第七章 絶体絶命

     1

 守子は任意出頭という形で函館中央署に向かうことになった。
 守子は、望月刑事の運転するパトカーの後部座席に両脇を速水と野村刑事に固められながら、まるで逮捕されたかのように函館中央署に向かっていた。そんな守子の眼には車窓から流れ行く景色は映っていないかのようであった。
 その頃、函館中央署の鑑識たちが、守子の部屋から五月女の指紋なんかが残っていないか、捜査を始めていた。五月女が守子の部屋で五月女と争ったのなら、その証拠が守子の部屋から見付かる可能性があったからだ。また、近くの駐車場に停められてる守子の車も同じように捜査されることになった。
 そして、守子はその日、函館中央署に身柄を拘束されることになってしまった。何故なら、守子の部屋から五月女の指紋が見付かってしまったからだ。
 この事実を速水から告げられると、守子は完全に黙秘を貫き始めた。また、時折、訳の分からない念仏のようなものを唱え始めた。
 そして、その翌日、五月女殺しの容疑者として、以前、五月女と付き合っていたアイヌの娘が容疑者として浮かんでるという記事が新聞に掲載されると、その日の午後、函館中央署に知里サチという四十位の女性が姿を見せた。その女性も守子と同様、日本人離れしていた。それ故、アイヌと思われた。
 サチは受付の婦人警官に、
「礼木守子ちゃんの捜査してる警官と話をしたいのですが」
 と、淡々とした口調だが、気丈な表情を見せては言った。
 すると、その婦人警官、即ち、田中雅代は、
「どういった方ですかね?」
 と、雅代はサチの素性を確認しようとした。
「私は、礼木守子の姉なんですよ」
 取調室に通されたサチの前に、やがて、速水が現われた。速水はサチに、
「僕が五月女さんの事件で礼木さんのことを捜査してる速水ですが」
 と言っては、速水はサチに軽く会釈をした。
 すると、サチは、
「何故妹が疑われてるのか、その経緯を話してもらえないですかね?」
 サチにそう言われ、速水はサチに何故守子が五月女殺しで疑われてるのかを逐一話した。また、速水はこれだけ動機と証拠が揃っていれば、守子が五月女殺しの疑いで逮捕されるのは時間の問題だとも説明した。
 そんな速水の話にサチは言葉を挟まず黙って耳を傾けていたが、速水の話が一通り終わると、サチは、
「五月女さんはアルカロイド系の毒物によって死んだとのことですが、守子がそういった毒物を持っていたということは、証明されたのですかね?」
 と、渋面顔を浮かべては言った。
「いや。まだ証明はされてはいません。なかなか礼木さんが自供してくれないので、困ってるのですよ」
 と、速水は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては言った。
「いくら、五月女さんの姿が守子のアパート近くで見付かったり、また、五月女さんの指紋が守子の部屋から見付かったとしても、その毒が見付からないことには、守子を五月女さん殺しで逮捕出来ないと思うのですがね。そうじゃないですかね?」
 と、サチは不満そうに言った。
「いや。必ずしもそうではないですよ。何しろ、五月女さんの指紋が礼木さんの部屋で見付かってるし、また、五月女さんの死亡推定時刻に礼木さんの部屋で男女の争う声が隣室の住人に耳にされてますからね」
 と、速水はサチの言い分はまず通用しないだろうと言わんばかりに言った。
 すると、サチは、
「それはまずいですよ。もし、守子の部屋に誰かがいて、その誰かが五月女さんを殺し、守子は何もしなかったのなら、どうするのですかね?」
 と、まるで速水を睨み付けるかのように言った。
 すると、速水の言葉は詰まった。そう言われてみれば、確かにそうだからだ。即ち、今の時点では、守子を五月女殺しの疑いで逮捕するのは危険なのである!
