第三章 秋

     1

 十月に入った。
 雄介が若築小学校に転校して来て、半年が経過した。
 友人の数は徐々に増えて行ったのだが、権藤勝美は、雄介が仲良くなった友人の一人であった。
 勝美の家では、リンゴを作っていた。
 雄介は今までリンゴが実を付けているのを一度も眼にしたことがなかった。
 弘行に連れられてリンゴの木が白い花を咲かせてるのを眼にした時に、赤いリンゴの実を付けてるのを眼にしたいと思っていたのだが、その思いが実現することになった。勝美が勝美の家のリンゴ園を見に来ないかと、雄介を誘ったのである。更に、勝美はリンゴを食べさせてやるとも言った。雄介はそんな勝美の誘いに「待ってました!」と言わんばかりに飛び付いたのであった。
 勝美の家のリンゴ園は、大沢岳の方にあったが、雄介たちが大沢岳に上った時に通った林の中の道沿いにあったわけではなかった。大沢岳に向かった林の中の道に曲がらずに、小川沿いの道をまだしばらく進み、右に曲がって少し入った所にあったのだ。
 雄介はその日、勝美の家からリンゴ園に出発することになっていた。勝美の父親が運転する軽トラックに勝美と共に乗せてもらうことになっていたのだ。
 勝美の父親と、勝美と雄介を乗せた軽ワゴン車は、小川沿いの道を進んでいた。雄介のお気に入りのカワヤナギの場所を通り過ぎ、水車小屋の場所を通り過ぎた。
 そして、やがて、軽トラックは、右に曲がった。 
 その道は、林の中の道に続いていた。
 林の中の道に入り、少し進むと、軽トラックの左前方に赤いリンゴの実が、雄介の視界に飛び込んで来た。リンゴ園に着いたのだ。
「さあ、降りてくれ」
 勝美の父親は言った。
「うん」
 勝美と雄介は言った。
 軽トラックから降り、リンゴの実に眼をやると、否応無しに、その艶やかな色が眼についた。
 勝美はリンゴの木に近寄っては、リンゴの実を一個、捥ぎ取った。そして、
「これが、うちのリンゴだよ」
 と言っては、雄介にリンゴの実を差し出した。
 雄介はリンゴの実を掌に載せ、触った。
 リンゴの実はとても赤く、つるつるしていた。
「どうだ? うちのリンゴは?」
「とても綺麗だよ。どんな味がするのかな?」
「とても美味しいんだ。甘くてすっぱくって。
 よし。少し食べてみるか。雄介もリンゴを捥ぎ取ってみろよ」
「幾つ捥ぎ取っていいのかな」
「二つ位でいいだろ」
 そう勝美に言われたので、雄介は真っ赤に熟してるリンゴの実を一個選んでは、捥ぎ取った。更に後一つ捥ぎ取った。
 勝美と雄介は、リンゴを二つずつ手にしながら、勝美の案内の下に、井戸のある場所に行った。勝美は井戸から水を組み出し、リンゴを洗った。勝美は雄介にも、井戸の水でリンゴを洗うように言った。
「農薬が付いてるんだ。しっかりと洗わないと」
 勝美は苦笑いしながら言った。
 雄介がリンゴを井戸の水で洗い終わった頃には、勝美は既にリンゴにかぶりついていた。そして、皮を口から吐き出していた。
 雄介は勝美のように、リンゴにかぶりついた。途端、リンゴの味覚が口の中に満ちた。
 雄介は果物がとても好きであった。蜜柑、葡萄、パイナップル、バナナ、そして、リンゴを。特に、リンゴは大好物であった。
 雄介は、今、食べているリンゴが、今まで食べて来た中で、最も美味しいと感じた。
 それは、勝美の家で作られてるリンゴはとても美味しいという評判を得てることが最大の理由であるが、自分の手で捥ぎ取ったリンゴをその場で食べたということも影響してるだろう。
 リンゴを食べ終わると、勝美は雄介に、
「リンゴ園を見てみないか」
「うん」
 雄介は肯いた。
 勝美と雄介は、リンゴの木々の間を縫うように進んだ。
 リンゴの木々は、今や真っ赤なリンゴの実を付けていた。その中を進むことは、正に爽快な気分であった。
「父ちゃんたちは、これからが最も忙しくなるんだ。何しろ、リンゴを摘み取らなければならないからな」
 勝美はそう言っては、周囲の木々に眼をやった。
 そして、二人はやがて、リンゴ園の端に出た。
「どうだった?」
 勝美は訊いた。
「いい眺めだったよ」
 そう雄介に言われ、勝美は満足そうな表情を浮かべた。勝美は雄介に勝美の家のリンゴ園を褒めてもらったような気がしたからだ。
 リンゴ園に接してる林は、今や紅葉の真っ盛りだった。雄介は、その燃えるような色を眼にして、自然の驚異さを改めて痛感したのであった。
 勝美はそんな雄介を眼にしては、にやにやしながら、
「面白い場所に案内してやろうか」
「面白い場所?」
 雄介は好奇心を露にしては言った。
「ああ」
 勝美はにやにやしながら肯いた。
「面白い場所って、何があるんだ?」
「それは、来れば分かるさ」
 雄介は、勝美の後に従った。

