第八章 第四の死

     1

 小樽といえば、運河が有名だろう。小樽を紹介する観光ガイドには、必ずといっていい位、運河とその周囲に建ち並ぶ倉庫の写真を掲載している。
 また、小樽が嘗て商港として栄えていた頃、その運河には、はしけが頻繁に往き来してたとのことだが、今はその光景は見られない。
 だが、今は運河に沿って、遊歩道が整備され、夜にはガス灯が煌めき、華やかな観光スポットとしても、運河は脚光を浴びるに至った。
 その運河に沿った遊歩道を、今、一人の男が歩いていた。
 その男は、成田敬一という六十歳で、成田は先日、長年勤めていた会社を退職し、妻の冴子と共に二泊三日の北海道旅行にやって来た。そして、昨夜小樽に着き、小樽運河近くのホテルに投宿した。
 そんな成田は、朝食前に運河沿いの遊歩道を歩こうと、冴子を誘ったが、冴子はもっと寝ていたいと言ったので、成田は一人で朝の運河へとやって来た。因みに、まだ午前六時四十分であった。
 それ故、まだ朝早いということもあり、成田のように運河を散策してる者は、成田以外には誰も見られなかった。
 それ故、成田は騒がしい観光客の群れに邪魔されずに運河見物を出来るので、大いに満足していた。何しろ、昨夜も運河見物にやって来たのだが、昨夜の状況がそうであったので、成田は今朝、敢えてやって来たのだ。そして、成田は成田の意図を達成出来たので、大いに満足していたのである。
 それはともかく、成田は石造りの堤防に手を置き、運河に眼を凝らしていた。運河は決して綺麗な水を湛えていたわけではないのだが、それでも古い倉庫群とマッチしていて、とても風情があった。さすがにその名前を全国に轟かせてるだけのものはあると、成田は満足そうな表情で思っていた。
 そんな成田の表情が、その時、突如、険しくなった。何故なら、成田は妙なものを発見したからだ。
 そして、それが人間だと確信するまでは、さ程時間が掛からなかった。人形と看做すには、あまりにも無理があり過ぎたのである。
 とはいうものの、もし人形であったのなら、成田は警察に迷惑を掛けてしまう。大手企業の部長職を務めた成田には、それは許されないことであった。
 それで、成田は運河に架かる中央橋にまで行っては、それを具に見やった。それは中央橋から五メートル程の所に浮かんでいて、中央橋からの方がよく見えたのだ。
 成田は中央橋の欄干に手を置いては、運河を覗き込むような姿勢を取り、それを具に見やったのだが、やはり、それは人間に違いなかった。
 それで、成田は近くの公衆電話から110番通報したのであった。
 すると、程なくパトカーのサイレンが聞こえ、そのサイレンの音は、あっという間に大きくなり、程なく制服姿の小樽署の警官が四名、成田の前に姿を見せた。
 それで、成田はその四人の警官を直ちに中央橋にまで連れて行っては、それを指差した。
 すると、一番年長だと思われる警官が、
「確かに人間ですね」
 と、渋面顔で言った。
 その人間は、背広姿の男性で、年齢は四十の半ば位に思われた。だが、まだ、断定は出来ない。
 警察に遅れて五分位で、消防団員が現場に到着した。そして、その頃には、野次馬が十五人程が姿を見せていた。
 消防団員は持参して来たゴムボートを運河に浮かべては、直ちにその死体と思われる者を引き揚げに掛かった。
 そして、その作業はさ程時間を経ずに行なわれた。
 そんな消防団員の作業を中央橋から見守っていた警官の一人が、
「どうでしたか?」
 と、大声で訊いた。
 すると、消防団員の一人が、
「やはり、人間でした」
 と、大声で応答した。
 それを聞いて、警官たちの表情は、一層険しくなった。また、野次馬たちの表情も然りだ。
 やがて、男性の死体が担架に載せられ、救急車で運ばれて行った。
 救急車が現場から去って行くと、野次馬たちはまるで潮が引くように、現場から去って行った。また、成田や警官たちも然りだ。
 男性は小樽市内のM病院に運ばれ、解剖が行なわれることになった。
 というのも、男性の死は殺しによってもたらされたかどうかは、まだ何とも言えなかった。男性の外見上を見た限りでは、殺人によって息絶えたと思わす痕跡は、特に見られなかったからだ。
 とはいうものの、その死因は明らかにする必要はあると、小樽署は看做したのだ。 
 それで、解剖が行なわれることになったのだ。
