第一章 第一の死
1
十月の半ばになったといえども、札幌にはまだ北国らしさというものは感じられなかった。ここしばらくの間は、ぽかぽか陽気が続き、ワイシャツ姿のサラリーマンとか、薄着姿の女性が街を闊歩する姿が少なからず眼についた。
大通公園では、今日もひっきりなく、サラリーマン、子供連れの主婦、学生、観光客らしき者の姿が見られ、また、大通公園を見下ろしてるかのようなテレビ塔、カラフルなとうきび売りのワゴン車、絶え間なく飛沫を噴き上げている噴水、ベンチで寛いでいる老若男女の姿を眼にすると、大通公園がなければ札幌は存在しないといえる程、札幌という街にとってみれば、大通公園の存在は重要なものと思われた。
その大通公園、即ち、地下鉄東西線の大通駅から少し西に行った辺りで、とうきびを売っている花田咲子(55)という女性は、しばしば南大通り沿いにあるベンチの方に眼を向けては、怪訝そうな表情を浮かべていた。
というのは、咲子はとうきびを売り始めて既に一時間が経過しようとしていたのだが、その薄野に近い方のベンチに座ってる二十代の前半位と思われる男性が、ここしばらくの間、まるで動こうとしないからだ。眠ってるのかもしれないが、もう一時間以上もまるでその場を動こうとしないのは、どういうことだろうか?
咲子は、今日はお客さんが多くなかったので、つい何度もその男性の方に眼をやっていたのだが、そんな咲子の眼には、その男性の様は何となく不審に思われた。
他のベンチに座ってる人たちの多くは、二十分もすると、ベンチから立ち上がり、何処かに行ってしまったりするので、その男性のことが、咲子には否応なく眼に留まってしまうのだ。
もっとも、その男性のことを咲子のように眼に留めるものは、誰もいないようだ。
というのも、その男性が座ってるベンチは、南大通り沿いにあるのだが、木立の中にある為に、南大通りからや、また、大通公園の方からも眼にし辛いのだ。また、帽子を目深に被ってる為に、たとえ眼にしても、通行人たちは、その男性のことを不審に思わないのだろう。
だが、咲子は咲子の場所から男性の様子がよく分かるので、その男性のことが気になってしまうのだ。
その男性がベンチに座ったままの状態が一時間半になった。
こうなってしまえば、咲子は男性の様子を見なければならないと理解し、客足が今、まるで見られないということもあり、咲子はワゴン車を後にし、小走りで男性の許に向かった。ワゴン車から、その男性が座ってるベンチまでは、大体三十メートル位であった。
咲子は、男性の傍らにまで来ると、
「もしもし」
と、声を掛けた。しかし、何ら反応はなかった。
それで、咲子は男性を揺り動かしてみた。
すると、男性は前のめりになって倒れてしまった。
それで、咲子は男性を何とかベンチに座らせようとしたのだが、その時、咲子は突如、険しい表情を浮かべた。何故なら、男性の身体が硬直しているように感じたからだ。それで、手に触れてみたのだが、咲子は思わず、「キャー」と、小さな悲鳴を上げてしまった。何故なら、男性の身体に、温もりは感じられなかったからだ。
それで、思い切って、男性のつばの広い帽子を取ってみると、まるで死人のような男性の顔が咲子の眼に飛び込んで来た。
そんな男性を眼にして、咲子は、<死んでる>と、直感した。
だが、医者でもない咲子が、そう断定するのは、まだ早い。
そう思った咲子は、恐る恐る男性の脈を見てみた。
だが、脈は打ってなかった。
この時点で、咲子は男性の死を確認した。
それで、近くの公衆電話に小走りで行っては110番通報した。
そんな咲子は、咲子のワゴン車にとうきびを買いに来た客が、咲子のことを探してることに気付かなかった。咲子はそれ程、動転してしまったのだ。
2
咲子が110番通報して五分経った頃、サイレンを鳴り響かせたパトカーが三台、現場に到着した。客が今、いないのを幸いとばかりに、咲子はパトカーから姿を見せた五十位の制服姿の警官に、
「お巡りさん! こっちです!」
そんな咲子の後に続き、四人の警官たちが咲子と共に、件のベンチにやって来た。
