第二章 夏
  
     1

夏休みに入ると、雄介は毎日のように、和也、美幸と共に飯倉川に水浴びに出掛けた。
 飯倉川はアルプスに源流を発していた。雪解け水や湧水が流れ込む川だけあって、その水は正に清流であり、また、その冷たさは、子供たちのオアシスであった。
「まだ、大沢岳に行かないのかい?」
 水浴びを終え、バスタオルで身体を拭いていた雄介は、美幸に訊いた。
 夏休みに入って、かなりの日数が経った。つまり、七月も後、一日で終わりなのだ。
 だが、雄介は忘れてはいなかった。美幸は夏休みになれば、大沢岳に山登りに行くと言ったことを!
「行くよ。その内にね。でも、親戚の勇一さんが来るまでは行かないんだよ」
「その勇一さんは、いつ来るの?」
「八月になれば、来ると思うよ」
「勇一さんは、大人なのかい?」
「ううん。今、中学一年生だよ」
「ふーん。分かったよ。じゃ、勇一さんが来たら、僕も一緒に連れて行ってくれよ」
「いいよ」

     2

 七月二十八日に、吉永勇一は、若築村の美幸の家に着いた。そんな勇一の手には、トランペットのケースが握られていた。
 吉永一家は東京の団地に住んでいて、勇一は去年までは夏休みに入ると、すぐに母親の郷里である若築村にやって来たものであったが、今年は少し違っていた。勇一は部活の為に、東京をすぐに離れるわけには行かなかったのだ。
 勇一は中学生になると、吹奏楽部に入り、トランペットを吹くようになった。トランペットを吹くようになると、勇一はトランペットに夢中になってしまった。その荘厳な音色に魅了されてしまったのだ。今の勇一は、トランペットを吹いている時が、最も充実感を味わえるのだ。
 そんな勇一は、若築村に行くことは、余り気乗りしなかった。小学校の時は、若築村の自然の中で、従姉妹の美幸たちと遊び回ることが、この上もなく愉しかったのだが、いつまでも童心を持ち合わせいるわけでもあるまい。大きくなるに連れて、精神的にも成長するのだ。それ故、美幸たち相手では、今や物足りなさを感じてしまったのである。
 それにもかかわらず、若築村にやって来たのは、部活が八月には中止になるからだ。
 東京の狭い団地で暮らしている勇一は、家の中でトランペットを吹くことは、許されなかった。そのようなことをやれば、近所の住人たちから苦情が来るに決まっていたからだ。
 しかし、今やトランペットにすっかり夢中になってしまった勇一は、一日でもトランペットを吹かないではいられなかった。それ故、若築村なら、思う存分吹ける場所があるだろうと思い、今夏も若築村にやって来たというわけだ。
 静子は勇一がやって来た時に、黒いケースを持っていたので、それが何なのか、勇一に訊いた。
 すると、勇一は、
「トランペットのケースだよ」
 と、声高らかに言ったのだ。

 勇一は床についてからも、早く明日にならないかなと、思い続けていた。明日になれば、思う存分、トランペットが吹けるからだ。
 勇一はトランペットを何処で吹くか、既に決めていた。若築村であっても、何処で吹いてもよいというものではないだろう。若築村の住人の中には、トランペットが嫌いな者もいるだろうから。
 それ故、人気のない所で吹くのが、最適だ。そして、若築村なら、そういった場所が幾らでもあるのだ。
 そして、勇一が見出した場所は、大沢岳の麓であった。大沢岳の麓なら、誰にも気兼ねすることなく、思う存分、トランペットを吹けるだろうと、勇一は思ったのである。
 勇一が眠りについた頃、静子と俊介が、勇一に関する話題に花を咲かせていた。
「勇一、大きくなったな。びっくりしたよ」
「本当ね。中学生といえば、最も、背が伸びる年頃だからね。去年の夏より、十センチ位、伸びたんじゃないかな。それに、何となく逞しくなったね」
「そうだね。それに、精神的にも成長したな。一人で若築村にまでやって来たのだから」
「本当ね。それに、何を持って来たのかと思ったら、トランペットだって。今まで、ザリガニ捕りとか、カブトムシ捕りにしか、興味を持たなかったというのに……。大人になった証拠かな」

     3

 新しい一日がやって来た。空には殆ど雲は見られず、紺青の空が拡がっていた。
 美幸と勇一は、美幸の家で、和也と雄介がやって来るのを待っていた。この四人で大沢岳に行くことになっていたからだ。
「もう来てもいい頃だよ」
 美幸は時計を眼にしながら言った。九時に待ち合わせをしていたのだが、もう九時を少し過ぎたからだ。
 去年の夏は、美幸、勇一、和也、静子、それに、高野君と峰岸君という美幸の同級生の六人で、大沢岳に行ったのだが、高野君と峰岸君は、親戚の家に行って今は若築村にいなかったので、四人で行くことになったのだ。本来なら、静子も行くべきなのだが、大沢岳は小学生でも登れる山だったので、勇一がいれば大丈夫だと、静子は思ったのである。
 九時十分になると、やっと和也と雄介が姿を見せた。 
和也は、
「遅れてごめんな。母ちゃんがなかなか弁当を作ってくれなかったんだ」
 と、照れ臭そうに言った。
「僕は水筒に入れる麦茶を作っていたら、遅れてしまったんだ」
 雄介はそう言っては、美幸の隣にいる人物に眼をやった。そして、それが美幸の従姉妹の勇一だということを理解した。
 
 やがて、四人は静子が見守る中、美幸の家から出発した。静子は、
「行ってらっしゃい! 気をつけてね! 四時までは戻って来るのよ」
「はーい!」
 四人は口を揃えて言った。
 
 四人は小川沿いの道を進んでいた。和也は今までに勇一と遊んだことがある為に、勇一との再会を悦び、はしゃぎ回っていた。
 四人はリュックサックを背負っていたが、勇一だけが黒いケースを手にしていた。
 和也はその黒いケースを見て、
「それ、何?」
 と訊いた。
「トランペットのケースさ。トランペットが入ってるんだよ」
「トランペット? トランペットって、笛みたいな楽器のこと?」
「そうだよ。トランペット、聞いたことないのか?」
「ないよ」
「私は、あるよ!」
 勇一と和也の会話を耳にしていた美幸は、声を弾ませては言った。
「本当かい? 何処で聞いたんだい?」
 和也は訊いた。
「TVよ。TVでトランペットを吹いてるのを見たことがあるんだよ」
「何だ。TVでか。生でトランペットを演奏してるのを聞いたことはないんだろ?」
 和也は怪訝そうな表情で言った。
「そりゃ、そうよ」
「だったら、そんな偉そうな顔をするなよ」
 と、和也は口を尖らせた。
 すると、勇一は、
「おいおい。そんなことで言い争いをするなよ」
 と、眉を顰めては言った。 
 すると、美幸は、
「私たち、別に言い争っていないよね」
 と、美幸は笑顔を見せては言った。
「ああ。そうさ」
 と、和也も笑顔を見せては言った。
 和也と美幸は、そんな具合であった。
 和也と美幸は、物心ついて以来、ずっと友達であり続けた。まるで、兄妹のような関係だったのだ。それ故、傍目で喧嘩してるように見えても、当事者たちにとってみれば、そのようなことはまるでないのである。
 それはともかく、
「まあ、和也も美幸ちゃんも、大沢岳の麓に行けば、思う存分、トランペットを聞かせてやるさ」
 と、勇一は笑いながら言った。
「わーい!」
 和也と美幸は歓声を上げた。
 やがて、四人は林の中の道に入った。そこは、林が陽光を遮るので、薄暗かった。
 四人は直射日光を遮る為に帽子を被っていた。勇一、和也、雄介は野球帽を、美幸は麦藁帽という具合だ。
 いくら若築村が涼しげな気候といえども、帽子無で一日中、戸外にいれば、日射病になってしまうことだろう。それ故、子供たちは外出する時は、いつも帽子を被っているのだ。だが、その帽子も林の中に入れば、不要というものだ。
 和也、美幸、勇一は、林の中の道に入ったといえども、その変化を感じたわけではなかった。
 それは、会話に夢中になっていたからだ。子供たちは会話に夢中になってしまえば、周囲の状況の変化など、えてして忘れてしまうものなのだ。
 林の中の道を進むにつれて、美幸はあることに気付いた。それは、雄介が何だか元気がないということだ。美幸は、勇一とか和也との会話に夢中になってまって、雄介の存在を忘れてしまったような感じになっていたのだが、雄介はどうしたのかなと、雄介に眼を向けてみると、雄介はまるで貝のように口を閉ざしてしまい、和也や美幸の後から、ただ黙々と歩いてるに過ぎないのだ。
 何故、雄介がこのような状態に陥ってしまったのか?
 それは、雄介のことをよく知ってる人物なら、簡単に説明出来るだろう。
 つまり、雄介は人見知りする性格なのだ。だから、勇一という雄介の見知らぬ人物が三人の中に割り込んで来ては、かつ、和也と美幸が勇一とばかり話をするので、雄介は疎外されてしまったような状態となり、すっかりと調子が狂ってしまったのである。雄介は初対面の人とあっさりと話が出来るような性格ではなかったのである。
 では、何故雄介は初めて若築小学校にやって来た時に、初対面の和也や美幸と打ち解けて話が出来たのだろうか?
 それは、その時と今とでは、条件が違っていたからだ。その時は、雄介が主役だったからだ。転校生という皆の注目を得る主役だったからだ。黙っていても、相手の方から話し掛けて来たのだ。
 だが、今は勇一が主役なのだ。それ故、和也や美幸のように、雄介は勇一に対して話すことが出来なかったのである。
 そして、そのことは、雄介に少なからず不満を与えた。
 雄介は和也や美幸と大沢岳に行くことをとても愉しみにしていた。
 それが、今は、全然愉しくないのだ。勇一の出現が、雄介から愉しみを奪ったのである!
「気分、悪いの?」
 全然、口を利かない雄介に、美幸は眉を顰めては言った。
「ううん」
 雄介は頭を振った。雄介は自らの胸の内を率直に話すことなんで、出来なかったのだ。いくら小学四年といえども、羞恥心というものは、充分に感じ取れたのである。
「そう。じゃ、安心した」
 美幸はそう言うと、再び勇一や和也との会話に没頭し始めた。

