第七章 浮かび上がった容疑者
1
森直人は、真駒内公園の近くのマンションに住んでいた。そんな森は、今は特に定職にはついていないという。
そんな森の前に姿を見せた江尻に対して、森はいかにも怪訝そうな表情を浮かべた。そんな森は、北海道警捜査一課の刑事が一体何の用があるのかと言わんばかりであった。
そんな森に、江尻は、
「森さんに少し訊きたいことがあるんですがね」
「僕に訊きたいこと? それ、どういったことですかね?」
森は、憮然とした表情で言った。
「この前に、森さんたちの高校時代の同級生であった長倉強さんが、大通公園のベンチで変死体として発見されましたが、その事件で森さんは大沢さんが犯人だと言っていたそうなんですがね」
と、江尻は森の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、森は、あっさりとそれを認めた。
それで、江尻は、
「何故、森さんはそう思ったのですかね?」
と、興味有りげに言った。
すると、森は、
「ですから、大沢君は長倉君が借りた四百万を返そうとはしなかったからですよ。それで、長倉君は慌てその四百万の返済を強く大沢さんに求めたのですよ。だが、大沢君は返す金はなかったし、また、返すつもりもなかったので、長倉君のことをぞんざいに扱った。それで、長倉君と大沢君は、喧嘩になってしまったのではないですかね。そして、その喧嘩が高じて、殺人事件になってしまったというわけですよ」
と、いかにも自信ありげな表情と口調で言った。そんな森は、その推理は正に長倉の事件の真相に違いないと言わんばかりであった。
だが、江尻はその森の推理に分からない点があった。
というのは、長倉が大沢に四百万の返済を迫ったという話は確認しているが、大沢が長倉にその四百万を返すつもりがないという話は今まで耳にしたことがなかったからだ。
それで、その疑問を江尻は森にぶつけてみた。
すると、森は、
「大沢君は財テクに失敗したのですよ」
と、江尻に言い聞かせるかのように力強く言っては、力強く肯いた。
「財テクに失敗したですか」
「そうです。株ですよ。大沢君は、今まで貯めていた債権者たちへの返済金を元に、株を信用買いで買ったみたいですよ。まあ、一気に金を儲けて、一気に債権者たちに返済しようとしたのでしょうね。
だが、その財テクがうまくいかず、今までに貯めたお金を全部失ってしまい、更に数千万の借金を作ってしまったらしいのですよ。
これによって、長倉君に借りた四百万だけでなく、他の債権者たちに返す資金はまるで目処は立たなくなってしまったのですよ。
まあ、今まで店は順調に儲かっていたみたいですが、最近は不況になって来ましたからね。薄野でも随分と多くの店が潰れてますからね。ですから、一層大沢君は借金返済の目処は立たなくなったということですよ。
そんな折に、長倉君が返済を強く求めたので、そんな長倉君に大沢君はかっとして殺したというわけですよ。まあ、これが僕の推理だというわけですよ」
と、森はいかにも自信ありげな表情と口調で言った。
江尻はそう森に言われ、森の言ったことはもっともな推理だと思った。即ち、長倉を殺したのは、大沢ではなかったのかと思ってしまったというわけだ。
確かに、今まで大沢は容疑者の一人ではあったのだが、今までの捜査では、大沢が長倉殺しの犯人である可能性は低いと看做していた。
だが、今までは大沢が財テクに失敗していたという話は江尻たちの耳に入っていなかったのだ。その話が江尻たちの耳に入っていれば、大沢への疑惑を高めたに違いないのだ。そして、実際にも今、そうなってしまったのだ。
だが、大沢は既に故人となってしまった。となると、果して長倉の事件は解決するのだろうか?
そういった悲観的な思いも、江尻の脳裏を過ぎった。
そんな江尻に、森は、
「刑事さんは、僕の推理を理解してくれますかね?」
と、江尻の胸の内を問うかのように言った。
すると、江尻は、
「森さんの言うことは、もっともなことだと思いますよ」
と、些か納得したように肯いた。
すると、森も些か納得したように肯いた。そんな森に、江尻は、
「では、森さんが大沢さんに嫌がらせ電話を掛けたのですかね? 馬鹿やろうとかいった」
そう江尻が言うと、森は江尻から眼を逸らせ、少しの間、何も言おうとはしなかったのだが、やがて、それを認めた。
そんな森は、
「では、刑事さんは大沢君の事件で僕のことを疑ってるんですかね?」
と、今度は嫌味たっぷりの表情と口調で言った。
すると、江尻は、
「まあ、そうですね」
と、些か顔を赤らめては言った。
そんな江尻に、
「どうして刑事さんは僕のことを疑ってるのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
すると、江尻は、
「森さんは大沢さんが長倉さんを殺したと疑ってました。それで、直に大沢さんにそう言ったのではないですかね?
