第六章 第三の死

     1

 小樽の代表的な見所といえば、小樽運河であろう。
 しかし、小樽運河だけが、小樽の見所ではない。小樽運河周辺に散在してる明治、大正時代の洋風建築も、小樽の見所といえるだろう。。
 それ以外としても、小樽水族館、にしん御殿なども見所といえるが、天狗山もその一つとして挙げなければならないだろう。
 天狗山へは、小樽駅からバスが出ていて、約二十分で天狗山ロープウェイ乗り場に着く。
 そして、ロープウェイで天狗山山頂にまで行き、小樽の街並みを俯瞰すると、小樽の街並みをまるで模型のように手に取るかのように眼にすることが出来る。
 そんな天狗山山頂には、スキーの資料とか、天狗の面を展示している天狗の館もある。
 藤原明夫(25)は、妻の明美(22)と共に、朝一番のロープウェイに乗り、天狗山山頂にやって来た。二人は結婚後、初めての旅行として札幌、小樽への二泊三日の旅行にやって来たのだ。
 そして、昨夜小樽に着き、小樽駅に近い所にあるホテルに泊まり、そして、今朝は真っ先に天狗山にやって来たというわけだ。
 天狗山は、小樽の観光スポットとしては有名な方であるが、今日はウィークディの為か、朝一番のロープウェイは、明夫と明美の二人だけであった。
 とはいうものの、二人にとってその方がよかった。ロープウェイを二人で占有したような気分に浸れるからだ。
 明夫はロープウェイの眼下に拡がってる山裾を指差しては、
「この辺りは、冬はスキー場になるんだよ」
 と、明美に説明した。
「成程」
 明美は、今は微動だにしていないリフトを眼にしながら、小さく肯いた。そして、この緑豊かな天狗山が、冬は雪に埋もれてしまうなんて、信じられなかった。
 それはともかく、ロープウェイはやがて、終点に着いた。
 ロープウェイから降りると、二人はまず遊歩道を歩くことにした。遊歩道沿いにある第二展望台からの眺めはとても素晴らしいとのことなので、まずそこに行くことにした。そして、程なく第二展望台に着いた。
 そして、二人は早速第二展望台からの眺めを愉しみ、また、セルフタイマーを使って、二人仲良くカメラに収まった。
 二人は写真撮影を終えると、近くにあるベンチに腰掛けた。
 明夫は、
「いやぁ、いい眺めだな」
 と、改めてそう言った。
「本当ね。でも、私は北海道に来てつくづく思うんだけど、よくぞこれだけの街を作ったものね。何しろ、江戸時代には、北海道には少数のアイヌ以外には、人が住んでなかったのに。小樽だってそうだと思うよ。それなのに、これだけの街をよく作ったと思うのよ」
「僕もそう思うよ。だから、先人たちの苦労は大変だったと思うな」
 と、明夫はしんみりとした口調で言った。
 そして、明夫は少し溜息をつき、ふと後方に眼をやったところ、明夫の表情は忽ち強張った。明夫は妙なものを眼に留めたからだ。
 それで、明夫はベンチから立ち上がり、明美に、
「ちょっと来てくれないか」
 と言っては、恐る恐るそれに近付いて行った。
 それは、ベンチから少し後方の雑木林の中にあった。
 そして、それは人間と思われた。だが、明夫が敢えてそれを口にしなかったのは、人間がそのような所に倒れてることが何を意味してるのか分からないわけではなく、それ故、それを口にするのに、明夫は躊躇いを感じたからだ。正に、明夫はとんでもないものを眼に留めてしまったのである。
 それはともかく、その人間は背広姿で三十位の男性であった。
 そんな男性の傍らに来た明美は、明夫と同様、強張った表情を浮かべては、
「死んでるの?」
 明美にそう言われ、明夫もそう思ったが、
「分からないな」 
 と、神妙な表情で言った。
 そして、とにかくそれを確かめる為に、男に触れ、男の身体を揺り動かしてみることにした。
 すると、すぐに死んでると確信した。何故なら、男には体温は感じられず、また、硬直が見られたからだ。
 それで、明夫は、
「やはり死んでるよ」
 と、いかにも表情を強張らせては言った。
 それで、明美は、
「じゃ、110番するわ」
 と言っては、バッグから携帯電話を取り出した。
 そんな明美に、明夫は、
「ちょっと待ってくれよ」
 それで、明美の動きは止まったのだが、そんな明美に、
「あれを見てみろよ!」