     4

 やがて、雄介たちのお気に入りの場所を林越しに通り過ぎようとしていた。
 そう! 件の空き地である! レンゲソウが咲き乱れていた雄介たちの秘密の花園である!
 その秘密の花園で、雄介たちは夢中になって遊び回ったものであった。レンゲソウの匂いを嗅ぎ、蝶を追い、レンゲソウに囲まれて、寝転がった。
 それは、正に夢の中の世界に入り込んだみたいだった。こんな素晴らしい世界がこの世に存在してるのかと思わす位のもであった。
 そりゃ、雄介たちは大人と違って経験が浅いから、大人が何でもないようなことに感動してしまうことだろう。
 それ故、大人が雄介たちが感動したこのレンゲソウが咲き乱れてる場所を眼にしても、特に気に留めない場所として通り過ぎてしまうかもしれない。
 しかし、雄介たちは大人ではなく、子供なのだ。それ故、レンゲソウが咲き乱れていたこの空き地にとても感動したのである!
 それはともかく、その空き地は今はレンゲソウは見られない。
 そのことは当然だ。今は夏なのだから。
 そして、四人は、今、その空き地の傍らを通り過ぎようとしていた。
 雄介は林越しに空き地に眼をやった。
 だが、以前のように木が疎らではなくなっていた為に、その詳細は眼にすることは出来なかったが、緑眩い丈の低い草が空き地を覆ってるようであった。以前のように、レンゲソウが見られないことは、言うまでもなかった。
 雄介はその時、和也と美幸の様子を窺った。和也も美幸も雄介と同じく、空き地に咲き乱れていたレンゲソウに魅了され、時間の経つことも忘れ、夢心地になった筈だ。和也と美幸にとっても、雄介と同様、この空き地は思い出の場所であるに違いない!
 それなのに、今の和也と美幸は、空き地のことなどすっかりと忘れ、勇一との会話に夢中になってるのだ。
 そのことは、雄介を少なからず不快にさせた。
 そして、雄介は一層、勇一の存在を煙たく思うようになったのだ。和也と美幸から、空き地のことを忘れさせた疫病神のことを!
 そう思ってる内に、瑠璃沼に曲がる道を通り過ぎてしまった。そして、その頃から、道は上りになった。
 雄介は瑠璃沼から先へは、行ったことがなかった。
 それ故、雄介の周囲に開ける風景は、雄介に新たな興味を沸き起こした。それと共に、勇一憎しの思いは徐々に雄介の脳裏から消失し始めたのであった。

