第五章 駒ヶ岳での惨劇

     1

 大沼湖を見下ろすかのように聳え立っている駒ヶ岳は、標高1131メートルのコニーデ型の活火山で、五ヶ所の火口からは、現在も噴煙を上げている。
 駒ヶ岳は、日帰り登山も可能であることから、今日も二人の登山者が、てくてくと歩みを進めていた。
 その二人は、工藤正晴と洋子夫妻であった。
 二人は既に六十歳を超えていたが、すこぶる元気で、趣味は登山であった。六十を超えたといえども、年に六回は登山に出向く程の元気ものであったのだ。
 二人は登山口を後にしたばかりだったので、見晴らしはまだまだであった。
 駒ヶ岳は毎年、七月三日になると、どこからともなく馬の悲痛な嘶きや馬の駈け巡る足音が聞こえるというが、今日は六月二十日ということもあってか、その怪奇現象は見られなかった。
 だが、工藤夫妻はとんでもないものを見付けてしまった。
 それは、人間の死体だ。工藤夫妻は何と、人間の死体を見付けてしまったのだ。
 その男性は背広姿で、登山道から少し藪の中に入った所に横たわっていた。
 工藤夫妻は、その男性を眼にした時、死んでるとは思わなかった。
 それで、男性の傍らに足早で近付いては、
「どうしましたか?」
 と声を掛けたが、反応はなかった。
 それで、男性の肩を揺り動かそうとしたが、男性の身体は硬直していた。また、素肌に触れてみると、肌の温もりはなかった。
 それで、念の為に脈を見てみたが、脈は打っていなかった。
 それで、この時点で、男性の死を確認したのだ。
 工藤夫妻はこの思い掛けない異変に遭遇してしまい、予定を変更せざるを得なくなってしまった。警察に男性のことを知らせなければならなくなってしまったからだ。携帯電話を持っていればよかったのだが、工藤夫妻は元々、そのようなものは所持してなかったのだ。
 それで、下山して、男性のことを警察に知らせなければならなくなってしまったのである。
 もっとも、今、この場に下山して来る人がいれば、その者に警察に知らせてくれるように頼むのだが、今日はウィークディということと、まだ、朝早い時間ということもあり、下山者と出くわすことはまだなかった。
 それ故、工藤夫妻が下山せざるを得なくなってしまったのだ。「長い一生の中には、このような出来事に遭遇するものこともあるものだよ」と、正晴は洋子にいかにも冴えない表情で言ったのであった。

     2

 工藤夫妻からの電話連絡を受け、大沼駐在所の世良巡査と菅沼巡査、中川巡査という三人の若い巡査が直ちに現場に向かうことになった。
 とはいうものの、工藤夫妻はもはや男性の遺体が見付かった場所にまで戻る体力、気力は持ち合わせてはいなかった。それで世良巡査たちに出来るだけ詳しく男性の遺体が見付かった場所を説明した。
 そして、それを受けて、世良巡査たち三人は、直ちに登山道を歩き出した。そして、程なく男性の遺体を見付けることが出来たのだ。即ち工藤夫妻が言ったように、その背広姿の男性は登山道から少し藪の中に入った所に遺体で横たわっていたのだ。
 それで、世良たちは、直ちに持ち合わせて来た担架に男性の遺体を載せては、パトカーを停めてある道路脇にまで運んだのである。
 そして、世良たちがその場所に着いた時には、既に救急車が待機していた。
 世良たちが姿を見せると、白衣を身に纏った救急隊員が三人、速やかに世良たちの許にやって来た。
 そして、救急隊員は、世良たちから担架を受け取ると、
「仏さんを函館のM病院に運びますよ」
 そう言われて、世良は、
「分かりました」
 と、軽く肯いたのであった。
 救急車が去って行くのを見送ると、世良たちは大沼駐在所に戻ることにした。というのは、男性の遺体を発見した工藤夫妻が、正午頃、大沼駐在所に電話を掛けて来ることになっていたからだ。
 それで、大急ぎで三人は大沼駐在所に戻った。そして、大沼駐在所に着いたのは、午前十一時五十分であった。
 そして、正午きっかりに、電話の呼出音が鳴った。
 それで、世良が電話に出た。
―工藤と申す者ですが。
 という世良の聞き覚えのある声が、飛び込んで来た。
 それで、世良は、
「今朝、駒ヶ岳の登山道で、男性の遺体を発見された工藤さんですかね」
―そうです。
 すると、世良は小さく肯き、そして、
「確かに我々は工藤さんがおっしゃった通りに、男性の遺体を見付けましたよ。
 で、男性は函館のM病院に運ばれ、司法解剖されてるのですが、もう一度、男性の遺体を発見された時の状況を説明してもらえないですかね」
 と、言ったので、正晴はもう一度、男性の遺体を発見した時の状況を説明した。
 だが、以前話した時と、特に新しい内容は含まれてはいなかった。ただ、同じようなことをもう一度説明しただけであった。
 正晴との電話を終えると、世良は、
「あの男性は、自殺かな」
 と、菅沼に言った。
「そうかもしれないな。絞殺とか刺殺とかいった痕跡が見られなかったからな。で、背広姿だったから、恐らくサラリーマンだろう。もっとも、紳士的な人物だったから、中小企業の経営者だったのかもしれないな。
 で、経営が悪化し、将来を悲観して、自殺したのかもしれないな」
 と、菅沼は神妙な表情で言った。
「でも、あの男性は、身元を証明するものは、何ら所持してなかったな」
「ああ。それ故、発作的に自殺したのかもしれないな」

