第九章 思わぬ情報

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そして、一週間が過ぎた。 
さて、その後、長倉の事件、沙希の事件、大沢の事件、高柳教授の事件の捜査はどうなったかというと、さ程進展が見られてなかった。どの事件も、その後、殆ど進展が見られなかったという状況だったのだ。
 これでは、警察のことを、税金泥棒だという苦情が寄せられても仕方なかった。
 そこで、北海道警本部長の方から、札幌、小樽で発生し、今も、世間の関心の高いこの四つの事件の真相を早急に解明するようにと捜査陣に発破を掛けた。
 本部長から発破を掛けられなくても、捜査に携わってる捜査員たちは、一刻も早く真相を解明してやろうと意気込んではいた。だが、思うように、捜査が進まなかっただけなのだ。
 それ故、本部長から檄が飛ばされたからといっても、捜査が進展するわけではないのである。
 とはいうものの、捜査を途中で投げるわけにはいかないのだ。
 そこで、それぞれの事件で更に入念な聞き込みを続けてると、大沢の事件で興味ある情報を入手することが出来た。その情報を江尻にもたらしたのは、「ばたやん」で大沢たちと共に働いていた調理師の岡野正夫(28)であった。岡野は江尻に、
「実はですね。大沢さんは野上さんと随分言い争っていたのですよ」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。そんな岡野は、このようなことを言っていいのかと言わんばかりであった。
「野上さんとは、副店長の野上さんのことですかね?」
 江尻は確認した。
「そうです。その野上さんのことです」
 と言っては、岡野は小さく肯いた。
 そう岡野に言われ、江尻は思わず眉を顰めた。というのは、江尻はこれまでに度々野上から話を聴いたのだが、そのような話は野上の口からはまるで出なかったからだ。
 それで、江尻は、
「そのことを詳しく話してもらえないですかね」
 と、興味有りげに言った。
「厨房の裏に小さな部屋があって、そこには椅子とかテーブルがあり、僕たちはその部屋をミーティングなんかをする時に使ってるのです。で、その部屋で僕は度々大沢さんと野上さんが大声で言い争いをしてるのを耳にしてるのですよ」 
 と、岡野は表情を強張らせては、言い辛そうに言った。
「ほう。で、何故、大沢さんと野上さんは言い争いをしていたのでしょうかね?」
 江尻は興味有りげに言った。
「それがですね。はっきりとは断言は出来ないのですが、どうやらうちの店は財テクで大きな損失を被ってしまったみたいなんですよ」
「財テクですか……」
 江尻は既にその情報は入手していたが、驚いたような表情で言った。
「そうです。財テクです。何でも、今までうちの店で貯めていたお金を全部失ってしまっただけではなく、更に数千万もの負債を背負ってしまったみたいですよ」
「そのような話を、岡野さんは何故知ってるのですかね?」
「みんながそう言ってましたからね。それで、僕も知ってるわけですよ」
「そうですか。で、大沢さんが財テクに失敗し、それを野上さんに咎められていたわけですか」
 と、江尻は眉を顰めて言った。
 すると、岡野は、
「いや。そうじゃないみたいですよ」
「そうじゃない? それ、どういうことですかね?」
 江尻は怪訝そうな表情を浮かべて言った。
「噂では、財テクに失敗したのは、野上さんの方だったみたいですよ」
 岡野は、江尻に言い聞かせるかのように言った。
「野上さんの方ですか。何故なんですかね?」
「野上さんが財務の面を見てましてね。まあ、うちの店の金銭関係は、大沢さんより、野上さんが掌握してたのですよ。何しろ、大沢さんは経理には詳しくなく、それに対して、野上さんは簿記の資格を持ってますからね。
 で、野上さんは僕たちにもうちの店は営業外の収益でも稼ぐと豪語していたのですよ。それ故、財テク面では、大沢さんより野上さんの方が詳しく、また、実際にもうちの店で財テクを行なっていたのは野上さんだったというのが、僕たちの一致した見方なんですよ」
 と言っては、岡野は小さく肯いた。