     5

 美幸の家を出て、既に一時間以上が経過した。
 その頃、やっと和也が雄介に話し掛けた。
「雄介。何だか元気がないじゃないか。気分でも悪いのか?」
 和也は雄介の心の中が分かりはしなかった。和也は一年振りに顔を合わせた勇一との会話にすっかりと夢中になってしまい、雄介の存在を忘れてしまったような状態となっていたのだ。今、初めて雄介の存在に気付いたといった塩梅であったのだ。
「ううん。気分が悪いわけではないよ。僕は元気だよ」
 その雄介の言葉に偽りはなかった。先程までなら、その言葉は偽りといえるだろう。先程までは、確かに元気がなかったのだから。
 しかし、今は雄介の知らない場所に来ていた為に、それが雄介に新鮮さを与え、雄介は元気を取り戻していたのである!
 それはともかく、大沢岳の麓はかなりの部分に及んで林が途切れ、林の代わりに草原が開けていたのだ。そして、その部分を少し上ると、再び林となっていた。
 四人は下界が見渡せる位の高さにまで登って来た。そして、その頃、勇一が「やれやれ」と言っては腰を降ろしたので、和也、美幸、雄介も腰を降ろした。
 美幸はリュックサックから水筒を取り出し、麦茶を飲んだので、和也と雄介も同じようにした。
 美幸の家を出て、ここまで来るのに、一時間程掛かった。その間、四人は一度も休憩をしなかった。
 それで、四人は草の上に腰を降ろしては、一息ついたのだ。
 大沢岳のその部分は、小川沿いの道から眼にすることが出来た。その部分だけ林が途切れていた為に、とても目立っていたのだ。その部分は、まるでスキーのゲレンデのようであったからだ。
 今、雄介はその場所に腰を降ろし、眼下に眼をやってみると、随分と見晴らしが良い場所であることが分かった。こんなにいい場所だということが分かっていれば、もっと早い時期に訪れていればよかったと思った位であった。
 この場所からは、若築村の様子がかなり望められた。まるで、模型のように、その様を眼にすることが出来たのだ。
 雄介は雄介の家が眼に出来るかと思い、探してみたのだが、それは眼にすることは出来なかった。左前方に拡がっている山裾が障害となっていたのだ。
 だが、四人が先程、通り過ぎた林や、雄介のお気に入りのカワヤナギの場所、また、弘行に連れてもらった水車のある場所を眼にすることが出来た。無論、小川や飯倉川、更にアルプスの山々を眼に出来たのは言うまでもないだろう。
「いい眺めでしょ」
 美幸は眼を大きく見開き言った。
「ああ」
 雄介は肯いた。
「でも、頂上に行けば、もっといい眺めよ」
「そうか。そんなにいい眺めなのかい?」
「そうよ。でも、頂上へは、もう少し上らなければならないの。だから、少し休憩してから行こうよ」
「ああ」
 と、雄介と美幸が話していた頃、和也は勇一に急かしていた。「早くトランペットを吹いてよ」と。
 無論、勇一もその気でいた。勇一は最初から、この場所でトランペットを吹こうと思っていたのだから。この場所なら、何らトランペットを気兼ねなく吹けるというものだ。
 勇一は和也に言われるまでもなく、早くトランペットを吹きたかった。
 だが、少しくたびれしまったのだ。それ故、少し休憩して、呼吸を整える必要があったのだ。
 それで、勇一は少しの間、草の上に大の字になって寝転がったのだが、やがて、「えい!」という掛け声と共にトランペットケースからトランペットを取り出しては、一気にトランペットを奏でた。
 その音色は、辺りに響き渡った。その荘厳な音色は、辺りの大地を揺り動かすようであった。
 その音色を耳にして、和也は感嘆の叫び声を上げた。勇一はそんな和也に構わずに、トランペットを鳴り響かせた。
 美幸もすっうかりその音色に心を奪われてしまった。
 和也も美幸も、トランペットを耳にするのは、初めてではなかった。だが、直に耳にしたことはなかったのであった。
 そして、今、初めて耳にすると、まるで異次元の世界に引き摺り込まれてしまうような錯覚に陥ってしまったのだ。
 美幸は口をあんぐりと開けながら、勇一がトランペットを吹くのを眺めていた。美幸の心は、今やトランペットにすっかりと奪われてしまったかのようであった。
 雄介はといえば、和也や美幸とは、少し違っていた。
 勿論、雄介も勇一の吹くトランペットに魅了されていないといえば、それは嘘になるだろう。大体、雄介はトランペットは元より、サックス、フルート、バイオリンとかいった楽器を直に聞いたことはなかったのだから。
 それ故、勇一がトランペットではなくギターを弾いたとしても、その音色にすっかりと魅了されたかもしてないのだ。
 ただ、和也や美幸の場合と雄介と何処が違うかというと、雄介には少し前に感じていた陰鬱な気分が再び押し寄せて来たのである。即ち、雄介は再び、勇一のことを疎く思う思いが押し寄せて来たのである。
 美幸の家を後にしてからその思いは雄介の心の中で徐々に膨らんで来たのだが、大沢岳の麓にまで来ると、初めて眼にする風景がその思いを吹き飛ばしてしまった。
 ところが、勇一がトランペットを吹き始めて、和也と美幸の関心を一手に集めてしまうと、その思いが再び雄介の心の中に押し寄せて来たのである。
 もし、今、勇一さえいなければ、雄介は和也と美幸と思いを一つにしていることだろう! しかし、実状は雄介一人が孤立してるといった有様なのだ。
 和也と美幸は、この素晴らしい風景に感嘆の声を上げるどころか、勇一の吹くトランペット以外のことには、まるで眼もくれないといった有様なのだ! このことは、雄介にとって、何と不快なことか!
 和也と美幸は、勇一の傍らで、勇一の一挙手一投足に眼を凝らしながらも、勇一の吹くトランペットに聞き入っていた。それは、まるで雄介の存在など、忘れてしまったかのようであった。
 勇一はといえば、最初から、雄介の存在など、まるで問題としてなかったようであった。和也と美幸とばかり話をしては、雄介の方に視線を向けることすらないようであった。そんな勇一は、まるで雄介などいない方がいいと言わんばかりであった。
 雄介は美幸たちから眼を逸らせ、大の字に寝転がっては、紺青の空に眼をやった。
 それは、正に透き通るような青さであった。
 空は一体どこまで続いているのだろうか? 空の果ては、どうなってるのだろうか?
 小学校四年の雄介が、そのようなことまで分かる筈はなかった。
 ただ、雄介がそのように思うということは、雄介にとって好ましいことではなかった。和也や美幸と、語らいに夢中になってしまえば、そのような思いなど、思う必要はなかったのだから。
 そんな雄介はまだしばらく寝転がっていたのだが、やがて、起き上り、美幸に、
「そろそろ、頂上に行こうよ」
 と言った。その雄介の言葉は、雄介の沈んだ気持ちを吹き飛ばす為の雄介の精一杯の言葉であった。
「そうね。そうしようか」
 美幸は雄介を見やっては言った。
 和也はといえば、その雄介の言葉に何も言わなかった。
 そんな和也は、今やすっかり勇一に身を任せていると言わんばかりであった。そんな和也の眼は、正に勇一に問いかけていた。「勇一さん。どうしますか?」と。
 勇一は、
「僕は頂上には行かないよ。元々、ここでトランペットを吹く為にやって来たんだから」
 と、素っ気なく言った。
 その勇一の言葉を聞いて、和也は、
「勇一さんが行かないのなら、僕も行かないよ」
 と、素っ気なく言った。和也は去年、大沢岳の頂上に行ったので、その風景を今、どうしても眼にする必要はなかったのである。今の和也は、頂上に行くよりも、勇一のトランペットを聞いてる方が、愉しかったのである。
 和也の言葉を聞いて、雄介は表情を曇らせた。雄介の言葉をあっさりと否定されしまったからだ。
 雄介に失望と不快さが押し寄せて来た。美幸が「じゃ、二人で行きましょう」と言わなければ、雄介は一人で さっさと頂上にまで行ったことであろう。
 美幸は勇一と和也に、
「和也も勇一さんも、私たちが戻って来るまで待っててね」
 と言った。それで、和也は、
「ああ」 
と、肯いた。
「で、私たちはお弁当を頂上で食べて来るから、あんたたちはあんたたちで食べてね」
「ああ。分かったよ」
 と、和也は美幸に眼を向けようとはせずに、素っ気なく言った。和也は、美幸と会話を交わしてる間も、夢中になってトランペットを吹き続けてる勇一から眼を離そうとはしなかったのである。
 そんな和也と勇一を残し、雄介と美幸は頂上に向かって歩き出した。
 頂上へは、後五百メートル位であった。距離的には大したことはなかったのだが、少し傾斜があるので、歩みを進めるのは、決して楽ではなかった。
 ただ、先程までの場所を抜け出すと、林の中の道に入るので、それは助かった。直射日光に晒されなくてよかったからだ。
 雄介と美幸は、林の中の道をゆっくりとした足取りで進んでいた。傾斜がかなりきつくなっていたので、早く歩けと言われれば、それは無理な注文となっただろう。
 雄介は周囲の涼しげな木々を眼にしては、
「これは、何という木かな?」
「白樺よ」
「ふーん」
 雄介と美幸は、息を切りながら、歩みを進めていたのだが、左側の林が疎らになったかと思うと、急に視界が開けた。そして、そこには紅紫色の花が数こそ多くはないが、見られた。
 その花を雄介は指差しては、
「あの花は、何という花かな?」
「ヤナギランという花代」
「ヤナギランか……」
 すると、その時、雄介の脳裏に、ふと、レンゲソウ畑で遊び回った時のことが思い出された。
 それ故、雄介は立ち止り、ヤナギランを食い入るように見やったのだが、そんな雄介に、美幸は、
「どうしたの? 早く行こうよ」
「うん」
 雄介は小さく肯き、美幸と共に歩き出した。
 すると、程なく頂上が見えて来た。頂上までは後少しである。
 頂上に着いた時、雄介も美幸も大きく息を乱していた。頂上が見えて来ると、早足で上ったからだ。それ故、二人はしばらく息の乱れが止まらなかった。
 雄介は呼吸を乱しながらも、眼下に広がっている風景に眼をやっていた。
 それは、先程休憩していた場所からのものと、さして変わりはなかった。
 だが、高度が上がったことから、よりスリルに富んでいると思った。それと共に、ここまで登ってよかったという満足感を雄介は感じたのであった。
 美幸はリュックサックから水筒を取り出し、麦茶を飲んだ。雄介も美幸と同じようにした。
 麦茶を飲み、木のベンチの上に腰を降ろすと、呼吸の乱れも次第に収まって来た。
 大沢岳の頂上は、百平方メートル程で、草は生えていず、表面を黒っぽい土が覆っていた。大沢岳山頂を示す石碑と木のベンチがあったのだが、それ以外は何もなかった。
 周囲に拡がってる風景は、正に絶景であった。
 若築村の遥か向こうは、アルプスの山々だった。それは、大沢岳山頂からは、西の方角だった。北の方はどうなってるかというと、アルプス程、高くはないが、雄介の名前の知らない山々が連なっていた。また、東の方は、若築村と同じような村を眼に出来、南の方は、大沢岳の山裾が視界を遮っていた。
 美幸は麦茶を飲み終え、ハンカチで額の汗を拭うと、
「ああ、汗が噴き出して来たよ」
「僕もだよ」
 雄介も、ハンカチで額の汗を拭いながら言った。
 登山というものは、涼しい季節に行なっても、汗が噴き出て来るものだ。若築村が幾ら涼しげな気候だと言っても、今は八月である。大沢岳は標高五百メートル位の山といっても、その頂上にまで登れば、汗が噴き出て来るのは、当然だろう。
 雄介は今、正に滝のように汗が流れ出ていた。Tシャツの汗がぴったりと染み付いていたのだ。
 雄介は流れ出る汗を拭う為に、背中にタオルを入れようとしたので、そんな雄介に美幸は、
「Tシャツを脱いで裸になったら。その方が、汗を拭き易いよ」
 と言ったので、雄介は、
「そうするよ」
 と言っては、上半身、裸になった。そして、タオルで汗をぬぐった。
 すると、かなり気持ち良くなった。
 それで、美幸に、
「美幸ちゃんも脱いだら。その方が、気持ちよくなるよ」
「そうはいかないわ。私、女だから。雄介のようにはいかないのよ」
 と、些か顔を赤らめては言った。
「そうか。それもそうだな」
 と、雄介は些か照れ臭そうに言った。
 そんな雄介に、
「いい景色でしょ」
 と、辺りに眼をやっては言った。
「ああ。とてもいい景色だ。こんないいい景色なら、もっと早く来たかったな」
 と、雄介は些か悔しそうに言った。
「雄介がそう言ってくれば、案内したのに」
「このような場所があるなんて、知らなかったんだよ」
「それもそうね。でも、ここに来るのは、私、二度目なの。去年の夏に初めて来たの。
 で、ここに来るには、私の家を出て一時間半程掛かるから、子供同士で来ては駄目だと言われてるの。でも、今日は勇一さんがいたから、来ただけなの。そういう具合だから、私や雄介だけでは、ここには来れないの」
「そういうわけか。でも、これ位の山なら、僕一人でも来ようと思えば、来れるよ」
「そう。でも、一人では来ないでね。この山に一人で来た子供がいて、怪我をした為に、遭難騒ぎになったことがあるらしいのよ。それはそれとして、お弁当食べましょう」
 美幸がそう言ったので、和也は腕時計に眼をやった。
 すると、丁度正午前であった。
 雄介はリュックサックから弁当を取り出すと、早速無我夢中に食べ始めた。雄介の弁当の中身は、卵焼きにウインナーソーセージであった。また、美幸の弁当の中身も同じようなものであった。
 そして、二人はとても空腹だったので、正に無我夢中に弁当を平らげたのであった。
 弁当を食べ終わると、美幸は、
「今日の雄介、何だか、変よ」
 そう美幸に言われ、雄介は顔を赤らめた。その美幸が言ったことは、正に図星であったからだ。
 だが、
「そうかな」
 と、雄介はとぼけて見せた。
「そうよ。今日の雄介、口数が少ないし、それに、何だか元気ないもん」
そう美幸に言われ、そんな美幸に雄介は何も言うことは出来なかった。正にその通りだったからだ。美幸にずばり指摘されてしまい、雄介は返す言葉がなかったのである。
 雄介が何も言わずに、下を向いてしまったので、美幸は、
「何故、雄介がそんなになってしまったか、当ててやろうか。雄介は、勇一さんの存在が気に入らないのよ」
 と、にやにやしながら言った。
 雄介はこれには驚いてしまった。美幸はずばり、雄介の心の中まで当ててしまったからだ。
 だが、雄介は率直に美幸の言葉を認めるわけにはいかなかった。自分勝手だと思われたくなかったからだ。
 それで、雄介は黙り込んでしまったのだが、そんな雄介に美幸は、
「雄介って、本当に我儘なんだから!」
 と、雄介をからかったのであった。