 それ故、速水は少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「確か礼木さんから知里さんが六月二十二日の夕方、礼木さんの部屋に来ていたと聞かされてるのですが……。もっとも、午後七時頃には知里さんは帰宅したとも聞かされてるのですがね」
 と、速水は眉を顰めては、淡々とした口調で言った。
 すると、サチは、
「それが、私は帰宅はしなかったのですよ」
 そうサチに言われ、速水は再び言葉を詰まらせた。そのサチの言葉が意外なものであり、また、これからサチの口から飛び出る言葉も、速水たちにとって意外なものである予感がしたからだ。
 案の定、サチは、
「実は五月女さんを殺したのは、守子ではなく、私なのですよ」
 と、正に何ら悪びれた様も見せずに、淡々とした口調で言った。
 そうサチに言われ、速水は呆気に取られたような表情を浮かべては、言葉を発することが出来なかった。
 そして、その速水の沈黙はまだしばらく続いたが、速水の口からはやがて、
「何故、知里さんは五月女さんを殺したのですかね?」
 という言葉がまるで自然に発せられた。
 すると、サチは、
「五月女が守子の首を絞め、守子を殺そうとしたからですよ。それで、逆に私が殺してやったのですよ。ただ、それだけのことですよ」
 と、五月女を殺したのは、当然のことだと言わんばかりに言った。
「どうして、五月女さんは礼木さんを殺そうとしたのですかね?」
 速水はいかにも納得が出来ないように言った。
「京子ちゃんを守子が殺したと思ったからではないですかね」
 サチは速水から眼を逸らせては言った。
「京子ちゃんを礼木さんが殺した? 京子ちゃんとは、五月女さんの娘であった京子ちゃんのことですかね?」
 速水は些か納得が出来ないように言った。
「そうです」
「それはおかしいですね。京子ちゃんは二年前の五月十五日に大沼湖に落ちて死んだと思うのですがね」
 と、速水は眉を顰めた。
 すると、サチは速水から眼を逸らせては、
「いいえ。あれは、本当の京子ちゃんではなかったのですよ」
 と、神妙な表情で言った。
「本当の京子ちゃんではなかった? それ、どういうことなのですかね?」
 速水は再び納得が出来ないように言った。
「ですから、あれは京子ちゃんではなく、真理だったのですよ」
 サチは再びいかにも神妙な表情で言った。
「真理? それは、一体誰なんですかね?」
 速水は好奇心を露にしては言った。
「五月女と守子の子供ですよ」
 と、サチは気丈な表情を浮かべては、力強い口調で言った。
「そんな馬鹿な! 礼木さんが五月女さんの子供を宿し、産んだということは凡そ察しがついていたのですが、その子供は生後二ヶ月で死んだのではないですかね?」
「違うのですよ。それが、実は五月女と五月女の奥さんであった由美さんとの子供であった京子ちゃんだったのですよ」
「そんな馬鹿な! そんな馬鹿なことがあるのですかね?」
 と、速水は素っ頓狂な声を上げた。
「それが、あるのですよ。私は嘘は言いませんよ」
 と、サチはいかにも真剣な表情を浮かべてはきっぱりと言った。
「しかし、信じられないですよ。そんなことは」
 と、速水はサチから眼を逸らせては、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
「でも、私は嘘は言ってませんよ。何故なら、私が京子ちゃんと真理ちゃんとを取り替えたのですから。病院のベッドで眠っている京子ちゃんと真理ちゃんとをね!」
 と言っては、サチは速水の顔をまじまじと見やった。そのサチの表情は、とても満足そうであった。
「どうしてそのようなことが出来たのですかね?」
 速水はサチの顔をまじまじと見やっては、半信半疑の表情を浮かべては言った。
「私の友人のアイヌの看護婦さんに頼み、協力してもらったのですよ。矢部さんという方ですけどね。矢部さんは京子ちゃんが生まれた病院の看護婦をしていたのですが、夜勤の時に私をこっそりとその病院の中に入れてくれて、私が京子ちゃんと真理ちゃんとをすり替えるのを手伝ってくれたのですよ。二人とも、生まれてさ程時間が経っていなかったから、すり替えても分からなかったのよ。それ故、真理ちゃんを京子ちゃんだと押し通すことが出来たというわけよ」
 と言っては、サチは小さく肯いた。
「ということは、五月女さんも由美さんもそのことに気付かなかったということですかね?」
「そうですよ」
 それを聞いて、速水は眉を顰め、腕組みをしては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「どうしてそのようなことをやったのですかね?」
 と言っては、サチを見据えた。
「それは、真理ちゃんの幸せの為ですよ」
