1 消えた夫
龍泉洞は、日本三大鍾乳洞の一つであり、八つの地底湖があるが、観光客が見れるのは、三つだけだ。その三つは、第一地底湖、第二地底湖、第三地底湖であり、第一地底湖の深さは35メートル、第二地底湖は38メートル、第三地底湖は98メートルだ。また、第一地底湖展望台から見下ろす第一地底湖はとても神秘的で龍泉洞の最大のビューポイントである。
龍泉洞の営業時間は、午前八時半から午後五時までであるが、入場は三十分前までだ。
そして、今日も午後五時となり、やがて、今日一日が終わった。
五時になると、係員の長田明秀(45)は、いつも通り帰り支度を済ませ、そして、近くにある長田の家に向かった。そんな長田は、駐車場にまだ車が一台停められていたが、特に気にすることはなかった。
長田は翌日もいつも通り、龍泉洞にやって来ては、午前八時半になるのを待っていたが、そんな長田は、少し引っ掛かることがあった。
というのは、昨日と同じ場所に同じ車が停められていたからだ。
もしそれが事実なら、昨日入洞したお客さんが、まだ龍泉洞内に取り残されてるという可能性もある。
それで、長田はその車、即ち、トヨタの赤のパッソの前にまで来ては、そのパッソをまじまじと見やったが、やはり、昨日見た車と同じものだと思った。色が赤だった為に余計に覚えていたのだ。
その事実を目の当たりにして、長田の顔色がさっと青褪めた。というのも、このパッソの持ち主が龍泉洞の中で帰らぬ人となったのではないかという思いが、長田の脳裏を過ぎったからだ。
もし、帰らぬ人となったとなれば、それは、事故か自殺だろう。
しかし、龍泉洞内で事故死する可能性は、甚だ小さいというものだ。その点は、長田たちは抜かりない。事故死などは決して起こってはならないものなのだ。
しかし、自殺となれば、話は別だ。地底湖に飛び込めば、帰らぬ人となってしまう可能性は、十分有り得る。つまり、龍泉洞内で自殺しようと思えば、それは、十分可能なのだ。そう思うと、長田は、
〈とんでもないことやらかしてくれたな〉
と、顔も知らないパッソの持ち主に、怒りの思いを抱いた。龍泉洞内で自殺などされてしまえば、それは龍泉洞のイメージを悪化させることは請け合いだからだ。龍泉洞は、この地方の観光の目玉である為に、自殺による営業上の損失は避けたいものだ。
しかし、自殺とまだ決まったわけではない。
それで、後一日だけ待ってみることにした。
しかし、そんな長田の思いも無駄に終わってしまったようだ。昨日の車は、今日もやはり同じ場所に停められていたからだ。
こうなれば、警察に連絡した方がよいだろう。
それで、長田は渋面顔を浮かべながらも、警察に電話を掛け、事の次第を話した。
それを受けて、所轄署の沢口直純警部補(44)が、直ちに現場にやって来ては、長田と共に、そのパッソを見やった。そして、沢口は、
「この車が、三日間この場所に停まっているというのは、間違いないですかね?」
「間違いないです」
と、長田は大きく肯いた。
「車の主は、この場所に車を停めてるだけで、どこか別の場所にいるのではないですかね?」
「その可能性は、小さいですね。この辺りには、龍泉洞以外に何もありませんから」
そう長田に言われると、沢口は、
「なるほど」
と言っては、気難しそうな表情を浮かべた。というのも、やはり、長田が言ったように、このパッソの主は、龍泉洞内で自殺したか、あるいは、事故死した可能性が高いと思ったからだ。それで、沢口は早速署に電話をかけては、この車の持ち主が誰なのか、調べてもらった。
すると、それは、早々と分かった。それは、盛岡市内に住んでいる秋田正信という男性であることが分かった。
しかし、秋田正信という人物がどういった人物なのかまでは、まだ何も分かってはいない。
しかし、秋田正信の電話は、すぐに分かったので、早速秋田宅に電話をして、訊いてみた。
すると、妻の明美は、
「それが、主人はここ三日間、連絡が取れないのですよ」