 と言っては、明夫はそれを指差した。
 それは、男性の右手から五十センチ程の所の土の上に〝てんぐ〟と、書かれていたからだ。その辺りには草が生えていなかったので、土の上に字を書くことが出来たみたいだ。
「この男性が書いたのかしら」 
 明美は不安そうな面立ちで言った。
明美にそう言われ、明夫は男の指に眼をやった。
すると、男の右手の人差指が土で汚れていた。
「多分、そうだろう。右手の人差指が土で汚れてるからな」
と、明夫は神妙な表情で言った。
すると、明美は小さく肯いた。
そして、二人はとにかく明美の携帯電話で110番通報した後、天狗山ロープウェイの係員に事態を知らせなければならないので、ロープウェイ乗り場に早足で向かった。そして、五十位の男の係員に事の次第を話した。
すると、その係員は半信半疑の表情で、明夫と明美と共に、現場に向かった。
 すると、男の死体はやはりそこにあった。
 それで、係員は屈み込んでは男が死んでるかどうか確認する為に男の脈を見た。 
 すると、脈は打ってなかった。
 係員は男の死を確認すると、明夫と明美に、
「警察が来るまで、待っていてもらえますかね」
「いいですよ」
 二人は、肯いた。
 とはいうものの、小樽署の警官が現場に来るのに、さほど時間はかからなかった。
 というのも、天狗山山頂までは、道路が通じていて、ロープウェイでなくても、山頂にまで来れるからだ。それ故、捜査にやって来た小樽署員は、パトカーで山頂にまでやって来たのである。
 そんな制服姿の三人の警官を明夫たちは直ちに現場に連れて行った。
 そして、その三人の内の一人が早々と男性の死を確認した。
 そんな警官たちに、明夫は〝てんぐ〟という文字が書かれている場所を指差し、また、男の人差指が汚れてることを指摘しては、
「この男性がその文字を書いたと思うのですよ」
 と言っては、小さく肯いた。
 すると、三人の中で一番年長者と思われるその水野という警官は、
「確かにそのようですね」
 と、男性の右手の人差指が土で汚れてることを眼にしては、小さく肯いた。
 そして、水野は改めて、明夫と明美が男性を発見した経緯を訊くと、その時点で明夫と明美はその場を後にすることが出来た。
 そんな二人は、この出来事は一生忘れられないものとなるであろう。
 
     2

 男性の遺体は、三人の警官に少し遅れてやって来た救急隊員たちの手によって、救急車に運ばれ、小樽市内のM病院で司法解剖されることになった。
 というのも、男の首には、ロープのようなもので絞められた痕があったからだ。即ち、男性に死をもたらしたのは、殺しである可能性が高いと判断されたのである。
 それで、直ちに司法解剖されたのだが、やはり死因は首を絞められたことによる窒息死であった。
 また、死亡推定時刻も明らかになった。
 それは、昨夜の午後十一時から十二時、即ち、十一月一日の午後十一時から翌日の午前零時であった。
 とはいうものの、男は身元を証明するものは、何ら所持してなかった。
 それで、早速、身元を明らかにする捜査が行なわれることになったのだが、身元は男性の遺体が発見された翌日になって明らかになった。
 というのは、男性が働いていた居酒屋の店員が、店長と連絡が取れないので、交通事故にでも遭ったのではないかと、警察に問い合わせたのである。
 それを受けて、警察は昨日、小樽の天狗山山頂で見付かった男性のことを話した。すると、その身体付きなんかが、その店長と似ていたので、警察に問い合わせたその男性、即ち、矢沢正志(27)は、とにかく小樽市内のM病院でその男性の遺体を眼にしてみることにした。
 すると、その男性は矢沢の予想に反して店長の大沢勝(28)であったのだ。
 これには、矢沢はびっくりしてしまった。まさか、本当に大沢だったなんて、殆ど思ってなかったからだ。
 それはともかく、天狗山で遺体で見付かった男性は、札幌の薄野で居酒屋を経営してる大沢勝という男であったことが確認されると、早速北海道警察捜査一課の江尻幸助警部(51)が捜査に乗り出すことにした。大沢の死は、殺しによってもたらされたことが明らかであったからだ。
 それで、まず大沢が経営していた「ばたやん」という居酒屋で働いていた従業員たちから話を聴いてみることにした。
