第四章 冬
1
「今日も雪か……」
和也は空から落ちて来る雪を恨めしげに眺めては言った。
若築村は、十二月に入ると、毎日のように粉雪が舞った。若築村周辺は豪雪地帯ではないので、雪下ろしをしたりする必要はないのだが、緑眩かった野原はすっかりと雪化粧をされていた。
和也、美幸、雄介は、今日も三人揃って小川沿いの道を我が家向かって歩いていた。
時刻は三時半であった。三人は、下校途中であったというわけだ。
「和也が不平を言ったところで、雪は止まないのよ」
美幸は雪に不平を言ってる和也を窘めた。
三人は、粉雪が舞ってる中を進んでいた。
時折、三人の頬を打つ北風は、三人を震え上がらせた。三人の頭の中は、早く家に帰りたいという思いで一杯であった。
家に戻れば、温かい部屋の中で温かい牛乳を飲みながら、ビスケットを食べることが出来るからだ。そのことを思うことだけが、今の三人の支えであった。
2
冬の間は、若築村は雪で覆われてしまう為に、農業を営んでいる人たちにとってみれば、外で農作業をするわけにはいかなかった。
そうだからといって、必ずしも、仕事がなくなるわけではなかった。
果樹の剪定を行なったり、乳牛の世話といった仕事があるのだ。
和也、美幸、雄介の父親は、果樹の剪定とか乳牛の世話とかいった仕事を持っていたので、冬の間も仕事の忙しさは変わらなかったのだが、村の中では、少数ではあるが、都会に出稼ぎに行ったりする人もいた。
和也、美幸、雄介は、自分の父親が、都会に出稼ぎに行かなくてよかったので、嬉しかった。
というのも、和也たちのクラスメートの中には、冬の間は父親が都会に出稼ぎに行ってしまう子がいて、その子から、父親がいない寂しさを聞かされていたからだ。
雄介は、若築村に来て、初めて冬を迎えたのだが、冬はあまり好きにはなれなかった。
それは、寒さがとても辛いということもあったが、それよりも、野原で遊び回ることが出来ないということが、その最大の理由であった。野原からは、雄介が好きな草花の艶やかな色が、すっかりと消え失せていたのだ。冬の到来と共に、雄介を魅了していたものの多くが、消失してしまったのだ。
雄介は時折、雪合戦をしたりして遊んだのだが、それは所詮、一時的な気晴らしに過ぎなかった。寒さの中で一時を過ごした後、室内で暖かなストーブにかじかんだ手足を温めて入る時が、ささやかな愉しみといった具合であった。
そんな雄介は、和也に、
「冬には、何か面白い遊びはないのかい?」
すると、和也は、
「あるよ」
と、言っては、肯いた。
「それ、どんな遊びなんだ?」
雄介は好奇心を露にしては言った。
「スケートさ」
和也は、いかにも眼を大きく見開いては言った。
「スケートか……」
「やったこと、ないのかい?」
「あるよ。でも、一度だけだな」
「そうか。じゃ、今度の日曜日に、スケートに行こう」
「僕、スケートシューズを持ってないんだ」
「二足持ってるから、貸してあげるよ」
「本当かい?」
「本当さ。美幸も誘って行こうよ」
「分かった。で、何処でスケートをするんだい?」
「白鷺沼さ」
「それ、遠いの?」
「そんなに遠くないさ。歩いていけば、三十分程さ」
「分かった。今度の日曜日が愉しみだな」
3
和也、美幸、雄介は、今、白鷺沼に向かっていた。白鷺沼は、若築村の隣村にあった。
白鷺沼に着いてみると、スケート場になってるだけあって、二十人程の子供たちが、既に愉しげにスケートに興じていた。
白鷺沼は、直径七十メートル程のほぼ円形の沼で、その周囲を葉の落ちた落葉樹が囲んでいた。
和也、美幸、雄介は、沼畔のベンチにリュックサックを置き、スケート靴を履くと、氷上に出ては、早速滑り始めた。
雄介はスケートの経験が浅かったので、滑るというよりも、歩くといった塩梅であった。
ところが、和也と美幸は、早くもすいすいと滑っていた。和也と美幸は、慣れたものであったのだ。
和也は、すいすいと沼を一周しては、雄介の許にやって来ては、
「雄介、何をもたもたしてるんだ? 滑れないのかい?」
と、雄介を冷やかした。
「滑れるさ。見てな」
雄介は強がりを言っては、手足を大きく振り、滑り始めた。
出だしは調子よい感じだったのだが、思っていた以上にスピードが出てしまい、雄介は止まろうとしたのだが、その術が分からない。
雄介は堪り兼ねて、近くにいた男の子にしがみついてしまった。
「わぁ!」
男の子は叫び、雄介と共に尻餅をついて、氷上を滑ってしまった。そして、かなりの距離を尻餅を突いたまま滑り、やっとのことで止まった。雄介は止まるまで、男の子を離さなかったのである。
雄介は男の子を摑んでいた手を離すと、とんでもないことをしてしまったことに気付いた。見知らぬ男の子を、雄介の災難に巻き込んでしまったからだ。しかも、男の子は、今、雄介の傍らで、苦痛に顔を歪めているのだ。
「すいません。僕……」
雄介は顔を真っ赤にしては言った。
男の子は、雄介を睨み付けた。男の子の双眸は、怒りの炎で燃えてるようであった。
男の子は、雄介を睨めつけた後、自らの右足を見やっては、掌で摩り始めた。そんな男の子の顔は、苦痛で歪んでいた。
雄介は、恐る恐る男の子の右足に眼をやり、
「大丈夫ですか?」
「右足が……、右足がひどく痛むんだ」