と、いかにも不安そうな表情で言った。そんな明美は、いかにも正信のことが心配であるかのようであった。
そんな明美に、沢口は正信の車がトヨタのパッソなのか、確認してみた。
すると、明美は、
「確かにそうですが」
と、不安そうな表情と口調で言った。
それで、沢口は、龍泉洞の駐車場に、正信の車が三日間、放置されているという事実を話した。
そんな沢口の話に、明美は何ら言葉を挟まずにじっと耳を傾けていたが、沢口の話が一通り終わると、
「ということは、主人は龍泉洞内で、事故死したか、あるいは、自殺したのではないかと言われるのですかね?」
と、いかにも強張った表情で言った。
「いや。まだそうだと確定したわけではありません。それで、奥さんに連絡したのですよ」
と、沢口は明美に言い聞かせるかのように言った。
すると、明美は言葉を詰まらせた。そんな明美は、今の沢口の言葉に何と答えればよいか、頭を巡らせているかのようであった。
そんな明美に、沢口は、
「で、ご主人は、何か悩みでも抱えておられたのですかね?」
と、訊いてみた。
すると、明美は、
「そういえば、最近の主人は何となく元気がなかったですね」
「元気がなかった? それは、何故ですかね?」
沢口は興味有りげに言った。
「主人の同期の人たちが次から次へと昇進して行くのに、主人は平社員止まりなんですよ。そのことが、主人は悔しいのか、かなり落ち込んでいたかのようでしたね」
と、明美はいかにも神妙な声で言った。
「ご主人は、どういったお仕事をされていたのですかね?」
「地元の信用金庫で働いていました。M信用金庫です」
「なるほど。ということは、奥さんはご主人が、龍泉洞内で自殺されたといわれるのですかね?」
「それは分からないですよ。ただ、最近かなり落ち込んでいて、その原因が昇進しなかったことにあるのではないかと言ってるのですよ」
と、明美は些か口を尖らせては言った。
「ふむ」
沢口は秋田明美から話を聞いて、もし自殺したとすれば、昇進しなかったことが原因ではないかと思った。しかし、そうだとしても、龍泉洞内で自殺するだろうか?
その可能性は小さいと思った。つまり、自殺するなら、他の方法がいくらでもあると思ったからだ。それで、その思いを明美に話した。
すると、明美は、
「分からないですわ」
「では、ご主人はいつから連絡が取れないのですかね?」
「三日前からです」
「三日前はお休みだったのですかね?」
「そうです。その日は水曜日だったのですが、その日はたまたま主人は休暇だったのです。それで、少し外出するといって、車で出かけて行ったのです。それから、連絡が取れないのですよ」
と、明美はいかにも神妙な表情と口調で言った。
龍泉洞の駐車場で、秋田正信という盛岡市内の会社員の車が、三日間放置されてることが明らかになった。また、妻の明美も、夫の正信と三日間連絡が取れないという。このことからして、正信が龍泉洞内で変死したという可能性は十分に有り得るだろう。
しかし、まだそうだと決まったわけではない。
それで、龍泉洞の関係者も警察も、もう少し様子を見ることにした。
ところが、正信のパッソが龍泉洞の駐車場に放置され、一週間も経ったとなれば、この事態を看過するわけにはいかなくなった。依然として正信が明美に連絡して来ないとなれば、やはり、龍泉洞で、正信の身に何か異変があったと看做すのが正解ということになったのだ。
しかし、秋田正信と思われる人物が龍泉洞内で変死したという痕跡はまだ何ら発見されてはいなかった。
しかし、龍泉洞内の地底湖を捜索するというわけにはいかなかった。
というのも、過去に龍泉洞内の地底湖でダイバーが事故死するという痛ましい事故が発生してるからだ。また、地底湖はどれも深く、それらの底に死体が沈んでいるともなれば、引き上げるのは困難といわざるを得ないだろう。また、何処の地底湖に沈んでいるのさえも分かっていないのだ。これでは、正信の死体を引き上げるなんてことは、到底不可能といえるのではないのか?
