔になったのですよ。
それで、二人で伊勢を訪れていた時に、チャンスとばかりに、山村さんは小早川さんに青酸入りのカプセルを飲ませたのですよ。小早川さんはまさかそのカプセルに青酸が入っているとは知らずに飲んでしまい、おかげ横丁の『甚兵衛』で、小早川さんは伊勢うどんを食べてる時にそのカプセルが解けてしまい、青酸が小早川さんの体内に入ったのですよ。それで、小早川さんは山村さんの思い通りに魂切れてしまったというわけですよ。これが、小早川さんの死の真相なんですよ!」
と、沙知を睨め付けながら、甲高い口調で言った。そんな皆川は、沙知に嘘をついても無駄だよと、沙知を諫めているようであった。
すると、沙知は、
「そんなの滅茶苦茶な推理ですよ!」
と、顔を真っ赤にしては、声高に言った。そんな沙知は、今の皆川の推理は馬鹿馬鹿しくて話にならないと言わんばかりであった。
「何が滅茶苦茶な推理なものか! 状況証拠では、山村さんが小早川さんを殺したということを示してるじゃないか!」
と、皆川も沙知の言い分は話にならないと言わんばかりに言った。
すると、沙知は、
「私は小早川さんを殺していません!」
と、再び顔を真っ赤にさせては、声高に言った。
「じゃ、何故逃げたんだ?」
と、滝川。
「だから、今のように警察が私のことを小早川さんを殺したと疑うんじゃないかと、恐れたからですよ!」
「だから、後暗いものが無ければ、逃げなくて済むじゃないか! それに、何故今まで小早川さんのことを知らない人物だと、嘘をついたんだ?」
と、滝川はいかにも納得が出来ないように言った。
「だから、私が小早川さんのことを知ってると言えば、私は小早川さんの死に関係あるのではないかと疑われるのではないかと思ったのですよ。私はそれが、嫌だったのですよ!」
と、沙知は言うばかりであった。
だが、結局、沙知が小早川を殺したという事実は、確認は出来なかった。
それで、沙知を一旦自由の身にし、沙知を泳がせることにしたのであった。