男の子は、やっと口を開いた。男の子の胸中には、雄介に対する怒りが渦巻いていたのだが、その思いより、右足の激痛が、今の男の子を支配していたのだ。それ故、雄介に罵声を浴びせる言葉ではなく、自らの苦痛を示す言葉が発せられたのである。
「起き上がれませんか?」
そう雄介に言われ、男の子は立ち上がろうとしたのだが、
「駄目だ」
と言っては、再び氷上に座り込んでしまった。
「右足が痛くて、立ち上がれないんだ」
男の子は哀しげな声で言った。
やがて、和也と美幸がやって来た。
和也と美幸は、雄介と男の子が氷上を尻餅をついて滑るのを殆ど、眼にしてなかった。その時、雄介の方に背を向けていたからだ。和也と美幸が雄介の方に眼をやった時は、既に雄介と男の子は、氷上に座り込んでいたのである。
「どうしたんだ?」
和也は、怪訝そうな表情で言った。
「その人が、怪我をしてしまったんだよ。僕がその人を摑んでしまったんだよ。スピードが出てしまい、止まり方が分からなかったから、その子を摑んでしまったんだよ」
と、雄介はいかにも決まり悪そうな表情で言った。
和也と美幸は、氷上に座り込み、右足を摩ってる男の子に眼をやった。男の子は、正に苦痛で顔を歪めていた。
「大丈夫かい?」
和也は訊いた。
だが、男の子は和也の問いに、何も言おうとはしなかった。
「大丈夫?」
今度は、美幸が訊いた。
「大丈夫なわけないよ。こいつが僕を摑まなかったら、こんな目に遭わなくて済んだんだ!」
男の子は怒りに満ちた声で言った。
そう男の子に言われ、雄介はますます意気消沈した。
「とにかく、こんな所に座ってちゃ駄目だよ。ベンチまで、この子を連れて行こうよ」
その美幸の言葉に、和也と雄介は、肯いた。
すると、男の子は、
「そうしてくれるかい。でも、僕はスケート靴を脱ぎたいんだよ。スケート靴を履いてると、うまく歩けないからな。だから、あそこに置いてある僕のスニーカーを持って来て欲しいんだよ」
と言っては、男の子はそれを指差した。
それで、それを雄介が取りに行った。
男の子は雄介から男の子のスニーカーを受け取ると、スケート靴を脱いでは、スニーカーに履き替えた。そして、雄介、和也、美幸の手を借りて、やっとのことで、雄介たちの荷物が置いてあるベンチまでやって来た。
雄介はこの時、改めて、
「本当にごめんなさい」
と、いかにも申し訳なさそうに言った。
そんな雄介のしょげ返った様を見て、男の子は、
「済んだことは仕方ないさ。今後は、気をつけてくれよな」
男の子の口振りが、比較的穏やかなものであったので、雄介はほっとした。そして、改めて、男の子の様を見入った。
男の子は、雄介より少し年上のように見受けられた。身体付きは、丸々と太っていたが、容貌は何となく怖そうな感じであった。
男の子は、ベンチの上に二、三分腰を降ろしていると、痛みが取れたのか、雄介たちに、
「君たちは、滑って来いよ」
そう男の子に言われ、和也はにやっと笑い、氷上に戻って行った。美幸も和也の後に続いた。
だが、雄介はそうはしなかった。雄介は男の子のことが心配だったからだ。
そんな雄介に、男の子は、
「君も滑って来いよ。僕のことはもう構わないでいいからさ」
「僕はまだ滑らないよ。僕も転んで足を痛めたから、少し休んで行くよ」
そう言った雄介の言葉には、少し嘘が含まれていた。足を痛めたというのは本当であったが、滑るには差し支えない位であった。
それなのに、何故休憩しようとしたのかというと、やはり、男の子のことが気になったからだ。
雄介は、和也と美幸が滑るのを眼にしながら、男の子の連れはどうしたのかと思った。男の子は怪我をして、ずっとベンチで休んでるというのに連れが誰もやって来ないからだ。
そして、雄介が男の子の連れのことを気にしたのは、果して男の子は一人で家に戻れるのかと思ったからだ。先程は、雄介たちが力添えになったので、このベンチまで来れたのだが、一人なら、来ることは出来なかったのではないのか? そんな具合だから、一人で家に戻ることは無理なのではないのか? 連れの力を借りなければ、家に戻ることは出来ないのではないのか? そう雄介は思ったのである。
それで、雄介は、
「君の連れはどうしたの?」
すると、男の子は、
「僕は一人で来たんだよ」
と、男の子はしんみりとした口調で言った。
「一人で?」
「そうさ」
そう男の子に言われると、雄介の表情は、険しくなった。そして、
「君は、何処に住んでるの?」
「黒部村だよ」
雄介は黒部村のことは知っていた。しかし、行ったことはなかった。
黒部村は、若築村の隣の隣の村であった。若築村の隣の村が白鷺村で、その隣の村が、黒部村であったのだ。
「黒部村は、ここからかなり遠いんじゃないのかい?」
「ああ。僕は家から歩いてきたんだけど、ここに来るのに、四十分程掛かったよ」
男の子は言った。
「四十分も掛かったのか……。で、君はその足で一人で帰れるのかい?」
雄介は神妙な表情で言った。そして、それは、今、雄介が最も気にしてることだったのである。
雄介がそう言うと、男の子は表情を曇らせた。男の子は雄介と話してる間もずっと右足を摩り続けていたのだが、痛みはなかなか引きそうもなかった。それ故、男の子は痛みの深刻さを理解していたのだ。
だが、男の子は幾分か表情を和らげ、
「帰れると思うよ」
と、強がりを言った。
男の子は分かっていた。男の子がとても一人では帰れないということを。
しかし、誰の力を借りればよいのだろうか? 誰が助けてくれるというのか?