 サチは淡々とした口調で言った。
「真理ちゃんの幸せの為? 分からないですね」
 速水は納得が出来ないような表情を浮かべては首を傾げた。
「その頃、守子にはお金がなかったのよ。お父さんが知人の和人の金融先物会社の人に唆され、先物取引をやってしまい、財産を失ってしまったのよ。つまり、無一文になってしまったのよ。
 守子は働いていなかったから、守子一人が生きていくのに精一杯という状況だったの。だから、真理ちゃんを育てていくことが出来なかったの。
 そんな守子に対して、五月女は大金持ち。それ故、五月女さんに育てられた方が、真理ちゃんは幸せになれると、私も守子も思ったというわけ。それに、真理ちゃんの父親は、五月女なんだからね。
 それで、私が友人の矢部さんに協力してもらって、二人の赤ちゃんをすり替えたというわけなのよ」
 と、サチはいかにも満足そうに言った。
 そうサチに言われ、速水は返す言葉がなかった。その話があまりにも衝撃的で予想だにしないものであった為に、言葉を詰まらせてしまったのである。
 だが、やがて、
「じゃ、五月女さんと由美さんとの子供である京子ちゃんは、礼木さんが殺したのですかね?」
 と、険しい表情を見せては言った。
「いいえ。そうじゃないですよ。負んぶしていた時に落としてしまい、打ち所が悪かった為に死んでしまったと、守子ちゃんは言ってましたね」
 と、サチは速水から眼を逸らせては言った。そんなサチの表情は、何となくぎこちないものに思われた。
 速水は今までにその生後二ヶ月後に死んだという乳児の死に関して何ら疑いを持っていなかったのだが、そのサチの告白を耳にし、疑いを持たざるを得なくなってしまった。しかし、今更どうにもならないであろう。
「じゃ、五月女さんは死ぬまで大沼湖に落ちて死んだ真理ちゃんのことを、京子ちゃんだと思っていたのですかね?」
 と、速水は眉を顰めては言った。
「ですから、五月女は大沼湖で落ちて死んだ京子ちゃんが、本当の京子ちゃんではなく、五月女と守子との子供である真理ちゃんだということを知ったのですよ。だから、五月女は伊達にまでやって来ては、守子に詰め寄ったのですよ。京子ちゃんを何処にやったという風にね」
 と言っては、サチは小さく肯いた。
「でも、五月女さんは由美さんと結婚してからは、礼木さんとは付き合ってはいなかったのですよね?」
「そうです」
「そうなら、何故礼木さんが伊達に住んでいたことを知っていたのですかね?」
「興信所なんかに調べてもらったのではないですかね」
「じゃ、どうして、大沼湖に落ちて死んだ子供が、京子ちゃんではないことを知ったのですかね?」
 速水は些か納得が出来ないように言った。
 すると、サチは眉を顰めては少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「矢部さんが話したのだと思います」
 と、小さな声で言った。
「成程。つまり、矢部さんは良心の呵責を感じ、京子ちゃんの秘密を話したということですか」
「そうかもしれませんね。矢部さんは先日病死したのですが、死ぬ前に五月女に本当のことを話しておきたかったのかもしれませんね」
 と、サチはいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「成程。で、五月女さんは矢部さんから京子ちゃんの秘密を知り、京子ちゃんが何処かで生きていると思い、伊達に住んでいた礼木さんの家を探し出し、押し掛けて来たというわけですね?」
「そういうわけですよ」
「そして、京子ちゃんを何処にやったと詰め寄ったのですね?」
「そうです」
「すると、礼木さんは何と言ったのですかね?」
「死んだと、正直に言いました」
「すると、五月女さんはどうしたのですかね?」
「『お前が京子を殺したんだ! そうなんだろ!』と言っては、守子の首を絞めに掛かりました。
 隣の部屋で二人の遣り取りを息を潜めて耳にしていた私は、守子の悲鳴を耳にし、このままでは守子は殺されると思い、仏壇の引出しにしまっていたトリカブトから作った毒を手にしては、五月女の口にこじ入れたのですよ。すると、五月女は呆気なく死んでしまったのですよ」
 と、サチは淡々とした口調で言った。そんなサチの様は平然としていて、五月女を殺したということに何ら後悔はしていないかのようであった。
 そんなサチに、速水は、
「そして、夜になって、五月女さんの遺体を駒ヶ岳の登山道にまで運んだのですかね? 礼木さんと二人で」
「そうですよ」
「どうしてわざわざ駒ヶ岳にまで運んだのですかね?」
「大沼湖にはアイヌの娘二十名余を人身供養の為に沈め殺した相原周防守季胤が眠ってるわ。だから、私たちアイヌにとって、憎き季胤が眠ってる大沼に五月女を沈めてやろうと思ったの。大沼湖をアイヌにとって憎き和人の墓地にしてやろうと思ったの。