「成程」
 江尻も小さく肯いた。
 だが、その話は正に引っ掛かるというものだ。というのは、野上の話では、財テクに失敗したのは野上の所為だということは、野上の口からは今まではまるで出なかったからだ。正に、この点は大いに引っ掛かるというものだ。
「で、大沢さんと野上さんの言い争いはかなり激しいものだったのですかね?」
「そうですよ。大沢さんと野上さんがあんなに激しい怒鳴り合いをしたのを僕は今までに耳にしたことはなかったですね」
 と、岡野はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「財テクに失敗するまでは、大沢さんと岡野さんが言い争いをするのを聞いたことはなかったですかね?」
「まあ。そうですね。うちの店は、大沢さんと野上さんが育てて来た店ですからね。それ故、二人の間柄は、兄弟みたいだったんですが、あんなに激しい言い争いを見せたのは、僕はこの店で働くようなって三年になるんですが、今までに聞いたことはありませんね」
 と、岡野は渋面顔で言った。
 そして、江尻はこの辺で岡野に対する聞き込みを終えることにした。 
 岡野からは正に興味ある情報を入手出来た。
 それは、野上が財テクに失敗して、「ばたやん」に多大な損失をもたらしたということであった。
 もっとも、「ばたやん」が財テクに失敗し、多大な損失を被ったという話は、既に入手はしていた。
 だが、失敗したのは大沢だと野上は証言したにもかかわらず、実際にはそうではなく、野上であったというのだ。この点は大いに引っ掛かるというものだ。
 また、大沢と野上は、嘗てない位の激しい言い争いを行なったというのも引っ掛かる。
 恐らく、大沢は野上に対して、嘗てない位の激しい罵声を浴びせたのであろう。
 それに対して、野上は何かと口実を見出しては、大沢にやり返したのであろう。その結果が、二人の激しい言い争いとなったというわけだ。
 そして、問題はその件が今回の事件に関係あるかということだ。
 江尻としては、関係ないとあっさりと一蹴することは出来ないと看做した。
 というのは、大沢は何者かに首を絞められて殺されたのだが、首を絞めて殺されたということは、大沢に対して恨み、憎しみがあったと看做さざるを得ないのだ。
 今までの捜査では、大沢に恨み、憎しみを持ってそうな人物として、長倉の友人であった森直人という人物が浮かび上がっていたのだが、その森よりも、野上の方が可能性がありそうだ。何故なら、野上は大沢から激しく叱責されたのだ。また、今までは表面的には仲が良かったと思われる二人だが、野上の胸中には大沢に対する不満が火の消えない藁のように野上の胸中に燻っていたのかもしれない。
 そんな折に、大沢の激しい叱責を受けた野上の大沢に対する恨み、憎しみが爆発したとしたら……。
 そう思うと、江尻は大きく肯いた。
 そう! この時点で大沢殺しの有力な容疑者として、「ばたやん」副店長であった野上慶介が一気に浮上したのである!
 それで、今後の捜査は、野上一人に重点的に行なわれることになった。

     2
 
 といっても、野上から話を聴くのは後回しにすることにした。
 というのは、野上には既に話を聴いている。
 それ故、野上が投資に失敗したことを野上に切り出しても、野上は何かと江尻たちの追及をはぐらかすことであろう。
 それ故、後少し有力な証拠を摑みたいというものだ。
 野上が大沢を殺したとすれば、江尻の推理では、天狗山山頂ではない別の場所である可能性が高いと思った。毎日顔を合わせている大沢と野上が連れ立ってわざわざ天狗山山頂まで行きはしないと思ったからだ。それ故、大沢の遺体の近くに〝てんぐ〟という文字が書かれていたのも、無論、捜査を攪乱させる為に野上が行なった偽装工作であろう。
 野上がもし、大沢と何ら面識のない人物であるのなら、野上のマイカーに大沢の髪の毛なんかが残っていれば、それは有力な証拠となるだろうが、大沢と野上は毎日のように顔を合わせていた間柄だ。それ故、大沢の髪の毛が野上のマイカーに残っていても、それは証拠とはならないだろう。