 だが、男性の身元はすぐに明らかになりそうな塩梅であった。というのは、背広のポケットに名刺が入っていて、その名刺には<S大理学部教授 高柳肇>と刷られていたからだ。また、高柳の連絡先の電話番号も記されていた。
 それで、運河で発見された男性の引き揚げに携わった小樽署の川岸悟警部補(40)は、早速その名刺に刷られていた電話番号に電話をしてみた。
―S大学ですが。
「小樽署の川岸と申す物ですが、そちらの理学部に高柳肇教授という方はおられますかね?」
―今日はまだ出勤されてませんが。
「では、自宅の電話番号を教えてもらえないですかね」
 川岸はS大の事務員から高柳の自宅の電話番号を聞くと、直ちに高柳の自宅に電話をした。
―高柳ですが。
 高柳の妻と思われる女性が電話に出た。
「小樽署の川岸と申しますが、高柳教授はおられますかね?」
―それが、昨日は帰宅しなかったのですよ。また、何処に行ったのかも分からないのですよ。
 と、高柳の妻の聡子は、沈んだような声で言った。
 そう聡子に言われ、川岸の表情は、曇った。何故なら、小樽運河で発見された男性は、やはり、高柳教授であった可能性が高まったからだ。
 それで、川岸は高柳の年齢と身体付きを訊いた。
―年齢は四十五歳で、身長は170センチ、体重は六十五キロですが。
 そう聡子に言われ、川岸は一層小樽運河で発見された男性は高柳教授だと思った。その男性の年齢と身体付きもそれ位であったからだ。
 それで、川岸はいかにも険しい表情を浮かべては、
「言いにくいことなんですが、高柳教授の名刺を持った男性が、今朝、小樽運河で死体で浮かんでるのが、発見されましてね。で、その男性の年齢と身体付きも、高柳教授と同じ位なんですよ」
 と、言うと、聡子は絶句してしまった。
 だが、やがて、聡子は、
―その男性の遺体は、今、何処にあるのですかね?
「小樽市内のM病院です」
―分かりました。じゃ、今からM病院に行きますから。

     2

 聡子がM病院に着くまでに、男性の死因が明らかになっていた。
 それは、青酸による中毒死であった。
 そして、M病院には、既に小樽署の村上警部が姿を見せていた。
 村上は、M病院の医師から、男性の死因が青酸による中毒死だと聞いて、険しい表情を浮かべていた。というのは、男性の死が、殺しによってもたらされた可能性があると思ったからだ。
 やがて、聡子がM病院に着いたので、ベッドに横たわってる男性の前に姿を見せた。
 そんな聡子の表情は引き攣っていたが、男性の姿を眼にすると、聡子の表情は一層引き攣った。そんな聡子の様を眼にすれば、男性は聡子の夫の高柳教授に違いないと思われた。
 案の定、聡子はベッドに物言わずに横たわってる男性が、自らの夫の高柳であることを認めた。
 すると、村上は、
「正にお気の毒です」
 と、悔みの言葉を述べた。
 そして、その場に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、村上は、
「ご主人の死因が明らかになってましてね。それは、青酸による中毒死なんですよ」
 と、いかにも言いにくそうに言った。
 そう村上に言われても、聡子は特に表情の変化を示さなかった。死因が何であろうと、死んだ者が生き返りはしないと聡子は思ったのかもしれない。
 そんな聡子に村上は、
「青酸死ということは、自殺ということも考えられるのですが、その点に関して奥さんはどう思われますかね? ご主人が亡くなられてまだ間もないのに、捜査を始めて申し訳ないのですが」
 と、畏まった様を見せては言った。
 すると、聡子は気丈な表情を浮かべては、
「主人は自殺はしないと思います。そのような気配はありませんでしたから。
 でも、他殺の線も小さいと思うのです。主人はトラブルなんかを抱えてなかったと思うので……」
 と、眼を村上から逸らしては、渋面顔で言った。
「でも、ご主人は私生活か、あるいは、仕事上で何かトラブルを抱えていたとしても、それを奥さんに話さなかったということも有り得るんじゃないですかね?」
「そういうこともあるかもしれません」
 と、聡子は伏目がちに言った。
「では、ご主人とは昨日から連絡が取れなかったとのことですが、その辺のことを詳しく説明してもらえないですかね?」
「一昨日は、いつも通り、朝の七時半頃、家を出て、大学に向かったのです。無論、仕事でです。で、その日は帰宅しなかったのですよ。