雄介はといえば、男の子の言葉を信じなかった。それで、
「本当に帰れるのかい? じゃ、立ってみてくれよ。そして、少し歩いてくれよ。そうしないと、本当に家に帰れるかどうか、分からないじゃないか!」
と、雄介は些か声を上擦らせては言った。
そう雄介に言われ、男の子はやむを得なく、立ち上がり、歩こうとした。
しかし、忽ち、苦痛で顔を歪めよろけてしまった。
それで、雄介は慌てて男の子をベンチに座らせた。そして、
「それじゃ、とても一人では帰れないよ。よし。僕が送って行くよ。そうさせてくれよ」
雄介は、力強い口調で言った。
雄介の言葉に男の子は笑みを浮かべた。男の子は、実のところ、どうすればいいか、途方に暮れていたのだ。
「そうか。そうしてくれるか」
男の子は些か笑みを浮かべては言った。
「で、君の名前は何と言うんだい?」
「塩崎五郎っていうんだ」
「塩崎君か。塩崎君は何年生なんだ?」
「四年生さ。君は?」
「僕も四年生さ。中道雄介って言うんだ」
と、雄介は些か笑みを浮かべては言った。
「中道君か。で、何処の小学校なんだ?」
「若築小学校さ。で、塩崎君は?」
「僕は黒部小学校さ」
雄介は腕時計を見た。
すると、時刻は午後一時半であった。それ故、出発するには、丁度いい時間だと思った。
「じゃ、出発しようか」
と、雄介は些か笑みを浮かべては言った。
「いいのかい? 滑らなくて?」
「いいさ。塩崎君をこんな目に遭わせたのに、おちおち滑ってられないさ」
雄介はそう言うと、和也の許に入っては、
「僕はあの子を家にまで送って行くから、和也は美幸と二人で滑っていてくれよ。で、僕はあの子を家にまで送ったら、一人で帰るから」
そう雄介が言うと、和也は「分かったよ」とあっさりと言っては、あっという間に雄介から遠ざかって行った。
だが、和也は後になって、この時、雄介のことをもっと気に掛けてやればよかったと後悔することになるなんて、思ってもみなかったのである。
4
五郎は雄介の肩に右腕を回すような恰好を取りながら、雄介と共に歩き出した。雄介は五郎の体重が伸し掛かって来るのを感じながら、力一杯歩き出した。
白鷺沼を囲んでいる林を抜け出すと、雄介は後方を振り返ったが、白鷺沼はもう視界には入らなかった。
「悪いな。僕に付き合せてしまって」
五郎は些か申し訳なさそうに言った。
「悪いのは、僕の方さ。僕さえ塩崎君にぶつからなければ、塩崎君をこんな目に遭わせなくて済んだのだから」
「それもそうか」
五郎はそう言っては、笑った。
雄介はこの時、自動車があれば便利なのにと思った。雄介の家には、自動車はあったのだが、今日は生憎弘行は外出していたし、また、治子は免許を持っていなかったので、どうにもならなかった。
それで、雄介はその旨を五郎に話した。
すると、五郎は、
「僕の父ちゃんは、今、出稼ぎに行ってるから、家にいないんだよ。僕も父ちゃんが家にいれば、迎えに来てもらうんだけど」
と、些か残念そうに言った。
「ふーん。じゃ、塩崎君は今、母ちゃんと二人暮らしか」
「いいや。弟がいるんだよ。
でも、まだ三歳なんだよ。母ちゃんは弟の世話をしなければならないし、また、内職もしてるから、とても忙しいだよ。だから、僕のことを構ってる暇なんて、ないんだよ」
雄介と五郎が今、歩いてる道の両側には、田畑が広がっていた。だが、その田畑は今や、白いベールで覆われていた。
道は、やがて、集落の中に入った。
「塩崎君の家は、この辺りなのかい?」
雄介は訊いた。雄介はこの辺に来たことがなかったので、この集落が黒部村だと思ったのである。
「まだまださ。この辺は、僕が住んでる村ではないんだよ。僕の家は、まだ先なんだよ」
集落を抜けると、再び田畑の道となった。その道を雄介と五郎は、雑談を交わしながら、進んでいた。
五郎は雄介と雑談を交わしながら、表面的には笑みを浮かべたりはしていたのだが、右足の痛みは、相変わらずであった。雄介がいなかったら、とても一人では帰れなかっただろう。
そういう状況だったから、二人の歩く速度はとても遅く、四十分で行ける道程を、何と二時間も掛かってしまったのだ。五郎の家に着いたのは、午後三時半であったのだ。
白鷺沼の集落から田畑の中の道を八百メートル程進み、右に曲がって更に三百メートル程進むと、黒部村に入った。そして、その黒部村の外れに五郎の家はあったのだ。
そんな五郎の家は、雄介の家とは違って、小さく見映えが良くなかった。
五郎は雄介に送ってくれた礼を言ってから、
「折角来たんだから、中に入ってくれよ」
雄介は五郎にそう言われ、五郎宅の中に入った。
雄介が通されたのは、八畳の和室であった。
その和室の中では、五郎の母親が、編み物をしていた。
母親の傍らには、三歳だという五郎の弟が気持ち良さそうに眠っていた。
五郎の母親は、雄介を横眼でチラチラと見やりながら、
「何処をほっつき歩いていたのさ。お前には、やってもらわなければならないことが、山程あるんだからね」
と、五郎に文句を言った。
「分かってるさ。で、白鷺沼でスケートをやってたんだけど、怪我をしちまって、歩けなくなってしまったんだ。それで、この中道君に送ってもらったんだよ」
「そうかい。それは、申し訳ないことをしたね」
五郎の母親は、雄介を見やっては、申し訳なさそうに言った。
「僕が悪かったんですよ。僕が塩崎君にぶつかってしまって、塩崎君に怪我をさせてしまったんですよ」
「そう……。で、中道君はこの辺で見られないような感じなんだけど、五郎と同じ小学校かい?」
「違うんだよ。中道君は、若築小学校なんだよ」
「若築小学校? じゃ、若築村の子かい?」
「そうです」