 それ故、まず、野上のマイカーである白のフィットが、十一月一日から二日にかけて目撃されてなかったかの情報が市民に呼び掛けることにした。天狗山山頂なんかで、立て看板を立て(立て看板は既に立てられていたが、それは野上に対する捜査の為ではなく、森のフィットが眼にされてなかったかという捜査の為)、白っぽいフィットとかマーチ、パッソとかいった1300CC位の小型車を眼にしなかったかという情報提供が呼び掛けられたのだ。
その呼び掛けは、天狗山山頂の立て看板だけではなく、新聞などでも行なわれた。
 すると、早々と有力な証言を入手することが出来た。その証言を行なったのは、札幌に住んでいる瀬川明久という二十一歳の大学生であった。
 小樽署の捜査本部に姿を見せた瀬川は、幾分か緊張した表情を浮かべていた。
 しかし、それも当然といえるだろう。まだ、二十歳を過ぎたばかりの瀬川が電話でその事を小樽署員に話したところ、小樽署で詳しく話を聞かせてもらえないですかと言われ、一人で小樽署にまでやって来では、制服姿のごつい感じの警官たち三人の前で話をすることになってしまったのだから。
 そんな瀬川に江尻は、
「もう一度瀬川君が電話で話してもらった話を聞かせてもらいたいんだよ」
 と、いかにも穏やかな表情と口調で言った。
 だが、その江尻の様は何となく滑稽であった。凶悪事件を犯した犯人でも、江尻の面立ちを見れば、びびってしまうような悪漢的な面立ちの江尻が、そのような表情を見せたからだ。
 それはともかく、そう江尻に言われ、瀬川はおどおどした表情を浮かべながらも、電話で話したことを再び話し始めた。
「僕はガールフレンドを僕の車に乗せて、十一月二日の午前二時頃、天狗山山頂に向かってドライブしていたのですよ。その時間なら、誰もいないだろうと、山頂で夜の一時を過ごせたら随分とロマンチックだと思ったからですよ。
 で、山頂に着き、車を停めては車外に出て、展望台の方に向って歩き始めたところ、一人の男性と出会いました。すると、その男性は僕と顔を合わせたのが何だかまずいことだったのか、顔を背けては掌で素顔を隠すような仕草を見せたのです。もっとも、僕が勝手にそう思っただけなのかもしれませんがね。
 で、駐車場には、白のフィットが停められていました。その車は伯父さんが乗ってるので、僕は自信を持ってフィットが停まっていたと断言します。
 で、僕は後で、その日、天狗山で男性の遺体が見付かったという新聞の記事を眼にして、『え!』と思いました。何故なら、僕はその日の午前二時頃に天狗山山頂にいたわけですから」
 と、瀬川は興奮を隠すことなく、声を上擦らせては一気に捲くし立てた。そんな瀬川に、江尻は、
「で、瀬川君は、その男性と、山頂で見付かった男性の死とを関連付けたりはしなかったのかい?」
 と、瀬川の顔をまじまじと見やっては、興味有りげに言った。
 すると、瀬川は眉を顰めては、
「そりゃ、全く関連付けなかったわけではありません。でも、まさかそんなことは有り得ないだろうと思ってたのですよ」
 と言っては、小さく肯いた。
「それで、今までは瀬川君が見たそのことを警察に届け出てくれなかったわけですね?」
「まあ、そういうわけですね」 
 と、瀬川は些か満足そうに言った。そんな瀬川は、瀬川の気持を江尻が理解してくれたみたいなので、些か満足してるかのようであった。
「でも、車の記事が新聞なんかに出ていたので、警察に連絡してくれたのですね?」
「その通りです」
「では、瀬川君に顔を隠すようにした男性の年齢とか身体付きは分かりますかね? もっとも凡そで構わないですから」
「そうですね。年齢は三十前後ではなかったですかね? 身体付きは僕と同じ位でしたね。つまり、身長は170センチ、体重は六十五キロ位というわけですよ」
 と、瀬川は再び満足そうに肯いた。
 満足そうに肯いたのは、瀬川だけではなかった。江尻も然りであった。というのは、野上は正に今、二十八歳であり、また、身長は170センチで体重も六十五キロ位であったからだ。また、駐車場に停められていた車が白のフィットであったということから、瀬川が眼にした男性は、野上である可能性が十分にあるだろう。