     2

 勝美は林の中を黙々と進んで行った。雄介はこの辺りに来るのは初めてであったのだが、勝美は周囲の様子を熟知してるかのように、何ら躊躇うことなく、歩みを進めていた。
 三分程歩いた頃、突如、勝美は前方を指差した。
 勝美が指差した方に、雄介は眼をやった。
 勝美が指差した方には、自動車が置かれていた。
 しかし、その自動車は明らかに廃車であった。林の中に乗り捨てられていた廃車なのだ。
 その廃車は、トヨタのクラウンであった。色は黒なのだろうが、雨曝しになっている為か、かなり色褪せていた。
 そんな廃車を見やっては、雄介は、
「あれかい? 面白い場所って?」
「そうだよ」
 勝美はにやにやしながら言った。
 それで、雄介はそれに近付こうとしたのだが、そんな雄介に勝美は、
「ちょっと待て」
 と、小さな声ではあるが、鋭い声で言った。
 それで、雄介は怪訝そうな表情を浮かべたのだが、そんな雄介に勝美はにやにやしながら、
「いいか。声を立てては駄目だぜ。忍び足で、自動車に近付くんだ。そして、そっと中を覗くんだ。面白い場面を見れるかもしれないぜ」
 勝美がそう言ったので、雄介はその勝美の言葉に従うことにした。
 勝美と雄介の今、いる場所と、その自動車までの距離は、大体四十メートル位で、視界は開けていた。
 勝美と雄介は、腰を屈めながら、一歩一歩近付いて行った。自動車まで後、十メートルという所まで来た頃、雄介は自動車の中から、甲高い声を聞いた。
 勿論、勝美も聞いていた。そして、その声を聞いた時、勝美は笑みを浮かべた。
 そして、勝美は恐る恐る、自動車に近付いて行った。雄介はその後に続いた。
 そして、勝美と雄介は遂に自動車の傍らにまでやって来た。
自動車の中には、どうやら男女がいるみたいであった。その男女は、勝美と雄介がやって来たことなど、つゆ知らないようであった。
 そして、その男女が立てる声は、笑い声のような声であったり、また、悲鳴のような声であった。
 勝美はゆっくりと上半身を起こしては、自動車の中を覗き込んだ。雄介はそんな勝美に倣った。
 すると、その時、雄介の心臓は、激しく高鳴ったのであった。
 自動車の中では、運転席と助手席のシートが倒され、その上に若い女が仰向けに寝ていて、その上に男が馬乗りになって激しく身体を上下に動かしていたのだ。
 そんな男は殆ど裸のような状態で、また、女もそうであった。
 雄介は女の顔に眼をやった。
 すると、女は眼をつぶり、陶酔の表情を浮かべていた。雄介は、そんな男女を見て、正に高まる興奮を抑えながら、必死で見入っていたのだ。
 そんな雄介は、突如、勝美に肩を叩かれて、我に返った。
 勝美は頭を下げろと、身振り手振りで示した。
 それで、雄介は頭を窓より低い位置に沈めた。
 すると、勝美は、「そろそろ戻るぞ」と、雄介の耳元で囁いた。
 勝美と雄介は、音を立てないようにと気を配りながら、忍び足で、自動車から離れて行った。
 そして、もう大丈夫だという距離にまで来ると、勝美はにやにやしながら、
「面白かっただろ」
「ああ」
 雄介は肯いた。
 そんな雄介は、まだ興奮から、冷めることが出来なかった。心臓は激しく高鳴っていたし、膝はがくがくと震えていた。
「あの自動車は、ラブホテル代わりに使われてるんだよ。この辺りには、ラブホテルはないからな。だから、ああやって、人眼のつかない場所にやって来ては、いちゃいちゃしてるのさ」
 と、勝美はいかにも面白そうに言った。
「ふーん」
 雄介はそんな勝美の説明に感心したように言った。
「ただ、いつ行ってもお眼に掛かれるというものではないんだ。五回行っては、一度お眼に掛かれる位なんだよ」
「ふーん」
「俺は、リンゴ園で親父の手伝いをしてた時に、偶然、あの自動車の中でいちゃいちゃしてるカップルを眼にしたんだ。二年前のことだよ。
 それから、リンゴ園に来る時は、いつも自動車の中の様子を見に行くというわけさ。
 で、今日は日曜だから、ひょっとしているんじゃないかと思っていたんだけど、やはり、俺の勘は当ったというわけさ」
 と、勝美は自慢げに言った。