 だが、誰もかれもが、大沢が何故殺されたのか、てんで分からないと証言した。また、大沢は殺される前日まで、元気にいつも通り「ばたやん」で働いていて、そんな大沢が今、トラブルや悩みを抱えている様はまるで感じられず、また、その翌日に殺されるなんて想像した者は、誰もいないという具合であった。
 とはいうものの、興味ある証言も入手出来ないわけでもなかった。 
 その証言は、「ばたやん」が営業を始めた当時から大沢と共に働いていたという調理人の正木厚志(29)が行なったのだが、正木は、
「大沢さんは以前、札幌で発生した事件で警察に事情聴取され、一時は殺人の疑いをもたれていたみたいですよ」
 と言ったのだ。
 正木によると、その事件というのは、十月十二日の午前十時頃、大通公園で遺体で発見された長倉強という男性が殺された疑いがあり、その容疑者として、大沢も事情聴取されたというのだ。
 その事件はまだ発生してからさ程月日が経過してない為に、記憶に新しかった。それ故、江尻も無論、その事件のことを記憶していた。また、川崎警部が捜査してることも知っていた。
 だが、川崎たちの捜査は進展具合がよくないという噂も耳にしていた。
 とはいうものの、まさか長倉の事件で捜査を受けた男が、天狗山で他殺体で発見されることになるとは、誰も予想はしてなかったであろう。
 それはともかく、その事実を知って、江尻が真っ先に思ったことは、大沢の死が長倉の死に関係あるのかどうかであった。
 それで、とにかく、川崎から事の経緯を聞いてみることにした。
 川崎は江尻から大沢勝の死を改めて耳にすると、
「信じられませんね」
 と、いかにも渋面顔を浮かべては言った。
 そんな川崎に江尻は、
「大沢さんの死は、長倉さんの死に関係してるのでしょうかね?」
 と、眉を顰めた。 
 そう江尻に言われても、川崎はすぐに言葉を返すことが出来なかった。それに対する返答を見出すことが出来なかったからだ。
 そんな川崎に、江尻は、
「何故、大沢さんは、長倉さん殺しの容疑者として疑われたのですかね?」
 と、興味有りげに言った。
 それで、それに関して川崎は、詳細に江尻に説明した。
 江尻は、そんな川崎の話に黙って耳を傾けていたが、川崎の話が一通り終わると、
「つまり、大沢さんは長倉さんから四百万借りていたが、その四百万を長倉さんが返せと言って来たわけなんですね?」
「そうです。でも、本来は十年後に返済する予定だったみたいですね。それ故、大沢さんは何故その約束を破って返済を求めて来たのか、分からないと言ってましたね」
 と言っては、川崎は小さく肯いた。
「それで、金を返せと強く迫った長倉さんに腹を立てて、大沢さんが長倉さんを殺したというわけですか」
「まあ、動機はそんな具合ですね。でも、大沢さんを知ってる人の話だと、大沢さんは返済を強く迫って来た長倉さんをかっとして殺すというようなことをやるような短絡的な性格の持ち主ではないという証言を得ましたし、また、四百万程度なら返せないこともなかったようだし、また、長倉さんを死に至らしめた青酸をどうやって入手出来たのかも問題ですしね。
 また、今は大沢さん以外の有力な容疑者が浮かび上がっていましてね。それで、今や大沢さんのことはすっかり忘れていた位なんですよ。そんな折に大沢さんの事件が発生したというわけですよ」
 と、川崎はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべて言った。そんな川崎は、果して大沢の事件が長倉の事件に関係してるかどうかは、まるで分からないと言わんばかりであった。
 また、江尻の思いも、川崎と同感であったのだ。
 それで、二人の間に少しの間、重苦しい沈黙の時間が流れたのだが、やがて、江尻が、
「で、今は長倉さんの事件で有力な容疑者が浮かび上がってるとのことですが、それはどういった人ですかね?」
 と言ったので、川崎は星川知美のことを話した。
 そんな川崎の話に、江尻は渋面顔でじっと耳を傾けていたが、やがて、
「確かに、その星川知美という女性は怪しいですね」
 と言っては、小さく肯いた。