 それで、この時点で、江尻は野上から改めて話を聴くことになった。

     3

 藻岩山の近くにある野上のマンションに姿を見せた江尻の姿を見て、野上は眉を顰めた。そんな野上は、江尻は今度は何の用があるのかと言わんばかりであった。
 そんな野上に江尻は、
「この前の話の続きなんですがね」
 と、眉を顰めて言った。
「……」
「で、この前に野上さんから大沢さんが株の取引を失敗したという話を耳にしたのですが、野上さんは確か株で損をしたのは、大沢さんだというような話をされたと思うのですがね」
 と、江尻は野上の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、野上は、
「ええ」
 と、小さな声で言った。そんな野上は、何故そのようなことを話題にするのかと言わんばかりであった。
そんな野上に、
「その野上さんの話は間違ってるというような話を耳にしたのですがね」
 そう江尻が言うと、
「僕の話が間違ってる? どう、間違ってると言うのですかね?」
 野上は、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「株で失敗し、『ばたやん』に損失をもたらしたのは、大沢さんではなく、野上さんだったという証言を入手したのですよ」
 と、江尻は野上に言い聞かせるかのように言った。江尻は既に岡野以外の「ばたやん」の関係者からも、その証言を入手していた。更に、「ばたやん」名義の株取引、FX取引は、インターネットで行なわれてることを既に突き止めていたが、「ばたやん」の関係者からは、インターネットで株取引、FX取引をしてるのは大沢ではなく、野上であるという証言も入手していた。また、大沢はインターネットには詳しくないという証言も入手していたのだ。
 そう江尻が言うと、野上は少しの間言葉を詰まらせたが、やがて、
「いいえ。株取引、FX取引で損を出したのは、大沢さんですよ。僕ではないですよ」
 と、野上は平然とした表情で言った。そんな野上は、その野上の言葉には嘘偽りはないと言わんばかりであった。
 そんな野上に、江尻たちが突き止めたこと、即ち、「ばたやん」が株取引、FX取引を行なっていたのはインターネットで、大沢がインターネットが苦手でインターネットで株取引、FX取引をしていたのは、野上だったということを話した。
 野上はそんな江尻の話に何ら言葉を挟むことなくじっと耳を傾けていたが、江尻の話が一通り終わると、
「ですから、インターネットで取引をしたのは確かに僕なんですよ。でも、どの銘柄に投資するかの指示を出したのは大沢さんで、僕はその指示に従っていただけなんですよ」
 と、江尻に言い聞かせるかのように言った。
 そう野上に言われ、江尻は言葉を詰まらせてしまった。その野上の言葉の真偽は今は確かめようがなかったからだ。
「では、最近、野上さんは大沢さんと『ばたやん』の厨房裏の小会議室で激しい言い争いをしたそうですが、その言い争いは何が原因だったのですかね?」
 と、江尻は野上の顔をまじまじと見やっては言った。
 そう江尻に言われると、野上の言葉は詰まった。そんな野上は正に思ってもみなかったことを訊かれてしまったと言わんばかりであった。
 だが、やがて、野上は、
「ですから、最近客入りが少し落ちたので、大沢さんの営業のやり方が悪いんじゃないかと、僕が苦言を呈したところ、大沢さんが反発し、少し言い争いになったのですよ」
 と、決まり悪そうに言った。
 すると、江尻は、
「営業って、大沢さんはどんな営業を行なっていたのですかね?」
「ですから、うちのチラシを通行人に配ったりしてるのですよ。もっとも、大沢さんが行なうのではありません。アルバイトの子にやらすのですが、経費節約の為に、大沢さんが直に配ることがあるのですよ。でも、大沢さんはごつい感じの男性なので、僕は大沢さんが配るのはよくないと、苦言を呈したのですよ。すると、言い争いになってしまったのですよ」
 と、野上は言いにくそうに言った。