     3

 やがて、二人はリンゴ園の中を通って、リンゴ園の入口の方に戻った。勝美の親父は、入口付近でリンゴを摘んでいたが、勝美と雄介の姿を眼に留めると、
「そろそろ、昼飯にしようじゃないか」
 三人は、リンゴの木の傍らに腰を降ろしては、昼飯を食べ始めた。弁当の中身は質素なものであったが、雄介はとても美味しいと思いながら、食べたのであった。
 昼飯を食べた後、少し休憩し、勝美と雄介は、勝美の親父の手伝いをすることになった。
 雄介はリンゴを摘みながら、
「こんなにたくさんのリンゴを親父さん一人で獲るのかい?」
 と、勝美に訊いた。
「そうじゃないさ。母さんとか、親戚に手伝ってもらうんだ」
 そして、三人は、陽が暮れるまでリンゴ獲りをしたのであった。
 そして、雄介はリンゴ獲りの手伝いをしたということで、土産として、リンゴを十個貰った。
 そして、家に帰ると、早速治子に渡した。そして、そのリンゴは夕食の時に食べることになったのだが、その時、治子は、
「何て美味しいリンゴなの」
 と、眼を丸くしたのであった。

 やがて、就寝の時間になり、雄介は治子に「おやすみ」と言っては、床についた。
 雄介は布団に横になり、眼を瞑ると、自ずから今日、経験したことが脳裏に浮かんで来た。
 赤いリンゴの実を捥ぎ取ったことは、雄介をとてもわくわくさせた。
 だが、雄介をわくわくさせたのは、リンゴだけではなかった。自動車の中で、裸で抱き合っていた男女は、リンゴを見た以上に雄介をわくわくさせたのであった。雄介は今でも、あの女の陶酔した表情をはっきりと覚えていた。それは、雄介が生まれて初めて眼にする女の表情であった。
 雄介は実のところ、あの男女の様をずっと見続けていたかった。勝美が戻ろうと言わなければ、そうしていたに違いない。雄介は「そろそろ戻るぞ」と言った勝美のことを腹立たしく感じた位であった。