「そうですよね。ですから、いずれ長倉さんと永山さんの事件は、星川さんの逮捕で決着となると思うのですがね。でも、実際はなかなか逮捕出来るだけの証拠を入手するのは困難でしてね」
 と、川崎は決まり悪そうな表情を浮かべた。
「となると、川崎さんは大沢さんの死をどう見ますかね? まさか、大沢さんまで星川さんが殺したとは思わないと思うのですがね」
「確かにそうですね。星川さんはいくら何でも、大沢さんとまでは関係はないでしょうからね。それ故、大沢さんの事件は、長倉さんの事件とは、無関係かもしれませんね。一見、関係はありそうに見えるのですがね。でも、あっさりとそう決め付けるのは、よくないと思いますね」
 そう川崎に言われ、江尻は川崎の言ったことはもっともなことだと思ったので、捜査の定番通り、まず大沢の友人、知人たちから更に話を聞くことにした。

     3

 すると、興味深い証言を入手出来た。その証言をしたのは、「ばたやん」で設立当初より、「ばたやん」の経営に大沢と共に携わって来た副店長の野上慶介であった。野上は、
「最近、大沢さんは何者かに脅されていたみたいですよ」
 と、神妙な表情で言った。
 すると、江尻はいかにも興味有りげに、
「それ、どういうことですかね?」
「何でも、大沢さんはここ二週間位の間で、『馬鹿やろー』とかいった電話や、無言電話が何度も掛かって来たと、神妙な表情で言ってましたね」
 と、野上は渋面顔で言った。
「成程。で、その電話の相手に、大沢さんは心当りあったのでしょうかね?」
 江尻は大沢の顔をまじまじと見やっては言った。
「あったみたいですよ。でも、その人物名までは言及してなかったですがね」
 と、野上は神妙な表情で言っては、小さく肯いた。
「では、その件と長倉さんの事件の関連に関して、大沢さんは何か言及してませんでしたかね?」
 と、江尻は眼をキラリと光らせては言った。
 すると、野上は眼を大きく見開き、
「それが言及してましたね」
「ほう……。どのように言及してましたかね?」
 江尻はいかにも興味有りげに言った。
「ですから、長倉さんを殺したのが僕だと疑ってる長倉さんの身近な者がいて、その者が僕に嫌がらせをしてるんだとか言ってましたね」
 と、野上は眼を大きく見開き、そして、些か深刻そうな表情を見せては言った。
「その者に関して、大沢さんはそれが誰なのか、心当りなかったのですかね?」
「それが、少し位はあったみたいですよ」
 と言っては、野上は小さく肯いた。
「ほう……。それは、誰だと大沢さんは思っていたのですかね?」
 江尻は興味有りげに言った。
「ですから、長倉さんの古くからの友人で、しかも、大沢さんの知人でもあった人みたいですよ。でも、具体的な名前までは言及してなかったですね。つまり、あの嫌がらせ電話は、あいつが掛けて来たんだという具合に、大沢さんは僕にそう言ったのですよ。でも、そのあいつの具体的な名前までは、僕に言及しなかったというわけですよ」
 と、野上は言っては、小さく肯いた。
「大沢さんと長倉さんは高校時代からの友人だったのですよね?」
「そうです。ですから、その高校時代の大沢さんと長倉さんの同級生の中に、その人物がいる可能性があると僕は思いますね」
 と言っては、野上は小さく肯いた。
「でも、その人物が大沢さんを殺したりするでしょうかね?」
 江尻は些か納得が出来ないような表情を浮かべては言った。
 すると、野上は、
「そりゃ、そのようなことは僕では分からないです。でも、何かアクシデントなんかが発生したという可能性も有り得ますからね」
 と、江尻に言い聞かせるかのように言った。
 それで、その点に関しては、江尻は一応捜査はしてみることにした。
 そして、この時点で野上に対する聞き込みを終え、野上が証言したような人物がいるかどうかの捜査が早速行なわれることになった。
 また、その捜査はさ程困難ではないと思われた。何しろ、長倉と大沢が何処の高校を卒業したのかは分かっていたからだ。それで、その高校、即ち、札幌曙高校の卒業生で、長倉と大沢の同級生だった者に対して聞き込みが行なわれることになった。
 すると、程なく有力な証言を入手するに至った。その証言を行なったのは、長倉や大沢と高校三年の時に同級生であったという宇佐美敦夫という今はスーパーの店員をしてる男性であった。