「そんな遠い所から、わざわざ来てくれたのかい。すまないね。五郎、お茶でもいれてやりなよ」
「ああ」
五郎は立ち上がり、台所に行こうとしたのだが、突如、
「いてて……」
と眉を顰めては、腰を降ろしてしまった。
そんな五郎を見て、母親は、
「痛むのかい?」
「ああ」
五郎は肯いた。
「どれどれ」
そう母親は言っては、五郎の傍らに移動し、五郎の右足の具合を調べた。
すると、すぐに笑顔を見せては、
「大したことはないさ。少し挫いただけさ。二、三日すれば、治るさ」
と言ったのであった。
5
雄介はお茶を飲み、駄菓子を食べたりしながら、五郎と話をしていたのだが、母親が雄介に、
「中道君。そろそろ帰った方がいいよ。雪が降って来たから」
と言ったので、雄介はそうすることにした。
そんな雄介は、腕時計を見た。
すると、四時半であった。雄介は五郎との語らいに夢中になっていたので、時が経つことに気付かなかったのだ。
〈いけない……〉
雄介は呟き、五郎と母親に別れの挨拶をしては、戸外に出た。
すると、外はかなり陽が落ちていた。また、雪は止むどころか、吹雪になりそうな塩梅であった。
そうだからといって、雄介は決して心配はしてなかった。帰り道のことは、はっきりと覚えていたからだ。
雄介はオーバーのポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら、歩みを進めていたのだが、辺りの見通しはあまりよくなかった。というのは、都会のように、辺りを街灯が照らしていなかったからだ。ただ、遠くに霞む民家の明かりを頼りに歩みを進めるばかりであった。
五郎の家を出て、十分程経った頃、雪は次第に勢いを増していた。更に、風も強くなって来た。どうやら、吹雪になったようだ。
〈急がなくては……〉
雄介は心の中でそう思った。
雄介はこの寒さから早く脱出したかった。その為には、早足で歩かなければならなかった。
雄介の歩いてる道の周囲は、殆ど田畑ばかりの状態であった。そういった状況の為に、擦れ違う人はまるで見えず、時折、自動車が眼につくといった塩梅であった。
そんな道を一人で歩くのは、随分侘しいものであった。
雄介は早く温かい部屋に入って、温かいスープを飲みたかった。そのことを思い描くことが、今の雄介の支えであった。
だが、そんな雄介の思いを蹴散らすかのように、雪はますます勢いを増し、雄介を震え上がらせた。雄介のオーバーには、いつの間にやら、雪がうっすらと積もっていた。
雄介は白鷺沼の集落を通り過ぎ、田畑の中の道を早足で歩きながら、我が家に向かっていたのだが、突如、「しまった!」と、小さな叫び声を上げた。雄介は忘れ物をしたことに気付いたのだ。
雄介は五郎と共に尻餅をつきながら、氷上を転げた時に、ズボンを濡らしてしまったので、リュックサックからタオルを取り出し、ズボンの濡れた所を満遍無く拭いた。
それで、タオルはすっかりと濡れてしまい、雄介はタオルを乾かす為に、傍らの木の枝にぶらさげておいたのだが、そのままの状態で白鷺沼を出発してしまったのだ。
白鷺沼へは、ほんの少し回り道をするだけでよかったので、雄介はそのタオルを取りに行く為に、白鷺沼に行こうと思った。回り道をするのは嫌であったが、それを我慢してまでして、タオルを取りに行くという思いの方が、雄介を強く支配したのである。
雄介は躊躇わずに、白鷺沼への道を曲がった。その道を五分程進むと、白鷺沼に着くのだ。
雄介はその道を一分程歩いた。道の左側は、所々に葉の落ちた木々が眼に入ったのだが、右側には特に眼に着くものはなかった。
更に一分程歩いた頃、ふと右側に眼をやると、雄介は妙なものを発見した。
それは道から十メートル位離れた所にあったのだが、それは雄介の眼を釘付けにした。何故なら、それは雄介の眼を釘付けにするに十分なものであったからだ。
というのは、雄介にはそれが人間に見えたのだ。三歳位のまだ小さい子供が、この雪原の上でうつ伏せになってるのだ。
辺りがかなり暗くなってることもあり、それが男の子なのか女の子なのかは、分からなかった。だが、赤い衣服を身に付けてるので、女の子かもしれなかった。
それはともかく、雄介はこのままその子供を放置しておくことは出来なかった。
それで、咄嗟に子供の許に駆け寄った。生きてるのか死んでるのか分からないが、とにかく状況を確認しようと思い、駆け寄ったのだ。
子供がいた場所は、白鷺沼に向かう道より少し低い場所にあったのだが、そのことを雄介は特に気にはしなかった。
そして、雄介はとにかく子供の傍らにまで来ると、子供を起こし、子供の顔を見たのだが、その時、雄介は突如、笑ってしまった。何故なら、それは、人形だったのだ。赤い服を身に付けた人形だったのだ。それが、何故だか分からないが、この場所に捨てられていたのだ。
雄介は、正に腹を抱えて笑ってしまった。
この寒さの為に、おかしいことがあっても、笑えない位、感覚が麻痺していたのだが、それにもかかわらず、大笑いしてしまったのだ。
だが、その笑いはすぐに消え失せ、雄介は恐怖の叫び声を上げることになってしまった。
何故なら、雄介の立っていた場所は池の上で、しかも、張っていた氷が薄かった為に、雄介が乗った重みの為に、氷が砕けてしまい、雄介は氷のように冷たい水の中に落ちてしまったのだ。
雄介は必死でもがいた。池は、雄介の身体よりも深かったので、手足をばたばたさせても、底に着きはしなかった。
雄介は、「助けて!」と、叫ぶことは出来なかった。池の冷たい水が、雄介の口の中に流れ入り、声を上げる妨げとなったのだ。それに、大声で叫んだとしても、誰が助けに来てくれるというのか?