 もっとも、外泊することは、今までに何度もありました。それで、いずれ連絡が入るだろうと思っていたのですが、昨日は連絡が入らなかったのです。こんなことは、今までに一度もなかったですね。
 でも、何か急用が出来たのではないかと思い、私は特に気にしてなかったのです。
 でも、昨日も帰宅しなかったし、また、連絡も入らなかったので、とても気になっていたのですよ。
 で、今日も連絡が入らなければ、警察に問い合わせてみようかと思っていたのですが、こんなことになってしまって……」
 と、聡子は言っては、目頭にハンカチを当てた。
 そんな聡子に、
「そうでしたか。状況は大体分かりました。
 で、奥さんがご主人の死に関して心当りないのなら、ご主人の勤務先のS大で話を聞いてみますよ」
 と言っては、村上は聡子をM病院に遺し、S大に向かった。
 S大では、副学長の川畑哲史(58)が村上に応対することになった。
「大変な事態が発生してしまいました」
 学長室の牛皮のソファに腰を下ろした川畑は、いかにも神妙な表情を浮かべては、沈痛な口調で言った。そして、
「正に惜しい人を亡くしてしまったのですが、でも、このようなことを言うのは不謹慎なのかもしれませんが、やはり、このような事態になってしまったのかという思いもあります」
 と、川畑は神妙な表情を浮かべたまま、いかにも言いにくそうに言った。
 すると、村上は眼を大きく見開き、輝かせては、
「それはどういう意味ですかね?」
「実はですね。高柳教授の研究室で高柳教授と一緒に仕事をしていた高柳教授の助手がこの前に変死体で札幌の大通公園で見付かったのですよ。その事件のことを刑事さんもよく覚えてることと思います」
 と言っては、川畑は小さく肯いた。
 すると、その事件のことを村上はよく覚えていたので、
「確かにそういった事件がありましたね」
 と、川畑に相槌を打つかのように言った。
 もっとも、その女性の姓名は覚えてなかったし、また、その女性が高柳教授の助手であったということは、その捜査に携わってなかった村上は知らなかったのだが。
「で、その助手の事件で高柳教授も警察の捜査の対象になったのですよ。何でも、その女性、即ち、永山沙希さんといったのですが、高柳教授は永山さんと私生活でも付き合っていたらしいのですよ。その関係で、高柳教授も警察の捜査対象となったみたいですね。
 でも、高柳教授は永山さん殺しを強く否定してました。僕も、高柳教授はそのようなことを行なわないと強く信じてました。
 でも、高柳教授が警察の捜査対象になったことは我々としても随分遺憾に思ってました。
 また、永山さんの事件では、高柳教授以外でも、永山さんと同じ助手の女性も捜査対象になっていたのです。
 それ故、高柳教授の研究室の者にまた何か起こるんじゃないかという悪い予感を僕は抱いていたのですよ。
 すると、その僕の悪い予感は当たってしまったというわけですよ」
 と、川畑はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 そんな川畑に、村上は、
「警察から捜査の対象になっているもう一人の女性とは、どういった女性ですかね? 何しろ、永山さんの事件は僕たちの管轄外なので、僕は永山さんの事件の捜査に携わってるわけではないのですよ」
 と、些か顔を赤らめては、決まり悪そうに言った。
 それで、川畑は星川知美のことを話した。
 もっとも、川畑は知美が警察の捜査対象になったということは、高柳教授から聞いていたので知ってはいたのだが、その詳細までは分からなかった。
 それで、その旨を川畑は村上に話した。
 それ故、村上はこの辺でS大での捜査を終え、永山沙希の捜査を行なってるという北海道警捜査一課の馳から話を聞いてみることにした。

     3

 札幌中央署に姿を見せた村上に、馳はいかにも興奮した様を見せては村上を迎えた。
 というのも、馳は先程村上から高柳教授の死を知らされたからだ。馳はまさか高柳教授までもが変死するなんてことを思ったことはなかったのだ。
 それで、馳は念を押した位であった。
そして、村上から高柳教授の死が青酸死であることを聞かされると、馳は一層険しい表情を浮かべては言葉を発そうとはしなかった。
 そんな馳に、村上は、