「そうですかね? そんなことで激しい言い争いになりますかね? 僕はそうは思いませんね。激しい言い争いになったのは、野上さんが株取引、FX取引で多大な損失を出したからではないですかね? それを大沢さんが強く非難したので、激しい言い争いになってしまったのではないですかね?」
 そう言った江尻に、野上は、
「いいえ。違いますよ」
 と、激しく頭を振った。
 大沢が故人となってしまった今、その野上の証言を覆すことは困難かもしれない。
 とはいうものの、大沢の死体が遺棄されたと思われる頃に、野上の姿が瀬川によって眼にされてるという事実は、もはや揺るぎのないものである。それ故、今回は野上にそう言われたからといって、江尻はあっさりとは引き退がれないというものだ。
 それで、江尻は、
「じゃ、野上さんは十一月一日の午後十一時から翌日の午前零時頃にかけて、何処で何をしてましたかね?」
 と、まず大沢の死亡推定時刻のアリバイを確認してみた。
 すると、野上は、
「その頃は、そろそろ家に着いた頃ではないですかね」
 と、江尻の問いに間髪を入れずに応えた。
「家に着いた頃ですか。『ばたやん』は何時まで営業してるのですかね?」
「午後十時までですよ」
「ということは、店での仕事を終え、その頃に家に着いたということですかね?」
「そうですよ。午後十一時頃に着きましたよ」
 野上は何ら表情を変えずに淡々とした口調で言った。
「野上さんの通勤手段は何ですかね?」
「地下鉄ですよ」
 そう言われ、江尻は眉を顰めた。地下鉄に乗っていたでは、アリバイの確認のしようがないからだ。
「で、大沢さんも野上さんと同じ頃に店を後にしたのですかね?」
「いや。大沢さんは店長ですから、一番最後に店を出る時が多く、その日もそうではなかったかと思いますね。要するに、僕の方が大沢さんより早く帰宅した為に、大沢さんが何時頃、店を後にしたのかは分からないのですよ」
 と、野上は渋面顔を浮かべては言った。
「では、野上さんはその日の夜、つまり、十一月二日の午前二時頃、何処にいましたかね?」
 と、野上と思われる男が天狗山山頂で目撃されていた頃の野上のことを訊いてみた。
 すると、野上は些か表情を綻ばせ、
「その頃は、この家で眠っていましたよ」
 と、何故そのようなことを訊くのかと言わんばかりに、些か戯けたような表情を見せては言った。
 そんな野上に、
「それは間違いないですかね?」
 と、江尻は念を押した。
 実のところ、江尻たちは既に天狗山山頂で野上と思われる男が目撃されたと思われる頃、野上のフィットが停められてる駐車場に、野上のフィットが停められていなかったことを、野上と同じ駐車場の利用者から、確認を得ていた。それ故、今の野上の証言が偽証であるということが分かっていた。
 それで、江尻は改めてその証言に嘘はないかと、確認してみた。
 すると、野上は、
「勿論、間違いありませんよ」
 と、いかにも自信に満ちた表情と口調で言った。
 それで、江尻はこの時点で、十一月二日の午前二時頃、野上のフィットが、野上の駐車場に停められていなかったという証言を既に得てることを話した。
 すると、野上の顔色は変わった。
 そんな野上に、江尻は、
「こうなれば、署で話を聴かせてもらわなければなりませんね」
 ということになり、野上は半ば強制的に中央署に連行されたのであった。
 そんな野上は、取調室で、江尻、馳といったごつい刑事たちから、野上と思われる男性が十一月二日の午前二時頃に天狗山山頂で目撃された事実を聞かされると、
「それは人違いですよ。よく似た人物はいくらでもいますからね」
 と、そのような証言は話にならないと言わんばかりに言った。
 それで、後で野上と思われる人物を眼にした瀬川に、直に野上を見てもらうことになった。
 また、野上は十一月二日の午前二時頃、野上のフィットが駐車場に停められていなかったことに関しては、素直にその事実を認めた。だが、
「その頃、少し夜のドライブがしたくなりましてね」 
 と、いかにも決まり悪そうに言った。
 そう言われて、江尻は言葉を詰まらせたが、やがて、
「何処にドライブに行ったのですかね?」
「羊ヶ丘展望台の方ですよ。僕は時々、深夜に羊ヶ丘展望台の方にドライブに行くのですよ。そして、その時もそうだったのですよ」