男性は今、海老のように身体を折り曲げては、ベンチに横たわっていた。
そんな男性を眼にして、警官たちは男性が死んでいると直感したが、念の為に一人の警官が男性の脈を見てみた。すると、案の定、脈は打ってなかった。それで、その五十位の警官は、
「確かに、死んでますね」
と、神妙な表情で咲子に言った。すると、咲子も神妙な表情を浮かべては、唇を噛み締めた。
その頃、救急車が到着した。
また、野次馬が十五人程、集まっていたが、その数は徐々に増え始めていた。
それはともかく、その川崎正行(45)という北海道警の警官は、
「いつ頃から、この男性はこのベンチにいたのですかね?」
と、咲子を見やっては、訊いた。
「私がワゴン車に来たのは、午前十時ですが、午前十時十分には男性がベンチにいたのに気付きました。しかし、それ以前のことは、分からないのですよ」
「通行人たちは、男性のことに気付かなかったのでしょうかね?」
「そうじゃないですかね。何しろ、あの男性が腰掛けていたベンチは、木立の中にある為に、あの辺りは今の季節では通行人たちは歩きませんからね。だから、誰もあの男性のことに気付かなかったんじゃないですかね」
と言っては、咲子は小さく肯いた。
「成程。花田さんのおっしゃる通りかもしれませんね」
と、川崎は渋面顔で肯いた。
そして、男性の遺体が救急車で運ばれて行くと、川崎たちは咲子から咲子の連絡先を訊き、その場から去って行った。
男性は市内のS病院に運ばれて行くと、司法解剖が行なわれることになった。
というのは、男性は毒劇物によって死に至ったという外見上の特徴が見られ、また、男性の死は殺しによってもたらされた可能性もあると、警察は看做したからだ。
やがて、死因が判明した。
それは、予想通り、青酸による中毒死であった。
また、死亡推定時刻も明らかになった。
それは、昨夜、即ち、十月十一日の午後七時から八時頃であった。
死因、死亡推定時刻は明らかになったものの、身元を明らかにしなければならないので、北海道警の川崎たちは、まずその捜査から取り掛かった。男性は、身元を証明するものは、何ら所持してなかったからだ。
そして、その日の夕刊とか、TVで男性の死が報道された為に、警察に少なからずの問い合わせが入り、男性の遺体が安置されてるS病院にまで姿を見せた者もいたが、身元判明には至らなかった。
翌日になっても、まだ、男性の身元は明らかにならなかった。
男性は二十代の半ば位の年齢で、身長175センチ、体重65キロのすらりとした身体付きで、なかなかの美男子であったが、それだけでは身許は明らかにはならないであろう。また、男性には前科はなかった。
だが、男性の遺体が発見された二日後、即ち、十月十四日に、男性の身元は明らかになった。
男性は長倉強(25)で、薄野にある「花園」というクラブのバーテンダーで、一人暮らしであった。
何故、身元が明らかになったかというと、長倉が仕事を二日続けて無断欠勤したので、仕事仲間の夏川幹朗(25)というバーテンダーが、長倉に電話を何度もしたが、通じなかった。
それで、夏川は店長の山村に、冗談半分に、二日前に大通公園で発見された若い男は、長倉ではなかったのかと言ったところ、山村も冗談半分に、その男性の遺体を確認してみてはどうかと言った。
そして、結局、夏川がその旨を警察に話すと、S病院に来てくれと言われ、夏川がS病院に行き、その男性の遺体を眼にしてみると、山村と交わした冗談は、冗談ではなくなってしまった。その男性の遺体は、何と長倉であったからだ。
夏川と山村たちがびっくり仰天したのは、言うまでもないであろう。
正に、腰を抜かさんばかりに驚きの表情を浮かべてる夏川に、川崎は、
「長倉さんは、青酸死なんですがね」
と、神妙な表情で言った。
「青酸死ですか……」
夏川も神妙表情を浮かべては、呟くように言った。
「そうです。青酸死なんですよ。で、それに関して、夏川さんはどう思いますかね?」
と、川崎は、夏川の顔をまじまじと見やっては、言った。