雄介は、今、正に恐怖の真っ只中にいたのだが、それでも必死で手足をばたばたさせては、やっとのことで池から這い上がることが出来た。
そして、雄介は立ち上がり歩き出したのだが、身に付けていた衣服とか髪からは、ぼたぼたと雫が落ちて来た。雄介は前進、ずぶ濡れの状態だったのだ。
雄介は恨めしそうに、雄介の落ちた池に眼をやった。
池には氷が張り、その上に雪が積もっていたから、そこが池であることが雄介は分からなかったのだ。
それに、この暗さだし、また、雄介はこの辺に来るのは、初めてであった。それ故、雄介はここが池であったなんて、想像すら出来なかったのである。
雄介は今や、泣きべそをかいていた。ただでさえ、寒さで感覚が麻痺していたのに、この惨事を経験してしまった。雄介は、もはや我慢の限界を超えていたのだ。
吹雪は、そんな雄介に、容赦なく襲い掛かって来た。
雄介は何だか眠くなって来た。雄介はもはや、気力を喪失してしまい、眠ることによって、苦痛から逃れようとしたのだ。
雄介は道端に蹲り、眼を瞑った。
すると、程なく雄介の意識は無くなって行ったのだ。
6
一方、その頃、雄介宅では、弘行と治子が、雄介がまだ帰って来ないことを心配しいた。何しろ、雄介はまだ小学四年生だし、また、この天気だ。それ故、雄介に何か事故でも起こったのではないかと、危惧していたのだ。
治子は、和也宅と美幸宅に電話をして、雄介が怪我をした男の子を家まで送って行くと言って、和也と美幸と白鷺沼で別れたことを知った。
だが、和也も美幸も、その男の子の名前も何処に住んでるのかも分からないとのことだ。
そんな状況下で、今、既に午後七時となっていた。今になって戻らないとなれば、やはり、雄介に異変が発生したと看做すのが、正しいのではないか。
弘行は、堪り兼ねて、雪の中に出て行った。雄介を捜す為である。
治子は電話の前にかじりついていた。何か雄介に関して連絡が入らないかと思っていたのだ。
八時半頃、弘行は和也を連れて戻って来た。弘行は、和也と共に雄介を捜してみたのだが、見付けることは出来なかったのだ。
「駄目だ。雄介が送って行った子が、何処に住んでるのか分からないから、探しようがないんだ」
と、弘行は、悔しそうに言った。
「おじさん。申し訳ありません。雄介を一人で行かせてしまったので、こんなことになったのです」
と、和也は浮かない顔をしては言った。
和也は、スケートに夢中になっていたので、雄介のことを気に掛けなかったのだ。せめて、何処まで行くのか訊いておけば、雄介を探す手掛かりを得られたかもしれないのだ。
弘行も治子も、表情が引き攣っていた。何しろ、この吹雪だ。家で何もしないで待ってるだけでは、事態が好転する筈はないのだ。
「あなた。警察に連絡しましょう」
「そうしよう」
弘行は肯いては、電話の送受器に手を伸ばそうとした時に、電話の呼出音が鳴った。
弘行は、
「中道ですが」
―私は、田村医院の田村と申す者ですが、そちらに中道雄介君という小学校四年位のお子さんはいますかね?
「ええ。それは、僕の息子ですが」
弘行は声を上擦らせては言った。
―そうですか。で、今、うちで保護してる子供がどうやら雄介君のようなのですよ。何でも、道端で蹲ってるのを通行人に発見されたのですよ。通行人に発見されずに、あのままの状態で夜を過ごしたら、危なかったですね。
「分かりました! 黒部村にある田村医院ですね。じゃ、今からすぐに行きます」
弘行の車に治子と和也を乗せ、田村医院に向かった。
田村医院に着くと、雄介はベッドの上で眠っていた。
雄介の傍らには、小山直子先生がいた。小山先生は、二十七歳の若い独身の先生であった。雄介のクラスの担任の先生である。
弘行は、小山先生の顔を見ると、
「先生、どうですか、雄介の具合は?」
と、不安げに言った。
「命には別状はないから、心配するには及ばないそうです。ただ、熱があるので、しばらく安静にしておかなければなりません」
と、小山先生は、些か表情を曇らせては言った。
「そうですか」
弘行は、些か安堵したような表情を浮かべては、雄介の額に手を当てた。
すると、確かに熱はありそうだ。
「どうしてこんなことになったのですか?」
小山先生に治子は神妙な表情で言った。
「雄介君は、風早池の近くで発見されたそうです。ずぶ濡れになっていたことから、風早池に落ちたと思われるのですよ。
風早池は、氷の状態がよくないので、『スケート禁止』という立て看板があるのですが、夜だったので、眼に入らなかったのでしょう。
でも、どうして雄介君が落ちたのかは、分からないのですが。
で、雄介君は何とか池から上がったものの、寒さと疲労で動けなくなったと思われるのですよ」
と、小山先生は神妙な表情で言った。
「そうですか。で、一体、誰が雄介を見付けてくれたのでしょうかね?」
治子も神妙な表情で言った。
「それが、分からないのですよ。通行人という以外は。
で、その人が救急車を呼んでくれて、雄介君はこの病院に運ばれて来たのですよ。その人が救急車を呼んでくれなかったらと思うと、ぞっとしますね。
で、雄介君の身元は、雄介が持っていたリュックサックに名前と学校名が記してあったので、まず学校に連絡が入り、そして、私にも連絡が入ったので、私はここに駆け付けたのですよ」
「そうでしたか。それは、ありがとうございました」
と言っては、治子は小山先生に頭を下げた。
やがて、田村医師が、病室に入って来た。
「二、三日もすれば、回復しますよ。先程、注射を打ちましたから、しばらく眼が覚めないと思いますがね」