     6

 一方、勇一と和也の様子は相変わらずだった。勇一はトランペットを吹き続けるし、和也は飽きもせずに、勇一に視線を向けながら、そのトランペットに耳を傾けていたのだ。
 そんな和也の様を見て、勇一は、
「和也も一度、吹いてみるか」
 と言っては、和也にトランペットを渡そうとしたのだが、和也はそれを受け取ろうとはしなかった。和也は勇一のように、巧みにトランペットを吹くことは出来ないので、吹く気にはなれなかったのである。和也は吹くよりも、聞く方が似合っていたのである。
 そして、正午に近付いた頃、勇一と和也は、弁当を食べ始めた。そして、その時、初めて勇一の口から雄介のことが話題に上がった。
「美幸と共に頂上に行った奴、何と言う名前だ?」
「中道雄介というんだよ」
「中道雄介か。で、雄介は和也と同じ小学校四年かい?」
「そうだよ」
「そうか。でも、何だか陰気な奴だな。全然、喋らないじゃないか」
 と、勇一は何だか不満そうに言った。
「いつもは、あんな風じゃないんだよ。今日はどうかしてるんじゃないのかな。気分でも悪いんじゃないのかな」
 と、和也は言った。和也は、何故雄介が今日、あんなに陰気なのか、よく分からなかったのだ。
 況してや、勇一にその理由が分かる筈もなかった。何しろ、勇一は今日、初めて雄介と顔を合わせたばかりなのだから。ただ、一般論として、雄介は無口で面白味のない奴だと看做したのである。
 弁当を食べ終え、少し休憩すると、勇一は再びトランペットを吹き始めた。和也は、そんな勇一のことを、ただ珍しげに見入っているだけであった。
 というのも、和也にとって、勇一の吹くトランペットの音は、とても衝撃的であった。
 和也は生まれて以来、ずっと素朴な自然の若築村で育って来た。和也の回りにあるものは、田畑、牛馬、清冽な川、紺青の空、新鮮な空気といったものであった。
 それらは、正に本来の自然の姿であった。
 もっとも、和也はTVなどで、和也の回りの自然風景とは全く別なものが存在してることが分かっていた。例えば、巨大なビル群、派手な格好をした若者たちだ。
 だが、それらは、所詮、和也にとって、無関係なものであった。何故なら、それらは直接、和也の前に現れはしないのだから!
 ところが、勇一の吹くトランペットは、和也の回りの自然とは全くの別のものであったので、和也にとって極めて珍しい存在と映り、すっかりと心を奪われてしまったのだ。もっとも、勇一の吹くトランペットの音色は、理屈なく、和也のことを魅了したのだけれど。
 そんな具合であったから、和也は雄介と美幸が、頂上から降りて来て、和也のすぐ傍らに来るまで、二人の存在に気付かなかった位だ。因みに、雄介と美幸が、勇一と和也の傍らにやって来たのは、午後一時頃であった。
「和也、もうお弁当尾食べた?」
 美幸は訊いた。
「ああ」
「美味しかった?」
「ああ」
 和也と美幸がそういった遣り取りを交してる間も、勇一はトランペットを吹くのを止めようとはしなかった。もはや、勇一はすっかりトランペットに魅了されてしまったのである。
 和也は美幸との会話を終えると、勇一に再び眼を向け、トランペットの音色に耳を傾け始めた。そんな和也の様を見て、美幸も和也の様に倣ったのであった。
 そうなってしまうと、雄介はまたしても孤立してしまうことになってしまった。
 雄介は勇一が嫌いであった。そのどちらかといえば、不良ぽい容貌、そして、その口調、そのごつい身体付き、何をとってみても、雄介は勇一のことを気に入らなかったのだ。そんな勇一に、和也や美幸のように、接する気にはなれなかったのである。
 雄介も和也や美幸のように、勇一の吹くトランペットが嫌いではなかった。しかし、和也は勇一が嫌いだったのだ。
 雄介は程なく寝転がった。
 そして、空を見上げた。
 空には、雲一つなかった。麗しい紺青の空があるだけであった。
 雄介は帽子を顔の上にのせ、陽光を防いだ。
 すると、暗闇が雄介の眼を支配した。
 雄介は眼を閉じた。すると、次第に眠くなって来た。勇一のトランペットを聞きながら、次第に意識が無くなるを感じていた。