     3

 世良と菅沼がM病院に着くと、既に死因と死亡推定時刻が明らかになっていた。死因は、何とアルカロイド系の毒物による毒死であり、また、死亡推定時刻は、昨日、即ち、六月二十二日の午後七時から八時頃であった。
「アルカロイド系の毒物による毒死となると、行きずりの者の犯行という線はなさそうだな」
 と、菅沼は渋面顔で言った。
「そうだな。他殺とすれば、計画的な殺人であろう。それか、自殺ということだ」
 と、世良も渋面顔で言った。
「そうですね。僕もそう思います」
 と、菅沼は些か納得したように肯いた。
「となると、あの男性と出会った登山者がいるかもしれないな。そうだとすると、男性は間違いなく自殺だよ」
「ああ。そうだ。それ故、その該当者がいないか、調べる必要があるだろう」
と、菅沼は冴えない表情で言った。
 そんな菅沼に、世良は、
「しかし、大沼周辺でも、最近妙な事件が相次いで起こったものだ」
 と、眉を顰めた。
「というと」
 と、菅沼。
「ほら! 少し前に大沼湖の小島で、男性の他殺体が発見された事件があったじゃないか。男性は苅田という名前だったと記憶してるんだが」
「そういえば、そんな事件があったな。その事件はどうなったのかな」
 と、菅沼は興味有りげに言った。
「まだ、犯人は逮捕されてないらしいよ」
「ふーん。で、今日は駒ヶ岳の登山道で、男性の死体というわけか」
「ああ。もっとも、あの男性は他殺だと決まったわけではないよ。でも、大沼周辺で妙な死に方で、人が立て続けに二人も亡くなったというのは、こここしばらくの間でないというものだ」
「そうだな。大沼周辺も都会的になって来たということなのかな」
「そうだな。とにかく、早く男性の身元が明らかになればいいのだが」
 そんな二人の許に、男性の死を捜査することになった函館中央署の川崎警部が電話を掛けて来た。
 それで、世良は改めて、男性が見付かった時の状況を説明した。
 そんな世良に川崎は、
―で、男性の傍らに、毒物を入れたような瓶なんかは落ちてなかったかい?
「そのようなものは、落ちていませんでしたね」
 と、世良は答えた。
―入念に調べたかい?
「ええ。ちゃんとマニュアル通りにやりましたよ」
 と、世良は答えた。
 それで、川崎が言葉を詰まらせると、そんな川崎に、世良は、
「苅田さんの事件はどうなりましたかね?」
―速水さんによると、犯人の目星はもうついてるそうだよ。後少しという所だそうだ。
 と、川崎は軽快な口調で言ったのであった。