 でも、大沼湖には、真理ちゃんも眠ってるから、真理ちゃんと五月女の墓地を同じには出来なかった。それで、駒ヶ岳にしたの。ただ、それだけのことよ」
 と、サチは淡々とした口調で言った。
「じゃ、五月女さんを実際に殺したのは、礼木さんではなく、知里さんだったというわけですかね?」
 速水はサチの顔をまじまじと見やっては言った。
「そうですよ」
 サチは当然だと言わんばかりに言った。
 そうサチに言われても、サチの証言をあっさりと信じるわけにはいかなかった。自白だけで逮捕出来ないのは、法律上、明らかなのだ。
 それで、その旨を速水はサチに説明した。
 すると、サチは、
「五月女のズボンのベルトの金具の部分に私の指紋が付いてる筈よ」
 そうサチに言われ、直ちにそのサチの証言が正しいのかどうか、捜査が行なわれた。
 すると、そのサチの証言は正しいということが、程なく判明した。サチの証言通りに、五月女のズボンのベルトにサチの指紋が付いていたからだ。
 この結果を受け、サチは五月女の死体遺棄の疑いで逮捕された。
 すると、その夜、サチは再び衝撃的な告白をしたのである。
「私は五月女さんを殺しただけではなく、五月女由美さんも殺したのですよ」
 と、平然とした表情を浮かべては淡々とした口調で言った。
「それ、間違いないですかね?」
 速水はいかにも真剣な表情で念を押した。
 すると、サチは黙って肯いた。
 そんなサチに、
「どうして由美さんを殺したのですかね?」
 サチの告白を耳にし、速水は些か声を上擦らせては言った。
「最初は殺すつもりはなかったのですよ。でも、打ち所が悪く、結果的には死んでしまったのですよ」
 と、サチは何ら悪びれた様を見せずに淡々とした口調で言った。
「由美さんは、洞爺湖畔で、轢き逃げによって死亡したのですが、由美さんを轢き逃げしたのは、知里さんだったというわけですかね?」
「そういうわけですよ」
 と、サチは今度は些か険しい表情を見せては小さく肯いた。
「しかし、知里さんはどうして由美さんがあの時、洞爺湖畔にいたということを知っていたのですかね?」
「偶然に見かけたのですよ。私はその頃、昭和新山の民芸店で働いていたのですが、その帰りに少し時間があったので、洞爺湖の温泉街をぶらぶらとしていたのですよ。
 すると、その時に偶然に由美さんのことを眼にしてしまったのですよ。由美さんのことは、矢部さんから写真を見せられたこともあり、よく知っていたのですよ。それで、私は密かに由美さんのことを尾け始めたのですよ。
 私は守子から由美さんのことを聞いていましたから、常日頃から由美さんのことを憎らしく思っていたのですが、そのこともあってか、その時にとんでもないことを思いついてしまったのですよ。
 それは、由美さんに車をぶつけ、由美さんに怪我をさせるということでした。守子の代わりに五月女の妻に収まり、幸せそうにしてる由美さんが大怪我をすれば、ざまみろと思ったのですよ。
 で、私は密かに由美さんの後を尾け、由美さんが宿泊してるホテルとその部屋を確認すると、その部屋の扉の隙間に、〈京子ちゃんのことでどうしても話したいことがあるのです。京子ちゃんには、秘密があることを知ってますか? その秘密を知りたければ、午後八時半頃、Pホテルの駐車場の入口の前で待っていてください。
 五月女由美さんへ 〉
 というメモ書きを放り込んだのですよ。
 もし、私がメモ書きを放り込んだ部屋の女性が由美さんでなければ、私が指定した場所には来なかったでしょう。
 しかし、その女性はやはり来たのですよ。
 ということは、その女性はやはり、五月女由美さんだったのですよ。
 また、私の誘いに乗ったというのも、やはり、京子ちゃんのことで何か腑に落ちないものを感じていたのかもしれませんね。この子は、本当に私の子なのかという具合に。
 で、私は辺りに人気がないということを確認すると、車を走らせ、由美さんに車をぶつけました。
 すると、『ドン!』という鈍い音がして、由美さんは倒れました。
 私は車から降りて由美さんの許に行き、私が書いたメモ書きを見付けると、それを由美さんから奪いました。
 私はこのメモ書きを由美さんが持って来なければどうしようと、びくびくしていました。何故なら、万一、私が犯人として浮かび上がってしまえば、そのメモ書きは私が書いたという証となってしまいますからね。
 私は突発的に犯行を思い付いたので、かなり慎重さに欠けていたのですが、でも、由美さんは私が書いたメモ書きを持って来てくれたので、私は助かったというわけですよ。
 で、私は念の為に由美さんの脈を見ました。
 すると、脈は打ってませんでした。
 即ち、由美さんは死んでしまったのです! 