     7

「雄介、起きてよ!」
 という声が聞こえたかと思うと、雄介は目覚めたことを悟った。美幸は雄介の身体を揺り動かし、「雄介、起きてよ!」と、眠りこけている雄介を起こしたのだ。
 雄介は上半身を起こし、周囲を見回した。そんな雄介が真っ先に気付いたことは、陽射しが少し弱くなっているということであった。
 それで、腕時計に眼をやってみると、三時半を少し過ぎていた。
 雄介は上半身を起こすと、大きく欠伸をし、大きく伸びをした。
 そんな雄介を見て、美幸は、
「いやだ……。雄介ったら、いい気分でお昼寝をしてたんだから」
 と、笑いながら言った。
 美幸の言葉を聞いた和也は、
「美幸だって、少し前まで寝てたんだぜ。俺が起こしてやったんだから!」
 と、笑いながら言った。
 すると、勇一が、
「皆、起きたか」
 すると、和也たちは肯いた。
「よし! じゃ、そろそろ帰るとするか」
 勇一はそう言っては、歩き出した。そんな勇一の後に、和也、美幸、雄介は続いた。
 四人は、ゆっくりとした足取りで、山を降りて行った。
 下りは上りとは違って、楽だった。
 それ故、四人の足取りは、軽快だった。
 その代わり、四人の口は、ぴったりと閉ざされてしまったのであった。
 そして、四人は、それぞれの家に着いた時は、足がくたくたになっていた。そして、晩ご飯を食べ、入浴を済ますと、すぐに眠りについたのであった。

     8

 雄介はその日、一人で大沢岳に向かっていた。それは、和也たちと大沢岳に行ってから、五日後のことであった。
 雄介は治子に本当の行き先を告げずに、家を出て来た。大沢岳に一人で行くと言えば、反対されるに決まっていたからだ。
 雄介は、五日前に大沢岳の頂上から眼下を眺めた時のことが忘れられなかったのだ。
雄介は、和也と美幸を誘おうと思ったが、止めた。何しろ、五日前に行ったばかりだからだ。それ故、いくら和也や美幸でも、行かないと思ったからだ。更に、勇一を連れて来られたりすれば、元も子も無くなってしまう。そんなことをされてしまえば、今回の大沢岳行きの意義は消失してしまうことになってしまう。何しろ、雄介が再び大沢岳行こうと思った理由は、勇一の存在が邪魔で、大沢岳の魅力を充分に堪能出来なかった為に、敢えて、再び行こうと思ったからだ。
それ故、雄介は一人で大沢岳に行くことになったのである。
そんな雄介は、昨日は家でたっぷりと休んでいたから、雄介の足取りは軽快そのものであった。
それ故、雄介は快調に小川沿いの道を進んでいたが、雄介は一つだけ、気になることがあった。
それは、水筒を持って来なかったということだ。水筒を持って行こうとすれば、治子に「何処に行くの?」と、訊かれるに違いない。そうなれば雄介の行動に支障が生じるかもしれない。
それ故、雄介は少しばかりのビスケットをズボンのポケットに入れ、家を出て来たのである。
それ故、喉が渇けばどうなるか? 雄介はそのことが少し心配だったが、林の中の道に入った頃には、そのことも忘れていた。
クヌギ林を通り過ぎ、レンゲソウが咲き乱れていた空き地の傍らを通り過ぎ、瑠璃沼に曲がる道を通り過ぎ、ブナ林の中を進み続けると、山腹の林が開けた部分に着いた。
そこは、今は人影が見られなかった。ただ、丈の低い草が辺りを覆ってるのを眼につくばかりであった。
雄介はその斜面を上り始めた。傾斜が林の中の道よりは多少きつくなるので、気合いが入った。五日前に和也たちと来た時に四人で腰を下ろした辺りにまで来た時には、膝ががくがくと震えたものであった。
雄介は大きく息をついていたが、一気にここまで来たことに、後悔はしてなかった。何故なら、雄介の眼前には、正に絵になるような風景が開けていたのだから。
 五日前には、勇一の存在が雄介の気分を乱していた為に、この素晴らしい風景を堪能出来なかった。
 しかし、今は勇一はいない。雄介の気分を乱す存在は、今や皆無なのだ!
 雄介はしばらくの間、この素晴らしい風景を雄介の脳裏に刻み付けた。
 そして、充分に満足すると、頂上に向かって進み始めた。
 やがて、林の中の道に入り、頂上に近付くに連れて、傾斜は次第にきつくなった。やがて、左側にヤナギランの群落を眼に出来た。そして、ここまで来ると、頂上まで後少しだ。
 そして、遂に頂上にまで着いた。時刻は、午前十時半であった。
 雄介は首を左右に振っては、周囲の風景に眼をやった。
 それは、五日前とは、何ら変わってはいなかった。正に、絶景が開けていたのだ。
 雄介はこの絶景を五日前に堪能していた。何故なら、ここまでは、勇一は上っては来なかったからだ。雄介は、傍らに勇一がいなかったから、この絶景を絶景と感じとることが出来たのである。
 それはともかく、雄介は五日前と同じように、頂上に据えられているベンチに腰を降ろした。そしてズボンのポケットからビスケットを取り出しては、食べてみた。
 ビスケットはとても美味しかったのだが、ビスケットを食べてしまったばかりに、喉の渇きを感じることになってしまった。
 しかし、我慢出来ない程ではなかった。炎天下の下に、筏に乗って大海原を漂流してるわけではないのだ。
 雄介はベンチに座っては、汗をハンカチで拭いながら、しばらくぼーっとしていたのだが、腕時計を見ると、正午に近付いていた。
 それで、そろそろ戻ることにした。そんな雄介は、たっぷりと休憩したので、雄介の足取りは軽快であった。
 ヤナギランを横目にしては林の中の道を進み、山腹の林が途切れてる場所にやって来た。
 雄介はその部分の全体を見渡せる部分にまでやって来たのだが、その時、雄介は突如、表情が曇った。正に、想像すらしてなかった光景を眼にしてしまったからだ。
 誰もいない筈のこの場所に、何と勇一が姿を見せていたのだ!
 そんな勇一の傍らには、トランペットの黒いケースが置かれていた。ということは、勇一は今日もトランペットを吹く為に、この場所にやって来たというわけか。
 その事実を目の当たりにして、雄介に失望と不快の気持ちが押し寄せて来た。雄介は、これからこの場所に寝転がり、しばらくの間、時を過ごそうと思ってたからだ。それなのに、勇一がいる為に、それは不可能となってしまったのだ。
 雄介は勇一と時を過ごすのは、真っ平だった。不快な気持を味わうのは、真っ平だ!
 雄介は、勇一と出会った運命を呪った。
 雄介は、草の上に寝転がって時を過ごすのは不可能ということを悟ると、どうやって、ここから林の中の道にまで戻ればいいか、そのことに思いを巡らせてみた。というのも、雄介の姿を勇一の眼に留められたくなかったからだ。 
 もし、勇一が雄介の姿を眼にすれば、雄介のことを何というか、雄介は気になったのである。
 とはいうものの、勇一がこの場所から帰るのを待ってるわけにはいかないであろう。
 それで、やむを得なく、林が途切れてるその部分の一番端の方を忍び足で下り始めた。そんな雄介と勇一との距離は、凡そ四十メートル位だろうか?
 それ故、雄介の足音は勇一に聞こえる筈はないのだが、問題は勇一が腰を降ろしてる部分から雄介が下に移動した時である。
 その時には、勇一が少し首を動かすと、雄介の姿が眼に留まるのは、確実だ。
 しかし、降りないわけにはいかなかったのだ。
 雄介は正に真剣な面持ちで、降りていた。勇一の方に、ちらちらと視線を向けては、一歩一歩、腰を屈めながら、歩みを進めていたのだが、勇一がいる場所から少し下に差し掛かった頃、「おーい!」という声を雄介は聞くことになった。
 雄介はその声に聞き覚えがあった。その声は、正に勇一の声そのものであったのだ!
 雄介は咄嗟に勇一の方に眼を向けた。
 すると、勇一は再び「おーい!」と、大声で言っては、手を振った。
 それで、雄介の動きは止まった。
 そんな雄介に、勇一は今度は、
「おーい! 雄介君!」
 と、叫んでは、雄介に手招きしたのだ。そんな勇一は、正に雄介に、「こっち来いよ!」と言わんばかりであった。
 雄介はそんな勇一のことを無視出来なかった。
 それで、勇一雄介はやむを得ず、勇一に向かって歩き出した。だが、雄介はこの時、不思議なことに、わくわくとした気持ちを感じたのであった。それは、正に矛盾であったが、確かに雄介はそのように感じたのであった。

