3 死体発見
八幡平は、東北地方の代表的な観光地だ。
それ故、大阪から初めて八幡平を訪れた山崎春雄、里子夫妻はまず八幡平アスピーテラインをドライブし、見返峠までやって来た。見返峠からは、八幡沼方面へのハイキングコースがあるが、今、見返峠周辺の気温は九度だ。盛岡周辺は十五度だったのにだ。
正に、まだ九月の終わりだというのに、見返峠は今や冬のような寒さなのだ。これは、山崎夫妻にとって計算外であった。
山崎夫妻は、元々八幡沼まで行くつもりだったのだが、冬用のジャンパーまでは持って来なかったのだ。それ故、見返峠の食堂で、源太カレーを食べ、早々と見返峠を後にし、帰りは樹海ラインを通って盛岡市内に戻る予定だった。そして、その途中、小岩井牧場に行く予定だったのだが樹海ラインを走って五分程経った頃、妻の里子がふと左側の茂みに眼をやったところ、突如、
「あなた、車を止めてよ!」
と、甲高い声で言った。
そう言われたので、春雄はとにかく車を左側の路肩に停めた。車の通行は極めて少なかったので、路肩に車を停めても、何ら問題はなかった。
車を停めたものの、春雄は、
「どうしたって言うんだ?」
と、里子を見やっては言った。
「妙なものを見てしまったのよ」
「妙なもの? それ、どういったものなんだい?」
そう春雄は言ったものの、さして関心はなさそうだ。
だが、里子は、
「とにかく、私が見たものが、私が思ったものなのか、確認してみるわ」
ということになり、里子一人が車外に出ては、路肩を戻り始めた。春雄はといえば、車の中で待ってることにしたのだが、一分程で里子は車に戻って来たのだが、そんな里子の表情は、何となく殺気立ったものだった。そんな里子は、
「大変なものを見てしまったわ」
と、正に殺気立った表情で言った。
「大変なもの? それ、どういったものなんだい?」
里子の表情を見て、春雄は眉を顰めて言った。
「うん。それが、人間の死体を見たのよ」
正に、春雄が思ってもみなかった里子の言葉を受けて、春雄は里子と共に里子が見たという人間の死体というものを確認せざるを得なくなってしまった。そして、春雄も里子と同様、それが、人間の死体だと確信するまで、然程時間が掛からなかった。それで、春雄は直ちに110番通報したのだった。
山崎春雄からの110番通報表情を受けて、たまたまその近くでパトロールしていた岩手県警の田所正次警部補(44)が、直ちに現場に急行した。
そんな田所が現場に着いたのは、山崎春雄が110番通報して十五分程のことであった。田所は、春雄や里子と同様、それが人間の死体だということを早々と確認した。それは、四十代位の女性であり、その女性の服装は普段着のように思われた。
そのことからして、女性はこの場で殺されたというよりも、別の場所で殺され、この場所に遺棄されたものと思われた。
女性は救急車で直ちに八幡平市内の病院に運ばれたが、息を吹き返さないのは、当り前であった。女性は発見された時に既に息絶えていたのだから。
そんな女性の死因は、首に鬱血痕があったことから、ロープのようなもので首を絞められたことによって殺されたものを思われた。そして、その予想通り、女性の死因は、首を紐のようなもので絞められたことによる窒息死であったことが、早々と明らかになった。また、女性の身元も早々と明らかになった。
女性は何と、先日、夫を龍泉洞内で亡くしたと看做されている秋田明美だったのだ。
明美の他殺体が観光客によって発見されたという情報は、直ちに沢口に報告された。
それを受けて、沢口は正に驚愕の表情を浮かべた。まさか、秋田明美が、何者かに殺されたなんて、想像もしてなかったからだ。
もっとも、自殺なら、決して有り得ない話ではない。
というのも、明美は保険金目当てに既に夫を相次いで二人殺した。そして、その犯行を警察がいずれ暴くかもしれない。
それを恐れて、明美は将来を悲観し、自殺したということだ。しかし、検視の結果、明美の死は殺しに間違いないという。それは、正に沢口たちにとって、想定してなかったことなのだ。
明美の事件は、沢口が担当することになったが、今の時点で、明美が何故殺されたのか、その動機、また、犯人に関して、全く闇の中であった。夫が生きていれば、夫から話を聴くのだが、その夫もいない。それで、まず明美の両親がまだ健在だとのことなので、明美の両親から話を聞いてみることにした。そんな両親は、盛岡市内に住んでいた。