「どう思うかと言われても、よく分からないですね」
夏川は銀縁の眼鏡を外しては、ハンカチで目頭を拭った。
「要するに、長倉さんは、自らで青酸を飲んで自殺したか、あるいは、何者かに飲まされては、殺されたかですよ」
川崎は、険しい表情で言った。
そう川崎に言われても、夏川はぽかんとした表情を浮かべていた。そんな夏川は、川崎が言ったことが、ぴんと来ないみたいであった。
そんな夏川に、
「で、それに関して、夏川さんは何か心当りありませんかね?」
すると、夏川は黙って頭を振った。
「では、長倉さんは自殺するような人でしたかね?」
川崎は興味有りげに言った。
「いいえ。僕はそのように思ったことは、一度もありませんね」
と、夏川は長倉の自殺は有り得ないと言わんばかりに言った。
「では、何者かに殺されたとしたら、その犯人に関して思い当たることはありませんかね?」
「そのような人物に、まるで心当りありませんね」
と、夏川は決まり悪そうに言った。
「では、長倉さんの死亡推定時刻は、十月十一日の午後七時から八時頃なのですが、その頃は長倉さんは仕事ではなかったのですかね?」
「そうです。その日は、長倉さんは休暇だったのですよ」
「その時に、長倉さんは何処かに行くとか、誰かに会うとか言ってなかったですかね?」
「そのようなことは聞いてませんね」
そういう風にして、川崎は何だかんだと夏川から話を聞いたのだが、長倉が自殺したのか、殺されたのかということは、まだ、明らかにはならなかった。
それで、今度は「花園」で長倉と一緒に仕事をしていた同僚たちに聞き込みを行なってみることにした。
3
「花園」はラーメン横丁の近くにある七階建の雑居ビルの地下一階にあった。
「花園」はこの辺りのクラブでは、かなり規模が大きく、また、若いホステスもかなりの数であった。
それはともかく、川崎たちは、店長の山村や、長倉と同じくバーテンダーをしていた者とか、また、ボーイ、更に、ホステスたちにも聞き込みを行なった。その数は全部で十五人であった。
すると、誰もかれもが、長倉が自殺はしないだろうと言った。だが、長倉を殺しそうな者にも心当りないと、誰もが言った。
だが、興味ある証言を入手出来ないわけでもなかった。その証言をしたのは、長倉と仲が良かったというボーイの長谷川勤(26)であった。
長谷川は、
「長倉さんは、店長の山村さんにかなり恨みがあったのではないですかね」
と、些か表情を険しくさせては言った。
「ほう……。それはどうしてですかね?」
川崎は興味ありげに言った。
「長倉さんは、うちでアルバイトをやってる千佳ちゃんを自分の女にしましてね。つまり、アルバイトとしてうちの店で働くようになった千佳ちゃんに手を出し、長倉さんの女にしてしまったというわけですよ。ところがですね」
と言っては、長谷川はグラスに入った水を一気に飲んでは、
「ところがですね。そんな千佳ちゃんに、今度は何と山村店長が手を出してしまったのですよ。何しろ、千佳ちゃんは随分可愛いですから、山村店長の眼に留まったのでしょう」
と、興奮の為か、幾分か声を上擦らせては言った。
「成程」
「で、山村さんは千佳ちゃんが長倉さんと付き合ってるということを知らなかったのです。で、千佳ちゃんを山村さんはものにしてから、そのことを知ったのですよ。
すると、山村さんは千佳ちゃんを山村さんだけのものにしておきたかったのか、長倉さんに千佳ちゃんと別れるように、言ったのですよ。でも、長倉さんは断ったのです。すると、長倉さんの立場が悪くなりましてね。要するに、長倉さんは山村さんからいじめに遭うようになったのですよ。
お客さんの前や、ホステスたちの前で些細なことで罵声を浴びせられるようになったわけですよ。
それで、長倉さんはもううちの店を辞めようかと言っていたのですよ。
その矢先に、長倉さんは死んでしまったのですよ」
と、長谷川はまるで川崎に言い聞かせるように言った。