「永山さんの事件はもう解決しそうですかね?」
「いや。まだまだだと思います。でも、有力な容疑者は浮かんでるのですよ」
「星川知美という女性ですね?」
「そうです。恐らく星川さんには永山さんに対する腹立ちや妬みとかいった感情が渦巻いていたのでしょうね。それで、遂に事に及んでしまったというわけですよ」
 と、馳は自らの推理を村上に説明した。
 村上は黙って馳の推理に耳を傾けていたが、馳の推理が一通り終わると、
「確かにその可能性はありそうですね」
 と、馳に相槌を打つかのように言った。そして、
「で、ひょっとして、星川さんは高柳教授も殺してしまったのではないですかね?」
 と言っては、眉を顰めた。
「高柳教授もですか。どうして、そう思うのですかね?」
 そこまでは思ってみなかった馳は、興味有りげに言った。
「星川さんは高柳教授が永山さんと私生活でも付き合っていたことを知っていたのですよね?」
「その点はまだ確認してませんが、可能性は十分にありますね」
 と言っては、馳は小さく肯いた。
 すると、村上も小さく肯き、そして、
「そうだと仮定しての話ですが、つまり、星川さんは高柳教授に、諫言したのではないですかね。つまり、教授たる者が、助手に手を出していいのかという具合に。
 すると、高柳教授は、『余計なことを言うな! そんな生意気な口を利くのなら、左遷するぞ!』とか言って、逆にやり返したのではないですかね。
 ブスで男にもてなかった星川さんは、仕事だけが生き甲斐だったのではないですかね。そんな星川さんの仕事を奪ってしまうぞと言わんばかりの発言を吐いた高柳教授に対して、星川さんの怒りは頂点に達したのではないでしょうか。
 それに、星川さんは既に永山さんを殺しています。更に、長倉さんも星川さんが殺した疑いを持たれてるのですよね」
「そうです」
「そうですよね。だったら、二人殺そうが、三人殺そうが同じだという思いが、星川さんに働いてもおかしくはありませんよ。それで、星川さんは高柳教授も殺してしまったというわけですよ」
 と、村上はその可能性は十分にあると言わんばかりに言った。
 そう村上に言われ、馳も何となくその可能性はありそうだと思った。
 もっとも、知美のマイカーを捜査した結果、長倉と沙希の痕跡を確認することは出来なかった。それで、馳たちは些か焦りを感じていたのだが、この時点で、改めて星川知美から話を聴かなければならなくなったのだ。

    4

 知美に連絡することなく姿を見せた馳に、知美はいかにも不快そうな表情を浮かべた。更に、今日は知美は今までに眼にしたことのないごつくて人相の良くない同僚の刑事も姿を見せていた。
 そんな二人を眼にして、知美はいかにも不快そうな表情を浮かべながら、
「今日はどういった用件ですかね?」
 そんな知美に、馳は、
「そのことを説明するまでもないと思うのですが」
 と、知美をまじまじと見やっては言った。
 すると、知美は眼を大きく見開き、
「高柳教授のことですか?」
「そうです。昨日、高柳教授が小樽運河で変死体で浮かんでるのが発見されました。そのことを星川さんは勿論ご存知ですよね?」
 すると、知美は小さく肯いた。
 すると、馳も小さく肯き、そして、
「で、高柳教授の死因は、青酸による中毒死だったのですよ。このことを存知ですかね?」
 この点はまだ新聞等では報道されてなかった。それで、こう馳が言えば、知美がどう応えるか、馳は見ようとしたのだ。
 すると、知美は、頭を振った。
「知らなかったというわけですかね?」
 馳は知美の顔をまじまじと見やっては言った。
「ええ」
 知美は小さな声で言った。
「その点に関して、星川さんはどう思いますかね?」
 馳は再び知美の顔をまじまじと見やっては言った。
「分からないですわ」
 知美は蚊の鳴くような声で言った。
「そうですかね? 永山さんに続き、高柳教授も青酸によって中毒死したのですよ。それなのに、永山さんの死と高柳教授の死が無関係だと星川さんは思ってるのですかね?」
 と、馳が知美の顔をまじまじと見やっては言うと、知美は、
「まさか、刑事さんは高柳教授まで、私が殺したと言うんじゃないでしょうね?」
 と、不快そうに言った。
 すると、馳は眼を大きく見開き、
「何しろ、高柳教授の死因は青酸死ですからね。ですから、犯人は青酸を手に出来る者でなければなりません。となると、やはり高柳教授を殺したのは、S大の関係者と看做した方が正解と思うのですがね」
