第一章 春

    1

「美幸、ちょっとこっちに来いよ」
「何よ」
 そう言っては、美幸は和也の許に歩み寄った。和也は小声で、
「あれを見てみろよ」
 と言っては、目配せをした。
 美幸は和也が目配せした方に眼をやると、美幸の知らない男の子が歩いてるところであった。
「知ってるか?」
 和也は美幸に訊いた。
「ううん」
 美幸は頭を振った。
 その男の子は、和也や美幸と同じ位の年齢であった。つまり、小学校四年位なのだ。
 和也も美幸も、村の中の同年代の連中の顔は、全て知っていた。だが、その男の子の顔は、明らかに和也も美幸も知らない顔であったのだ。
 和也や美幸が住んでいる若築村は、アルプスの山々を背後に控えた田園の中にあった。村の人口は、二千人程で、村の主な産業は、農業であった。
 和也と美幸の家も、農業を営んでいた。和也も美幸も農業という自然相手の仕事に従事している両親の温かい愛情に育まれながら、若築村の豊かな自然環境の下で自由奔放に育って来たのであった。
 和也も美幸も外で遊ぶことが大好きであった。特に田園に咲き誇る豊かな草花を摘むことが大好きであった。
 若築村では、季節に応じて豊かな花が咲き乱れた。だが、春が最も艶やかな花の絢爛を見ることが出来た。
 梅、桜、こぶし、スミレ、リンゴ、モモ、菜の花、レンゲツツジ、そして、レンゲソウと。
 和也と美幸は、今日も学校が終わると、田園の中で花摘みに夢中になっていた。その和也と美幸の傍らを、和也と美幸の見知らぬ男の子が通り過ぎようとしてるのだ。
 その男の子は、やがて小川沿いの道から路地へと曲がり、その姿は見えなくなった。
 その男の子の姿が見えなくなると、和也と美幸は、その男の子のことはすっかり忘れ、再び花摘みに夢中になっていた。
 和也はビニール袋一杯になる位摘み取ると、
「俺、つくしを取りに行って来るよ」
 そう和也が言うと、美幸は、
「私も行くよ!」
 と、和也に甘えるように言った。
「しょうがないな」
 和也は美幸に構わずさっさと歩き出した。美幸はその後に続いた。
 つくしが生えている土手は、田圃の畦道を集落の方とは反対側に五百メートル程進むとあった。そして、その土手の向こうを流れている飯倉川は、隣村の境界線となっていた。
 土手はなだらかで、丈の低い草が生えていた。その草に交じって、つくしが生えているのだ。
 美幸は和也とつくしを摘みながら、時々、飯倉川越しにアルプスの山々に眼をやった。
 アルプスの山々は、頂に残雪を抱き、紺青の空の下に映えていた。美幸は、その光景はいつ見ても、いいものだと思っていた。
 新たなビニール袋がつくしで一杯になった頃、陽は陰りを見せ始めた。
 それで、和也は、
「そろそろ帰るぞ」
 その和也の言葉に美幸は、
「うん」
 と、肯いた。
 和也と美幸は、土手を下り、田圃の畦道を戻り始めた。
 田圃の畦道には、菜の花とかタンポポが咲き乱れていた。
 その数はいくら摘んでも摘み切れない位の数であった。
 和也と美幸の遥か後方では、夕陽がアルプスの山々に沈みかけていた。そして、それは、二人の背を赤く染めていた。
     
「ただいま」
 美幸はそう言っては、台所仕事をしている静子の許にやって来た。
「遅かったね。何処で遊んでいたの?」
「和也と菜の花を摘んでいたの。それから、飯倉川の土手でつくしも取ったの」
 美幸はつくしの入ったビニール袋を静子の前に差し出した。
 静子はそれを眼にすると、
「ありがとね。明日の晩御飯の時に食べようね」
 それを聞いて美幸はにっこりと笑った。

     2

「行って来ます!」
 元気の良い声が聞こえたかと思うと、玄関扉がパタンという音と共に閉まった。玄関からは、赤いランドセルを背負った女の子が潔く飛び出して来た。美幸である。
 美幸の通っている若築小学校は、一学年に一クラスしかなく、一クラスも三十人程というとても小さな小学校であった。若築村には小学校は若築小学校一つしかなかったので、若築村の外れに住んでいる子供は、通学に大変であった。
 美幸の家から若築小学校までは、一キロ程であった。そして、その距離は、若築小学校の生徒の中では遠くもないし、近くもない距離であった。
 教室の中に入ると、それはいつも通りの光景であった。和也もいたし、他の学友たちもいた。
 それで、美幸は今日もいつも通りだわと思っていたのだが、それはどうやら美幸の思い違いであったようだ。
 始業時間を告げるベルが鳴ると、担任の小山直子先生が入って来たのだが、小山先生は、美幸たちが見られない男の子を伴って来た。そして、その男の子が教壇の机の前に来ると、教室の中はしーんと静まり返った。
「今日は皆さんに新しいお友達を紹介しまーす!」
 小山先生は言った。小山先生の横には、男の子が恥ずかしそうに立っていた。
「中道君です。中道雄介君です! さあ! 中道君、挨拶をして頂戴!」
 小山先生にそう言われ、雄介は一歩前に踏み出し、
「僕、中道雄介です! 名古屋からやって来ました! よろしくお願いします!」
 と言って、頭を下げたのであった。
 美幸の横に座っていた和也は、美幸に、
「昨日の子じゃないか」
 と、小さな声で言った。
「うん」
 美幸は肯いた。
 中道雄介は、昨日、和也と美幸が田圃の畦道で花を摘んでいた時に通り過ぎて行った見知らぬ男の子であったのだ。
 雄介は早速席を与えられ、若築小学校四年一組の仲間入りを果たしたのであった。
 休み時間に入ると、雄介を囲んで、人の輪が出来た。
「名古屋から来たんだって?」
「名古屋って、どんなとこだい?」
「中道君の家は、どの辺りにあるの?」
「今日、一緒に帰ろうよ」
 とかいった言葉が飛び交っていた。
 雄介ははにかみながらも、それらの言葉にきちんと答えていた。
 和也と美幸も、勿論、その輪の中に加わっていた。
 和也は雄介に、
「昨日、中道君の姿を眼にしたよ」
「何処で眼にしたの?」
「若築神社の近くさ。若築神社の鳥居近くの小川沿いの道を歩いていたんじゃないかい?」
 そう和也が言うと、雄介はすぐに和也の言葉にピンと来たのか、
「思い出したよ。花を摘んでたね。確か、女の子もいたような気がするんだ」
「その女の子は、この子だよ」
 と言っては、和也は美幸を指差した。
「秋野美幸といいます。よろしくね」
 と言っては、美幸は微笑んだ。
「僕の方もよろしく」
 と、雄介は微笑を返したのであった。