川崎はその長谷川の話に俄然興味を持った。何故なら、今の話から、長倉が自殺したという可能性が浮上したからだ。いわば、いじめによって自殺したというわけだ。また、山村に殺されたという可能性も浮上した。即ち恋敵を消す為に山村が犯行に及んだというわけだ。
だが、長谷川は自殺は即座に否定した。長倉が「花園」を辞めれば、山村からのいじめを受けなくて済む為に、そのようなことをする必要がないというのだ。また、長倉は意思の強い性格の持ち主であった為に、性格的にもそれは有り得ないというのだ。
だが、山村犯人説に対しては、
「そこまではやらないと思いますがね」
と、力無く言った。
そんな長谷川に、
「山村さんは千佳ちゃんには大層惚れ込んでたのですかね?」
「そうみたいですよ。百万もするダイヤモンドの指輪をプレゼントしたそうですからね。
でも、山村さんははっきり言って、醜男なんですよ。だから、女にもてないのですね。
それに対して、長倉さんはハンサムですから、女にもてたのですよ。
それで、千佳ちゃんは、長倉さんの方を気に入っていたみたいですがね。
でも、山村さんにとってみれば、それが面白くなかったんですよ。何しろ、山村さんは店長なのに、山村さんより職位の低い平社員が自らが気に入った女に先に手を出しものにしてしまったのですからね。山村さんのプライドが踏みにじられてしまったのではないですかね。でも、そうだからといって、殺しはしないと思いますがね」
と、長谷川は渋面顔で言った。
そう長谷川に言われ、川崎もそう思ったが、一応、山村をまだ容疑者圏内に留めておくことにした。
「で、千佳ちゃんは、今はどうしてるのですかね?」
「今は、うちの店を辞めましたよ」
「辞めた……。どうして、辞めたのですかね?」
「山村さんに惚れられてしまい、それが嫌だったんじゃないですかね」
「ということは、山村さんはストーカーのようなことをやったのでしょうかね?」
「さあ……。そこまでは詳しくは分からないですね」
と、長谷川は言葉を濁した。
長谷川のように、千佳を巡る山村と長倉の三角関係に言及した「花園」の関係者は、長谷川以外にも後三人いた。
それ故、山村に関しては、じっくりと話を聴かなければならないであろう。
また、山村以外にも、容疑者としても差し支えがない人物も浮かび上がった。
その人物は、大沢勝(26)であった。大沢は、何と長倉から四百万を借り、その四百万を返してもらえないのではないかという不安を長倉は友人に打ち明けていたというのだ。
それ故、この大沢勝という男は、山村以上に可能性はありそうだ。それ故、川崎たちはこの二人に的を絞り、しばらく捜査してみることにしたのである。
4
川崎が藻岩山近くにある七階建のマンションの503号室に住んでる山村宅を訪れたのは、その日の正午頃のことであった。何しろ、山村は夜の仕事に携わってる為に、正午頃眼が覚めると山村から聞いていた。それ故、その頃、川崎は訪れたのである。
川崎の前に姿を見せた山村は、まだ目覚めたばかりなのか、眠そうであった。
そんな山村に、川崎は、まず、長倉の死亡推定時刻のアリバイを聞いてみた。
すると、その頃は「花園」で仕事中であったという返答を受けた。だが、それは予め予想していた通りであった。
だが、そうだからといって、まだ山村が白と決まったわけではない。何しろ、長倉は青酸死である為に、青酸入りのカプセルを飲んで、死亡したという可能性も有り得るからだ。無論、長倉のカプセルに青酸を入れたのは、山村というわけだ。
そんな山村に、川崎は単刀直入に山村が千佳を巡って長倉と三角関係にあったことに言及した。
すると、山村は、
「もうそんなことまで突き止めたのですか」
と、苦笑した。
「ええ。何しろ、まだ、今の時点で長倉さんが何故殺されたのか、その動機が分かってませんからね。
で、今、千佳さんを巡る長倉さんと山村さんの三角関係の縺れという動機が浮上してるというわけですよ」
と、川崎は山村の顔をまじまじと見やっては、山村に言い聞かせるかのように言った。
すると、山村は、
「馬鹿な!」
と、吐き捨てるかのように言った。そんな山村は、長倉殺しの容疑者と疑われ、甚だ不快そうであった。