「そうですか。それは、ありがとうございました」
と言っては、治子は田村医師に頭を下げたのであった。
7
その夜は、治子が雄介に付き添うことになった。治子は、雄介が寝てるベッドの傍らに折り畳み椅子を持って来ては、一夜を明かしたのであった。
翌日、雄介は家に戻ってよいと、田村先生から言われた。それで、家に戻ることになった。
家に戻ってから、雄介は、
「どうなるかと思ったよ」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「どうして、池に落ちたの?」
治子は訊いた。
それで、雄介は人形を見付けたのだが、それを人間だと勘違いし、近付いたところ、氷が割れ、池に落ちたと説明した。無論、そこが池だとは知らなかったことも説明した。
「そう……。それは、災難だったね。でも、雄介は運が良かったのね。雄介を眼にしてくれた人がいなければ、雄介は死んでいたかもしれないのよ」
「母さん、物騒なことは言わないでよ」
「とにかく、今後は一人で知らない所に行っては駄目よ。特に、今の季節はね」
と、治子は雄介に苦言を呈した。
雄介は治子に叱られたこともあり、顰面をしては、二階の雄介の部屋に行った。
雄介は災難に遭うまでの一部始終を治子たちに話したのだが、実は一つだけ話さなかったことがあった。
それは、道端で蹲り、意識が薄れて行く時に、雄介の脳裏に浮かんで来た映像のことだ。その映像とは、こうである。
雄介は何故だか分からないが、レンゲソウ畑の中に、一人でぽつんと立っていた。そこは、見渡す限り、レンゲソウが咲き乱れていた。
雄介は、その場所のことを知らなかった。今まで雄介が一度も来たことのない場所であったのだ。
だが、雄介は即座にその場所のことを気に入ってしまった。何故なら、雄介の好きなレンゲソウが咲き乱れていたのだから。
雄介はレンゲソウを摘むのに夢中になっていたのだが、いつの間にやら、近くに川が流れてるのに気付いた。
川の向こうには、レンゲソウは咲いてなかったが、雄介の知らない人たちがいた。その人たちは、雄介に「こっちに来いよ!」と、手招きしてるかのようであった。
それで、雄介は川を渡って川の向こうに行こうとしたのだが、ふと背後で雄介を呼ぶ声が聞こえた。その声は、「雄介! 行っちゃ駄目!」と、叫んでいた。
雄介はその声に聞き覚えがあったということもあり、振り返った。
すると、ずっと向こうの方で、和也、美幸、そして、弘行、治子までが、「雄介! 川を渡っちゃ駄目だ!」と、叫んでるではないか! そして、「こっちに来るんだ!」と、手招きしてるではないか!
雄介と和也たちとの距離がどれ位なのか、雄介には分からなかった。五十メートル位なのかもしれないし、また、百メートル位かもしれなかった。あるいは、それ以上かもしれなかった。
だが、雄介はとにかく、和也たちの方に向かって歩き出したのであった。そして、和也に手を触れた瞬間に、雄介は通行人に発見されたのである。
雄介は雄介の脳裏に浮かんだこの幻のような映像のことは、治子たちに話さなかった。信じてもらえないと思ったからだ。
治子の話によれば、あのまま眠り続けていれば、凍死したとのことだ。
雄介はそのことを否定しなかった。そのような話を聞いたことがあったからだ。
しかし、雄介は凍死しなかった。
それは、通行人が発見してくれたからだろうが、そのことを単なる偶然と片付けてよいものだろうか?
雄介は、雄介を助けてくれたのは、実のところ、レンゲソウではなかったのかという気がしていた。
雄介は死の淵を彷徨ってる時に、レンゲソウに囲まれてる映像を眼にした。
レンゲソウは雄介に幸福をもたらして来た花だから、今回も雄介を助けてくれたのではないかと、雄介は思ったのだ。
もし、レンゲソウに囲まれてる映像を眼にしなければ、雄介は通行人に発見されずに、死んでいたのではないのか? レンゲソウに囲まれてる映像を眼にした為に、雄介は通行人に発見されたのではないのか?
全く、妙な理屈であった。だが、雄介はそうに違いないと強く自覚したのであった。
8
やがて、正月になった。
雄介は元気一杯で正月を迎えることが出来た。
正月が過ぎ、正月気分が抜けた頃、若築村の冬祭りが若築神社の境内で催されることになった。冬祭りは、豊作を祈願して催される若築村の伝統行事なのだ。
四時を過ぎた頃になると、神社の境内は、村人たちの姿で徐々に賑わって来た。所々に露店が出されていて、祭り気分を盛り上げていた。
和也、美幸、雄介は、三人揃って、若築神社に向かっていた。
雄介は若築村の冬祭りは初めてであったので、
「冬祭りって、何をするの?」
と、興味有りげに言った。
「鬼の面を被った人が踊るんだ」
和也は、眼を大きく見開いては言った。
「ふーん」
やがて、三人は、若築神社の境内に入った。若築神社は、江戸時代に建立された歴史ある神社であった。
鬼の踊りが披露される広場に向かう道の両側には、幹の太い杉の大木が続いていた。その道を五十メートル程進むと、広場に出た。その広場の前方には、朱塗りの本殿が鎮座していた。
広場には、既に二百人程の人が集まっていた。
既に五時半を過ぎていたので、若築村はすっかりと夜の帳に包まれていた。
しかし、広場は夜というものを感じさせなかった。それは、広場の中央に据えられてる松明に火が赤々と灯り、辺りを照らしていたからだ。
和也と美幸、雄介は、露店で煎餅を買い、火が灯った松明に近付いて行っては、手を当てた。
「あったかい……」