 と言っては、唇を歪めた。
 すると、
「じゃ、やはり私のことを疑ってるわけですね?」
 知美は再び不快そうな表情と口調で言った。
「そりゃ、S大の関係者で高柳教授を殺す動機のありそうな人物は疑って掛かりますからね」
 と、馳は知美に言い聞かせるかのように言った。
 すると、知美は、
「どうして私が高柳教授を殺す動機があるのですかね?」
 と、納得が出来ないように言った。
「ですから、星川さんは高柳教授が永山さんと私生活上で付き合っていたことを知っていて、そのことで高柳教授に苦言を呈したのではないですかね? すると、高柳教授はそんな星川さんのことを逆に余計なことを言うなという具合に強く叱責したのではないですかね? 星川さんはそんな高柳教授に強い憤りを感じ、事に及んだというわけですよ」
 と言っては、馳は大きく肯いた。そんな馳は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
 すると、知美は、
「馬鹿な!」
 と、吐き捨てるかのように言った。そして、
「私はそんな短絡的な女ではありませんよ!」
 と、そう言った馳のことを強く非難した。
「でも、星川さんは高柳教授が永山さんと私生活上で付き合っていたことを知っていたのですよね?」
「そりゃ、知ってましたが……」
 と、知美は馳から眼を逸らせては、呟くように言った。
 すると、馳は小さく肯き、
「だったら、今の僕の推理は現実味はあると思います。あるいは、星川さんは高柳教授に永山さんのように個人的に付き合ってと高柳教授に言ったのかもしれません。何しろ、高柳教授はハンサムでしたから、女性にもてたということを聞いてますからね。ですから、永山さんの彼氏であった長倉さんに食指を動かしたように、今度は高柳教授にも星川さんは食指を動かしたのかもしれません。何しろ、星川さんは永山さんには随分とライバル意識があったみたいですからね。そんな星川さんは何とかして、永山さんをぎゃふんと言わせてやるようなことをやってやろうとしたわけですよ。
 だが、星川さんには失礼な言い方となるかもしれませんが、星川さんはお世辞にも綺麗とは言えません。それで、星川さんは高柳教授にてんで相手にされなかったのではないですかね?
 それで、星川さんは高柳教授のことが可愛さ余って憎さが百倍となり、事に及んだというわけですよ」
 と、知美に言い聞かせるかのように言った。そんな馳は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
 すると、知美は、
「その推理は正に私に人格を侮辱するものです! 真犯人が見付かった暁には、私は馳さんを名誉棄損で訴えますよ!」
 と、正に怒りを露にした表情と口調で言った。そんな知美は正に男のようであった。
 すると、馳は、
「いや。今の話は例えばの話ですよ。そういった推理も成り立つというわけですよ」
 と、知美を宥めるかのように言った。
 すると、知美の表情も幾分か和らいだように見えた。
 そんな知美に、馳は、
「星川さんには申し訳ないですか、アリバイだけ確認させてくださいよ。つまり、高柳教授の死亡推定時刻に星川さんが何処で何をしていたかということを話してもらいたいのですがね」
「……」
「我々だって、早く犯人を捕らえたいのでね。星川さんへの疑いが晴れれば、捜査は一歩前進しますからね。ですから、捜査に協力してくださいな」
 と、馳はいかにも知美の機嫌を取るかのように言った。
 すると、知美は渋面顔を浮かべながらも、
「その時間はいつのことですかね」
「一昨日の午後九時から十時頃のことです」
 そう言っては、馳は小さく肯いた。
 すると、知美は渋面顔を浮かべたまま、
「その頃は、この家にいましたよ」
 そう言った知美はいかにも決まり悪そうであった。
「一人でですかね?」
「そりゃ、そうですよ。私は一人で住んでますから。それに、その時間帯は誰だって家にいますよ。だから、仕方ないじゃないですか」
 そう知美に言われ、馳は渋面顔を浮かべた。
 だが、この時、知美は、
「そうだ!」
 と、いかにもよいことを思い出したと言わんばかりに表情を綻ばせた。そして、