 でも、私は由美さんを殺すつもりはなかったのです! 由美さんの死は、私にとっても由美さんにとっても、不運だったのです!」
 と、サチは何ら悪びれた様も見せずに、淡々とした口調で言ったのだった。
 
     2

 サチの思い掛けない自供により、未解決事件が次から次へと解決しそうな塩梅となって来た。とはいうものの、あっさりとサチの自供を信じるわけにはいかないであろう。要するに裏を取る必要があるというわけだ。
 そんなサチに、速水は治子と苅田の死に関して聞いてみた。
 すると、サチは、
「その事件は、私には何ら関係はない」
 と、頭を振った。
 速水は野村刑事に、
「知里さんは五月女さん殺しと由美さん殺しは、あっさりと認めたのに、治子さん殺しと苅田殺しを否定したということは、この二つの事件には、知里さんは関係してないのかもしれないな」
 と、神妙な表情で言った。
「僕もそう思いますね」
野村刑事は、速水に相槌を打つかのように言った。
「となると、誰が犯人かということになるのだが、治子さんに関しては、函館公園の近くで治子さんと共に歩いていたという大柄の男が怪しいな」
と、速水は眉を顰めた。
「僕もそう思いますよ。でも、少し、気になることがあるのですがね」
と、野村刑事も眉を顰めては言った。
「それは、どういうことかな」
 速水は興味有りげに言った。
「治子さんの水商売時代の友人に対してまだ聞き込みを行なっていないということですよ。今まで、聞き込みを行なったのは、学生時代からの友人とかが多かったですからね」
「そう言われてみればそうだが、治子さんのアドレス帳なんかに記載されていた友人たちの中には、水売時代の者が含まれていなかったんだよ。まあ、治子さんにとってみれば、あまりいい思い出はなかったのかもしれないな」
「そうなのかもしれないませんね」
 と、野村刑事は速水に相槌を打つのように言った。
「で、まだ治子さんが何という店で働いていたのか、分かっていないんだ」
「じゃ、早速その捜査から始めてみましょう」

      3

 治子の旧姓は長野であり、治子の実家は、五稜郭から少し北に位置する所にあった。
 野村刑事は治子の実家を訪れ、治子を殺した人物に心当りないか、改めて確認してみたが、成果は得られなかった。
 それで、野村刑事は、
「治子さんは五月女さんと結婚をされる前に、水商売の仕事をされていたと聞いてるのですがね」
 と訊くと、治子の母親であった町子は、
「そうでしたね」
「では、何という店で働いていたのですかね?」
「確か、『ミチル』という店で働いていましたね」
「それは、何処にあるのですかね?」
「松風町だったと思います」
「その『ミチル』という店は、どういった店だったのですかね?」
「ですから、クラブですよ。お客さんにお酒を飲ませたりするお店ですよ」
「治子さんはホステスをしていたのですかね?」
「そうですよ」
「いつ頃から、その店で働いていたのですかね?」
「二十四歳の時からだったと思います」
「治子さんは二十八歳の時に結婚されたのですが、結婚されるまで、そのお店で働いていたのですかね?」
「結婚する四ヶ月位前に辞めたと思いますね」
「では、治子さんは『ミチル』で働くまで、何をしておられたのですかね?」
「OLをやっていました」
「それは、高野商事という会社ですかね?」
 野村刑事は、そのことを治子の友人から聞き込みを行なっていた時に知ったので、そう言った。
 すると、町子は、
「そうです」
 と、小さく肯いた。
「では、治子さんが『ミチル』で働いていた時に、何かトラブルなんかに巻き込まれ、困っていたとかいうようなことを言ってなかったですかね?」
「そのようなことは、言ってなかったですね」
「そうですかね? どんな些細なことでも構わないから、何か気付いたことはありませんかね?」
 すると、町子は、
「そうですね……」
 と言っては、何やら考え込むような仕草を見せては少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「そう言えば、男性に付き纏われていて困ってると言ったことはありますね」