更に、まだ、正信が龍泉洞内で変死したと断定出来ないのだ。これでは、警察としても、どうすることも出来ないというものだ。
岩手県警の沢口は、その旨を明美に伝えた。
すると、明美は、
「では、警察は主人は龍泉洞内で死亡したと結論付けてはくれないのですかね?」
「そうならざるを得ません」
と、沢口はいかにも決まり悪そうに言った。
「でも、主人とは依然として連絡は取れないのですよ」
と、明美は些か不満そうに言った。
そう明美に言われても、沢口はそんな明美に言葉を返すことは出来なかった。
そして、正信の行方が分からなくなって一ヶ月経った。また、正信の車も龍泉洞の駐車場に放置されたままであった。
こうなってくれば、もはや正信は龍泉洞内で変死したと看做すのが正解であろう。
正信は出世から取り残され、悩んでいた。そんな正信は、気の弱い性格であったという。そんな正信であったからこそ、龍泉洞内の地底湖を眼にして、ここに飛び込めば、この世とお去さらば出来ると思い、衝動的に自殺したのかもしれない。
そして、警察もこの状況からして、秋田正信が、龍泉洞内で変死したと結論付けざるを得なくなってしまうところだったが、そうも行かなくなった。というのも、T生命株式会社から、警察に思わぬ情報が寄せられたのだ。
T生命の長谷川広助課長(55)は、岩手県警の沢口に、
「一ヶ月程前に龍泉洞内で秋田正信という盛岡市内に住んでいた男性が、事故死したのではないのかということがありましたね」
そう長谷川は切り出した。
確かに、そのような事件はあったので、沢口は、
「確かにそのような事件がありました」
と言った。
すると、そんな沢口に、長谷川は、
「それに関してなんですがね」
と、些か重苦しい声で言った後、
「実は、秋田正信さんには死亡保険金が五千万掛けられていましてね。変死したとなれば、妻の明美さんに保険金が五千万支払われることになるのですよ。ところが……」
そう言っては、長谷川は言葉を濁した。
「ところが、ですね。明美さんは再婚でしてね。で、明美さんの前夫も事故死して、その時に死亡保険金が明美さんに五千万支払われてるのですよ」
と、長谷川はいかにも言いにくそうに言った。
そう長谷川に言われると、沢口は言葉を詰まらせた。それは、正に沢口が思ってもみなかった言葉であったからだ。
そして、この時、沢口の脳裏には〈保険金殺人か〉という思いが過ぎった。沢口ではなくても、そのような思いが過ぎることだろう。そして、長谷川もそう思ったのではないのか?
案の定、長谷川は、
「夫が二度も変死して、しかも、二人とも、高額な保険金が掛けられていたなんて、正に不審ではないかと思うのですよ」
そう長谷川に言われ、沢口は言葉を詰まらせた。確かに、長谷川が言った通りだからだ。しかし、安易な言葉は発することは出来ない。
「前のご主人も変死したのですかね?」
という言葉が、自ずから沢口の口から発せられた。
「そうです」
「どういった死に方をされたのですかね?」
「事故死ですよ。旅行中にハンドル操作を誤り、車ごと、断崖の下に転落死ですよ。ハンドル操作の誤りによる転落死という事故は決して起こり得ない事故ではない為に、警察は何らその事故を疑うことなく、事故死として処理したそうです。そして、M生命株式会社から、妻であった明美さんに五千万の生命保険金支払われたそうです。それから、五年経った今、またしてもご主人が事故死し、高額な保険金を受け取るなんて、話がうま過ぎやしませんかね」
と、長谷川は、正に険しい表情を浮かべては言った。そんな長谷川は、正に保険金詐欺の被害に遭って堪るものかと言わんばかりであった。
「最初の事故は、警察は全く捜査しなかったのですかね?」
と、沢口は些か顔を赤らめては言った。何しろ、沢口も警官だからだ。
「そうですよ。その時は、まさか事故が事件だとは夢にも思ってませんからね。それに、その事故現場の近くで、以前転落死亡事故が発生してるのですよ。それ故、まさか、事故が事件だったとは、我々だけでなく、警察も夢にも思っていなかったのではないでしょうか」
と、長谷川は険しい表情を浮かべては言った。
「しかし、事件だと、まだ決まったわけではないのですよね?」
「そりゃ、まあ、そうですが……」
と、長谷川は言葉を濁した。しかし、長谷川は心の中では、その転落事故は事件に違いないと言わんばかりであった。
そんな長谷川は、
「つまり、二度も夫が変死して、妻が多額の保険金を受け取るなんて、絶対におかしいと思うのですよ」
と、力を込めて言った。そんな長谷川は、正に犯罪者に保険金を渡して堪らないと言わんばかりであった。
「なるほど、長谷川さんの言われることは、もっともなことだと思いますよ」
そう沢口に言われ、長谷川は些か安堵したような表情を浮かべた。警察が秋田明美のことを捜査してくれると思ったからだ。
そんな長谷川に、沢口は、
「で、秋田明美さんとは、どういった女性なんですかね?」
「なんでも、昔は水商売をしていたそうですよ。まあ、バーのホステスだったそうです。
そして、お客としてやって来た原田道夫さん、つまり、明美さんの前夫ですが、と知り合い、結婚したそうですよ。そして、その二年後に、原田さんは事故死したのですよ。
そして、その翌年に明美さんは、秋田さんと再婚し、その二年後に秋田さんは龍泉洞内で行方不明という按配ですよ」
「明美さんと秋田さんは、どうやって知り合われたのですかね?」
「まだ、そこまでは分かってないのですが」
と、長谷川は些か顔を赤らめては言った。
長谷川はそう言ったものの、沢口は秋田明美と会って、明美から話を聴いてみなければならないと思い、その翌日、盛岡市内に住んでいるという秋田明美のマンションを訪れた。