「確か、その頃に、A新聞の集金人がやって来ました。それで、その時に私は新聞の購読料を払いました。勿論、領収書も貰ってます。その新聞代金集金人に訊けば、私のアリバイを証明してくれますわ」
 と、知美は馳をまじまじと見やっては、唇を歪め、薄らと笑みを浮かべた。そんな知美の笑みは愉しいから浮かべた笑みというよりも、知美に疑いを抱いた馳を嘲笑ってるかのような笑みであった。
 そんな知美に馳は、
「じゃ、とにかく、その領収書を見せてもらえますかね」
 と言ったので、知美は席を外し、少しして、その領収書を持っては、馳の元に戻ってきた。
 馳はその領収書に記されてる電話番号と集金人の名前をメモした。
 そして、この時点で知美のマンションを後にしようとすると、そんな馳に知美は、
「刑事さん。ひょっとして、高柳教授は自殺したんじゃないですかね」
 と、些か険しい表情を浮かべては言った。
「自殺ですか……」
 その可能性もあるとは馳は思っていたが、とにかく、驚いたような様を見せては言った。
「そうです。自殺です。高柳教授は永山さんが死んだのは、高柳教授の所為と思い、その責任を感じ自殺したというわけですよ。
 永山さんは恐らく本気になって高柳教授と付き合っていたのではないですかね? つまり、高柳教授は奥さんと別れ、永山さんと結婚するものだと、永山さんは思っていたというわけです。高柳教授もそのようなことを仄めかしていたのかもしれません。
 だが、実際にはそれが出来ないということをはっきりと永山さんに言ったのではないですかね? それで、永山さんは悲観して、自らで死を選んだというわけですよ」
 と、知美はいかにも自信有りげな表情と口調で言った。そんな知美は、そのケースが正に沙希の事件の真相に違いないと言わんばかりであった。
 そして、そんな知美の話は更に続いた。
「で、高柳教授は、永山さんの死は自らの所為だと理解し、真面目な高柳教授は良心の呵責を痛感し、その結果、自らで死を選んだというわけですよ。高柳教授なら、そういったことはやりますよ。何しろ、高柳教授は真面目な人間でしたから」
 と言っては、知美は口を一文字に結んだ。そんな知美は、正にその自らの推理が事の真相だと確信してるかのようであった。
 馳はといえば、正にそんな知美の推理に言葉を挟もうとはしなかった。というのは、知美の推理が甚だ的を得たものであり、その可能性は大いにありそうだと思ったからだ。
 そんな馳と村上に、知美は、
「そうに違いありません! 事の真相はそれ以外には、考えられません!」
 と、いかにも力強く言った。
 そう言われ、馳は思わず、
「そうかもしれませんね」
 と言ってしまった。
 すると、この時、知美は初めて嬉しそうな笑みを見せたのだ。
 すると、馳は、
「じゃ、星川さんは長倉さんの事件はどう思ってるのですかね?」
 そう馳が言うと、知美は少しの間言葉を詰まらせたが、やがて、
「長倉さんの事件を永山さんの事件と高柳教授の事件を関連付けることが間違ってると思いますね。つまり、長倉さんの死と永山さんの死、高柳教授の死は全く無関係なものであったというわけですよ。ただ、永山さんは自らの死に場所として長倉さんの死に場所を選んだだけなのですよ。だから、警察は余計な思いを巡らせてしまい、えてして捜査を難解なものへと変容させてしまったのですよ!」
 と、知美は声高らかに言った。
 馳はそんな知美の推理にあっさりと同調することは出来なかったが、
「そうですかね」
 と、呟くように言った。
 そして、この辺でやっと知美のマンションを後にしたのであった。
 知美から話を聴いて、馳と村上は正直言って、何が何だか分からなくなってしまった。
 元はと言えば、高柳教授を殺したのも、星川知美と推理し、知美からは話を聴いたのだが、その結果、知美は高柳教授の死にはまるで関係なく、更に、沙希と長倉の死にも関係なさそうだという思いを抱いてしまったのだ。そう馳に思わせたのは、勿論、あの知美の力の籠った口振りで語った知美の推理であった。知美の推理は、それ程説得力があったのだ。
 そして、A新聞の集金人からの高柳教授の事件の知美のアリバイを確認出来たともなれば、一層、長倉、沙希、そして、高柳教授の事件での知美の無関係を信じてしまいそうになってしまったのである。

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