     3

 やっと授業が終わった。
 時刻は三時だった。
 美幸は今日はいつもと違った一日だと感じていた。
 それは中道雄介がやって来たからだ。新たな仲間が美幸を刺激し、いつもと違った一日と感じさせたのだ。そして、四年一組の誰もが、美幸と同じように感じたことであろう。
 雄介は四年一組の学友たちから一緒に帰ろうよと誘われたのだが、結局、和也と美幸と一緒に帰ることになった。和也と美幸の家が、雄介の家と同じ方向にあったからだ。
 若築小学校のある辺りが、若築村では一番賑やかな所であった。村役場、農協、郵便局とかいった公共施設が集まっていて、それ以外にも、スーパー、飲食店、衣料品店などがあったが、それらの施設が若築村で見られるのは、その辺りだけであった。もっとも、民家はあちらこちらに散らばっていたのだけれど。
 和也と美幸、そして、雄介は、小川沿いの道を歩いていた。その道が、和也、美幸、雄介の家に向かう共通の道であったのだ。
「今日は一人で学校に来たの?」
 美幸は雄介に訊いた。
「ううん。母さんに連れて来てもらったんだ」
「ふーん」
 美幸は呟くように言った。
「晴れていて、よかったよ。雨が降っていたら、学校に行くのが嫌だなと思っただろうな」
 和也は眉を顰めては言った。
「雨の日は、大変なのよ。雨合羽を着て、傘を差しながら通学するのよ。私も雨の日は学校に行きたくないなと、思ったりするのよ」
 美幸がそう言うと、和也は、
「いくじないだろ、美幸は。俺は雨の日は大好きさ。俺は雨合羽を着るだけで、傘は差さないさ。雨の感触が直接肌に当って気持ちいいんだよ。それに、雨の中を歩くことは、何だか冒険をしてるみたいで、スリルがあるんだよ。だから、俺は雨の日は、大好きさ」
 そう言った遣り取りを交しながら、三人はかなりの距離を進んだ。
 雄介は新しい土地の感触を一歩一歩確かめながら歩いていたのだが、ふと左前方を指差し、
「あれ、何という花?」
 と、和也と美幸に訊いた。
「どれどれ」
 和也と美幸は、雄介が指差した方に眼をやった。
 すると、そこには紅紫色の花が咲き乱れていた。その辺りは、まるで紅紫色の花に占有されていたのだ。
「レンゲソウよ!」
 美幸は声高らかに言った。
「レンゲソウ?」
 雄介は眉を顰めた。
「そうよ。知らないの?」
「ううん。知ってるよ」
 雄介は歩みを進めながらも、レンゲソウの群落に眼をやっていた。
 それは、雄介の心を強く揺り動かした。花を見て、心が揺り動かされたことなんて、雄介には記憶がなかった。何故、そのようなことになったのか?
 それは、空がとても青く、緑がとても眩しい若築村の風景とレンゲソウがうまく融合してることが、レンゲソウの持ち味を一層際立たせて、雄介がこれまでに見て来た花とは、一味違った趣を雄介に与えたからかもしれない。そのことも、無論、あるだろう。
 だが、そのことよりも、雄介はレンゲソウのことを気に入ってしまったのだ! 理屈抜きに気に入ってしまったのだ!
 雄介がレンゲソウを横眼で見ながら歩くので、和也は、
「レンゲソウを気に入ったのか?」
「うん」
 雄介は率直に肯いた。
「そうか。じゃ、もっと間近で見ようよ」
 和也の言葉に、雄介の眼はぱっと輝いた。
 和也、美幸、雄介は、レンゲソウの群落の中に踏み出した。
 和也、美幸、雄介は、今、レンゲソウの群落の中にいた。
 美幸は屈み込んでは、レンゲソウの匂いを嗅いだ。そして、
「中道君も私のようにやってみて。とても、いい匂いがするよ」
「ああ」
 雄介は美幸にそう言われ、美幸のように屈み込んでは、紅紫色の花弁に鼻をあてた。
 何だか、とてもくすぐったかったが、かぐわしい香りがした。
 雄介はしばらく花弁に鼻をあてては、動かなかった。まるで、レンゲソウの花弁の匂いを嗅ぐのに陶酔してしまったかのようであった。また、それは、雄介をとても夢中にさせた。
 雄介がレンゲソウの匂いを嗅ぐことに夢中になってるので、和也はそっと雄介の背後に近付いては、「やっ!」という声と共に、雄介の背中を押した。
 雄介は和也に背中を押された為に、思わず前のめりになって倒れてしまった。
「ごめんよ。ちょっと脅かしてやろうと思ったのさ。あんまり夢中になって匂いを嗅いでるからな」
 和也はそう言っては、悪戯っぽく笑った。
「ああ。びっくりした。心臓が止まるかと思ったよ」
 雄介は照れ臭そうに笑った。
「あれ、見ろよ!」
 雄介が指差した方には、紋白蝶が揺ら揺らと揺れていた。紋白蝶は、花の蜜を吸いに来たようだ。
 和也は忍び足で紋白蝶に近付いて行っては、さっと両手で摑み取ろうとしたが、紋白蝶は和也の手を擦り抜けて、大空に飛び立ってしまった。
「ちぇ! 後少しだったのに!」
 和也は舌打ちした。
「僕だったら、巧みに捕まえたよ」
 雄介は自信ありげに言った。
「本当かい? じゃ、やってみろよ」
「うん」
 雄介は再びレンゲソウに近付いて来た紋白蝶にそっと近づき、両手でさっと捕えようとした。
 だが、紋白蝶は和也の時と同じく、雄介の手をするりと擦り抜けて行った。
「ほら! そう簡単に捕えられないさ!」
 和也にそう言われ、雄介は照れ臭そうに笑った。
 すると、和也も笑った。そんな和也と雄介は、長年の友のようであった。
 雄介に負けない位、和也も美幸もレンゲソウのことが好きであった。
 和也も美幸も物心がついた頃から、レンゲソウに接していた。レンゲソウの匂いを嗅ぎ、レンゲソウに集まって来る昆虫を追い、時にはレンゲソウの群落の中で昼寝をした。
 即ち、先程雄介が感じたことを、和也も美幸も既に感じていたのだ。レンゲソウはひょっとして、子供たちの心を魅了する魔力を持ってるのかもしれない。
「レンゲソウを持って帰ってもいいのかな」
 雄介は恐る恐る訊いた。雄介は何だかレンゲソウを摘むことに気が引けたのだ。
「いいさ。好きなだけ持って帰るといいさ」
 そう和也に言われ、雄介はレンゲソウを三本摘むと、満足そうな様を見せた。
 雄介が三本のレンゲソウを手にしたままなので、和也は、
「ビニール袋、持ってないのか?」
「ああ」
 雄介は小さな声で言った。
「美幸は持ってないのか?」
「持ってないよ」
「そうか……」
 和也はビニール袋があれば、雄介はもっとレンゲソウを持って帰れるのにと思ったのである。
「三本だから、手で持って帰れるよ」
 雄介がそう言ったので、和也は、
「そうか。じゃ、そろそろ帰ろうか」
 和也の言葉に、美幸も雄介も肯いた。
 三人は再び小川沿いの道を歩き出した。
「中道君は、兄弟姉妹はいないの?」
 と、美幸.
「僕は一人っ子なんだ」
「一人っ子で、寂しくないの?」
「寂しくないさ」
「中道はどうして若築村にやって来たの?」
 と、美幸は訊いた。
 それは、正に鋭い質問であった。
 若築村の住人の殆どは、先祖の代から若築村に住んでいて、農業を営んでる者が多かった。親が農業をし、子供がそれを受け継ぐのだ。
 若築村には企業は殆どなかったので、転勤によって若築村にやって来る家庭なんて、聞いたことはなかった。
 そういった状況なので、和也も美幸も転校生というものを知らなかったのだ。
「知らないよ! 僕は何も知らないんだよ!」
 雄介はそう言っては、哀しげな表情をした。
 美幸はその雄介の表情を眼にして、何だか訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がした。
 そして、その後、一日の疲れが出て来たこともあり、三人の口からは、言葉は発せられなくなったのだ。
 やがて、四辻に差し掛かった。それで、三人は「さよなら」と言っては、別れたのだった。
 家に戻ってから、美幸は静子に、
「今日、転校生がやって来たんだよ」
 そう美幸に言われると、静子は、
「中道君ね」
 そう静子に言われ、美幸は驚いてしまった。まさか、静子が雄介の姓を知ってるとは思わなかったからだ。
「母さん、どうして知ってるの?」
 美幸は眼を白黒させては言った。
「母さん、何でも知ってるのよ」
 静子はそう言っては、悪戯っぽく笑った。
 若築村は、とても小さな村なので、近所の新顔のことなど、すぐに知れ渡ってしまうのだ。何しろ、村の連中ときたら、他人の噂話をするのが、とても好きなのだから。そして、静子も近所の井戸端会議で、中道家のことを知ったのである。
 それによると、中道夫婦は、夫の弘行も妻の治子も再婚で、雄介は治子の連れ子で、一家は弘行の郷里の若築村に戻って来たとのことである。
「ふーん」
 美幸は静子の言葉に大して関心を示さずに、棚からビスケットを取り出しては、ポケットに入れ、
「遊びに行って来ます!」
 と言っては、玄関に駆けて行った。
 静子は、
「宿題をやってからにしなさい!」
 と言ったが、その声は、まるで美幸には聞こえていないようであった。
「しょうがない娘ね」
 そう言っては、静子は再び編み物に精を出し始めたのであった。