和也は、率直な感想を述べた。
今は一年の内、最も寒い季節だ。しかも、時刻は夜の六時だ。
神社に来るのに、震えながら来たものであった。それ故、こうやってかじかんだ手を火で温めるのは、とても気持ちいいものなのだ。
雄介は煎餅を齧りながら、辺りに知った人がいないものかと、探してみた。
すると、程なく知った顔を見付けた。
それは、権藤勝美である。勝美の傍らには、勝美の親父もいた。二人は煎餅を齧りながら、雄介の知らない人と話していた。
「鬼の踊りは、いつ始まるんだい?」
雄介は訊いた。
「もうすぐだよ。六時を過ぎれば、出て来るんだ」
と、和也。
いつの間にやら、雪が降って来た。雪は、音を立てずに、しんしんと降って来た。
「また、雪か……」
雄介は、恨めしげに空を仰いだ。
すると、その時である。
「ウォー、ウォー」という声が聞こえたかと思うと、藁で作った蓑を纏い、藁靴を履き、松明と木刀を手にした鬼が、本殿から飛び出して来た。鬼の口は耳元まで裂け、眼はとても大きかった。
鬼は皆で八人いた。鬼は「ウォー、ウォー」と叫び続け、火がついた松明と木刀を振りかざしている。
鬼の登場と共に、人々はさっと身を退いた。ほんの少し前までは人々が集まっていた場所が、今は鬼に占領されていた。
鬼は松明を火の中に投げ込んでは、木刀を手に、身体をぐにゃぐにゃさせながら、飛んだり跳ねたりしながら、踊っていた。
そんな鬼を、人々はいかにも面白そうに見物していた。雄介も、無論、然りであった。
「どうして、鬼の面を付けて踊るんだい?」
雄介は怪訝そうな表情を浮かべて言った。
その雄介の問いに答えたのは、美幸であった。
「人間のなまけ心を追い出すのよ。人間が怠け出したら、収穫が減るからね。だから、人間のなまけ心を追い出す為に、鬼の面を付けて、人間を威嚇するのよ」
美幸は、静子から教えられた通りのことを言った。
「ふーん」
鬼は、時には見物人たちに近付いては、木刀を振りかざして来た。
すると、見物人たちは、木刀を避ける為に、身を退くのだ。
雄介は、その様を眼にして、とても面白かった。
やがて、鬼が和也と美幸、雄介の方に近付いて来ては、木刀を振りかざした。
美幸は、「キャー!」と、笑いながら言っては、身を退いた。和也と雄介も、勿論、身を退いた。
すると、鬼は向こうの方に行った。
「ああ、怖かった……」
雄介は、声を震わせては言った。雄介は鬼の顔を間近で眼にしたのだが、遠くから見てる時よりもよ程怖かった。
「怖いだろ。俺は鬼を何度も眼にしてるが、いつ見ても怖いぜ!」
和也は、興奮気味に言った。
雄介は鬼が遠ざかって行くと、視線を元に戻した。そして、ふと見物人の方に眼をやった時に、意外な顔を発見した。
それは、小山先生だった。小山先生は、雄介たちと同じように、興味津々たる表情で、鬼の踊りを見物していたのだが、そんな小山先生には、連れがいるようであった。
それは、小山先生と同じ位の男性であった。二人は笑みを湛えながら、とても親しげに談笑してるように、雄介には見えたのであった。
鬼の踊りは、一時間程で終わった。後は広場に茣蓙が敷かれ、酒の宴会となるそうだ。
和也、美幸、雄介は子供だということで、帰途につくことになった。
雄介は夜の道を歩きながら、小山先生の顔がちらついて離れなかった。
小山先生は、とても愉しげに微笑んでいた。その微笑は、雄介たちには決して見せないような微笑に雄介には思えたのであった。
9
冬祭りが終わり、一ヶ月が過ぎた。春までは後少しだ。
後少ししたら、野原を駆け回れる。
若築村の子供たちは、皆、そう思っていた。
しかし、それまでずっと、部屋の中でストーブのお守をしてるわけではない。子供たちは、何といっても、遊ぶことが好きなのだ。
和也と美幸と雄介は、今、凧揚げに夢中になっていた。
三人の揚げる凧は、大空に高く舞い上がっていた。三人はまるで時の経つのを忘れる位、凧揚げに夢中になっていたのだが、雄介が小川沿いの道に眼を向けた時に、小山先生が歩いて来るのを眼に留めた。
「小山先生だ!」
雄介がそう言うと、和也と美幸も、小山先生の姿を眼にしては、
「本当だ! 小山先生だ!」
と、和也は甲高い声で言った。
すると、小山先生も和也たちに気付き、手を振った。
雄介は小山先生に話し掛けたかったが、雄介たちと小山先生との距離は五十メートル以上は離れていたので、とても無理であった。
だが、雄介は、
「先生と、大声で言ってみようよ」
そう雄介が言うと、和也と美幸は肯き、
「先生!」
と、叫んだ。その叫び声は、静謐な空気の中を響き渡った。
すると、小山先生は先程よりも、一層強く手を振った。
「凧揚げを止めて、先生の所に行ってみないか」
と、和也が言った。
「それがいい!」
と、美幸は和也に相槌を打った。無論、雄介が反対するわけがなかった。
三人は急いで凧糸を巻き戻した。だが、凧を手にするまでは少し時間が掛かってしまい、小山先生は既にかなり向こうの方まで歩いてしまっていた。
三人は小川沿いの道を思い切り走りながら、
「先生!」
と、大声で言った。
すると、小山先生は振り返り、三人がやって来るまで、その場で動こうとはしなかった。
「先生……」
三人は、小山先生の前に来ると、息を切らしながら言った。
そんな三人に、小山先生は、
「どうしたの? あんたたち、凧揚げはもうやらないの?」
「ええ。先生に遊んでもらおうと思って、凧揚げを止めたのです」
と、美幸は言った。
その美幸の言葉を聞くと、小山先生はにっこりとし、