 と、神妙な表情で言った。
 そう町子に言われると、野村刑事の表情は一気に緊迫したものへと変貌した。この時点で、やっと、野村刑事たちが必要としていた情報に行き着いたと実感したからだ。
「で、その男性の姓名とか、どういった仕事をしてるかとかいうようなことには、治子さんは言及してませんでしたかね?」
 と、野村刑事は町子の顔をまじまじと見やっては言った。
「そのようなことには、言及してなかったですが、お店のお客さんだったらしいですよ。で、治子は結構、指名が多かったそうで、治子に言い寄って来る男性もいたらしいですよ。その中の一人ではなかったのですかね」
「成程。で、五月女さんも『ミチル』の客で、治子さんの見初めたのですよね?」
 と、野村刑事が言うと、町子は野村刑事から眼を逸らせては、
「そうだったですね」
「で、治子さんが『ミチル』で働いていた時に、治子さんのことで気付いたことは、その男性の件位ですかね?」
「そうですね。それ位ですかね」
 野村刑事は一応、町子から訊きたいことは訊いたので、この辺で署に戻ることにした。
 署で野村刑事は速水に捜査結果を話すと、
「となると、函館公園の近くで、治子さんの腰に手を回し、治子さんと歩いていた男とは、治子さんが『ミチル』で働いていた時に、治子さんに言い寄っていた男かもしれないな」
「僕もそう思いますね」
 と、野村刑事は肯いた。
「となると、治子さんは不倫をしていたというよりも、その男に無理やり付き合わされていたのかもしれないな。その男の誘いを断れない何かがあったのかもしれないよ。
 でも、治子さんは別れ話を切り出したんだ。それが、男を逆上させてしまい、殺されたのかもしれないな」
 と言っては、速水は眼を光らせた。
「僕もそう思います」
 野村刑事は速水に相槌を打つかのように言った。
「となると、『ミチル』で聞き込みを行なわなければならないな」
 ということになり、速水は野村刑事と共に早速、松風町にある「ミチル」に向かった。

     4

「ミチル」は、五階建の雑居ビルの地下一階にあった。
 速水が店長を呼び出すと、黒服を着ては、髪にポマードを付けオールバックにした四十位の中肉中背の男が速水の前にやって来ては、
「僕は何も悪いことはやってないですよ」
 と、いかにも殊勝な表情で言った。
 すると、速水は些か笑みを見せては、
「そうじゃないんだ。五月女治子さんに関して、訊きたいことがあるんだよ。この店で働いていた時は、長野治子さんだったが」
 と言っては、速水は治子の写真を店長の黒田に見せた。
 黒田は治子の写真をさっと眼にしては、
「美知のことですね」
「いや。治子さんだよ」
「この店では、美知という名前だったんですよ」
 と言っては、黒田は小さく肯いた。
「でも、美知さんの本名は、長野治子さんだったよね?」
「そういった名前でしたかね」
「で、その治子さんが先日、何者かに殺され、その死体が外人墓地近くで見付かったのですが、その事件のことをご存知でしたかね?」
 と、速水が言うと、黒田は、
「いいえ。今、初めて知りました」 
 と、いかにも驚いたかのように言った。
「TVのニュースとか新聞は見ないのですかね?」
「そうでもないのですが、ここしばらくの間、忙しくてね」
「そうですか。でも、店でその事件が話題にならなかったのですかね?」
「治子さんがいた当時のホステスは、皆、辞めてしまいましたよ。ですから、今のホステスは皆、治子さんのことを知らないのですよ」
 と、黒田は神妙な表情で言った。
「そうですか。で、その美知さんこと、五月女治子さんは、何者かに殺されたのですが、犯人に心当りないですかね?」
 速水はまずそう訊いてみた。
 すると、黒田は、
「ないですね」
 と、特にそれに関して考えを巡らす素振りを見せずに、あっさりと言った。
「そうですか。で、治子さんはこの店で働いていた時に、よく男性のお客さんに言い寄られて困っていたというようなことを耳にしたことがあるのですがね」