    4

「ただいま」
 そう言っては、部屋の中に入って来たのは、中道雄介であった。
 雄介の表情は、何となく穏やかであった。今朝、緊張した表情で、若築小学校へ向かってる時の表情は、既に消え失せていた。治子は、そんな雄介の表情を見て、ほっと胸を撫で下ろしたのであった。
 治子は、雄介のことで、胸を痛めていた。雄介が治子の新しい夫である弘行になかなか馴染まないからだ。
 雄介は前夫の東口和郎にはとても懐いていた。雄介の実父であるから、それは当り前なのだが、和郎は雄介を可愛がる割には、酒癖が悪く、また、よく浮気した。
 治子がそんな和郎と離婚を決意したのは、和郎が浮気相手の女性に金を貢ぐ為に、サラ金から金を借りたことを知ったからだ。治子はそんな和郎に愛想を尽かし、雄介を引き取って、離婚したのだ。
 治子はその後、知人の紹介で、今の夫の中道弘行と見合いをし、再婚するに至ったのだ。
 弘行はといえば、高校卒業後、名古屋の電気会社に就職し、そこで知り合った女性と結婚したのだが、病気の為に妻に先立たれてしまった。
 弘行は妻を亡くした哀しみからなかなか脱却出来ず、しばらく一人身でいたのだが、知人から治子を紹介され、治子の人柄を気に入り、再婚に至ったのだ。
 結婚してから、三人は数ヶ月の間、名古屋のアパートで暮らしていたのだが、弘行が郷里に戻って農業をしたいと言い出したので、結局、三人は弘行の郷里の若築村に引っ越したのだ。
 弘行が若築村に戻ると言ったので、弘行の両親はとても喜んだ。弘行は長男であるにもかかわらず、郷里に戻る意思を示していなかったからだ。
 弘行の両親は喜んだものの、それとは対称的だったのは、雄介だった。弘行に馴染めず、その上、見知らぬ土地で、雄介とは何ら血の繋がりのない弘行の両親と同居しなければならないからだ。
 雄介からは、以前の快活さは消え失せ、陰気な表情が目立ようになって来た。
 治子はそんな雄介が新たな学校でうまくやってけるのか、心配していたのだが、雄介の表情を見て、ほっと胸を撫で下ろしたというわけだ。
「母さん、これ、何だと思う?」
 雄介は摘んで来たレンゲソウを治子に見せた。
「それ、レンゲソウでしょう」
「そうだよ。僕、この花、気に入ったんだ」
「そう……。じゃ、母さんに貸してよ。花瓶に活けておくから」
「うん」
 治子は雄介からレンゲソウを受け取ると、花瓶に水を入れ、レンゲソウを活けた。
「母さん、それ、どこに置くの?」
「何処って……。何処に置いてもいいよ」
「だったら、僕の部屋に置いてよ」
「いいよ」
「わぁ!」
 雄介は歓声を上げ、治子からレンゲソウが活けられた花瓶を受け取ると、弾むような足取りで、階段を上がって行った。
 雄介の部屋は、二階にあった。二階の一室が、雄介の部屋として割り当てられていたのだ。
 雄介は本棚とか電気スタンドが置かれている机の上を整理して、花瓶を置くスペースをこしらえた。
 雄介は机の上に置かれたレンゲソウを眼にしては、満足そうな表情を浮かべた。
 そして、まだしばらくの間、レンゲソウを見入っていたのだが、やがて、階下に降りて行っては、治子に、
「お腹、空いたよ」
「牡丹餅をもらったんだけど、それでいい?」
「うん」
 治子は棚から牡丹餅を三つ取り出すと、皿に載せては、テーブルの上に置いた。そして、
「お茶を入れるから、ちょっと待ってね」
「うん」
 雄介はテーブルの上に置かれた牡丹餅を早速食べてみた。
 すると、それは確かに美味しかった。
 それで、一気に三つも口の中に入れてしまったので、むせてしまった。そして、苦しそうに咳をした。
 そんな雄介を見て、治子は、
「はら! そんなに急いで食べるから、むせるのよ! 早くお茶を飲みなさい!」
 治子にそう言われ、雄介は直ちにお茶を飲んだ。
 すると、かなり楽になり、やがて、それは無くなった。そして、
「ああ。お腹、一杯になった」
 と、いかにも満足そうに言った。

 若築村に引っ越すことに不満を感じたのは、雄介だけではなかった。治子もそうであった。
 だが、治子は大人である。雄介のように、露骨に顔に出したり、言葉に出したりしなかっただけのことであった。
 治子は弘行から若築村に戻りたいと告げられた時、眼の前が真っ暗になったものであった。
 しかし、弘行に反対するわけにはいかなかった。弘行は治子に前夫の子がいることを承知で結婚してくれたのだから。
 弘行は前夫の和郎とは違って、とて優しく、また、寛大な性格であった。
 それ故、治子がそんな弘行に何処までもついて行こうと、決意したものであった。それ故、若築村に引っ越すことに、反対するわけにもいかず、また、その不満を極力、追い払おうとしたのであった。
 そんな治子は、弘行の郷里である若築村を今まで訪れたことはなかった。
 そして、実際に来てみると、そこは確かに何もない村であった。ただ、静謐な田園風景が拡がっているに過ぎなかった。
 何だか、退屈そうな所だと治子は思ったのだが、この村の一員として頑張って行こうと決意したのだった。

     5

 雄介が座敷で大の字になって寝転がっていると、信一郎と花子がやって来た。弘行の両親である。
 二人とも、七十歳を過ぎているということもあり、髪は真白であった。
 雄介は信一郎と花子の姿を見ると、急に起き上がり、緊張した表情に変わった。
 そんな雄介を眼にして、信一郎は、
「雄介君。そんな畏まった表情をしなくていいよ」
 と言って、笑った。
 信一郎の肌は、日焼けの為に、赤銅色に変容し、また、眉はとても太く、額には大きな皺が刻まれ、その容貌はとていかめしげな印象を与えた。
 そんな信一郎を子供が見れば、誰だっておっかない爺さんだと思うことであろう。
 しかし、信一郎はその外見に似合わず、とても優しく、また、寛大な性格を有していた。そして、それは弘行のものと同じだった。即ち、弘行はそんな信一郎の血を受け継いだというわけだろう。
 だが、雄介はそんな信一郎と顔を合わせるのは、好きではなかった。やはり、弘行に馴染めてないように、信一郎にも馴染めていなかったのである。
「学校に行ったかい?」
 信一郎は訊いた。
「うん」
「友達は出来たかい?」
「うん」
「アッハッハッ! それは、結構なことだ」
 そう言っては、信一郎は花子と共に、座敷から出て行った。
 中道家の家は田舎の家だけあって、とても大きかった。建て坪は五十坪程あって、檜がふんだんに用いられてるというだけあって、建てられてからかなりの年月が経過してるにもかかかわらず、その荘厳さを失っていなかった。
 この大きな家に、弘行一家が来るまでは、信一郎と花子の二人で暮らしていたのだから、二人はさぞ寂しい思いをしていたことであろう。
 信一郎と花子との間には、二人の子供がいた。弘行と真智子である。
 信一郎は長男の弘行に家を継いでもらいたかった為に、弘行が名古屋の電気会社に就職することに、強く反対した。
 だが、弘行はそんな信一郎の意向を無視した。
 それなら、真智子に婿養子を貰い、家を継いでもらおうと思ったのだが、真智子は東京の鉄鋼会社に就職し、そこで知り合った彼と結婚してしまった。そして、真智子はもはや若築村には戻って来ないと言った。
 困ったのは、信一郎と花子であった。息子も娘も家を継ぐ意思がない。田畑は多く持ってるし、また、大きな家も持っている。身体はいつまでも元気ではないから、将来のことが気掛かりであった。
 そんな折に、弘行の妻が病死したので、それを機に弘行が村に戻って来ないかと思っていたのだが、それは空振りに終わった。
 その後、弘行は再婚した。
 信一郎はどうせ弘行はこのまま名古屋に住み続けるだろうと思っていた。だが、弘行はそんな信一郎の思いに反して、若築村に戻っては、家を継ぐと言って来た。信一郎と花子がどんなに喜んだか、察するにあまりあることだろう。