 宇佐美は、
「僕は長倉君の親友であった森直人君が、大沢君のことを強く非難していたことを覚えていますね」
 と、些か言いにくそうに言った。そんな宇佐美は、同級生だった者のことを警察に悪く言うのには気が退けると言わんばかりであった。
 そんな宇佐美に、
「どういう風に非難していたのですかね?」
 江尻は興味有りげに言った。
「この前に同窓会がありましてね。そして、その時に、当然長倉君の事件が話題になったのですよ。で、その時に森君は長倉君を殺したのは、大沢君に違いないと、大沢君のことを強く非難したのですよ」
 と言っては、宇佐美は渋面顔を浮かべた。
「どうして森君はそう思ったのでしょうかね? 何か根拠があったのでしょうかね?」
 江尻は興味有りげに言った。
「ですから、長倉君は大沢君が開業した居酒屋の開店資金に四百万出資したのですよ。何でも元々十年後に返済してもらうことになっていたみたいですがね。
 ところが、長倉君の方で、急にその四百万が必要になったみたいでしてね。それで、その返済を大沢君に求めたみたいですよ。
 すると、大沢君はそんな長倉君の要求を軽くあしらい、そんな長倉君のことを相手にせずに、そんな我儘なことを言うのなら、約束の期日が来ても、もうお金は返さないからねという風に大沢君は長倉君に言ったそうですよ。
 それで、長倉君は大沢君にお金を騙し取られたと、皆に吹聴していたのですよ。
 で、森君は長倉の親友でしたから、長倉君を殺したのも大沢君に違いないと、決め付けていたのですよ。実際にも、同窓会の時に、そう皆の前で言ってましたからね」
 と、宇佐美は声高らかに、江尻に言い聞かせるかのように言った。
「成程。でも、長倉さんの死因は、青酸による中毒死ですよ。で、大沢さんが犯人なら、その青酸を大沢さんはどうやって手に入れたのでしょうかね? その点に関して、森君は何か言及してましたかね?」
 と、江尻は眉を顰めた。
 すると、宇佐美は、
「大沢さんは水商売をしてるわけですから、お客さんの中に、メッキ工場で働いてる人なんかがいたんじゃないかなとか、言ってましたね」
 と言っては、小さく肯いた。
 そんな宇佐美に、
「でも、長倉さんは大沢さんに四百万も貸したのですよね。つまり、大沢さんは長倉さんに信頼されていたわけですよ。それなのに、大沢さんは長倉さんを殺しますかね?」
 江尻は些か納得が出来ないように言った。
 すると、宇佐美は、
「そりゃ、人間は金や女の為に人間が変わったりしますからね。ですから、長倉君の信頼を得ていたからといっても、何年か経った後、その二人の間で殺人事件が発生しないという保証はないですよ」
「成程。でも、大沢さんが長倉さんを殺したいう具体的な証拠でもあるのですかね?」
 と、江尻は眉を顰めては言った。
「具体的な証拠ですか……。そこまではないと思いますよ。でも、大沢君は森君に殺されたのかもしれませんよ」
 と、宇佐美は眼を光らせては言った。
「森君が犯人? 何故そう思うのですかね?」
 江尻は表情を険しくさせては言った。
「大沢君の遺体の傍には、〝てんぐ〟という文字が書かれていたのですよね?」
「そうです」
 と、江尻は肯いた。
 すると、宇佐美も小さく肯き、そして、
「森君は、高校二年の文化祭の時に、天狗の面を被った天狗を演じましてね。それが好評でして、森君のクラスはその森君の演技が功を奏して金賞を受賞したのですよ。それ以来、森君の綽名は〟天狗〟となったわけですよ」
 と、宇佐美はまるで江尻に言い聞かせるかのように言った。そんな宇佐美は、宇佐美の言わんとすることを分かってくれと言わんばかりであった。
 無論、江尻は宇佐美が言わんとすることは分かっていた。即ち、大沢の遺体の傍らに〝てんぐ〟という文字が書かれていて、その文字を書いたのが大沢と思われることから、大沢は自らで大沢を殺したのが、森だというダイイングメッセージを残したのではないのか?
 そう宇佐美は言おうとしたのだ。
 その宇佐美の証言を受けて、今度は森直人という男から話を聴いてみることになったのだ。

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