     4

 川崎はまず男性の指紋が警察に保管されていないか、調べてみた。
 すると、呆気なく男性の身元が明らかとなった。男性の指紋が警察に保管されていたのだ。
 男性は函館空港近くに住んでいた不動産会社社長の五月女謙治という人物であったのだ。
 その結果を受けて、函館中央署内には、緊迫した空気が漂った。何故なら、五月女は目下、五月女由美殺し、五月女京子殺し、五月女治子殺し、更に苅田殺しの疑いをもたれていたいわば、これらの事件を解決する上での最有力人物だと速水たちが看做していた人物であったからだ。
 その五月女が、まさか死ぬなんて、速水たちは想像すらしたことがなかったのである!
 だが、すぐに速水は五月女は自殺したのではないかと思った。即ち、速水たちに疑いを持たれてしまい、もう逃れられないと判断し、自らで命を絶ったというわけだ。
 そんな速水に野村刑事は、
「僕もそう思いますね」
 と、相槌を打つかのように言った。
 とはいうものの、速水は渋面顔を浮かべては、
「でも、五月女さんは自殺するような気の弱そうな人物には見えなかったんだが」
「でも、外見で見栄を張っていただけで、内心は気が弱い人物であったのかもしれませんよ」
 と、野村刑事。
「で、自殺なら、背広姿の五月女さんが駒ヶ岳の登山者に眼にされていたのかもしれないな。大沼駐在所の巡査もそう言っていたが」
「そうですよね。で、その点に関しては、程なく情報提供が呼び掛けられることになってるそうですよ」
「確かにそうだったな。で、我々はまず五月女さんが死んだ日とか、その前日辺りの行動を調べてみよう」
 ということになり、早速五月女不動産でその点を確認してみた。
 すると、五月女は六月二十二日に、会社を休んでることが分かった。
 その結果を受け、速水は、
「やはり、自殺だろうな。五月女さんはやはり、我々の追及から逃れられないと思い、それで、会社を休み、死を決意し、駒ヶ岳に行ったのさ」
 と言っては、唇を歪めた。
「となると、遺書がありそうですね」
 野村刑事は眼をキラリと光らせては言った。
「僕もそう思うよ。恐らく、今までの犯行の詳細と被害者に対する謝罪が述べられているのではないかな」
 と言っては、小さく肯いた。
「となると、五月女宅を調べなければならないですね」
 ということになり、速水は野村刑事、望月刑事たちと共に、五月女宅に行っては、五月女の遺書などがないか、調べてみることにした。そして、遺書があるとすれば、すぐ眼につく所、たとえば、テーブルの上などにあると思った。
 だが、テーブルの上とかいったすぐ眼につく所には、五月女の遺書と思われるものはなかった。
 それで、速水は、
「おかしいな」
 と、首を傾げた。だが、
「五月女さんの部屋の机の中にあるかもしれないな」
 と言っては、更に五月女の部屋などが徹底的に調べられた。
 だが、やはり、五月女の遺書と思われるものは、見当たらなかった。
 それで、速水は、
「おかしいな」
 と、再び首を傾げた。
「こんな筈ではなかったのですがね」
 野村刑事は、いかにも決まり悪そうに言った。だが、望月刑事が、
「自殺したからといって、必ずしも遺書を遺すとは限らないですからね。発作的に自殺したのなら、遺書は遺さなかったのは当り前だと思いますね。ですから、いくら我々が探したって、見付からない筈ですよ」
 と言っては、小さく肯いた。
 五月女宅を後にすると、その足で今度は五月女不動産に向かった。死ぬ直前の五月女の状態を確認する為だ。
 五月女不動産の取締役で、五月女が死ぬ前日に、五月女と共に仕事をしていたという宮内正義(50)は、
「社長が自殺したと聞いて、正に驚いています」
 と、正に信じられないと言わんばかりの表情と口調で言った。
 そんな宮内に、速水は、
「まだ、自殺だとは断言はしてません。その可能性が高いと、申し上げてるだけなのですよ」
 と、冴えない表情で言った。
「そうですか。でも、僕は社長は自殺したのではないと思いますね」
 と、宮内は神妙な表情で言った。
「どうしてそう思うのですかね?」
 速水は興味有りげに言った。
「そりゃ、自殺しそうな感じは、まるで見られなかったからですよ。そりゃ、奥さんを失い、かなり落ち込んではいましたがね。
 でも、社長は元々気丈な人なので、僕はこの苦境を乗り切ると思ってましたよ。また、死にたいなんて、弱音は決して吐きませんでしたからね」
「でも、心の中では、死にたいと思っていたのではないですかね?」
「そりゃ、心の中までは分からないですがね。でも、社長は身内が死んでも自殺はしない人間だと僕は信じてます。会社が倒産して自殺したといった方が、社長らしいですよ。社長というのは、そういった人間だったのですよ」
と言っては、宮内は大きく肯いた。
「成程。では、五月女さんがもし人殺しをしていれば、その良心の呵責で自殺するでしょうかね?」
 すると、宮内は眼を大きく見開き、
「さあ……、どうでしょうかね」
 と、言っては、首を傾げた。そして、
「刑事さんは、社長が人殺しをしたと思ってるのですかね?」
 と、速水の顔をまじまじと見やっては言った。
「ですから、例えばの話ですよ」
 と、速水はさりげなく言った。
 そう速水が言うと、宮内は何も言おうとはしなかった。 
 そんな宮内に、速水は、