     4

 勝美の家のリンゴ園に行ってから、一週間が経過した。
 そして、今日は一週間前と同じく、とても天気が良かった。正に、爽やかな秋晴れであったのだ。
 雄介は今日という日が来るのを待ちに待っていた。というのは、雄介は今日、再びあの自動車に行ってみようと思っていたからだ。
 勝美によれば、自動車の中で男女の姿を眼にすることが出来るのは、五回の内、一度位だという。
 しかし、そうだからといって、今日行って、見れないとは限らないだろう。
 それ故、雄介は今日、敢えて行ってみることにした。雄介は何としても、あの男女の様をもう一度、眼にしたかったのである。それで、今日、行くことを決意していたのだ。
 ただ、この思いは、雄介一人の胸の内に秘めていた。無論、両親に言うわけにはいかなかったし、また、勝美にも言わなかった。勝美に言えば、勝美も来るかもしれなかったし、また、一人の方がじっくりと眼に出来ると雄介は思ったのだ。
 雄介は昼食を早目に家で済ますと、正午頃に家を出た。勝美の家のリンゴ園までは、雄介の家から歩けば三十分位だろう。それ故、自動車の場所までは、遅くても、一時前には着けるだろう。
 そして、先週、自動車の中で男女の姿を眼にしたのは、一時前であった。それ故、雄介は今日も一時前に自動車の場所に行ってみようと思ったのである。
 雄介は治子に、「遊びに行って来るよ」と言っただけで、家を出た。
 そして、雄介は脇目もふらずに、歩いていた。
 本来なら、雄介は雄介の周囲に拡がる風景に眼をやるのだが、今の雄介には、そのようなものは眼に入らないかのようであった。
 そして、いつの間にか、カワヤナギの場所を通り過ぎ、水車小屋の場所を通り過ぎてしまった。
 そして、雄介はやがて右に曲がり、しばらく進むと、やがて、林の中の道に入った。そして、程なく勝美の家のリンゴ園が眼に入った。
 そして、この時点で雄介は慎重に身構えざるを得なくなってしまった。というのも、勝美の家のリンゴ園の入口付近に、勝美の親父の軽トラックが停めてあったからだ。勝美の親父は、リンゴの収穫にやって来てるのだ。
 そんな親父に見付かってしまえば、雄介はここまで来た理由を何と言えばよいのだろうか? その理由を雄介は分からなかった。しばらく考えてみたのだが、やはり、妙案は浮かばなかった。
 それで、雄介は何としても、勝美の親父やその身内の人たちに眼に留められないようにしなければならないと思った。 
 そして、それは決して困難ではなかった。
 というのも、リンゴ園の周囲を木々が囲んでいたからだ。その木々の中を進めば、勝美の親父たちに眼に留められないで済むと、雄介は思ったのである。
 そう理解すると、雄介は早速、自動車に向かって歩みを進め始めた。正に、音を立てないようにと気を配りながら。そして、何とかリンゴ園の傍らを通り過ぎることが出来た。すると、雄介はほっと胸を撫で下ろしたのであった。
 雄介は歩みを進め、自動車が見える当りにまでやって来た。
 雄介と自動車の距離は、大体四十メートル位であった。
 雄介が今、いる辺りは、林になってる為に、自動車の方から雄介を見たとしても、余程眼を凝らさないと、雄介の姿を確認出来ないであろう。
 問題は、林を抜け出してからのことだ。林を抜けても、自動車までの距離は十メートル程あり、また、林は殆ど無くなるから、姿を隠す場所がないに等しいのだ。いわば、自動車を中心に空間が開けてるといった塩梅であったのだ。
 それ故、雄介は自動車の中にいる人間が窓から顔を出しては、外を見ないようにと念じながら、そして、腰を屈めながら、自動車に近付いて行った。
 もっとも、自動車の中に、雄介のお目当ての男女がいるかどうかは分からないのだが、もし、いないとすれば、雄介は正に無駄骨をおってしまったことになるだろう。
 それはともかく、雄介は忍び足で自動車に近付いて行った。
 自動車までの距離が十メートル位になった時に、雄介の顔に笑みが浮かんだ。雄介は聞いたのだ! 女の悩ましげな声を!
 やはり、来た甲斐があった! 雄介のお目当ての男女は、やはり、自動車の中にいたのだ!
 雄介は逸る気持ちを抑えながら、腰を屈めがら、忍び足で自動車に近付いて行った。そして、傍らにまで来ると、上半身を起こし、自動車の中を覗いた。
 すると、雄介は興奮を抑えるのに苦労した。そこには、やはり、雄介が思っていた通りの光景が展開していたのだ!
 胸を露にした若い女の上に、裸の若い男が覆い被さり、その身体を上下に動かしていたのだ。
 女は陶酔の表情を浮かべ、時折、悲鳴のような声を上げていた。
 男は脇目も降らず、身体を上下に動かしている。
 そして、雄介は女の顔に見覚えがあった。その女は、雄介が先週、眼にした女であったのだ!
 雄介は我を忘れて、しばらく、眼前に展開する光景に眼を凝らしていたのだが、つい失態をやらかしてしまった。自動車の傍らに転がっていたジュースの缶を蹴飛ばしてしまい、その缶が音を立ててしまったのだ!
 その音と共に、男女の動きが止まり、男女は顔を雄介の方に向けた。
 雄介と男女の眼が合ってしまった。
 男女の眼は、啞然としたものであったが、すぐに険しいものへと変貌した。そして、その顔は明らかに雄介に敵意を剥き出しにしていた。
 雄介はそれを敏感に察知し、慌てて逃げようとした。必死で姿を晦まそうとしたのだ。
 そんな雄介は、思い切り走ったのだが、自動車の中から男が出て来ては、「待て!」と叫び、雄介目掛けて走り出した。
 男の足は、とても速かった。小学校四年の雄介が、とても太刀打ち出来るものではなかった。雄介は呆気なく男に捕まってしまったのだ。
 そして、雄介が捕まったのは、自動車から四十メートル程離れた所であった。
 男も雄介も、激しく息を切らしていたのだが、男は息を切らしたまま、「おい! どういうつもりだ!」
 と、声を荒げて言った。
 雄介は何も言うことは出来なかった。男の表情と声が、とても凄味があったので、雄介は恐怖に支配されてしまい、声を上げることが出来なかったのだ。そんな雄介は、ただ震えているばかりだった。
 そんな雄介を見て、男は、
「お前、名前は何というんだ?」
 と、威圧的な口調で言った。
 だが、雄介は何も言おうとはしなかった。
「お前、、自分の名前も分からないのか!」
 男は叫んだ。
 だが、雄介は黙っていた。
「お前、何処の小学校だ?」
 男は、次から次へと質問を浴びせて来た。
 雄介は名前も学校も言うわけにはいなかなかった。そんなことをすれば、雄介の行為を言われるに決まってるからだ。
 雄介はそうなった時の恥ずかしさを想像すると、眼の前が真っ暗になりそうであった。
 それ故、雄介は何としてでも、雄介の素性を明かすわけにはいかなかった。
 いつの間にやら、女も姿を見せていた。そして、男の様がかなり荒っぽいものであると認めたのか、
「利夫、許してやろうよ」
 と、穏やかな口調で言った。
 そう言われると、男は雄介を詰るのを止め、
「おい、小僧! 今度、こんなことをしたら、承知しないぞ!」
 と、雄介を威圧するように言っては、雄介の頭上に鉄拳を喰らわしたのであった。
 雄介はその鉄拳を喰らった時に、燃えるような痛さを感じたのであった。
「とっとと消えろ!」
 男は雄介に怒声を浴びせた。
 それを受けて、雄介は正に逃げるようにして、その場を後にしたのであった。