「そのようなことはあったかもしれないですが、しかし、そういったことは別に珍しくはないですね。治子さん以外のホステスもそのように零していましたからね。そのことが嫌で辞めて行くホステスも珍しくはないですよ」
「そうですか。では、治子さんに言い寄っていた男性のことは、分からないですかね?」
「僕では分からないですね」
「では、治子さんと一緒に働いていたホステスの名前とか連絡先のことは分かりますかね?」
「分かりますよ」
「じゃ、それらをメモさせてもらいたいのですが」
 速水はそれらの情報のメモを終えると、「ミチル」を後にし、早速、それらのメモに基づいて、電話を掛けてみた。
 すると、成果があった。治子と共に働いていた明美というホステスから、治子が客に言い寄られていて困っていたという事実が確認出来、また、治子に言い寄っていた客の姓がタカナシであるらしいことが分かったからだ。
また、年齢が三十から四十位であるということと、二人共、大柄であったことも分かった。
 それで、函館周辺に住んでる男性で、姓がタカナシで、年齢が三十から四十五位の男性をピック・アップしてみた。
 すると、その該当者は三人で、速水は野村刑事と共に、その該当者を訪問してみた。
 すると、高梨浩一という男性が浮かび上がった。この高梨浩一だけが、徳田典子が眼にした男性と同じく、大柄であったからだ。
 それで、速水は野村刑事と共に、改めて高梨を訪ねた。高梨宅は十字街にあり、高梨は中華料理店を営んでいた。因みに、高梨は独身であった。
 高梨は速水の顔を眼にして、嫌な奴がやって来たと言わんばかりの表情を見せた。
 そんな高梨を眼にして、速水はにやにやしながら、
「高梨さんは、五月女治子さんのことを知ってますよね?」
 と言っては、高梨を見据えた。
「五月女治子さん? それ、どういった人ですかね?」
 高梨は怪訝そうな表情を浮かべては、首を傾げた。
「五月女治子さんのことを、ご存知ないのですかね? じゃ、高梨さんは松風町にある『ミチル』というクラブに度々行かれたことがありますよね? 今から五年以上前のことですが」
 と、速水が言うと、高梨の言葉は詰まった。
 そんな高梨は、今の速水の問いにどのように答えればよいか、考えているようだ。
 そして、そんな高梨を眼にして、速水は高梨がホシに違いないと、直感した。
 それはともかく、高梨は少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、言葉を発した。
「分からないですね」
「分からない? それ、どういうことですかね?」
 速水は納得が出来ないように言った。
「確かに、松風町にあるクラブには行ったことがあるのですが、それが、『ミチル』という名前のクラブであったのかどうかは、覚えていないのですよ。それに、五年以上前のことですからね」
 と言っては、高梨は薄らと笑みを浮かべた。
「そうですかね? そのクラブには、何度も行ったことがあるのではないですかね? それなのに、名前を覚えていないというのは妙ではないですかね? では、高梨さんのことを覚えてるホステスを呼んで来ましょうかね」
 と、速水が言うと、高梨は表情を曇らせては、何も言おうとはしなかった。
 そんな高梨に速水は、
「高梨さんは『ミチル』のホステスだった長野治子さん、店では美知と呼ばれてましたが、その美知さんに言い寄っては、深い関係となったのですね。そして、美知さんが五月女さんと結婚してからも、交際を続けていたのですよね? そうなんですよね?」
 と言っては、高梨を見やった。
 すると、高梨は、
「僕は刑事さんが何を言ってるのか、分からないですよ」
 と、怪訝そうな表情を浮かべた。
「じゃ、『ミチル』のホステスをやっていたという明美さんに会ってもらいましょうかね? 明美さんは美知さんに言い寄っていた男性のことを覚えていると証言してるのですがね」
 と言っては、速水は高梨を睨み付けた。
 すると、高梨は、
「僕と似てる人間は、世の中、幾らでもいますからね。人違いじゃないですかね」
 

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