     6

 雄介は信一郎と花子が座敷から出て行った後、まだしばらくの間、座敷に寝転がっていたのだが、やがて、治子に、
「少し散歩して来るよ」
 と言っては、戸外に出た。
 雄介は弾むような足取りで、ある場所に向かっていた。
 その場所は、雄介のお気に入りの場所であった。小川が流れ、その畔に生えているカワヤナギ越しにアルプスの山々を望むことが出来るのだ。
 雄介は三日前にその場所を見付けた。三日前に初めて若築村にやって来た時に、引っ越しの整理をした後、若築村を探検する如く、あちこちを歩いていた時に、偶然にその場所を見付けたのである。
 その小川は、雄介が若築小学校に向かう時に通る道沿いを流れている小川と同じものであることが、その後、分かった。だが、その小川は途中、大きくカーブしてるので、最初の内は、そのことが分からなかったのである。
 その場所は、雄介の家からは、若築小学校の方とは、反対側にあった。それ故、その場所に行くのには、若築小学校に向かうのと、同じルートを通らなくてよかった。
 雄介が住んでいる家の辺りは、同じような家が数十軒程集まっていた。そして、それらの周囲には、田畑が開けていた。
 若築村の様相は、大体こんな具合であった。
 それ故、民家の辺りを抜けると、見晴らしがよくなった。
 雄介は路地を抜け、田畑の畦道を通り、小川沿いの道を進み、やがて、カワヤナギの生えている場所にやって来た。
 雄介は草の上に腰を下ろし、カワヤナギ越しにアルプスの山々を眺めた。 
 それは、正に眩しい風景であった。正に、雄介が住んでいた名古屋では、見られない光景であった。
 雄介は生まれて以来、このような風景を眼にしたことはなかった。そして、それは、正に雄介に大自然に対する畏敬の念を抱かせるに十分なものであった。
 雄介は小川のせせらぎに耳を傾けながら、小川に魚は泳いでいないか、確かめたくなった。
 小川は幅四メートル位であったが、清流が勢いよく流れていた。
 雄介は屈み込んでは、清流に眼を凝らした。
 すると、すぐに魚影を発見出来た。
 それは、あまり大きくない黒っぽい魚であった。そして、それは素早く泳いでいた。 雄介は魚の動きをしばらく眼で追っていたのだが、やがて、再び腰を下ろした。そして、周囲に咲き誇ってる草花に眼をやった。
 それらの大半は、菜の花とたんぽぽのようであった。
 雄介はレンゲソウは咲いていないものかと探したのだが、眼にすることは出来なかった。
 雄介は下校時に眼にしたレンゲソウの群落のことを思い浮かべた。そして、ここにレンゲソウが咲いていれば、どんなに素晴らしいことかと思ったのだった。

 どれ程の時間をここで過ごしたのか、時計を持っていない雄介には分からなかった。
 だが、随分と陽が落ちて来たので、雄介は腰を上げた。そして、家に戻ろうと思った。
 そんな雄介は、来た道とは違った道を歩いていた。というのは、その道沿いには、豚小屋があること雄介は知っていたからだ。雄介は豚が見たかったのだ。
 やがて、雄介は豚小屋の前に来た。それで、豚を注視した。
 すると、豚は「ブー、ブー」と言っては、飼料を食べていた。
 雄介は間近で豚を見るのは今回で二度目であった。それ故、雄介は、食い入るように豚を見やったのであった。
 やがて、雄介は豚小屋を後にした。すると、程なく田畑が開けるようになった。そして、その道を少し進むと、若築小学校に向かう道に合流した。

     7

「ただいま」
という声と共に、和也は台所仕事をしている咲子の許にやって来た。
「お帰りなさい。遅かったのね」
「腹減ったよ。何か食べるもの、ないか」
「冷蔵庫に羊羹が入ってるから、食べていいよ。その代わり、食べ終わったら、牛舎の掃除をするんだよ」
「分かってるさ」
 和也はそう言っては、冷蔵庫から羊羹を取り出し、喰らいついた。そして、食べ終わると、ゆっくりとした足取りで、牛舎に向かったのであった。
 和也の家は、乳牛を十頭程飼っていたのだが、和也は牛舎の掃除をいつも言いつけられていた。
 牛舎の掃除は、牛の糞を片付けなければならないので、和也は好きではなかった。
 また、和也は時々、乳搾りを手伝わされることもあった。乳搾りは機械を使って行なわれるので和也は牛舎の掃除よりはその方が良かった。
 和也は牛舎の掃除が終わると、畑に向かった。畑では、和也の父親の耕作が、農作業をしてる筈であった。
 和也は耕作の姿を認めると、耕作に近付いて行った。耕作は、トラクターで畑を耕してるところであった。
 和也は耕作の前に来ると、
「父ちゃん。さっき、牛舎の掃除をして来たよ」
「そうか。で、今日は遊びに行かないのか?」
「うん」
「だったら、父ちゃんの仕事を見てな」
「うん」
 和也は畑の傍らにある草むらの上に腰を下ろしては、耕作の仕事ぶりを眺めていた。
 耕作はとても忙しそうであった。
 和也はそんな耕作を見て、大人になれば、耕作のようになりたいと思った。
 そう思いながら、耕作の仕事を見入っていたのだが、やがて、陽が落ちて来た。
陽が辺りを茜色に染め出した頃、耕作は作業を止め、和也と共に家路についたのであった。