     5


 小川沿いの道を歩いてる雄介の眼からは、涙が絶え間なく流れ落ちていた。雄介が眼にした光景は、雄介の期待を裏切らなかったのだが、それを上回る程の恐怖を雄介にもたらしたのだ。
 雄介は今になっても、男の怖い口調と表情、そして、拳骨の痛さを覚えていた。そして、それらは、雄介の眼から、涙を落とさせるのに十分なものであった。雄介は、今までに経験したことのない恐怖を経験してしまったのだ。
 雄介は、もう二度と、あの自動車の中を覗いてみようなんてことは、思わなかった。
 雄介は早く家に帰って、布団に顔を伏せ、泣き崩れたいという衝動に掻き立てられていたのだ。
 雄介が歩みを進めてる小川沿いの道には、セイタカアワダチソウとか、彼岸花が姿を見せていた。だが、それらは雄介の眼に入らなかった。雄介の頭の中には、早く家に戻りたいという思いしか、存在してなかったのだ。
 雄介が家に着いた時、弘行も治子も家にいなかった。弘行は畑に出ては、農作業をしていたし、治子は買い物に出掛けていたのだ。
 もし、雄介は弘行か治子と顔を合わせてしまえば、涙が流れ落ちたであろう。
 そうなれば、弘行も治子も、何故涙を流すのか、その理由を訊くだろう。
 そして、それは雄介にとって、好ましいことではなかった。それ故、弘行と治子が家にいなかったことは、雄介にとって幸であったのかもしれない。
 雄介は二階の雄介の部屋に行っては、ベッドにうつ伏せになっては、思い切り泣いた。
 だが、五分も経たない内に、雄介は泣くのを止めた。そして、立ち上がり、階下に行った。
 すると、治子が丁度帰って来た。治子は、
「お饅頭買って来たから、食べる?」
「ああ」
 雄介は肯いた。
 雄介は治子から、饅頭を入れた皿を受け取ると、犬のように饅頭に喰らいついた。饅頭は、とても甘くて、美味しかった。
 雄介は、先程までの陰鬱な気持は、吹き飛んでいた。何故、雄介はこれ程早く、快活な気分になったのであろうか?
 幼さがそうさせたのであろうか?
 いや、それは違った。レンゲソウの存在がそうさせたのであった。
 雄介はベッドにうつ伏せになって泣いていた時に、ふとレンゲソウのことが雄介の脳裏を過ぎったのであった。
 雄介は、和也と美幸と共に、レンゲソウ畑で遊び回っていた時のことを!
 それは、雄介から陰鬱な気分を吹き飛ばすに充分なことであったのだ。レンゲソウは、今や、雄介にとって、とても大きな存在となっていたのだ!
 雄介はその夜、とても美味しく、晩ご飯を食べることになった。勝美のリンゴ園にまで行ったのだから、大いに運動をしたわけだし、精神的にも、今や重圧はなかった。 それに、今は食欲の秋である。雄介の食欲が、そそらない筈はないのである!
 そんな雄介を見て、弘行も治子も眼を細めたのである。
 晩ご飯を食べ終わり、少し寛いだ後、雄介は家の外に出た。そして、夜空を見上げた。
 すると、夜空には、無数の星が煌めいていた。
 雄介は星の煌めきにしばらく見惚れていたのだが、やがて、歩き出したのだが、少し歩いただけで、引き返すことにした。夜風の冷たさが身に染みたからだ。
 後少しすれば、夜風の冷たさは、一層身に染みることだろう。そして、そうなれば、冬がやって来るのだ。

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