すると、そんな森さんに反発した大沢さんと森さんはトラブルになってしまった。
そして、アクシデントなんかもあったのかもしれませんが、森さんは大沢さんを殺してしまったというわけですよ。
で、森さんは〝天狗〟という綽名があったそうですから、大沢さんは死ぬ直前に地面に〝てんぐ〟という文字をダイイングメッセージとして遺したというわけですよ」
と、正に森に言い聞かせるかのように言った。
すると、森は、
「フッフッフッ……」
と、いかにもおかしそうに笑い始めた。
それで、江尻は、
「何がおかしいのですかね?」
と、些かむっとした表情で言った。
「刑事さんの推理があまりにも稚拙だからですよ。僕が単に大沢君を長倉君殺しの犯人と推理していたことと、僕の綽名が天狗だからといって、それだけの理由で何故僕のことを大沢君殺しの犯人として疑うのですかね? その時のアリバイを確認しましたかね?」
そう言った森の表情には笑みはなかった。そんな森は、大沢殺しの犯人として森のことを疑った江尻のことを強く非難してるかのようであった。
そんな森に、
「じゃ、大沢さんの死亡推定時刻、即ち、十一月一日の午後十一時から十二時にかけての森さんのアリバイを聞かせてくださいな」
と、江尻はいかにも興味有りげに言った。
すると、森は言葉を詰まらせた。そんな森は、その時のことをすぐには思い出せないかのようであった。
そんな森の様を江尻は注視していたが、やがて、森は、
「その頃は、この部屋で眠っていましたよ」
と、些か決まり悪そうに言った。そんな森は、確固たるアリバイがなかった為に、気落ちしてるかのようであった。
そんな森に、
「森さんは一人で暮らしてるのですかね?」
「そうですよ。だから、誰も僕のアリバイを裏付けてくれないというわけですよ」
「森さんは今、車を持ってますかね?」
「持ってますよ」
「何に乗ってますかね?」
「フィットですよ」
「色は何色ですかね?」
「シルバーメタリックですよ」
そう森に言われ、江尻はそれを手帳にメモした。そして、天狗山山頂付近に立て看板を立て、その森のフィットが眼にされてないか、市民から情報提供を呼び掛けることにした。
そして、この辺で江尻は一旦、森に対する捜査を終えた。
2
森と話をしてみて、江尻は森が大沢殺しの犯人なのか、そうでないのかは、何とも言えなかった。大沢殺しのこれといった容疑者がいなかった為に、まず森から話を聴いてみたのだが、森が白なのか、黒なのかの判断はつかなかったのだ。
だが、そんな森から思ってもみなかった情報を入手してしまった。
それは、大沢が財テクにより数千万の借金を負ってしまい、それが原因で長倉たちへの借金の返済を出来なくなってしまうのではないかというものだ。
そして、そのことを知った長倉は、今すぐに大沢に借金の返済を迫った。だが、大沢は長倉に返済する為の四百万をすぐに工面出来なかった。
だが、長倉は借金の返済を強く迫った。
それで、大沢と長倉との間にトラブルが発生し、事件となったというわけだ。
また、長倉殺しに用いられたのは、青酸であるから、衝動的な殺人というよりも、計画的な殺人と思われた。大沢の知人たちの中には、青酸を入手出来るものがいた可能性は有り得るだろう。
また、長倉の遺体を遺棄したのは、黒いサングラスを掛けた不審な中肉中背の女性ということが、今までの捜査から有力となっているが、その女性が長倉の遺体を遺棄したと断定はまだ出来ないというものだ。
それはともかく、この時点で長倉を殺したのは大沢ではないかという可能性が改めて浮上した。
だが、大沢は既に故人となってしまった為に、大沢から話を聴くことは不可能となってしまった。
だが、この時点で大沢の車が捜査されることになった。大沢のトランクから長倉の髪の毛が見付かれば、大沢の長倉殺しが更に現実味が帯びて来るのだ。
また、大沢がどのようにして青酸を入手したのかという捜査も再開されることになった。
その捜査は既に行なわれてるのだが、その捜査は成果を得ることは出来なかった。
だが、もう一度徹底的に行なってみることになったのだ。
また、大沢殺しの容疑者として新たに捜査しなければならない者が浮上した。
それは、長倉以外の大沢の債権者だ。
大沢の債権者の中に、大沢が財テクによって失敗したことを知り、それで、大沢に貸した金を引き揚げようとした。