     8

 五月に入った。
 若築村のそこかしこに鯉幟が揺らめき、野原の緑、森の緑は一際、映えるようになった。
 雄介は徐々に新たな環境に慣れて来た。すると、徐々に明るさが戻って来た。弘行に対する反抗心も殆ど見られなくなった。
 若築村に来たことが、どうやら雄介にとって好結果をもたらしたようだ。若築村の新鮮な環境が雄介の陰気な気分を吹き飛ばし、新たな息吹を吹き込んだようだ。
 弘行は若築村に戻ってから、信一郎たちから仕事の手解きを受ける事に時間を取られ、雄介を構ってやることが出来ず、弘行はそのこと気にしていた。
 だが、その日、その思いを払拭することが出来た。
 若築村は弘行の故郷であるから、弘行は雄介を案内してやる義務があると思っていた。そして、その日、その思いを遂に実現することが出来たのである!
 若築村は弘行が生まれ育った村であるから、弘行は村の隅々まで熟知してる筈であった。
 だが、それは二十年も前の話である。
 そりゃ、盆とか正月には帰省してはいるのだが、僅かばかりの期間の滞在だから、村の隅々にまで足を運んだわけではない。いくら、辺鄙な場所にある村といえども、二十年もの年月が経過したとなれば、変化はあるだろう。
 そう思った弘行は、昔、弘行が訪れたことのある場所がどうなってるか、とても興味があった。それ故、そう言った場所に雄介を連れて、訪れてみることにしたのである。
「雄介。オートバイの後ろに乗るのは、怖くないか?」
「怖くないさ」
「じゃ、しっかりと摑まってるんだぞ」
「うん」
 オートバイは、50CCだったが、雄介程度の重さなら、雄介を乗せて充分に走れることを弘行は知っていた。
 雄介がオートバイの荷台に乗ったことを確認すると、弘行は、
「さあ、出発だ!」
 と言っては、エンジンを掛けた。
 雄介はといえば、弘行の胴にしっかりと、しがみついていた。
 さて、弘行はまず何処に行こうとしてるのか?
 今、走ってる道は、雄介の知ってる道であった。その道は、雄介のお気に入りの場所、即ち、カワヤナギ越しにアルプスの山々を望められる場所に向かう小川沿いの道だったのだ。
 雄介は左右に流れ行く風景に、眼を細めながら見入っていたのだが、オートバイはやがて停まった。
「さあ、下りてくれよ」
 弘行にそう言われたので、雄介は足を地面に着けては、オートバイから降りた。
「この辺りに来たことはあるかい?」
 弘行は雄介に眼をやっては、訊いた。
 雄介はこの辺りには、既に何度も来たことはあるが、弘行には話してなかったので、弘行はそのことを知らなかったのである。
「度々あるよ」
 雄介は澄ました顔をしては言った。
「そうか。この辺は、父さんが子供だった頃、よく遊び回った場所さ」
 と、弘行は懐かしそうに言った。そして、
「でも、この辺に生えてるカワヤナギは、父さんが子供だった頃には、なかったな」
「ふーん」
 雄介は弘行が子供だった頃のことを想像してみた。
 すると、今の風景よりも趣がないと思った。何故なら、この辺の風景は、カワヤナギが生えてるということに特色があったからだ。雄介がこの場所を気に入ったのも、カワヤナギ越しにアルプスの山々を望められたからだ。だが、カワヤナギがなければ、他の場所とあまり変わらなくなってしまう。
 それはともかく、
「父さんは、子供の頃、ここでどんな遊びをしたの?」
 雄介は興味有りげに言った。
 その雄介の言葉を耳にし、弘行は思わず笑みを浮かべた。雄介は今まで全くといっていい位、弘行のことを「父さん」と呼んだことはなかったからだ。いつも、「おじさん」と呼んでいたのだ。
 しかし、この時点でやっと、「父さん」と、呼んでくれたのだ。やっと、弘行のことを父と認めたのである。 
 そう思うと、それは弘行に笑みをもたらして当然のことであったのだ。
「ざりがにを捕ったり、おたまじゃくしを捕ったりしたのさ」
「ふーん」
 雄介は小川に近付いて行っては、流れに眼を凝らした。
 すると、雄介が以前、眼にした魚を眼にすることが出来た。
「父さん。この魚、何という魚なの?」
 と言っては、それを指差した。
 弘行は雄介が指差した魚に眼をやった。
「あれは、ふなだよ」
 弘行は笑いながら言った。
「ふなか……」
 雄介は呟くように言った。
 雄介は名古屋にいた時も、小川に棲息していたふなを眼にしたことがあった。ふなは、正に雄介の知っている魚だったのだ。それなのに、雄介はそれがふなだと分からなかったのだ。
 それは、何故だろうか?
 それは、若築村の環境が影響してるのだ。若築村の自然がとても新鮮だったので、それを構成してる要素が雄介の知ってるものであったとしても、知らないものと錯覚せしめてしまったのだ。
「さ、そろそろ行くか」
 弘行に言われ、雄介は肯いた。
 雄介はオートバイの荷台に腰を降ろし、しっかりと弘行にしがみついた。それを確認すると、弘行はエンジンを掛け、オートバイを発進させた。
 オートバイは小川沿いの道を右に曲がり、畑の中の道を走り、やがて、林の中に入った。林の中の道は、木々が陽光を遮り、薄暗かった。
 林の中を五十メートル程進むと、弘行はオートバイを停めた。
「さ、降りてくれ」
「うん」
 雄介はオートバイから降り、周囲を眺め回した。
 すると、雄介の知っている木が眼に留まった。
 それは、クヌギだった。辺りには、クヌギ林が拡がっていたのだ。
「雄介はカブトムシは好きかい?」
「好きだよ」
 雄介は眼を輝かせては言った。
「そうか。それはよかった。父さんはこの辺でよくカブトムシを捕ったものさ」
 弘行は辺りのクヌギ林に眼をやっては言った。
「父さん。カブトムシは夏だろ? 夏しかないんだろ?」
 雄介はそう言っては、怪訝そうな表情を浮かべた。雄介は何故今はカブトムシが見れないのに、この場所でオートバイを停めたのか、分からなかったのである。
「そうだよ。でも、今の時期は幼虫がいるんだよ。カブトムシの幼虫がな」
 そう言っては、弘行はクヌギ林に踏み出した。クヌギ林の林床は、落ち葉が腐って腐葉土となっていた。
 弘行は手頃な枝を折っては、それで、土の中を掘り始めた。雄介はその様を眼を輝かせながら、眺めていた。
 やがて、弘行は、
「ほら、見てみろよ!」
 と言っては、カブトムシの幼虫を摑み、雄介に見せた。
 雄介は、
「本当だ! これは、絶対にカブトムシの幼虫だ!」
 と、些か興奮しながら言った。
 雄介はカブトムシの幼虫を見るのは、初めてであった。図鑑でしか、眼にしたことがなかったのだ。
 だが、今、雄介が眼にしてるそれは、確かに図鑑に載っていたカブトムシの幼虫そのものであったのだ!
 だが、それはナメクジを大きくしたようで、気持ちいいものではなかった。
「持って帰るか」
 そんな雄介に、弘行は訊いた。
「うん」
 雄介は肯いた。
 弘行はビニール袋に腐葉土を入れ、その中にカブトムシの幼虫を入れた。
 そして、それをオートバイの前にある籠に入れた。
 そして、
「さ、出発だ!」
 雄介は弘行の胴にしがみついた。
「次は何処に行くの?」
 雄介は興味有りげに訊いた。
「沼があるんだよ! とても綺麗な沼がな。行きたくないか」
「是非、行きたいよ!」
 オートバイは林の中の道を進んだ。林の中の道は、所々に木の根っこがあったりして、なかなか走りにくいので、オートバイの速度はかなりゆっくりであった。
 二分程、進んだと思われる頃、雄介は左側に空き地が開けてるのを眼にした。今までは、雄介の両側には、絶え間なく林が続いていたのだが、その部分だけが木が倒れたりしていたので、見通しが利き、林の奥に開けていた空き地が眼に出来たのである。
 その空き地には、陽光が燦々と降り注ぎ、そして、雄介はそれを眼にしたのである!
 雄介は咄嗟に、
「父さん、停まって!」
 と、叫んだ。
 雄介のその声を聞き、弘行はオートバイを停めた。そして、
「どうしたって言うんだい?」
「父さん。あれレンゲソウだ!」
 雄介はそう言っては、空き地を指差した。
 弘行は雄介が指差した方に眼をやった。
 すると、林越しに眼に出来るその空き地に、紅紫色のレンゲソウが咲き乱れてるではないか!
「レンゲソウを見たいのか?」
「うん」
「よし。じゃ、近くまで行ってみよう!」
 弘行は雄介と共に、林の中に入って行った。林床は丈の低い草が覆っていた。
 そして、そこを五メートル程進むと、林を抜け出し、空き地に到達した。
 雄介は空き地に踏み込むや否や、
「わぁ!」
 と、歓声を上げた。確かに、その空き地には、レンゲソウが咲き乱れていたからだ。
 雄介の脳裏には、和也と美幸の三人で初めて下校した時に眼にしたレンゲソウのことが大きなものになっていた為に、たとえどの場所で眼にしても、レンゲソウを間近で眼にしたいという欲求が芽生えて来るのだ。もし、雄介が眼にしたのが、レンゲソウでなければ、雄介は「父さん、停まって!」と言わなかったであろう。
 雄介は今、レンゲソウを眼前にしては、それは雄介の期待を裏切りはしなかった。紅紫色の花弁は、雄介の心を和ませ、美的感覚を高揚させ、空想力を駆り立て、雄介を夢の世界に誘うのだ。
 その空き地は直径が七十メートル程で、その周囲を林が囲んでいた。五月に入ったということで、周囲の木々の緑は、輝きを増していた。
 雄介は屈み込んでは、レンゲソウを間近で見てみた。そして、匂いを嗅いだ。
 そんな雄介を見て、弘行は、
「雄介はレンゲソウが好きなのか?」