     9

 雄介と勇一との距離は徐々に縮まり、遂に雄介は勇一と間近に顔を合わせた。
 すると、勇一は、
「確か、中道雄介君だな」
「うん」
 雄介は肯いた。
「一人で来たのか?」
「うん」
 そう言うと、勇一は、
「変わってるな」
 と言っては、勇一はさもおかしそうに笑った。
 〈そら見ろ!〉
 雄介は顔を赤くした。
〈変わってるな、か。そう言われ、笑われることは、最初から分かっていたんだ! だからこそ、勇一に見付からないようにしたのに……〉
 雄介が顔を赤くしては、俯いてしまったので、勇一は穏やかな口調で、
「まあ、座れよ」
 そう勇一に言われたので、雄介は丈の低い草の上に、腰を降ろした。
 そんな雄介を勇一は怪訝そうな表情で見やったのだが、やがて、
「雄介君は、何も持って来なかったのかい?」
 と、些か同情するかのような口調で言った。
「うん」
 雄介は小さな声で肯いた。
「腹、減ってないのか?」
 勇一は再び雄介に同情するかのように言った。
 勇一にそう言われ、雄介は、
「減ってるよ」 
 と、率直に言った。
「そうか。ちょっと待ってな」
 雄介は傍らに置いてあったリュックサックから弁当箱を取り出しては、おにぎりを指差し、
「これ、食べなよ」
 そう勇一に言われ、雄介は、
「食べていいのですか?」
 と、半信半疑の表情で訊いた。雄介が食べてしまえば、勇一の食べるおにぎりが減ってしまうからだ。何しろ、弁当箱には、おにぎりは三つしか入っていなかったからだ。
「構わないさ。でも、一つにしてくれよな」 
そう言っては、勇一は苦笑した。
 雄介はそんな勇一の言葉に甘えることにした。何しろ、雄介はとてもお腹が空いていたからだ。
 おにぎりを殆ど食べた頃、雄介は、
「あの……、水があれば飲みたいのですが……」
 と、恐る恐る言った。
「麦茶でもいいかい?」
「はい」
  そう雄介が言うと、勇一はリュックサックの中から水筒を取り出し、水筒の蓋に麦茶を入れては、雄介に渡した。
 それで、雄介はそれを勇一から受け取ると、一気に口の中に流し込んだ。
 麦茶はとても冷たく、美味しかった。
 それで、雄介は思わず、
「もう一杯、もらえませんか」
 すると、勇一はにやっと笑い、
「いいさ」
 と言っては、再び麦茶を水筒の蓋に入れては、雄介に渡した。
 雄介は正に生き返った心地がした。
 そんな雄介は笑みを浮かべながら、
「勇一さんは、トランペットを吹きに、ここに来たのですか?」
 と、恐る恐る訊いた。
「そうだよ」
 勇一は素っ気なく言った。そして、
「トランペット、聞いてみたいか?」
「うん」
 雄介は、肯いた。
 すると、勇一はトランペットを口に当てては、トランペットを吹き始めた。
 その調べを雄介は五日前に耳にしていたのだが、今、改めて耳にすると、五日前とは違って、とても心が和むのを感じた。五日前は、勇一憎しの思いが、雄介の脳裏に渦巻いていたので、その調べの素晴らしさを感じ取ることが出来なかったのだ。正に、今日は五日前とは、状況が違っていたのであった。
 雄介は空腹と喉の渇きが満たされたということもあり、眠くなって来た。
 それで、顔に帽子を乗せ、草の上に寝転がった。勇一の吹くトランペットの音色を子守唄にして。
 そして、雄介は眠りに落ちて行ったのは、実のところ、空腹が満たされたことと、喉の渇きが癒された為だけではなかった。
 雄介は勇一との心の触れ合いを感じ、それが雄介に安らぎをもたらした。雄介の胸の中に張り詰めていた勇一憎しの思いが消え去り、雄介は邪悪なものから解放された。それ故、雄介はほっとし、それが雄介の眠りを誘ったのであった。
 そんな雄介は、肩を揺り動かされては、眼が覚めた。
 雄介の眼前には、勇一の顔が見えた。
 雄介は上半身を起こし、周囲に眼をやった。
 周囲は何も変わってはいなかったが、陽が少し弱くなってることを認めた。
 それで、雄介は腕時計に眼をやったが、午後三時を少し過ぎていた。
「大分、眠ってたな」
「うん」
 雄介は、双眸を手の甲で擦りながら言った。雄介は随分、寝込んでしまったことを気恥ずかしく思った。
「僕、もう戻らなければ」
「そうか。じゃ、俺も戻ることにするよ」
 そう勇一は言っては、トランペットをケースに仕舞った。そして、
「じゃ、行こうか」
 その勇一の言葉と共に、勇一と雄介は、山を下り始めた。
 雄介は、今、雄介と共に歩いている勇一が、五日前の勇一とは、同じ人物には見えなかった。雄介から勇一憎しの思いがすっかりと消え去ってしまった為に、そう思えたのだ。そんな雄介は、今、弾むような気持ちを感じていたのだ。
 やがて、林の中の道に入った。
 勇一は色々と勇一に話し掛けて来た。例えば、学校は愉しいとか、夏休みはどうやって過ごしてるのかというようなことだ。
 そんな勇一の問いに、雄介はまるで学校の先生の問いに答えるかのように答えていたのだ。
 林を抜けて、カワヤナギの場所に来る頃には、二人は冗談を言い合ったりする位の仲になっていた。雄介はこの時、新たな友を獲得したのであった。
 家に戻ると、治子が、
「何処に行ってたの?」
 と、雄介に訝しげな視線を向けた。雄介の服は泥が付いていたし、また、雄介の顔とか手は、かなり日焼けしていたからだ。
 そんな治子に、雄介は、
「ハイキングに行ったのさ」
 そう言っては、雄介は悪戯っぽく笑った。
「ハイキング? 何処にハイキングに行ったの?」
「それは、秘密だよ」
 そう言っては、雄介はさっさと二階の雄介の部屋に行ったのであった。

     10

 雄介は椅子に座り、机の上に眼をやった。
 机の上には、カブトムシとかクワガタムシの入った容器が置かれていた。
 雄介はその容器の中に眼をやった。
 すると、カブトムシ、クワガタムシは元気一杯に動き回っていた。
 それを見ると、雄介はにっこりと笑い、ズボンのポケットから紅紫をしたものを取り出し、机の上に置いた。
 それは、もはや、紅紫色のものとしか言いようがなく、原形を留めていなかった。
 それは、ヤナギランの花弁であったのだ。雄介は、大沢岳頂上付近に生えていたヤナギランの花弁を少しばかり摘んでは、ズボンのポケットに入れたのであった。
 今の雄介にとって、それはヤナギランの花弁ではなく、レンゲソウの花弁だった。レンゲソウは、雄介にとって大切な花であったのだ。
 若築小学校に初めて登校した日に、小川沿いのレンゲソウ畑を和也と美幸と共に駆け回ったではないか! レンゲソウが咲き乱れている秘密の空き地で、和也、美幸と共に駆けまわったではないか!
 雄介はその時に経験した強烈な思いを今でも鮮明に覚えていた。
 レンゲソウはその思いを象徴していた。レンゲソウは、雄介にとって、喜び、感動、至福といったものを象徴している花であったのだ。
 そして、雄介は今日、その思いを味わったのであった。雄介は、まるでレンゲソウ畑の中を駆け回ってるような気分を味わったのであった。
 それ故、雄介はヤナギランの花びらに、レンゲソウの幻影を見たのであった。
    
 雄介がその夏に大沢岳に行ったのは、勇一と二人で家路についた日が、最後となった。何故最後になったかというと、雄介は大沢岳からの風景をすっかりと堪能したと自覚したし、また、八月に入ると、陽射しも強くなったので、山登りをすることが出来なくなったのだ。
 勇一はといえば、雄介と違って、大沢岳に行ったことには行った。とはいうものの、中腹の林が途切れてるいつもの場所にまでは行っては、トランペットを吹いていたわけではなかった。八月の陽光を勇一といえども、堪えられることは出来なかったのだ。
 それで、そこまで行くまでの林の中で、勇一はトランペットの練習をしたのである。
 そんな勇一であったが、八月十日に若築村から去ることになった。そして、雄介は勇一と家路について以来、勇一と顔を合わせることはなかったのである。