だが、大沢はそれに応じようとはせず、また、応じることが出来なかった。
それで、トラブルとなり、事に及んだというわけだ。
それで、この時点で大沢に対する債権者の捜査が行なわれることになった。
そして、やがて、それらの債権者が長倉のような個人が多かったことが凡そ明らかになった。担保のなかった大沢は、金融機関から金を借りることが出来なかった。それで、大沢の知人たちから金を借りたとのことなのだ。そして、その金額は全部で五千万程であったらしい。
だが、大沢に金を貸したその個人名は、まだ明らかになっていなかった。
それで、副店長の野上慶介から話を聞くことにした。
3
「うちの店の債権者の名前ですか」
野上は、「ばたやん」に姿を見せた江尻に渋面顔を浮かべては言った。
因みに、「ばたやん」は、店長の大沢が死んだといえども、営業は続けられていた。
そして、大沢亡き後、「ばたやん」の采配を振るっているのは、副店長の野上であった。
そんな野上は今や、「ばたやん」の店長として、店に采配を振るっているのだ。
「ええ。そうです。大沢さんは担保がなかったので、金融機関からお金を借りることが出来ずに、大沢さんの知人たちから金を借りたと聞いてるのですがね」
と言っては、江尻は小さく肯いた。
すると、野上は、
「僕の友人からも、資金を出してもらいましたよ」
と言っては、小さく肯いた。
野上にそう言われても、江尻はその野上の友人には関心がなかった。何故なら、殺されたのは大沢だからだ。野上の友人が怒りを向けるとしたら、それは野上に対してだと思ったのだ。
それで、江尻は、
「『ばたやん』に出資した大沢さんの知人名とその出資金額を教えてもらいたいのですがね」
そう江尻に言われ、野上は席を外し、少しして戻って来た。というのは、江尻は野上に予め来訪の旨を話してあったので、野上はそれを事前に用意していたのだ。
野上が持って来たそのA4版の紙に、江尻は早速眼を通してみた。すると、長倉以外にも後五人から全部で三千五百万程借りていたことが明らかになった。
それで、改めてそれらの人物名を覚えようとした江尻に対して、野上は、
「長倉さん以外の五人の内、四人は、大沢さんの身内だったみたいですよ」
と、神妙な表情で言った。
「身内ですか……」
江尻は呟くように言った。
そんな江尻は、正直言って、落胆してしまった。というのは、身内なら、大沢のことを殺しはしないと思ったからだ。
そんな江尻に、
「その、身内とは、大沢さんの叔父さんとか叔母さんですよ。で、大沢さんの友人でお金を貸したのは、長倉さんと前沢さんという二人ですよ」
と言っては、小さく肯いた。
「その前沢さんはいくら出資したのですかね?」
「二百万ですね」
「二百万ですか……」
江尻は呟くように言った。というのは、二百万では殺しは行なわないと思ったからだ。
だが、絶対にそうだとは断言は出来ないであろう。
「で、前沢さんはその二百万の返済を求めて来たのですかね?」
「さあ。どうでしょうか。前沢さんは僕の友人ではなかったので、よく分からないのですよ。また、大沢さんからも、前沢さんから出資金の返済を求められたというような話は聞いてませんでしたね」
と野上は言っては、小さく肯いた。
「では、大沢さんの叔父さんや叔母さんからはどうでしたかね?」
「なかったと思いますね。何しろ、身内ですからね。いくら何でも、そういうことはなかったと思います。もっとも、僕は大沢さんからそう聞かされていただけで、実際はどうかは分からないですがね」
と、野上は付け加えた。
「ふむ。では、野上さんの友人も出資したのですよね?」
「ええ。四人してますね」
「その四人は、いくら出資したのですかね?」
「それぞれ、三百万ずつです」
「その二人は、出資金を返せとは言ってなかったですかね?」
「言ってないですね。元々十年後に利子を付けて返済する約束になってましたからね。
で、『ばたやん』が営業を始めてまだ三年ですからね。ですから、その二人は返済しろとは言ってなかったですよ」
と、野上はいかにも落ち着いた表情と口調で言った。
「では、大沢さんが財テクで失敗した金額は数千万位でしたね」
と、江尻が言うと、野上は江尻から眼を逸らせては言葉を詰まらせた。そんな野上は、訊かれたくないことを訊かれたと言わんばかりであった。
それで、江尻は同じ問いを繰り返した。
すると、野上は、