 弘行は雄介の机の上の花瓶にレンゲソウが活けられてるのを眼にしていた。そして、今、雄介はレンゲソウを間近にしては、好きで好きで堪らないと言わんばかりの仕草を見せているのだ。
 そんな雄介を見れば、その言葉が弘行の口から発せられても、それは極めて自然というものであろう。
「うん」
 雄介はレンゲソウに眼を向けたまま、そう言った。
「そうか。じゃ、少し摘んで行くか」
「うん」
「よし。じゃ、ちょっと待ってな」
 弘行はオートバイに戻り、籠の中に置いてあった鞄からビニール袋を取り出し、手にしては、雄介の傍らに来ては、
「じゃ、このビニール袋にレンゲソウを入れるんだ」
 弘行にそう言われ、雄介は直ちにレンゲソウをビニール袋ンに入れる作業に取り掛かった。そして、ビニール袋が一杯になる位、レンゲソウを入れた。
 しかし、辺りのレンゲソウの数は、何ら変化は見られなかった。何しろ、辺りにはどれだけ摘んでも、その数は減らないと思われる位のレンゲソウが咲き乱れていたのだから!
 雄介がビニール袋に一杯になる位、レンゲソウを摘んだのを眼にして、弘行は、
「じゃ、そろそろ行くか」
 そう弘行に言われ、雄介は肯いた。
 弘行と雄介は、オートバイに戻り、程なく、オートバイは発進した。
 そして、五分位、時間は経過したのだが、周囲は相変わらず、ブナとかミズナラとかいった林であった。
 雄介は弘行が言った沼はまだなのかと思ってたが、そう雄介が思ってから程なくオートバイは右に曲がった。そして、百メートル程進んだ頃、雄介は沼を眼にすることになったのだ。
 弘行は沼の畔にオートバイを停め、
「さ、着いたよ」
 弘行と雄介はオートバイから降り、沼を眺め渡した。沼の大きさは、先程雄介がレンゲソウを摘んだ空き地と同じ位であった。そんな沼の周囲を林が囲んでいた。
 沼の色は、瑠璃色であった。水面には、少しばかりのさざ波が立っていた。野鳥が水浴びしてる様も眼にすることが出来た。
「父さんは、昔、ここで何をしたと思う?」
 弘行は神妙な表情で言った。
「釣りをしたの?」
「それもあるよ。それ以外は?」
「うーん。それ以外は分からないな」
 雄介は想像力を駆使して考えてみたのだが、釣り以外のことは、思いつかなかったのだ。
「実はな。ここで絵を描いていたんだよ。父さんはこう見えても、絵を描くのが好きでね。中学生の頃、ここまで来ては、時々、絵を描いてたのさ」
「ふーん」
 雄介は弘行が絵を描くのが好きだったなんて、信じられなかった。弘行の容貌は厳めしく、ごつい感じだったので、絵を描く趣味があるなんて、雄介には信じられなかったのだ。
 それ故、雄介は啞然とした表情を浮かべていたのだが、そんな雄介を見て、弘行は苦笑しながら、
「父さんが絵を描くのが好きだったんて、驚いたかい?」
「うん」
「そうか。そうだろうな。アッハッハッ!」
 と、弘行は豪快に笑った。
 弘行は治子と結婚してからは、時間の都合なんかで、絵を描いたことは一度もなかったのだが、それまでは時々描いたりしていた。そして、そのことを会社の同僚に話したところ、よく笑われたものであった。つまり、弘行が絵を描く趣味があるなんて、外見からは、想像出来なかったというわけだ。
 それ故、雄介がそのような表情を浮かべるのは、もっともなことだといえるだろう。
 それはともかく、
「父さんは、ここで釣りもしたんだろ?」
「そうだよ」
「何が釣れたの?」
「ふなだよ」
「それ以外は?」
「鯉が釣れたな」
「それ以外は?」
「そんなところかな」
「今でも釣れるの?」
「さあ……。最近はここで釣りをしてないから、分からないな。魚がいるかどうか、見てみなよ」
 弘行にそう言われ、雄介は水の中に眼をやった。すると、すぐに魚影を発見した。
「父さん、いるよ! ふなが一杯いるよ!」
 雄介は上擦った声で言っては、水面を指差した。
「本当だな。この沼は、昔も今も、変わってないな」
「父さん。この沼の魚は、食べれるの?」
「ああ。食べれるさ。鯉の塩焼きを何度も食べたことがあるよ」
「父さん、僕、ここで釣りをしたいよ」
「分かった。でも、今日は無理だな。釣竿を持って来てないから。だから、また、今度、連れて来てやるよ」
 雄介はそう言われ、一日でも早く、ここで釣りをしたいと思った。
 そんな雄介に、弘行は、
「さて、そろそろ行こうか」
 弘行と雄介を乗せたオートバイは、林の中の道を戻り始めた。
 雄介はもう家に戻るのかと思った。
 そして、そう思うと、とても残念な気がした。何故なら、弘行が案内してくれる場所は、どれもこれも、雄介をとても愉しませてくれるからだ。それ故、雄介は弘行にもっと色んな場所に案内してもらいたかったのだ。
 それで、林の中を五分程戻った頃に、雄介は雄介の疑問を弘行にぶつけてみることにした。
「父さん、もう家に帰るの?」
 その雄介の声は、オートバイのエンジン音にかき消され、聞き取りにくかったが、弘行は何とか耳にすることが出来た。
 そんな弘行は、
「もっと、色んな場所に行きたいかい?」
「うん」
 雄介は率直に肯いた。
「よし。分かった」
 そう弘行に言われ、雄介は自らの胸がわくわくするのを感じた。
 オートバイは林の中の道を抜けると、右に曲がった。左に曲がれば、雄介宅の家に向かう道にあるのだが、右に曲がったということは、新たな場所に連れて行ってくれるということであろう。
 オートバイは小川沿いに道を進んでいた。この小川は、雄介のお気に入りの場所であるカワヤナギの畔を流れている小川、そして、和也と美幸と共に摘んだレンゲソウ畑の畔を流れている小川である。
 雄介は左右を流れ行く風景を眼にしながら、満足げな表情を浮かべていた。それは、雄介が初めて眼にする風景であったからだ。
 もっとも、遥か向こうに望められるアルプスの山々とか、その麓に拡がっている林は、既に眼にしてるものではあったが、今、雄介を乗せて走ってるオートバイの場所からは眼にしたことはなかった。それ故、その光景は、初めて眼にする光景というわけだ。即ち、見る位置によって、それは無論、異なった風景を醸し出すというわけだ。
 そして、雄介はそれらの風景を雄介の脳裏に焼き付けていた。それらの風景は、正に雄介の脳裏を焼き付けるのに十分なものであったのだ。
 やがて、弘行はオートバイを停めた。
 弘行と雄介は、オートバイから降りた。
 小川の畔に水車小屋があった。水車小屋の傍らには、梅が白い花を咲かせていた。
「雄介は水車を見たことがあるかい?」
「ううん。初めてだよ」
 水車は小川の流れを受けて、ゆっくりと回っていた。そして、その水車の遥か向こうは、アルプスの山々だった。
 雄介はこの辺りの風景を、カワヤナギの場所と同じ位、気に入ってしまった。水車の存在が、そう思わせたのだった。
「父さんは、この辺りで絵を描かなかったの?」
「それはないな。父さんが子供の頃は、水車はなかったんだよ。この場所に水車が造られたのは、十年位前だと聞いてるよ。その頃は、父さんはもうこの村には、いなかったからな」
「ふーん」
 雄介は小川の流れる音に耳を澄まし、また、水車に眼を凝らしていたのだが、弘行が、
「そろそろ行くか」
 と言ったので、雄介は弘行と共に、オートバイに乗った。
 雄介は水車を見たことにより、今日はもうこれで家に戻っていいと思った。もう雄介は充分に満足出来たのだ。 
 だが、弘行は雄介の知らない道にオートバイを走らせた。
 やがて、オートバイは右に曲がった。それは、林の中に向かう道であった。
 林の中を百メートル程進むと、急に視界が開けた。そこは、白い花を付かせた木々が、まるで規則正しく植えられていた。そこは、明らかに人間が管理している木々であった。
「父さん、この木は、何という木なの?」
 雄介は興味有りげに言った。
「この木はな。リンゴなんだ。リンゴの木なんだよ」
「ふーん」
「若築村で栽培されている果樹の中では、リンゴが一番多いんだよ。秋になれば、赤いリンゴの身を一杯見られるようになるんだ」
「ふーん」
 雄介はリンゴの木を見るのは初めてであったし、また、リンゴの木が白い花を付けてるのを見るのも初めてであった。
 そして、秋になれば、赤い実を付けたリンゴを見ることが出来るという。
 それはきっと雄介の眼を愉しませてくれることであろう。
「父さん。リンゴが身を付けてるのを見てみたいよ」
「そうか。秋になれば、いくらでも見ることが出来るさ」
 弘行は、眼を輝かせながら、リンゴの木を見入ってる雄介を見て、眼を細めた。どうやら、雄介は若築村を気に入ってくれたようだからだ。
 これから、雄介はずっと若築村で暮らして行かなければならない。もっとも、ずっととは限らない。弘行だって、高校を卒業した後、若築村を離れたのだから。
 雄介が弘行のように、若築村を離れるかどうかは、雄介自身が決めることだ。
 しかし、雄介が大きくなるまでは、この若築村で暮らすことは間違いないのだ。
 それ故、弘行は雄介が若築村を気に入ってくれるか心配だったが、その心配はどうやら心配でなくなったようだ。それ故、弘行はほっと胸を撫で降ろしたのであった。
「さ、この辺で家に帰ろうか」
「うん」
 雄介は肯いた。
 雄介がきちんと荷台に腰を降ろしたのを確認すると、弘行はエンジンを掛け、オートバイを走らせた。後は、家に向かうだけだ。雄介は爽やかな風に身を任せながら、左右に流れ行く風景に、眼を走らせていたのであった。