     11

 八月二十日を過ぎた頃、若築村の子供たちは、夏休みの宿題をするのに追われることになった。遊ぶことは好きでも、勉強をするのが嫌いな子供たちが多いだけに、夏休みのこの時期になると、子供たちの多くは、頭を悩ますことになるのだ。
 そして、和也、美幸、雄介も無論そうであった。
「宿題さえなければ、夏休みは天国なんだけどな」
 和也は美幸に言った。
「私もそう思うよ。でも、遊んでばかりいれば、馬鹿になっちゃうよ。たまには、勉強しなくてはね」
 と、美幸。
「さすがに、優等生は言うことが違うね。そこで、頼みがあるんだよ」
 と、和也はにやにやした。
 美幸はその和也の表情を見て、和也の思いを察知した。
「分かったよ。宿題、見せてくれ、よね」
「当り! と言いたいところだけど、外れだよ。見せてくれじゃなくて、分かる範囲でいいから、教えてもらいたいのさ」
「私だって、分からない所が多いのよ」
「でも、俺よりはましだよ」
「分かった。じゃ、いつがいい?」
「明日がいいな。美幸の家でやろうよ」
「それで、いいよ。じゃ、雄介も呼ぼうか」
「それで、決まりだ!」
 そう言っては、和也はぴょこんと飛び上がり、駆け足で美幸の家から去って行ったのであった。
 翌日、美幸の家には、和也と雄介が姿を見せていた。
 和也も雄介も、宿題を持って来てた。 
 宿題といっても、算数とか理科とか国語の問題集を解くだけなのだが、日頃、余り勉強していない和也たちにとってみれば、それらの問題を解くことは、かなりむずかしいのだ。
 美幸は早速和也から、分からない箇所の説明を受けた。
 美幸は和也の説明を聞くにつれ、次第に顔を曇らせ、
「分からないよ」
 と、投げ遣りの口調で言った。そして、
「雄介、分かる?」
 と、雄介に言った。
 だが、雄介も、
「分からないよ」
 と、顔を曇らせては言った。
 それは、算数の問題であった。ややレベルの高い問題であったので、三人はお手上げの状態であったのだ。
「よし。こうなれば、三人で知恵を出し合って考えてみよう」
 と、雄介が言ったので、三人はしばらく考えていたのだが、三十分も経った頃、和也が、
「何だか腹が減って来たよ」
 と言ったので、美幸は、
「ちょっと待ってね」
 と言っては、しばらく席を外し、やがて、盆に冷たいジュースとビスケットを持っては、戻って来た。そして、
「さあ! 食べて頂戴!」
 と言うので、和也と雄介は、
「いただきまーす!」
 と言っては、ビスケットを口の中に入れ、次に、ジュースを口の中に持って行った。
 そして、この時、和也は妙なことを言った。
「君たち、幽霊を見たことがあるかい?」
「幽霊? あるわけないじゃない! そんなもの、この世にいないよ」
 美幸は、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに言った。
 すると、雄介も、
「僕もないよ。幽霊なんていると信じる方が、どうかしてるよ」
 と、笑いながら言った。そして、
「和也は見たことがあるのかい?」
「それが、ないんだ。でも、僕の友達が見たって言うんだ」
 和也は自慢げに言った。
「それ、本当?」
 美幸と雄介は、口を揃えて言った。そして、二人の眼は、爛々と輝いていた。
「本当さ。僕の友達の春林君が、そう言ったよ。春林君は、嘘をつかないと思うよ」
「春林君は、何処で幽霊を見たのよ。聞かせてよ。春林君の話を」
 と、美幸が言うと、和也は待ってましたと言わんばかりに、「ああ」と言っては、肯いたのであった。
「三年前の夏のことなんだが、飯倉川で、若築小学校の生徒三人が水死したことを覚えてるかい?」
「うーん。何となく覚えてるよ。私はその時、まだ、小さかったけど、母さんがそのようなことを言ってたのを覚えてるよ」
「そうか。雄介は知らないと思うけど、とにかく三年前の夏に、飯倉川で水遊びをしていた小学校二年生の男の子二人と女の子一人が、深みにはまって水死したんだよ。
 もっとも、その場所は僕たちが水遊びをしてる場所よりももっと上流にあって、今は遊泳禁止になってるんだ。
 で、その三人の死体は、一旦、若築小学校に運ばれたんだ。身元が分からなかったので、若築小学校に運ばれたそうだよ」
 と、和也は淡々とした口調で言った。
「ほう……。それで?」
 雄介は興味津々たる表情で言った。美幸の表情も、雄介と同じようなものであった。
「三人の死体は、講堂の中の正面入り口に近い部屋で、白い布を掛けて置かれたそうだが、春林君は、その部屋で幽霊を見たって言うんだよ」
 と、和也は力を込めて言った。
「私、何だか怖くなって来たよ」
 そう言った美幸の表情からは、笑みは消えていた。
「これ位のことで怖がるなよ。怖いのは、これからだよ」
 和也はそう言っては、話を続けた。
「春林君が幽霊を見たのは、去年の八月二十三日。つまり、今日さ。そして、三年前の今日に、その三人は水死したのさ。
 春林君は、その様な事故があったことを覚えていずに、たまたま夜の七時頃、若築
小学校に行ったらしいんだ。
 春林君が言うには、その日はとても暑く、気分がむしゃくしゃしていたから、散歩をして、むしゃくしゃした気分を吹き飛ばそうとしてたらしいんだ。
 若築小学校の前に来ると、春林君は何故そのようなことをしたのか、自分では分からないそうなんだけど、講堂の方に行ったんだよ。そして、正面入り口に通じる石段の上に腰を降ろし、しばらく座っていたのだが、ふと人気を感じ、振り返ってみると、それがいたんだよ」
「幽霊がいたのかい?」
 と、雄介。
「あ。幽霊は三人いて、とても恨めしそうな表情をしてたらしいぜ。幽霊は五秒程で消えたらしいが、春林君は正に腰を抜かさんばかりに驚いて、疾風の如く、家に戻っては、幽霊のことを母さんに話したらしいんだ。でも、母さんは笑って信じなかったそうなんだ。
 だけど、春林君の従姉妹がその水死した三人の同級生だったので、その従姉妹がその三人の写真を見せると、春林君は再び腰を抜かさんばかりに驚いたんだよ。何故なら、春林君の見た三人の幽霊は、写真の三人だったからさ」
 和也の話を聞いて、雄介も美幸も鳥肌が立って来た。
「私、その三人に会って話をしてみたい」
 と、美幸はしんみりとした口調で言った。
「おい、おい。妙なことを言うなよ。その三人は死んでしまい、今はこの世にいないんだよ」
 と、和也は眉を顰めた。
「でも、春林君は三人の幽霊を見たんでしょ。だったら、私たちが見れないことはないよ。三人は姿を現したからには、何か訴えたいことがあるのよ。それを聞いてやらないと。そうでないと、三人が可哀相よ」
 美幸はそう言っては、手の甲を眼に当てた。そんな美幸の眼には、涙が溜まっていた。
「おいおい。美幸は幽霊なんて、信じないんだろ? さっきそう言ったじゃないか」
 和也は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「でも、和也の話を聞いたら、信じてしまったのよ。この世には、訳の分からない現象というものが存在してるのよ」
「いやに、開き直ったな」
 と、和也は笑った。
「ねぇ。今から皆で行ってみましょうよ」
 と、美幸は眼を大きく見開いては言った。
「何処に?」
 和也と雄介は訊いた。
「決まってるじゃないの。若築小学校の講堂よ。
 さあ! ぐずぐずしてられないわ。さあ! 行きましょう!」
 美幸はそう言っては、和也と雄介を促したのであった。