そんな山村に、川崎は、
「三角関係の縺れによる殺人事件は、今までに何度も発生してますからね」
と、渋面顔で言った。
「それは、飽くまで一般論の話であって、そのようなことは僕には当て嵌まらないですよ。大体、僕にはれっきとしたアリバイがあるじゃないですか! 僕は、長倉君が死亡した頃、ちゃんとうちの店で仕事をしていたのだから!」
と、山村は声を荒げては、いかにも不快げに言った。
「カプセルに青酸を入れるという手もありますからね」
「カプセル? 僕は長倉君がカプセルを飲んでいたということを、聞いたことはありませんね。それに、一体、そのカプセルに何を入れていたというのですか? カプセルに入っていた薬なんかを飲んでいたとでも言うのですかね? いいえ。長倉君はそのようなものを飲んでなかっですよ。何しろ、長倉君は健康な男でしたからね。
それに、どうやって長倉君を死に至らしめた青酸を僕が入手出来るのですか? 青酸は薬屋に売ってるわけではないですよね? 僕はそのようなものを入手出来るつてはありませんよ」
と言っては、山村はいかにも不快そうな表情を浮かべた。そんな山村の話を聞いてると、山村は長倉の死には無関係のような印象を抱かせた。
それで、川崎は、
「では、山村さんは、長倉さんを殺した犯人に心当たりはありませんかね?」
「長倉君は、殺されたと確定したのですかね?」
「その可能性が高いと我々は看做してます」
と、川崎は力強く言った。
「そうですか。でも、僕はそのような人物は、まるで心当たりないのですよ」
と、山村は殊勝な表情で言った。
川崎はこの辺で、山村に対する捜査を終え、次に大沢勝という男から話を聴いてみることにした。
因みに、大沢は長倉の高校時代の同級生であったとのことだ。
5
そんな大沢のマンションに、川崎はすぐに着くことが出来た。何故なら、大沢のマンションは、山村のマンションの近くにあったからだ。
とはいうものの、大沢のマンションは、山村のマンションよりはかなり小さく、2K位であった。
そんな大沢に私服姿の川崎が警察手帳を見せると、大沢は驚いた表情を見せた。そんな大沢は、警察が一体何の用があるのかと言わんばかりであった。
そんな大沢はがっしりとした身体付きで、学生時代は、体育系のクラブに入っていたような感じであった。
そんな大沢に、川崎は、まず長倉の死に言及し、そして、その事実を知ってるかと、訊いてみた。
すると、大沢は、
「知ってますよ」
「どうやって、そのことを知りましたかね?」
川崎は大沢の顔を注視しては言った。
「そりゃ、友達から知りましたね」
と、大沢は些か顔を赤くしては言った。
そんな大沢に山村は単刀直入に長倉の死亡推定時刻のアリバイを訊いてみた。
すると、大沢は、
「その頃は、仕事中でしたね。それは仕事仲間が証明してくれますね」
と、いかにも自信に満ちた表情と口調で言った。
「そうですか。で、失礼ですが、大沢さんは今、どういったお仕事をされてるのですかね?」
「今は居酒屋で働いてますよ」
「居酒屋ですか。で、その居酒屋には、最近働き始めたのですかね?」
「いいえ。もう三年目になりますかね」
「そうですか。で、大沢さんは長倉さんからお金を借りていたとか」
そう川崎が言うと、大沢の言葉は詰まった。そんな大沢はまるで訊かれたくないことを訊かれた時に見せるかのような表情を浮かべた。
そんな大沢に、川崎は同じ問いを繰り返した。
すると、大沢はあっさりとそれを認めた。
そんな大沢に、川崎は、
「大沢さんは長倉さんから四百万を借りていたんですよね」
そう川崎が言うと、大沢は、
「まあ、それ位借りてましたかね」
と、もうそんなことまで調べ上げたのかと言わんばかりの表情を見せては言った。
すると、川崎は小さく肯き、そして、
「で、大沢さんは長倉さんからその四百万の返済を迫られてたとか」
と、大沢の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、大沢は、