     9

 雄介は家に戻ってから、カブトムシの幼虫を手頃な容器に入れ、また、レンゲソウを机の上に置いてあった花瓶に活けた。
 以前、摘んで来たレンゲソウはもうすっかりしおれていた。それ故、そのレンゲソウと今日摘んで来たレンゲソウとを取り換えたのである。
 その作業が終わると、雄介はいかにも満足げな表情を浮かべたのであった。
 雄介はベッドの上に寝転がり、しばらくうとうとしていたのだが、夕食の用意が出来たとのことなので、雄介は階下に降りた。
 弘行は既に食卓についていた。
「今日は何処に行ったの?」
 治子は二人に訊いた。
「父さんにカブトムシの幼虫が捕れるクヌギ林に連れて行ってもらったんだ。それから、沼。父さん、あの沼は、何という沼なの?」
「正式な名前はないんだよ。でも、父さんたちは、瑠璃沼と呼んでいたよ」
「瑠璃沼?」
 治子は訊いた。
「ああ。そうだ。沼の色が、瑠璃色の部分があるんだな。それで、そう呼んだりしてるんだ」
「そういうわけか。で、それから、水車小屋のある小川の畔に行ったんだ」
「水車小屋があるの。何だか、風情がありそうね。母さんも行ってみたいな」
「水車小屋の向こうには、アルプスの山々が見えるんだ。絵の構図に相応しい場所だと雄介が言ったんだ。そうだな、雄介?」
「うん」
「その場所に是非行ってみたいな」
 治子は眼を細めて行った。
「近い内に連れて行ってやるよ」
「それから、リンゴ園に連れて行ってもらったんだよ。リンゴの木が、白い花を付けてるんだ」
「そう……。母さん、是非それも見てみたいな」
「そこも、近い内に連れて行ってやるよ」
 弘行はそう言っては、笑った。その弘行の笑いに釣られて、治子も雄介も笑った。 そして、その日の夕食は、雄介一家が若築村に引っ越して以来、最も賑やかなものとなったのであった。

     10

 その翌日、雄介は学校で、昨日の出来事を和也と美幸に話した。
 すると、和也は、
「雄介が言った場所は、大体分かるよ。でも、レンゲソウが咲き乱れていた空き地というのは、分からないな」
 と言っては、首を傾げた。
 すると、美幸も、
「カブトムシの幼虫を捕った場所とか瑠璃沼とか水車の場所、リンゴ園は私、分かるよ。でも、レンゲソウが咲き乱れていた空き地というのは、分からないな」
 と言っては、首を傾げた。
「本当に知らないのか?」
 雄介は信じられないといった口振りで言った。
「ああ。本当だよ。俺が知らない場所があるなんて、思ってもみなかったよ。この村でな」
 和也は不貞腐れたように言った。
「私もよ」 
 と、美幸も和也と同じような様で言った。
「そうか。でも、そこはとてもいい場所なんだよ。周囲が林で囲まれてるから、まるで自分の家の庭にいるみたいなんだよ。つまり、自分の家の庭に、レンゲソウが咲き乱れてるという具合なんだよ」
 と、雄介は些か自慢げな表情と口調で言った。雄介が発見した場所を和也も美幸も知らなかったからだ。
「雄介。その場所は、クヌギ林と瑠璃沼の真ん中辺りにあったんだな」
 と、和也。
「そうだよ。クヌギ林から、オートバイで大体二分位だったと思うんだよ」
「よし。分かった。じゃ、今日、学校が終わってから、そこに行ってみよう」
 と、和也は力強い口調で言った。
 和也はクヌギ林へは、学校から三十分位であることを知っていた。そして、雄介が言ったレンゲソウが咲き乱れている空き地は、クヌギ林と瑠璃沼の真ん中辺りであるということから判断して、四十分程あれば行けると和也は判断し、それなら、学校が終わってからでも行けると和也は理解したのである。
「私も、和也の意見に賛成よ!」
 美幸は弾むよう案口調で言った。
 美幸は長年、若築村に住んでいる美幸の知らない場所を雄介に見付けられたということが、少し癪にさわったのである。また、雄介が言った空き地とやらを是非見てみたいとも思ったのである。
 学校が終わったのは、一時五十分であった。今日は水曜日であり、水曜日は、一週間の内、最も早く帰宅出来る曜日であったのだ。それ故、そのことが、雄介たちをその空き地に行くことを可能にしたというわけだ。
 和也、美幸、雄介の三人は、ランドセルを背負いながら、空き地に向かった。
 小川沿いの道を進むと、やがて、レンゲソウの群落を眼に出来るようになった。そこは、和也と美幸、雄介の三人が初めて一緒に下校した時に踏み込んだ群落であった。そして、レンゲソウの群落は、今日も色艶やかに、その紅紫色の紺青の空に向かって花を咲かせ、見る者の眼を和ませていた。
 雄介は実のところ、このレンゲソウの群落に踏み込んでは、レンゲソウを間近で見、また、匂いを嗅ぎたかった。
 しかし、その思いを今は堪えるしかなかった。
 しかし、そうだからといって、悲観的になる必要はないというものだ。何故なら、今から行く空き地で、今の雄介の思いを実現出来るのだから!
 雄介はそれ故、和也と美幸と何だかんだと話をしながら、歩みを進めたのであった。