     12

 三人が若築小学校に向かって美幸の家を出たのは、四時を少し過ぎていた。空には黒雲が徐々に増え始めていたのだが、三人はそんなことに気付かずに歩みを進めていた。
 三人は若築小学校の講堂の前にまでやって来ては、春林君が座った石段の上に座った。そして、幽霊が現われないかと、しばらく待っていたのだが、幽霊は一向に現われなかった。
「しかしだな」
 和也は言った。
「しかし、何よ」
 と、美幸。
「この場所には、俺たちは今までに何度も来てるんだぜ。でも、一度も幽霊を見てないんだぜ。だから、今日来たからといって、見れるわけないよ」
 と、和也は口を尖らせては言った。
「でも、八月二十三日に来たことはないでしょ」
 美幸は勝ち誇ったように言った。
「それも、そうだが……」
 と、和也は決まり悪そうに言った。
「八月二十三日でなくては駄目よ。八月二十三日は、命日だから、姿を現したのよ」
「そんなものだろうか……」
 和也は自信無げに言った。
「そうよ。そうに決まってるわ!」
 美幸は声高に言った。
 美幸は自分でも、自分の言ったことの意味が分からなかった。命日だからといって、幽霊が姿を現すわけではあるまい。そんな理屈は通用しないだろう。ただ、美幸は咄嗟にそう思いついたので、口に出したまでである。
 三人が石段の上に座り続けて一時間が過ぎようとしていた。
 だが、幽霊は依然として、現われなかった。その代わり、雨が落ちて来た。雷と共に、大粒の雨が落ちて来たのだ。雷は、時折、大地を劈くように激しく鳴り響いた。
「どうする?」
 和也は心配そうに言った。三人は傘を持って来てなかったのだ。
 幸、三人は雨を凌げる場所に座っていたのだが、傘無しで家に戻れば、ずぶ濡れになることは間違いない。
「夕立だから、すぐ止むよ」
 そう雄介は言ったものの、三人の表情は、芳しいものではなかった。
 三人は、いつの間やら、幽霊のことは、忘れてしまっていた。三人は、元々、そのようなものは、信じていなかったのだ。和也は算数の問題から逃げ出したかった為に、春林君の話を持ち出した過ぎなかったのだ。幽霊と話をしたいと言った美幸とて、和也と同じような思いがあり、そう言ったに過ぎなかったのだ。雄介とて、和也の話は信じられなかったのだが、算数の問題を解くよりはましだと思ったのである。
 そういった三人だから、今の三人の思いは、早く雨が止むということであった。だが、雨はなかなか止みそうになかった。
 雨が降り出して一時間位経った後、雨は小降りになって来た。だが、辺りはもうすっかりと夜の気配が漂っていた。
「後、少ししたら止むよ」
 雄介は言った。
「ああ」
 和也は肯いた。
 辺りには、講堂正面入り口付近に設置されてる蛍光灯が放つ灯以外に、灯がなかった為に、とても薄暗かった。それ故、三人は心細い思いを抱きながら、雨が止むのを待っていたのだが、突如、美幸が、
「きゃ!」
 と、叫んだ。
 和也と雄介は、美幸を見やった。
 すると、美幸は講堂付近の正面入り口のガラス戸を指差し、
「出たのよ!」
 と、震えながら言った。
「何が出たんだよ」
 と、和也。
「決まってるじゃない! 幽霊よ!」
「そんな馬鹿なことがあるんものか!」
 和也はそう言っては、ガラス戸越しに、講堂の中を覗いた。しかし、和也には何も見えなかった。
 それで、
「何もいないじゃないか!」
 と、落ち着いた口調で言った。
「でも、私、見たのよ。白っぽい姿をした幽霊を!」
「夢でも見てるんじゃないのか! アハハ!」
 と、和也は笑ったが、和也はその時、見てしまった。
 和也は一目散に石段を飛び降り、その場から逃げ出したのだ。
 和也は走った、走った。これ以上、早く走れないという位に!
 和也の心臓は激しく高鳴っていた。膝はまるでマッサージ器に掛けられたみたいに、ガタガタ震えていた。
 遂に和也は見てしまったのだ! 春林君の話は、やはり本当だったのだ! 和也はやっとのことで、校門近くにまで来ては、恐怖から覚めるのを待っていたのだが、今、和也一人であること気付いた。美幸と雄介は、どうなったのであろうか?
 和也は、美幸と雄介のことが気になった。美幸と雄介は、恐怖の為に卒倒してるのではないだろうか?
 それで、和也は勇気を奮い起こし、美幸と雄介救出の為に、講堂へと向かった。友を見捨てて和也だけ助かったということであれば、終生、後悔することになろう。
 和也は、歯を食いしばり、忍び足で講堂正面に向かったのだが、和也が眼にした光景は、和也が想像してたものとは、まるで違っていた。美幸と雄介は、卒倒してるどころか、笑いこけているではないか。
 そして、美幸と雄介の傍らには、白いシャツを来た人物がいた。
 和也はその人物に見覚えがあった。それは、五年生の担任を受け持ってる深山文夫先生だったのだ。深山先生は三十歳の若い独身の先生であり、ユーモアが得意で、生徒に人気があった。
 美幸は啞然とした表情を浮かべている和也を見て、一層笑いこけた。
「何がそんなにおかしいんだよ」
 和也は言った。
「だから、和也がおかしいのよ。和也ったら、必死で逃げて行くんだもの。和也のあの時の顔を見れば、笑わずにはいられないよ」
 と、美幸はいかにもおかしそうに言った。
「だから、幽霊を見たから、逃げ出したんだよ」
 和也はむっとした表情で言った。
「馬鹿ね。幽霊なんて、いるわけがないよ。幽霊の正体は、深山先生だったのよ」
「脅かして悪いな。僕は今日、宿直の当番に当っていて、校内の見回りをしていたんだよ。で、講堂の中を見回っていた時に、君たちの姿を見掛けたんだよ。それで、少し、脅かしてやろうと思い、講堂の中に保管してある白い頭巾を被っては、『わっ!』と、後から声を掛けてやろうとしたんだよ。
 ところが、僕が声を掛ける前に、君たちの方が気付いてしまったというわけさ。そして、平野君が僕を本物の幽霊と勘違いしては、血相を変えては逃げ出してしまったというわけさ」
 と、深山先生は、笑いながら言った。
 そう深山先生に言われ、和也はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 そんな和也に、
「でも、だらしないぞ。平野君は男の子だろ。男の子なのに、一人で一目散に逃げるとは、先生、がっかりしたな。
 その点、秋野さんは偉いよ。僕の正体を見極めようとしたからな。それで、僕はすぐに頭巾を脱いで、秋野さんと中道君の前に姿を現したというわけさ」
 と深山先生は、笑みを浮かべながら言った。
 すると、和也は、
「ちぇ! お恥ずかしい……」
 と、恥ずかしそうに言っては、顔を赤らめた。
「先生。この辺で、幽霊を見たという生徒がいるらしいのですが、先生は幽霊を信じますかね?」
 そう言ったのは、雄介だった。
「僕は信じないな。でも、この世には、まだ解明されてない事柄がいくらでもあるからね。だから、丸っ切り否定は出来ないな。
 とにかく、今日はもう遅いから、君たちは早く家に帰りなさい」
「はい!」
 三人は口を揃えて言った。
 雨は既に上がっていた。そして、三人が美幸の家に着いたのは、七時半頃であった。
 三人の姿を見て、静子は、
「何処に行ってたの?」
「学校よ。それより、お腹空いたよ」
「晩ご飯の用意は、とっくに出来てるのよ。平野君と中道君の分も用意してあるから、よければ食べていきなよ」
「おばさん。そうさせてもらいます」
 と、和也と雄介は言った。
 そして、和也と雄介は、今夜は美幸の家に泊まることになった。
 そうと決まれば、何もしない三人ではない。三人は晩ご飯を食べた後、花火をして遊んだのである。
 花火が、「ヒュー」という音と共に空に舞い上がり、「ドカン!」という音と共に花を咲かせるのを眼にしながら、今日は宿題が全く進まなかったことに雄介は気付いた。
 和也と美幸はといえば、そのようなことすら気付いていないように花火に夢中になっていた。そんな二人を見て、雄介は何だか愉しくなって来たのであった。

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