明美の母親の素子は、沢口が明美の死体が八幡平で発見された経緯を話し、また、明美は殺しによってもたられた旨を話すと、素子は、
「あの娘は、運の悪い娘でしたね」
と、いかにも神妙な表情で言った。
沢口も同感だったので、小さく肯いた。そして、
「早速ですが、明美さんを殺した犯人と動機に心当たりありますかね?」
と、素子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、素子は、
「まるでないですね」
と、渋面顔で言った。そんな素子は、何故明美が殺されたのか、てんで分からないと言わんばかりであった。
「では、明美さんと結婚された二人の男性が相次いで変死されたことに関して、奥さんは何と思われますかね?」
「ですから、二度も変死したなんて、正に明美は運が悪い娘だったと思います」
と、素子は眼を伏せながら淡々とした口調で言った。そんな素子は、それ以上、その点に関して、何か思うことがあるようには見えなかった。
そんな素子に、沢口は、
「保険金殺人というものを奥さんはご存知ですかね?」
と、素子の顔をまじまじと見やっては言った。
「保険金殺人、ですか……」
素子は、眼を丸くしては言った。そんな素子は、沢口の口からそのような言葉が発せられるなんて、思ってもみなかったと言わんばかりであった。
「そうです。妻が夫を、あるいは、夫が妻を密かに殺しては、その犯行を隠し、密かに保険金をせしめるというものです」
と、言っては、沢口は小さく肯いた。
そう沢口が言っても、素子の口からは、言葉が発せられなかった。
「実はですね。我々は、明美さんの夫が二度も妙な死に方をされたので、保険金殺人の可能性があるのではないかと、捜査していたのです。一度目は、原田さんに睡眠薬などを飲ませ、その結果、車の運転中に原田さんは意識を失い、崖から車ごと転落しては、死亡したというわけです。勿論、原田さんに睡眠薬を飲ませたのは、明美さんというわけです。
二度目は龍泉洞内で、あるいは、別の場所で秋田さんを明美さんが殺し、龍泉洞内で変死したと思わせたというわけですよ」
と、沢口はいかにも言いにくそうに言った。しかし、そのような可能性は、十分に有り得ると言わんばかりであった。
そんな沢口に、素子は、
「明美はそんなことはしませんよ」
と、沢口に抗うかのように言った。
それで、沢口は、
「ですから、それは飽くまでそういった可能性も有り得るということです。それ故、絶対にそうだとは言ってません。飽くまで、可能性の問題なのですよ。
で、我々はまさか明美さんが何者かに殺されるなんて、まるで予想してなかったのですよ」
「そう言われても、私は何故娘が殺されたのか、てんで分からないです」
そして、明美の父親への聞き込みも行なわれたが、その結果は素子と同じようなものであった。つまり、明美の両親は何故明美が殺されたのか、てんで心当たりなく、また、明美は夫を殺していないと言わんばかりであった。
しかし、程なく興味ある情報を入手することが出来た。その情報をもたらしたのは、前野美子という明美の友人だった。美子は、
「秋田さんは、嫌がらせの手紙を受け取ってたそうですよ」
と、沢口に渋面顔で言った。
「嫌がらせの手紙、ですか。それは、どういったものですかね?」
沢口は興味有りげに言った。
「何でも秋田さんは保険金殺人者だ。お前を殺された夫に代わって殺してやるとかいうものですよ」
と、美子は渋面顔で言った。そんな美子は、その手紙の差出人が明美を殺したと言わんばかりであった。
「その手紙の差出人は分かってるのですかね?」
沢口はいかにも興味有りげに言った。
「それは、分かってないみたいです」
美子は眉を顰めた。
「でも、前野さんはどうしてそのことを知っていたのですかね?」
「そりゃ、秋田さんからそう聞いたのですよ」
と、美子はそれ以外に何があるのかと言わんばかりであった。
「それは、いつのことですかね?」
「一週間程前ですね」
「ふむ」
と言っては、沢口は小さく肯いた。
つまり、犯人は手紙を明美に送りつけ、そして、その手紙に書かれていたことを実行したのだ。
しかし、一体その手紙の差出人とは、誰のことなのか?