「五月女さんは六月二十二日に会社を休んだのですが、五月女さんはその日、突如、会社を休んだのですかね? それとも、その休暇は予め決まっていたのですかね?」
「その日は、元々、社長の休暇日だったのですよ。ですから、予め決まっていたといえますね」
 と、宮内は言っては、小さく肯いた。
 ということは、五月女はその日になれば、自殺しようと思っていたのか。
 だが、自殺しようとしてる者が、それ程、冷静になれるだろうか?
 という風に、速水の脳裏に様々な思いが去来した。
 そして、まだしばらく宮内に対して聞き込みを続けたが、特に五月女の死の真相に対する情報を入手することは出来なかった。
 また、六月二十二日に、駒ヶ岳登山道で五月女と思われる者を眼にしたという人物も依然として現われなかった。
 その結果を受け、望月刑事は、
「夜間に登ったということも有り得るんじゃないかな」
「その可能性は小さいな。何故なら、五月女さんの遺体周辺には、ライトのようなものは落ちていなかったそうだからな」
 と速水は言っては、小さく肯いた。
「じゃ、登山道を登ってる五月女さんと誰も出会わなかっただけかもしれませんね」
 と、望月刑事。
「その可能性が高いというものだ。何しろ、ウィークディだったということもあり、登山者の数はとても少なかったのかもしれないからな」
 と、速水は渋面顔で言った。
「でも、五月女さんはどうやって駒ヶ岳の登山道まで行ったのでしょうかね?」
 野村刑事は、眉を顰めては言った。
「そりゃ、五月女さんのクラウンは、五月女宅のガレージにあったから、JRを利用したんじゃないかな。JR銚子口駅からなら、登山道まで歩いて行けるだろうからな。
 あるいは、途中までタクシーで行ったという可能性もあるよ。それ故、タクシー会社なんかに当たってみる必要があるな」
 ということになり、直ちにその捜査が行なわれることになった。
 だが、その捜査は成果を得ることは出来なかった。即ち、銚子口駅の駅員は、六月二十一日から二十二日にかけて、五月女と思われる人物を眼にした記憶がないと証言し、また、辺りのタクシーの運転手も五月女と思われる人物を乗せた記憶はないと証言したからだ。
 この結果を受けて、速水は、
「こんな筈ではなかったんだが」
 と、渋面顔で言った。
「正にそうですね。JRは銚子口だけではなく、大沼駅、駒ヶ岳駅などの駅員たちにも聞き込み行なったのですが、まさか、成果を得られないとは思ってもみなかったですね。それに、タクシーの運転手やバスの運転手にまで聞き込みを行なったのに」
 と、野村刑事は、いかにも悔しそうに言った。
「全く、その通りだ。六月二十二日は、ウィークディだったということもあり、JRやバスの利用者は、とても少なかったんだ。それに、五月女さんは背広姿だったから、よく目立った筈なんだ。だが、駅員たちは、絶対に眼にしなかったと、断言したからな。
 となると、五月女さんはどうやって駒ヶ岳の登山道にまで行ったかということだ。それを確認出来ないと、五月女さんが自殺したと断定は出来ないじゃないか!」
 と、速水は苛立ったように言った。
 速水は、五月女が由美や治子たちを殺し、そして、速水たちから追及を受け、これ以上、逃げ切れないと判断し、自殺したのだと推理していたのだが、その裏付けを取れないと、自殺したと断定は出来ないのだ。
 すると、望月刑事が、
「警部。ひょっとして、五月女さんは殺されたんじゃないですかね?」
 と、言いにくそうに言った。
「殺された? 馬鹿な! 一体誰が殺したと言うんだ?」
 と、速水は思わず声を荒げた。
「そりゃ、誰なのかは分からないですが……」
 望月刑事は、決まり悪そうに言った。
「でも、望月君が言ったように、殺されたというケースも想定してみてはどうですかね? 五月女さんがどうやって駒ヶ岳にまで行ったのかを証明出来ないし、また、登山道を歩いてる姿も目撃されてないじゃ、五月女さんの遺体は夜間に犯人が運んだという可能性も有り得ますからね」
 と、野村刑事は、神妙な表情で言った。
「じゃ、野村君は、誰が五月女さんを殺したと推理してるんだい?」
 と、速水は不満そうな表情で言った。速水は、五月女は自殺したに違いないと、確信していたのだ。
「それは、誰だか分からないのですが……。しかし、由美さんにしろ、京子ちゃんにしろ、苅田さんにしろ、治子さんにしろ、五月女さんが怪しいというだけで、五月女さんの犯行と決めつけるのは、軽率過ぎると思うのですよ。新犯人は、別にいるかもしれないということですよ」 
 と、野村刑事はその可能性は充分に有り得ると言わんばかりに言った。
「じゃ、もう一度、個々の事件を洗い直してみるということか」
 速水は冴えない表情で言った。
「そうなるでしょうね」
 野村刑事も冴えない表情で言った。
「しかし、どの事件もかなり捜査をしたんだ。それ故、新しい情報を入手出来るとも思えないんだが」
 と、速水は再び冴えない表情で言った。
「でも、由美さんに関しては、まだ捜査は特にしてないですよ。それに、五月女さんに関してもです。由美さんとか五月女さんには、まだまだ我々の知らない何かがあるかもしれませんよ」
 と、野村刑事は言っては、小さく肯いた。
 野村刑事のその言葉を受けて、速水は、
「よし。じゃ、その野村君の意見を取り入れてみるか」

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