     11

 三人はやがて、雄介のお気に入りであるカワヤナギが生えている場所に差し掛かった。
 ここまで来るのに、若築小学校を出てかなりの時間が過ぎたのだが、三人は時間が過ぎることに気付かなかった。何しろ、三人の会話は尽きることはなく、また、夢中で話をしていたのだから。
 そして、三人の心の中の思いは、共通であった。〈早くレンゲソウの咲き乱れている空き地に着きたい〉という思いで胸が一杯であったのだ。
 雄介は雄介のお気に入りであるカワヤナギ場所をさっと一瞥しただけで、通り過ぎてしまった。今の雄介にとって、その場所よりも、レンゲソウが咲き乱れている空き地の方が、魅力的であったのだ。
 そして、三人はやがて、林の中の道に入った。その頃は、太陽はまだまだ高い位置にあった。
「俺は何度もこの辺りに来たことがあるんだよ」
 和也は些か不満そうに言った。そんな和也は、何度も来たことがあるのに、何故、その空き地のことを知らないのかと言わんばかりであった。
 そう和也に言われ、雄介は、
「どうして僕は和也の知らない場所を見付けたのかな」
 と、些かそれは妙だと言わんばかりに行った。
「とにかく、早くその場所に行ってみたいよ」
 そう言った遣り取りを交しながら、やがて、クヌギ林を通り過ぎようとしていた。
「和也はこの辺りでカブトムシ捕りをやったことがあるのかい?」
 雄介は興味有りげに言った。
「ああ。あるよ。一度行けば、二十匹位は捕れるさ。それに、カブトムシだけではなく、クワガタムシも捕れるさ」
「本当かい?」
「本当さ。但し、補虫網を持っていかなければならないんだ。俺たちの背が届かない場所にいるのが多いからな」
「木を揺すれば、落ちて来るんじゃないのかい?」
「それは無理だよ。太い木が多いからな」
「そうか。で、美幸もカブトムシを捕ったりするのかい?」
「捕らないよ。私、女の子なのよ」
「そうかい。じゃ、この辺は来たことがないのかい?」
「そうじゃないよ。時々、来たことがあるよ」
「何しに来たんだ?」
「この道を進むと、大沢岳の麓に出るのよ。そこから、大沢岳の頂上にまで登ったことがあるの。要するに、大沢岳に行った時に、通ったことがあるというわけ」
「そうかい。でも、美幸は山登りをするのかい?」
「去年、初めてやったの。夏休みにね。親戚が来たから、一緒に連れて行ってもらったのよ。今年の夏も来るから、今年も行くと思うな」
「そういうわけか……」
 雄介は今の美幸の話を聞いて、雄介も是非、その大沢岳上りというのをやってみたいと思った。
 三人は、そういった会話を交わしながらも、どんどんと歩みを進めていた。そして、三人の周囲に拡がってる林は、ブナとかミズナラに変わっていた。
 それはともかく、和也は何だか苛々して来た。雄介が言った空き地とやらが、なかなか姿を現さないからだ。 
 和也の心の中には、雄介のことを疑う気持ちが芽生えて来た。大体、若築村の隅々まで知っていると自覚している和也が、まだ若築村に来て日が浅い雄介の知ってる場所を知らないということ自体がおかしいのだ。
 それ故、遂に和也は和也の疑問を口に出した。
「雄介。本当にこの辺りにレンゲソウが生えた空き地があるのかい? この辺は、もうクヌギ林と瑠璃沼の真ん中辺りだぜ」
 と、眉を顰めては言った。
「もう少しだと思うんだよ」
 雄介は自信無げに言った。
 雄介は実のところ、多少、焦りを感じていた。そろそろ現われていい筈なのに、一向にその気配が感じられないからだ。
 雄介が何故その空き地を発見したかというと、たまたま眼を向けた辺りが木が疎らになっていた為に見通しが利いた為だ。正に、それは、偶然がもたらした幸運といえるだろう。
 この道を度々通ったことがある和也と美幸が発見出来なかったのは、疎らな部分がその時は疎らでなかったのかもしれない。
 それはともかく、三人は歩みを進めていたが、依然として現われそうもない。それで、和也の苛立ちは、頂点に達した。
「雄介。お前、法螺を吹いたんじゃないのか?」
 と、憮然とした表情で言った。
「法螺じゃないよ! 本当にあったんだよ! レンゲソウが一杯咲いている空き地が!」
 雄介は夢を見ていたわけではなかった。弘行と一緒にオートバイに乗ってこの辺りに来た時に、レンゲソウが咲き乱れている空き地を発見したのは、紛れもない事実だったのだ!
 とはいうものの、雄介の心の中には、不安が膨らんでいた。あの疎らな部分を通り過ぎてしまったのではないのかという不安が!
 もし、そうなら、引き返さなければならない。そうなると、面倒なことになってしまわないのか……。そう思いながら、雄介は歩みを進めていたのだが……。
 だが、程なく、その雄介の不安は、解消されることになった。遂に疎らな部分に到達し、林越しにレンゲソウが咲き乱れている空き地を眼にするに至ったのだから!
「僕の言った通りだろ!」
 雄介は声を弾ませては言った。
「ああ!」
 和也は力強い口調で肯いた。
 和也の眼は、光り輝いていた。また、美幸の眼も同様だった。
 三人は駆け足で林を抜け、空き地に踏み出した。そこは、林の中の道とは違って、陽光が燦々と降り注いでいた。林の中の道とは、正に別世界であった。
 三人は、レンゲソウの前にやって来ては、匂いを嗅いだ。それは、香しい香りがした。
 美幸は周囲を見回しながら、
「何て素敵な場所なの、この場所は!」
 と、歓声を上げた。
 ここは、正に今まで美幸が眼にして来たレンゲソウ畑とは、一味違った趣があった。それは、周囲を林が囲んでいて、秘密の花園の様相を呈していたからだ。美幸は今まで秘密の花園というものを知らなかったが、今、初めてそれを知ったのであった。そして、それは美幸を感動させるに十分であったのだ。
 また、和也の思いも、美幸と同じであった。
「俺、気に入ったぜ! この場所を!」
 和也は声高に言った。
 和也、美幸、そして、雄介は、ランドセルを放り出して、レンゲソウの群落の上に寝転がった。三人の遥か頭上には、紺青の空が広がっていた。
 雄介はしばらく眼を閉じ、そして、眼を開けてみると、雄介の知らない綺麗な蝶が舞っているのを見た。耳を澄ましてみると、野鳥の鳴き声が微かに耳に入った。
 雄介が立ち上がったので、和也も美幸も立ち上がった。そして、三人は空き地の中を走り回った。
 走ることは、三人に快感をもたらした。
 三人は歓声を上げながら、走り回った。レンゲソウを踏み潰さないようにと気をつけながら。そして、今や、この空き地は、三人の所有物と化していたのだ!
 三人は、充分に走り回ると、再び寝転がった。
 三人はとても満足していた。わざわざ、この場所にまでやって来たことは、三人の期待を裏切らなかったのだ!
 だが、やがて、陽が陰り始めた。
 それで、和也は、
「そろそろ戻ろうか」
 その和也の言葉に雄介と美幸は肯いた。
 三人が林を抜け、カワヤナギが生えている辺りにまでやって来た頃は、陽はかなり落ちていた。それ故、三人の母親は、和也たちが戻って来ないことを心配していたのだが、三人はそのようなことはつゆ知らず、歩みを進めていたのであった。

     12

「ただいま」
 美幸は些か力無い声で言った。美幸はかなり疲れていたのだ。
 そんな美幸に、静子は、
「何処に行ってたの? 母さん、心配してたのよ」
 と、些か怒ったような口調で言った。
「秘密の花園に行ってたのよ。秘密の花園にね」
 美幸はそう言っては、悪戯っぽく笑った。
「何よ。秘密の花園って?」
「内緒。教えてあげない」
 美幸はそう言っては、美幸の部屋に向かったのであった。

「ただいま」
 和也は言った。
「遅かったのね。何処をほっつき歩いていたの?」
 と、咲子は和也の顔を睨み付けた。
「秘密の花園さ。それより、腹減ったよ。食い物、何かないのかい?」
「夕食まで我慢しな。今、食べると、晩ご飯を食べれなくなるからさ」
「ふん! けち!」
 和也は脹れ面をしては、自らの部屋に向かった。

「ただいま」
 雄介は些か疲れたような声で言った。
「何処に行ってたの?」
 治子は些か心配そうに言った。
「秘密の空き地さ」
「秘密の空き地? それ、何処にあるの?」
 治子は興味有りげに言った。
「瑠璃沼の方だよ。この前に発見したんだよ。お父さんにオートバイに乗せてもらってる時にね」
「まあ。そんなに遠い所にまで行ったの。そんなに遠い所にまで行くのなら、母さんに言わないと。母さん、心配してたんだから」
「分かったよ。でも、お腹、空いたんだ」
「晩ご飯までの辛抱よ。後、少しだから」
「分かったよ」
 和也、美幸、雄介が家に戻れば、優しい母親が待っていたのだ。母親は、息子、娘の帰りが遅いのをどんなに心配していたことか。しかし、息子、娘たちは、母親の心配などつゆ知らず、遊びに夢中になっていたのだ。子供とは、そういうものなのだ。
 やがて、六月になった。
 野原からは、レンゲソウは消え、田には水が張られていた。
 夏までは後、少しである。

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