 と、野上はいかにも自信に満ちた表情と口調で言った。
「じゃ、何故最初からそう言ってくれなかったのですかね?」
 江尻は甚だ不満そうに言った。
「ですから、その頃は大沢君が死んだ頃ですからね。それなのに、僕が車に乗ってドライブしてたなんて言えば、僕のことが疑われるかもしれませんからね。僕はそれが嫌だったのですよ」
 と、野上は興奮の為か、声を上擦らせては言った。そんな野上は、警察にその点を突かれれば、そう答えようと、予めその言い訳を考えていたかのようであった。
 とはいうものの、そう言われ、江尻は言葉を詰まらせた。
 だが、程なく、
「じゃ、野上さんは元々、大沢さんの事件で野上さんが疑われるということを予測していたということなのかい?」
 と言っては、唇を歪めた。
 すると、野上は、
「そんなことはないですよ!」
 と、声高に言った。
「だったら、そのような嘘をつく必要はないじゃないですか! そのような嘘をつけば、却って我々の心証を悪くするというものですよ」
 と、江尻はいかにも不満そうに言った。
 すると、野上は決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 こんな具合だから、今までの捜査から、野上が大沢を殺したという可能生は甚だ高くなってるとはいうものの、大沢殺しの疑いで逮捕するにはまだ証拠不足というものだ。
 それで、今日は一旦帰宅させるしかなかった。
 野上はといえば、いかにも不快そうな表情で中央署を後にしたのだが、馳は、
「でも、何故野上さんは森君の綽名が天狗だということを知っていたのでしょうかね?」 
 と、眉を顰めては言った。
 野上が犯人なら、大沢の遺体の近くの地面に〝てんぐ〟という文字を記したのは、野上に違いないからだ。
 だが、野上は大沢と森の高校時代の同級生ではなく、それ故、森が〝天狗〟という綽名の持ち主であるということを知らない筈なのだ。それ故、大沢の遺体の近くにそのような小細工を行なうことは出来ない筈なのだ。
 それで、江尻は、
「まだまだ解明しなければならない謎が残されていますね」
 と、いかにも険しい表情を浮かべては言ったであった。

     4

 とはいうものの、捜査は着実に前進を見せていた。というのは、野上が大沢の事件に関係してることを決定付けるような証言を入手したのだ。その証言を行なったのは、大沢のマンションに住んでる花房貞夫という二十五歳の会社員だった。大沢の事件の捜査に携わってる若手の滝川刑事(28)が、大沢が住んでいたマンションの住人に聞き込みを行なっていたところ、その証言を得たのである。
 花房は、大沢の事件で何か心当りはありませんかという滝川刑事の問いに、
「実はですね。僕は大沢さんをその日に見たのですよ」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。そんな花房は、正にこのようなことを言っていいのかと言わんばかりであった。
 その花房の言葉に、大いに期待した滝川は、いかにも眼を大きく見開き輝かせては、次の花房の言葉を待った。
 そんな滝川に、花房は、
「十一月一日の午後十一時半頃でした。僕はその日はいつもより遅く仕事を終え、その頃、僕のマンションに戻って来たのですよ。そして、そんな僕の眼は、既に僕のマンションを捕らえていました。つまり、僕と僕のマンションまでの距離はその時、二、三十メートル位だったのです。そして、そんな僕の前に一人の男性が歩いていました。その男性は僕と同じマンションの居住者だと僕は思っていました。何故なら、その男性は僕のマンションに刻一刻と歩みを進めていましたからね。
 でも、その男性が大沢さんだとは思っていませんでした。何しろ、後姿しか眼に入りませんでしたからね」
 と言っては、小さく肯いた。
 そんな花房に、滝川は、
「成程」
 そんな滝川に、花房は更に話を続けた。
「で、その男性が僕のマンションのエントランスに近付いた頃、白のフィットが近付いて来たかと思うと、その男性の傍らに停まったのです。すると、その男性はそのフィットの助手席側の窓の方を見やり、フィットの乗車してる男性と何やら話を始めたのです。それで、その男性の横顔が僕の眼に入り、その人物は大沢さんだと僕は知ったというわけですよ」