「その言い方は、言い過ぎですね。そりゃ、今すぐに返してくれないかと、何度も言われはしましたが、迫られてるということはなかったですね」
と、言っては、唇を歪めた。
「でも、長倉さんは、大沢さんがお金を返してくれないことに対する不満を述べていたらしいですよ」
「そうですか……」
大沢は、まるで開き直ったような表情で言った。
「で、大沢さんは、一体そのお金は何の目的で使ったのですかね?」
川崎は興味有りげに言った。
「ですから、僕の店の開店資金ですよ。その資金には友人たちから出資してもらった資金も含まれているのですよ」
と言っては、大沢は小さく肯いた。そんな大沢は、自らには何の疾しい所はないと言わんばかりであった。
「そうですか。でも、長倉さんはよく四百万も貸してくれましたね」
「そりゃ、僕たちの付き合いは長かったですからね。それに、長倉君は結構お金を持ってましたからね。だから、気前よくお金を貸してくれたのですよ」
と言っては、大沢は小さく肯いた。
「そうですか。でも、長倉さんは何故お金を持っていたのですかね?」
「株で儲けたと言ってましたね。株で資金を七、八倍にしたそうですよ。だから、貸してくれたんだと思いますね。そうでなかったのなら、四百万も貸してはくれなかったでしょう」
と言っては、大沢は再び小さく肯いた。
「成程。でも、何故、長倉さんは大沢さんにその四百万の返済を強く求めたのでしょうかね?」
「その理由を僕は知らないですね。長倉君はそれに関して何も言わなかったですからね。また、店の収支はまだとんとん位なので、とても貸主たちに対して、返済出来るまでには至ってなかったのですよ。それに、元々十年位は返済出来ないということを納得してもらって借りてるのに、何故、急に返せなんて言って来たのか、僕にはよく分からないのですよ」
と、大沢は困惑したような表情を浮かべては言った。
その大沢の説明が正しいのどうかは、長倉が死んだ今となれば、分からないであろう。
それはともかく、川崎は大沢が借りた借金が元で長倉とトラブルが発生し、、長倉が大沢に殺されたのではないかと、軽い調子で言ってみると、大沢は、
「刑事さん! 言っていいことと悪いことがありますよ! 僕が長倉君を殺すなんてことは、太陽が西から昇るのと同じ位に絶対に有り得ないことですよ!」
と、大沢に疑惑の眼を向けた川崎の推理を強く否定した。
それで、川崎はこの辺で大沢に対する捜査を終え、大沢のマンションを後にすることにした。
6
長倉を殺した可能性がありそうな人物が二人浮かび上がり、その二人から話を聴いてみたのだが、この二人が白なのか黒なのかの結論はまだ出なかった。容疑者の話を全面的に信じることは出来ないで、この二人にはまだしばらくの間、捜査は続けなければならないというわけだ。
それで、山村と大沢の身近な者たちに聞き込みを行なったり、また、交友関係、経歴などを元に捜査を行なってみたのだが、やはり、山村か大沢のどちらかが長倉を殺したというような感触は得られなかった。山村は確かに千佳を巡る長倉との三角関係で長倉に対していい印象を持ってはいなかったが、肝心の千佳が「花園」を辞め、また、山村に対して付き合う意思のないことを明確にしたともなれば、山村とて千佳のことを諦めざるを得ないだろう。
もっとも、千佳に振られた腹癒せに、長倉のことを殺したという可能性は無論想定出来ないわけでもないが、山村の知人たちは山村は川崎が思ってる程、短絡的な性格ではないという証言を少なからず得た。また、山村が主張したように、山村がいかにして青酸を手にしたというのか? その疑問を川崎たちは明らかにすることは出来なかったのだ。
また、大沢が始めたという居酒屋の経営はまずまずで、後十年もすれば、長倉をはじめとする大沢に対する債権者たちへの返済を終える可能性は十分にあった。
そんな大沢が長倉に借金の返済をたとえ迫られたとしても、長倉を殺さなければならないかというと、決してそうとは思えなかったのだ。
そういった状況であった為に、捜査は正に振り出しに戻ってしまったかのような塩梅となってしまったのだ。