「秋田さんは、その手紙の差出人に関して、何も言及してなかったのですかね?」
「してませんでした。ですから、誰が出したのか、分からないということですよ」
そう美子に言われ、沢口は、
「ふむ」
と言っては、小さく肯いた。
つまり、犯人は、明美にとって身近な者だ。何故なら、明美の夫が二度も変死したことを知ってるのは、明美にとって身近な者しかいないからだ。龍泉洞で行方不明になったという記事は新聞に掲載されたものの、その妻が明美だという情報は、新聞には載らなかったのだ。つまり、このことは、部外者は誰も知らないのだ。
となると、その手紙の差出人は、明美にとって身近な人物であった可能性が非常に高いというわけだ。
沢口はその推理を美子に話した。
すると、美子は、
「私もそう思いますね」
と、沢口に相槌を打つかのように言った。
すると、沢口は、
「では、前野さんは、その差出人に心当たりありませんかね?」
「それが、ないのですよ」
と、申し訳なさそうに言った。
前野美子からは、有力な情報を入手出来た。そして、その情報を受けて、明美の部屋が調べられることになった。その手紙が残っていないか、調べる為だ。
そして、その手紙は程なく見付かった。明美の部屋にあった小物入れの引出の中に入っていたからだ。その手紙はA4版のコピー用紙にワープロで印刷されていた。
〈お前は二度も夫を殺した。保険金を受け取る為だ。お前は保険金殺人鬼だ。地獄へ送ってやる!〉
この差出人が書かれていない封筒には、このように記されていた。もっとも、前野美子が語った内容とは少し違っていたが。
それで、まずその手紙に指紋が付いていないかの捜査が行なわれた。しかし、指紋は付いていなかった。差出人は綺麗に手紙に付いていた指紋を拭き取ったみたいだ。
それはともかく、
この手紙を沢口は素子に見せ、
「この手紙が明美さんに送られて来たのをご存知でしたかね?」
と、素子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、素子は、
「いいえ。今、初めて見ましたね」
と、小さく頭を振った
「この手紙の差出人が明美さんを殺したのかもしれませんね」
そう沢口が言っても、素子は何も言わなかった。
そんな素子に、
「明美さんの夫が二度も変死したということは、明美さんの身近だった人しか知らないのですよ。明美さんの夫が二度も変死し、しかも、明美さんに高額な生命保険が手に入るなどという記事が新聞に出たわけではありませんからね」
そう言っては、沢口は眼を鋭く光らせた。そんな沢口は、この手紙を明美に送りつけたのは、明美の身近な者だったに違いないと言わんばかりであった。
そう沢口に言われても、素子は、
「分からないですね」
と、言った。
明美を殺した犯人は、明美の身近な者だという目処は付いた。しかし、それが誰なのかというと、そこまでは、まだ皆目分からなかった。
そこで、明美の身近だった者の洗い出し作業から始めることとなった。つまり、明美の身近だった者で、明美の夫が二度も変死し、そして、明美に高額な生命保険が手に入ることを誰が知っていたのか、その洗い出し捜査がまず行なわれることになったのだ。
そして、それを知っているのは、まず明美の親族と、明美の友人、更に前夫の原田道夫の親族と現夫の秋田正信の親族である。
そして、まず前夫の原田道夫の親族の洗い出しが行なわれた。
原田道夫には、弟と妹がいた。
そして、まず弟の原田和男から話を聴いてみることにした。
原田和男は、盛岡市内に住んでいて、ガソリンスタンドで働いているという。
そんな和男から沢口はまず話を聴いてみることにした。
「お兄さんは伊豆で車を運転してる時に、事故死されましたが、それに関して、原田さんは、どう思っておられますかね?」
沢口は、和男の顔をまじまじと見やっては言った。和男は、真面目そうな人物に沢口には見えた。
「兄さんは車の運転は下手ではなかったですね。でも、スピード違反に時々引っ掛かってるから、スピードを出し過ぎたのかもしれませんね。それに、心臓の持病もあったし」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「道夫さんは、奥さんであった明美さんと二人で伊豆旅行に行かれた時に、奥さんを伊豆に遺し、一人で帰途についたそうですね」
「そうらしいですね」
「その話、妙ではありませんかね?」
「妙とは?」
と言っては、和男は眉を顰めた。
「夫婦で旅行に行ったわけですから、帰る時も一緒であるべきではなかったのですかね?」
「そのようなことを僕に言われても、僕では分からないですよ」
と、和男は憮然とした表情を浮かべては言った。
「で、道夫さんの事故死により、明美さんは五千万もの生命保険を受け取ったそうですよ」
「そうらしいですね」
「それに関してどう思いますかね?」
「妻が夫の生命保険を受け取ることは、別に珍しいことではないですからね」
と、和男はそれに関しては、特に何とも思わないと言わんばかりに言った。
「で、明美さんは道夫さんを失った翌年に再婚されたのですが、そのことをご存知ですかね?」
そう沢口が言うと、和男は、
「それ、本当ですか?」
と、眼を丸くしては言った。
「本当ですよ。知らなかったのですかね?」
「ええ。知りませんでした。今、初めて知りました」
そう和男に言われ、沢口は言葉を詰まらせた。それが事実なら、和男は早々と犯人でなくなってしまうからだ。
それで、最後に和男のアリバイを確認してみることにした。
「九月二十八日の午後七時から八時にかけて、何処で何をされてましたかね?」
「九月二十八日の午後七時から八時ですか。その頃は、家にいましたね」
「それを誰かに証明してもらえますかね?」
「そりゃ、無理ですよ。僕は一人で住んでますので」
この辺で沢口は原田和男から話を聴くのを一旦終えることにした。
和男が言ったように、和男が明美が再婚したことを知らなければ、話にならない。もっとも、それは出鱈目かもしれない。
つまり、和男への疑惑を逸らす為に出鱈目を言ったということだ。それ故、あっさりと和男の話を信じるのは、危険だろう。
それはともかく、和男の次に、和男の妹の佐藤優子から話を聴いてみたが、特に成果を得ることは出来なかった。