 と、花房はいかにも真剣な表情と口調で言った。そんな花房は今、自分がいかに重要な証言を行なってるのか、十分に認識してるかのようであった。
 滝川はといえば、いかにも眼を大きく見開き、輝かせていた。しかし、それは当然であろう。正に大沢殺しの本命である野上のものと思われるフィットが十一月一日の午後十一時半過ぎに大沢のマンションの近くで眼にされていたともなれば、これによって野上はもう言い逃れは出来ないと、滝川は看做したというわけだ。
 そんな滝川は、
「で、大沢さんはそのフィットに乗り込んだのですかね?」
 と、眼を大きく見開き、輝かせたまま言った。
「正に、そうなんですよ」
 と、花房はいかにも真剣な表情のまま言った。
 すると、滝川はいかにも満足そうに肯いた。そして、
「でも、何故その情報をもっと早く我々に提供してくれなかったのですかね?」
 そう言ったものの、そんな滝川の表情は穏やかなものであった。
 すると、花房は、
「僕は、そのフィットに乗った人物に眼をつけられないかと、それを恐れたのですよ。何しろ、そのフィットは、僕が傍らを通った時大沢さんを乗せて発進したのですからね。で、その時、そのフィットを運転していた男性がちらっと僕の方を眼にしたような感じがしましたので」
 と、いかにも決まり悪そうに言った。
 そう言った花房の気持が分からないこともなかったので、滝川は、
「そういうわけでしたか……」
 と、殊勝な表情で言った。そして、
「で、花房さんはそのフィットを運転していた男性の顔を覚えていますかね?」
「それは、無理ですね。何しろ、夜でしたし、また、その男性が僕の方を見やったのは、ほんの僅かな時間でしたから。でも、僕の知らない顔でした」
 と、花房は再び決まり悪そうに言った。
 花房は、そのフィットに乗車していた男性の顔までは分からないと言ったものの、今まで入手出来た状況証拠から、もはや、大沢の死に野上が関わってることは揺るぎない事実となったことは間違いなかった。
 それで、改めて野上が中央署に出頭を要請された。
 それで、野上はいかにも不快そうな様を見せながら、中央署に姿を見せた。
 そんな野上に、江尻は滝川が入手した証言を話した。
 野上はそんな江尻の話にいかにも険しい表情を浮かべながら聞き入っていたが、江尻の話が一通り終わると、
「アッハッハッ!」
 と、いかにもおかしそうに笑い始めた。それで、江尻は、
「何がおかしいのですかね?」
 と、いかにもむっとしたように言った。
 すると、野上は、
「フィットは最も人気のある車ですよ。この札幌周辺には、白のフィットに乗車してる人物はいくらでもいますよ。だから、大沢さんの前にフィットに乗車してる者が現われたといえども、それで、どうしてそのフィットを運転してる者が僕だと決めつけられるのですか!」
 と、いかにも不満そうに言った。そして、
「それに、これは何かの陰謀かもしれませんね」
 と言っては、いかにも険しい表情を浮かべた。
「陰謀? それ、どういう意味かな?」
「ですから、大沢さんを殺したのが僕だと思わせるような偽装工作が行なわれたということですよ。つまり、その真犯人が僕を大沢さん殺しの犯人に擦り付けようとしたのですよ」
 と、野上はその可能性は十分あると言わんばかりに言った。
そんな野上に、
「一体誰がそんなことをやったのですかね? 心当りあるんですか?」
「心当りがありませんよ。でも、それを見付けるのが、警察の仕事じゃないですか!」
 と、野上はいかにも不快そうに言った。
 野上はそんな具合であったが、瀬川が野上の写真を眼にして、天狗山山頂で瀬川が眼にした人物に似てると証言したことから、野上の言い分は警察には受け入れられず、結局、野上は大沢の死体遺棄の疑いでまず逮捕された。殺しに関しては、まだ決定的な証拠はない為に、まず死体遺棄で逮捕することが、捜査会議で決定したのであった。

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