「そうではないのですよ」
と、江尻を見やっては、些か決まり悪そうに言った。
「そうではない? じゃ、いくら位損失を出したのですかね?」
と、興味有りげに言った。
すると、野上は、
「数千万というのは、今、うちの店が抱えてる借金の金額なんですよ」
「ということは、それ以上の損失を出したということですかね?」
「まあ、そうです」
「じゃ、その金額はいくら位だったのですかね?」
江尻は、興味有りげに言った。
「ですから四千万位です」
「四千万ですか。それ、全て株ですかね?」
「いや。全て株ではないのですよ。今、FX投資というのが流行ってますからね。ですから、株よりもそっちの方で被った損失が多いのですよ」
と、野上はいかにも決まり悪そうに言った。
「ということは、今まで貯めていたお金も、それによって、一気に失ってしまったというわけですかね?」
「正にそうなんですよ。そして、更に数千万の借金を抱えたというわけですよ」
と、野上は再び決まり悪そうに言った。
「で、その数千万の借金を返せるのですかね?」
「そりゃ、返さなければならないですよ」
「でも、最近、薄野でもこういった店が随分潰れてるんですがね」
「そりゃ、今は不況ですからね。でも、不況はいつまでも続きませんよ。いつかは、景気はよくなりますよ。そうなれば、お客さんは戻って来ますよ」
と、野上は江尻に言い聞かせるかのように言った。
そして、この辺で江尻は野上に対する聞き込みを終えることにした。
そして、今度は「ばたやん」に二百万出資してたという前沢守に会って話を聞いてみることにした。
前沢は真駒内公園の近くにある賃貸マンションに一人暮らしで、今は小さなコンピューター会社で働いているとのことだ。
前沢の前に姿を見せた江尻に対して、前沢は怪訝そうな表情を浮かべた。そんな前沢は、北海道警捜査一課の刑事が一体何の用があるのかと言わんばかりであった。
そんな前沢に、前沢が大沢に二百万貸したことを話し、また、大沢が財テクによって失敗し、数千万の借金を抱えたことも話し、そして、
「前沢さんはそのことを知ってましたかね?」
と訊くと、
「いいえ。その話、今、初めて知りました。それ、本当なんですかね?」
と、いかにも怪訝そうな表情を浮かべた。
そう前沢に言われ、江尻は思わず啞然とした表情を浮かべた。まさか、その件を前沢が知らないなんて、思ってもみなかったからだ。
だが、もし今の前沢の証言が事実なら、前沢は容疑者圏外に去ることになるだろう。何しろ、大沢殺害の動機は、大沢がもたらした財テクの損失によるものと思われるからだ。
とはいうものの、その前沢の証言をあっさりと信じるのは、如何なものか。
それで、まず大沢の死亡推定時刻の前沢のアリバイを訊いてみた。
すると、前沢はその頃は、前沢が働いているコンピューター会社で仕事中であったと言った。その日はどうしても片付けなければならない仕事があったので、夜遅くまで仕事をしていたのだ。
それで、その裏を取ってみることにした。
何しろ、大沢の死因は、首を絞められたことによる窒息死であったから、犯人は大沢の死亡推定時刻に大沢と共にいなければならないのだ。
それ故、アリバイがはっきりとしたものなら、正に前沢は容疑者圏外となることだろう。
そして、早速、前沢が働いているコンピューター会社で前沢のアリバイの確認が行なわれたのだが、前沢のアリバイの裏は取れた。
これによって、前沢は容疑者圏外に去った。
同じような具合に、大沢に金を貸した大沢の叔父、叔母とかいった身内の者のアリバイの確認が行なわれた。
すると、それらの者のアリバイの裏は取れた。そのアリバイは、正に確固たるものであった。
また、念の為に、「ばたやん」に出資した野上の友人たちのアリバイの捜査も行なわれたが、特に問題はなかった。
これによって、「ばたやん」に出資した者で、大沢を殺したと思われる者は、誰一人として、可能性がなくなってしまったのだ。
となると、やはり〝天狗〟という綽名を持っている森直人がやはり怪しいのか? 森は、大沢の死亡推定時刻に自宅で眠っていたとのことだし、また、大沢の遺体の傍らの地面に〝てんぐ〟という文字が記されていたというのも、やはり、無視は出来ないというものだ。
それ故、改めて森のことを捜査してみようと思っていたところ、またしても不可解な死を遂げた事件が発生してしまったのである。