「仕方ない子供たちね。いいわ。先生の家にいらっしゃい」
「やった!」
三人は歓声を上げた。
小山先生の家は、若築小学校の近くにあった。
小山先生は、一軒家を借りて、一人で住んでいた。小山先生の実家は都会にあり、小山先生は一昨年若築小学校に赴任して来たのだ。
小山先生は三人を座敷に通した。座敷は寒々としていたので、小山先生はストーブを付けた。すると、部屋はすぐに温かくなった。
「さて、何をして遊びましょうか」
「私、先生とあや取りをしたい!」
と、美幸。
「馬鹿! そんな幼稚染みた遊びが出来るかよ! それに、あや取りだと、皆で出来ないじゃないか! 皆で出来る遊びがしたいんだよ!」
と、和也は言った。
「そうね。皆で遊べる遊びがいいね。平野君は、何がしたいの?」
「かるたがいいな。先生、かるた、ありますか?」
「ありますよ。中道君と秋野さんも、それでいい?」
「はい!」
美幸と雄介は、口を揃えて言った。
四人は、しばらくの間、かるたに興じた。
そして、一段落つくと、小山先生は立ち上がり、台所に行っては、盆にお茶とお菓子を載せて戻って来た。そして、三人に、
「さあ! 食べて頂戴!」
三人は、
「いただきまーす!」
と言っては、一斉に食べ始めた。
お菓子を食べながら、和也は、
「先生は、冬祭りに行きましたか?」
雄介は冬祭りの時に小山先生の姿を眼にしていたのだが、和也は小山先生に気付かなかったのだ。
「ええ。行きましたよ」
と、小山先生。
「面白かったですかね?」
「ええ。とても面白かったですよ。鬼の面を被った人たちの踊りがとても印象に残ってますよ」
「そうですか」
和也はそう小山先生に言われ、満足そうな表情を浮かべた。和也は、若築村の冬祭りのことをとても誇りに思っていた。その冬祭りのことを、村の人間でない小山先生がどのように思ってたのかとても興味があったのだが、そう言われ、それが、和也の誇りを満足させたのである。
「じゃ、今度は先生の方から訊くけど、どうして鬼の面を被るお祭りをするのだと思う?」
それに答えたのは、雄介だった。
「人間の怠け心を追い払うのですよ。怠ければ、農作物の収穫が減りますからね」
雄介は、自信に満ちた口調で言った。
「正解! 中道君、よく知っていたね」
「先生! 私が中道君に教えてやったのです!」
美幸は自信に満ちた口調で言った。
「そうだったの」
と、小山先生は特に表情を変えずに言ったが、雄介は些かむっとした表情を浮かべた。だが、そんな雄介の表情はすぐに消え失せ、
「先生。僕は若築村の冬祭りを初めて眼にしましたが、とても奇妙な祭りだと思いました。何しろ、鬼の面を被って踊るのですからね。
そこで、質問なんですが、日本にはこのような奇妙な祭りが他にあるのですかね?」
「勿論、ありますよ。豊漁を祈願する祭りとか、雨乞いの祭りとかいった祭りには、とても奇妙な祭りがあるのですよ。
でも、先生も詳しくは知らないから、図書室なんかで、調べてみてね」
「分かりました」
と、雄介は言い、その後、再びかるたを始めたが、五時を過ぎた頃、小山先生が、
「もうお家に帰る時間よ」
と言ったので、和也、美幸、雄介は、
「先生、さようなら」
と言っては、小山先生の家を後にしたのであった。
我が家に向かう道を歩きながら、雄介は、
「冬祭りの時に、先生がいたのに気付かなかったのかい?」
と、和也に言った。
「ああ。気付かなかったな。雄介は気付いたのかい?」
「ああ。ただ……」
と、雄介は言葉を濁した。小山先生が男と一緒だったことを言うことは、気が退けたのである。
「ただ、何なんだ?」
和也は興味有りげに言った。
そして、その和也の口調はとても強いものだったので、雄介はその口調に負けて、小山先生が男と一緒にいたことを話した。
「そうか。でも、小山先生は年頃だから、別に男と一緒にいても驚くことはないじゃないか」
と、和也は特に気にする程のことでもないと言わんばかりに言った。雄介は、そのことは重大事件と思っていたのだが、和也はそうは思ってないようだ。
だが、美幸は興味を示したようであった。
「どんな男だったの? 背の高さは? ハンサムだった? 先生、その男と結婚するのかしら」
と、美幸は矢継早に、いかにも真剣な口調で言ったのであった。
そんな美幸に、雄介は、
「かなり暗かったから、顔はよく分からなかったよ。でも、背は先生よりかなり高かったよ。先生と結婚すかどうかなんてことは、僕では分からないよ」
と、雄介は眉を顰めた。
だが、この時、雄介にはある思いが過ぎった。
それは、小山先生に結婚してもらいたくないという思いであった。小山先生は結婚すれば、雄介たちから離れて行くのではないかと、雄介は思ったのであった。
10
その翌日、小山先生宅の電話に電話が掛かって来た。
「小山ですが」
―僕だよ。
「あなたでしたか」
―冬祭りはとても愉しかったよ。
「あなたに喜んでもらって、嬉しいわ」
―ところで式場のことだけど、Pホテルを予約出来たんだよ。
「まあ! 嬉しい!」
―それで、結婚後のことだけど、君には申し訳ないんだけど、教師を辞めてもらいたいという僕の意思は変わらないんだよ。
「私もそのことをずっと考えていたんだけど、あたたの言う通りにしますわ」
―そうか。分かってくれたか。じゃ、また、近い内に電話をするよ。
送受器を置いた後、小山先生の頬には一筋、二筋と、涙が流れ落ちた。
その涙は、幸福の為に流れ落ちた涙なのか、教師を辞め、若築村を去るのが哀しくて流れ落ちた涙なのか、小山先生以外は分からなかった……。